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生命尊厳に立脚し、開かれた対話を

2016年07月17日 17時23分13秒 | 医科・歯科・介護
「勇気」こそ人間の最善の徳

★「私たちの誰もが、今の自分よりも、なるかに完成された人間になる能力を自らの内にもっている。その可能性を自覚することが最も大切なことである」
米国の歴史学者・ビンセント・ハーディング博士
★青春は、わが生命の無限の可能性を信じ、徹して強気で挑戦し抜いていくことだ。
★失敗にがっかりすることなく、「勇気」を奮い起こして、前へ一歩、踏み出しことだ。
よき友と励まし合いながら明るく前へ進むことだ。
★「生命の尊厳」は、ただ抽象的に主張を繰り返すだけで、正しく認識されるこのではない。
具体的な行動が必要であり、とりわけ自分と他者との関係性の中で、実践されなくてはならない。
★“何を行うにしても、あなたが心から誇りをもてるどうかが大切である”
私たちがしばしば、自分の言動に引け目を感じるのは、思い描いていた理想とはかけ離れた自分―他者への最善の行為を知りながら、それを実践できない自分自身に気付くからだ。
★人は、良い聞き手であcつて初めて、良い教師となる。
★相手から「学ぶ勇気」と「受け入れる勇気」。
ここに、どんな人とも心を開き、分かち合っていく道がある。
★対話によって、一人一人がエンパワー(能力開花)され、自己の役割をはっきり自覚している。
★青年たちが他者やコミュニティーのために貢献していくのを促すことだ。
そして、単なる経済活動でなく、社会への還元に重きを置くビジネスのあり方が問われる。
マサチューセッツ大学ボストン校学事長・ウィンストン・ラングリー博士

numata727 さんが 2015年07月16日 に書かれた記事をお届けします

2016年07月17日 15時35分37秒 | 医科・歯科・介護
作家立松和平さんの もっと長く生きてほしかった

毎日新聞に目を通して1日が終わる。そのようなことを思う。例えば7月15日の8面布施広専門編集委員の「地球議」作家立松和平さんの仕事5年前、62歳で立松さんは亡くなった。立松さんは思い出深い人だ。私が宇都宮支局に赴任した1978年の暮れに、立松さんは宇都宮市役所を辞めて筆一本の生活に入った。以来、立松さんの作品が芥川...
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こころの暴発

建設は死闘 破壊は一瞬自称・競輪研究家の利根輪太郎は、男女問題研究家の存在に苦笑した。その研究家が男女の別れ方を解いていた。相手の未練心に火を付けてしまい、暴発して惨殺されることもあるのだ。「最悪の別れ方だった」と指摘する。男を連れて同居していたマンションへ荷物を取りに行く。合鍵で部屋へ回廊としたが、別れる男と鉢合...
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現実的脅威の声は届かないだろう ?!

反対一辺倒の野党には、現実的脅威の声は届かないだろう。軍事技術は高度化し、安全保障環境は大きく変わった。北朝鮮は日本も射程に収めるノドンを数百発配備し、「核兵器の小型化や弾道化の実現可能性も排除できない」(中谷元防衛相)「北朝鮮のミサイルは現実的脅威だ」中山義隆・石垣市長「戦争法案」という人もいるけど、国民を守るた...
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さまよう聖地 新国立のゆくえ:中

五輪へ公約、誤算の連鎖朝日新聞 2015年7月10日 新国立競技場建設を巡る経緯と予定 2520億円の新国立競技場建設計画を了承した7日の日本スポーツ振興センター(JSC)有識者会議に、デザインを採用した中心人物の姿はなかった。「ご都合がつかないと言われた。ぜひ出てきて発信してもらえれば、と思いましたが」。鬼沢佳弘...
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閑話休題

┏━━━━━━━━━━━【PMDAメディナビ】━━━━━━━━━━━━━┓ 「製薬企業からの医薬品の適正使用に関するお知らせ」 ( 2015/07/13配信 )┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛本日、「製薬企業からの医薬品の適正使用に関するお知らせ」のページに、以下の情報を掲...
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パソコンの調子が昨日に次いで今日も最悪、フリーズの連続!

仕方なく、囲碁ゲームや麻雀ゲームをしている。昨日は午後2時に思い立って、カラオケをやりにスナックへ行く。だが扉に「本日は貸しきりです」の張り紙がしてある。1昨日も貸しきりであった。近隣の方々との交流を思い立ったが残念。そこで2日連続、未来予測研究会へ行く。昼寝の時間帯であったので、外出して午後9時に帰宅、疲れて酒を...
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我々も頑張らなくちゃ!

「がっちりマンデー」の番組で紹介された和田京子不動産のことを話しました。番組では東京都江戸川区の設立から3年で年商3億円を達成した街の不動産屋「和田京子不動産」の和田京子社長を紹介。社長は現在85歳で、それまで一度も働いたことがなかったが旦那さんが、亡くなったのをきっかけに80歳から勉強し超難関の宅建の資格を取得し...
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さまよう聖地 新国立のゆくえ:下

もうNHKの受信料は支払いません!下記のニュースを見て下さい。現会長が就任以来、変なNHKになってしまいました。よく見ていると、ニュースは他局に比べてものすごく政府寄りになっているのがわかります。今朝も他局のニュースではトップがほとんど安保法案のことでしたが、NHKは違っていました。<NHK>安保締めくくり質疑を中...
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素朴な質問

ロンドンオリンピック840億円北京オリンピック560億円東京オリンピック2520億円新国立:素朴な質問であるが、イギリスの建築業者に1000億円くらいで作ってもらうことはできないのか?



