月の歌を唄う

2017年12月26日 22時48分22秒 | 沼田利根の言いたい放題
多くの人々がロマンを感じている月。
きれいだなー、と見上げていたくなる。
人生を想い月にロマン・夢や希望、願いを馳せたくなるものだ 。
夜道の空、そして、夜明け前。
月を見上げる、神秘を感じる月光。
自分の影を追うように歩いて行く。
それは、母の故郷の夜道でもあった。
街灯が1本も無い農道。
昭和20年代のことであった。
従姉に背負われて、伯母の家へ向かっていた。
祖父はまだ健在であり、杖を頼りに後ろから歩いていた。
「見てごらんよ。綺麗な月だ」祖父は足を止めて促す。
その祖父が月の歌を唄う。



--------------------------------------
かぐや姫
『竹取物語』は、平安時代初期につくられたといわれる日本最古の
物語です。
竹取の翁が、光る竹の中にかぐや姫を見つけた時の描写。
「三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。……美しきこと限なし。いと幼ければ、籠に入れて養ふ」。
光る竹のなかの美しい娘は、長じてさらに美しくなり、幾人もの
貴公子から求婚されながら、難題を出してはそれを拒みます。
帝からの熱烈なお召しにも応えようとしません。そしてある年の
春から、かぐや姫は月を見ては嘆き悲しむようになるのです。
「月の顔見るは忌む事に制しけれども、ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣き給ふ」。
「月を見ることは慎むべき事だと止めたけれども」とあります。
当時、月を見るのは不吉なこととされていました。月は、
恐れの対象でもあったといわれています。
そして、八月望月、中秋の
名月の夜、かぐや姫は告白します。
「おのが身は、この國の人のもあらず、月の都の人なり」。
月の国の人は、たいへん美しく年もとらないのだといいます。
帝の兵や
翁たちの必死の抵抗も虚しく、かぐや姫は月の都に帰って行きます。
不死の薬を残して、かぐや姫を失った翁と媼は、血の涙を流して
悲しみ、その薬を飲まずに病み伏してしまいます。
帝も嘆き悲しみ、
かぐや姫に逢えないあれば不死の薬も何になろうと、富士山の頂で
それを燃やしてしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自らの視野や見識を広げる

2017年12月26日 18時15分17秒 | 沼田利根の言いたい放題
教育こそが人間を自由にする。
教育は人を偏見から解放する。
教育によって社会を変える。
人間教育
人権教育
意図的であれ、偶発的であれ、核兵器が使用されたら、甚大な被害を人類に与える。
核兵器の廃絶に向かうのも人間の意識・意思の問題。
誰もが無関心ではいられないはず。
遠い国問題ではなく、全ての国の市民にとって身近な問題なのだ。
見識が問われる。
無関心ではいられないはず。






















写真:10月桜



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生を棒に振る

2017年12月26日 17時49分59秒 | 社会・文化・政治・経済
一生を台無しにする

人生を棒に振るの言い換えや別の言い方。
・ある事柄によって、それまでの積み重ねを無にしてしまうこと。
・ 一生を台無しにする
・ 人生を台無しにする
軽はずみないたずら
悪ふざけ
暴力

相撲人生にピリオード
出世最速だった朝青龍
暴力で土俵人生にピリオド― スポニチ

大相撲の横綱朝青龍が現役引退を表明した。
初場所で史上3位の25度目の優勝を果たして健在ぶりを示したばかり。
だが場所中に泥酔して一般男性へ暴力をふるった事件の責任を取る形で、土俵人生にピリオドを打った。

不祥事が原因で引退した横綱は戦後4人目。
史上6位の幕内712勝の実績を残し、日馬富士は平成24年に第70代の横綱に昇進して迎えた九州場所で相撲人生にピリオド を打った。
17年ぶりに誕生した4横綱時代は、わずか5場所で幕引きとなった。
その一方で暴力を振るわれた貴ノ岩は、「まさか横綱が引退するほどの問題になるとは、思っていなかったのではないか」
16歳の時に来日した日馬富士は現・伊勢ヶ濱部屋に入門し、「安馬」のしこ名で力士としての人生をスタート。
同じ年に初土俵を踏んだり力士には日馬富士を含め白鵬、鶴竜らのちの横綱3人がいる。2001年の初土俵から8年後、大関に昇進し、四股名を「日馬富士」に変えた。
富士は親方の「旭富士」に由来するという。


















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何のために働くのか?

2017年12月26日 17時35分54秒 | 社会・文化・政治・経済
自滅する人

自分で自らの可能性を閉じていく人で、つまりは自滅する人が多い。

真面目な人ほど自滅する!
一人で抱えちゃう病

努力家で我慢強い人ほどかかりやすい「なんでも一人で抱えちゃう病」。
原因は「誰のことも信用できない」心理にあるという。

人生を棒に振る

【自滅への道】完璧主義は自分も他人も傷付けるだけ。

自分たちは何を目指しているのか?
明確な目標があること。

何のために働くのか?
過労死、過労自殺
根本的に働くことの意味・意義を問い直すこと。

働くことには多様な考えがる。
日本的風土の中での働き方。
諸外国での働き方も認識する。

働くのは「何のため」
活動の意義や目的が明確になってこそ、人生が充実するはず。

どのように自らを革新し、価値を創造し続けていけるか。
多様性と柔軟な思考と行動。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米軍ヘリ窓枠落下 被害小学校 続く中傷

2017年12月26日 12時40分44秒 | 沼田利根の言いたい放題
日本人は確実に人間性が劣化している、と言わざるえない。

のぞく沖縄差別


◇「やらせだ」や「自作自演」まで 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校への米軍ヘリの窓落下事故で、同校などに「学校を後から建てたくせに文句を言うな」といっ中傷。

12月25日(月) 8時0分-社会(毎日新聞)

そもそも飛行場は沖縄戦のさなか、米軍が住民を収容所に拘束しつつ造ったものだ。
以前は役場や学校、多数の集落があった。
敗戦後に、住民は周辺に住まざるを得なかったのだ。
そのような歴史的な背景も知らずに「学校を基地の後から建てたのだろう。同情の余地ない。移転しろ」と暴言。
無知は罪悪にもなる典型的ケースでは?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロサンゼルス暴動 LA 92

2017年12月26日 12時07分37秒 | 医科・歯科・介護
LA 92|番組紹介|ナショナル ジオグラフィック (TV)

12月26日CSテレビ(343)で9時30分~11時30分前まで放映。
死体も写すアメリカの映像に衝撃を受ける。
作りものではなく、すべてが実写でリアル。
「こんなの不公平」と黒人市民が叫ぶ。
「平和など、どうでもいい」と自暴自棄になる人々。
群衆心理の恐ろしさ。
最後は、「もういい」「こんなこと間違っている」と訴える。
警官の横暴への怒りに端を発した。
司法の不公平性に「正義はあるのか?」と抗議が広がる。
憎しみが増大して、暴動にまで発展したが、平和的解決を呼びかける。
放火(焼き打ち)、商店からの商品の強奪、暴行、殺人へ。
「他に解決方法はなかったのか」と市民は冷静さを取り戻す。
「暴力がなければ、平和が戻ってくる」
街に巣くう人々の心の病。
うっ屈していたものが暴発したのだ。

「暴力がなければ、平和、希望が戻ってくる。亡くなった人は、もう家族の元へは帰れない」ロドニー・キングさんの言葉。
------------------------------------------
人種差別が生むものは暴力と混乱だけなのか?
1991年3月3日。
黒人のロドニー・キングはスピード違反を犯し、カーチェイスの末に車から引きずり降ろされ、殴る蹴るの暴行を受け重傷を負った。
一部始終をとらえたビデオテープに映っていたのは、無抵抗になったキングに警棒を何度も振り下ろす白人警官たちの姿。
ビデオは公になり警官たちは起訴されるが、翌年無罪に。
この事件や当時の人種間の緊張状態に端を発し、虐げられてきた黒人たちの怒りが爆発。
最悪の大暴動が始まる。
ロサンゼルス暴動とは、1992年4月末から5月頭にかけて、アメリカ合衆国・ロサンゼルスで起きた大規模な暴動。
新旧の人種問題、陪審制の難しさなど、暴動の背景にある多くの問題が浮き彫りになった。