創作欄 芳子の青春 3

2016年07月17日 12時11分26秒 | 創作欄
2012年4 月16日 (月曜日)

渋谷駅で降りた芳子は、玉電(東急玉川電車)に乗り換えた。
緑色の2両編成の小さな車体は路面をガタゴトと音を立て走っていた。
電車が坂を上り、そして下って行く光景を見て、芳子は東京の街が起伏が多い土地柄だ思った。
玉電の窓から見える光景は、意外と緑の木立も多かった。
用賀停留所に降り立った時、芳子はようやく辿りついたのだと胸をなでおろした.
東京・世田谷区用賀町は、まだ畑が多く残っており、丘の斜面では土地の造成が進んでいた。
用賀は江戸時代以前は、大山街道の宿場町であり、眞福寺の門前町であった。
畑の間には小川が流れており長閑な感じがした。
芳子が働く、大学の教授宅は緑の木立に囲まれた神学院の南側にあった。
神学院の北側は桜丘であり、武蔵野台地の南端部に位置する
用賀地内には複数の湧水があり、旧品川用水の吸水の跡を源に、中町を経由し水は等々力渓谷を流れていた。
この渓谷には多量の湧水がみられ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区堤で多摩川に合流する。
この日は休みであったので、大野源太郎教授宅には家族全員が居た。
大野は芳子の高校の教師であった辻村玲子の恩師である。
大野は居間に和服姿でくつろいでいて、新聞を卓に置きパイプをふかしていた。
大野は白髪頭であるが、まだ52歳であった。
「君のことは、辻村君から聞いているよ、君は数学ができるそうだね」
芳子は数学がそれほど得意でなかったので戸惑った。
お茶を運んで来た大野夫人の伸江は48歳で、病院に勤務する小児科医であった。
和服姿で割烹着を着ていた。
「あなたは、料理はどうなの」
伸江は手伝いの芳子に期待をしていたので確認をした。
芳子はお手伝いとして働くので、母には料理を習ってきたが所詮は群馬県の田舎料理である。
「何とかできると思います」
芳子は控えめに答えたが、次の日に伸江から早速、「あなたの料理はダメ、味付けが塩辛いわ」と指摘さてしまった。
芳子は前途多難だと心細くなった。
そして、その夜に徹に手紙を書いた。
<芳子の手紙>
今、東京の世田谷区用賀の仕事先の部屋でこの手紙を書いています。
私の仕事は詳しくは話さなかったけれど、お手伝いの仕事です。
旦那様は大学の先生で、奥様は病院の小児科のお医者さんです。
家族は旦那様のお母さん、息子さん2人、そして娘さん1人の家族構成です。
大きな母屋があり、私は庭の外れの離れの部屋に住んでいます。
隣の部屋には高校の受験を控えている娘さんが居ます。
私の部屋は4畳半でこじんまりしていて、気持ちが落ち着ける部屋です。
部屋の小さな机に置かれたスタンドの下でこの手紙を書いています。
庭には大きな桜の木が5本もあり、今が満開でとても綺麗です。
沼田公園の御殿桜を徹さんと観たことが、昨日のように思い出されます。
朝は日課の犬の散歩があります。
柴犬でハナコと呼ばれたメスの犬です。
朝は5時起きでなの、近況は次の手紙に書きます。
徹さんのお手紙を心待ちにしています。
芳子

創作欄 芳子の青春 2

2016年07月17日 12時07分05秒 | 創作欄
2012年4 月13日 (金曜日)

芳子は故郷の山々を脳裏に焼き付けるように車窓のガラスに額を当てて眺めていた。
群馬県の最北端側から見てきた山波が裏側とすれば、汽車が走行するにつれて山波は表側の姿を表していく。
子持山、十二ケ岳、小野子山、赤城山、榛名山、妙義山などであり、渋川駅を過ぎると徐々に山並みは遠去かっていった。
そして汽車が高崎駅を過ぎると関東平野が広がっていった。
岩本駅を午前7時過ぎに乗った汽車が上野駅に着いた時には、12時を回っていた。
「うえ~の~ うえ~の~ うえ~の~」
駅のホームのスピーカーから流れる独特の抑揚のついて場内放送を聞きながら、芳子は東京にやってきたことを実感した。
人波に押し流されるようにホームを歩きながら、メモ用紙を手にして乗り換えるホームを探した。
昭和30年代、上野駅周辺には家出少女を目敏く探し出し、口車に乗せて騙して何処かへ連れていく男たちがたむろしていた。
実際、そんな男たちの一人に芳子は声をかけられた。
「ねいちゃん、行くところあるのかい?」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると相手は親しみを込めて微笑んでいる。
30代か40代の年齢と思われ、黒い長シャツの胸を肌けてており、細いズボンを穿き得体のしれない雰囲気を醸している。
「人と待ち合わせをしています」
芳子は毅然とした態度で言う。
「そうかい。どこから来たの」
相手はまとわり着こうとしている様子だ。
芳子は黙って足早に歩き出した。
だが、初めて来た上野駅であり、男から見抜かれていた。
「何処で、待ち合わせているんだい。案内してやるよ」
男は芳子の脇に並んで着いてくる。
「重そうなボストンバックだね。持ってやろうか」
「結構です。急ぎますから、失礼!」
芳子は走り出した。
背後で男が舌打ちをしていた。
「東京は昼間なのに油断がならない」
芳子は階段を駈け上がった。
芳