4,000人を超える連邦軍部隊(陸軍、および海兵隊)が投入された。

ロサンゼルス暴動はロドニー・キング事件に対する白人警察官への無罪評決をきっかけとして、突如起こったかのような印象で日本では報道されることが多かったが、その潜在的要因として、ロサンゼルスにおける人種間の緊張の高まりが挙げられる。
アフリカ系アメリカ人の高い失業率、ロサンゼルス市警察(以下「LA市警」)による黒人への恒常的な圧力、韓国人による度を超した黒人蔑視、差別に対する不満などが重なり、重層的な怒りがサウスセントラル地区の黒人社会に渦巻いていた。
そこにロドニー・キング事件のLA市警警官に対して無罪評決、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件における韓国人店主への異例の軽罪判決が引き金となり、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件であるといえる。

サウスセントラル地区の人口比率の変動と人種間の緊張

事件の重要な要件として、暴動がはじまったサウスセントラル地区の人口比率の変化が挙げられる。
サウスセントラルはかつて黒人地区であったが、ヒスパニック系が居住者として取って代わるようになり、一方では韓国系アメリカ人がそれまで黒人の所有していた酒屋や雑貨店などを買い取って商売をはじめていた。
国勢調査によれば、歴史的に黒人居住地区であった場所におけるヒスパニック系住民の増加率は119%に達していたという。こういった地区では商店などの経済競争が人種間の憎悪を高めていった。
それまで黒人が一手に引き受けていた単純労働は、半分の賃金で働くラテン系移民へと移っていった。
また、韓国人(コリアンアメリカン)による極端とも言える黒人蔑視などもあり、韓国人商店と客である黒人住人との関係のみならず、黒人社会と韓国人社会全体が明確に断絶していた。
黒人住民たちは韓国人商店の客扱いが酷く商品が値上がりしているとの不満を持っていた。

すでに1989年の時点で、スパイク・リー監督の映画ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)ではこうした人種間対立を題材に扱い、上記の様な黒人社会と韓国人社会の対立も描きながら、人種間対立が暴動へと発展する様子を描いている。

ロドニー・キング事件、およびその裁判

1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。
その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道され黒人たちの怒りを膨らませた。

この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。
これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員に黒人は含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる。

ラターシャ・ハーリンズ射殺事件

ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた黒人少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズを、韓国系アメリカ人の女性店主、斗順子(トウ・スンジャ、Soon Ja Du、当時49歳)が射殺したのである。
事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。
店主は少女に椅子を投げつけた。

その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。
Duは逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。
陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものであった。この判決は黒人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実の黒人少女を射殺するというこの事件により、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。

ブラック・コリア

1991年11月5日、ラッパーのアイス・キューブはアルバム“Death Certificate”を発表。
このアルバムのなかに収録された“BLACK KOREA”という曲において、韓国系アメリカ人の経営する商店で、黒人の少年少女が入店すると、商店主が万引きしないか猜疑のまなざしで見たり、後をつけたりすることを歌詞でのべ、黒人社会と韓国人社会間に存在する軋轢を描いた。
曲の最終部では、韓国系アメリカ人による黒人への侮蔑的な態度に対する鬱積した怒りを次のように表現した。

暴動勃発[編集]

1992年4月29日、LA市警の警官への無罪評決が下されたこの日、評決に怒った黒人たちが手の付けられない暴徒と化し、ロサンゼルス市街で暴動を起こして商店を襲い、放火や略奪をはじめた。

また、小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及したようである(「本部長は辞任せよ」「4人の警官は全員有罪だ」「暴力警官からバッジを取り上げろ」のプラカードを掲げて抗議デモをしたグループもあった)。

レジナルド・デニー集団暴行事件[編集]

この暴動が勃発した初日、LA市内をトラック輸送仕事でいつも通り走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーはフローレンス通りとノルマンディーアベニューの交差点で信号待ちをしていた際、主に若者を中心とした暴徒化した黒人らにキャビンから引きずり出されて暴行を受けた。その内容は、コンクリート塊でこめかみを強打したり、倒れた被害者の頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とすなどだった。またこの様子は地元TV局の取材ヘリから空撮されており、この衝撃的なシーンは幾度となく繰り返し全米にTV放送され、彼はロサンゼルス暴動におけるもっとも著名な被害者となった。なお、暴行を受けた後、彼はTVニュースでその暴行のライブ中継を見ていた地域住民の黒人によって助け出され、病院で開頭手術などを受け一命を取り留めている。

LA市警と非常事態宣言[編集]

主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはまったくできなくなっていた。その証拠に前述の、中継されたデニー集団暴行事件でも最後まで警察は現れる事はなかった。この時、LA市警は現場に黒人警官のみを行かせるよう編成をしており、現場近くにいた白人制服警官達には「現場に近づくな」との命令がディスパッチャー(通信司令)を通して発せられていた。

4月30日、当時の市長トム・ブラッドリー(黒人。翌93年9月末退任)は非常事態宣言を発令した。

韓国人商店街への襲撃

もうひとつの主たる襲撃目標となったのが韓国人商店である。襲撃による被害額の半分弱が韓国人商店のものであるともされる。
韓国人商店主らが防衛のために拳銃を水平発射しているシーンも幾度となくテレビにおいて放映された。
ちなみに彼ら韓国人店主らの多くはベトナム戦争の帰還兵だった。
ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵に米国政府が移住許可を与えたため、70年代に韓国系移民が4倍も増えた。
彼らは主に競合相手のいない黒人街で商売を始め、従業員には黒人でなくヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、そそくさと韓国人街へ帰るというスタイルで商売していた。
黒人の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうした黒人による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃へと結びついたといわれている[2]。また、当初は韓国人商店が襲撃されたが後には他のヒスパニック系/白人/黒人/日系/中国系の店も襲撃されるようになった。[要出典]

暴動鎮圧のために州兵は元より、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、ロドニー・キング事件について、公民権法違反(第7篇。人種差別行為禁止)容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見た。

被害

暴動による被害は死者53人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。
被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。
韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難した。
また彼らは『無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある』と述べた。

この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%が黒人、44%がヒスパニック系、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。

暴動以後[編集]
暴動後、ロドニー・キング殴打事件の再審理を求める世論が盛り上がり、FBIが公民権法違反で再捜査を行った。
再審理の結果、指揮を執る立場にあったクーン巡査部長と直接関与したパウエル巡査の2人が有罪評決を受けた(ブリセーノ巡査とウィンド巡査は無罪)。
LA郡の連邦地裁陪審団は同市に対しキングに約382万ドル(当時レートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下した。
キング側は「警官の暴行は人種的な背景によるもので、頭部を殴打されたため脳に回復不能の障害が残り視力低下や頭痛、集中力欠如などの後遺症に苦しむ」と主張。
この評決が下される際も、暴動が再発するのではないかと緊張が走ったが、事前の警備が万端であった上にほぼ順当な判決が下されたこともあり、暴動が起きるようなことはなかった。
ロドニー・キング事件以来、「警官は悪だ」とのイメージが定着して、全米で警官の志願者が減少し、警察署は定員充足率9割強という人材不足に頭を悩ませている。
キングはのち、2012年6月17日ロサンゼルス市内の自宅プールで死去した。47歳だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月25日(月)のつぶやき

2017年12月26日 03時29分03秒 | 医科・歯科・介護
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする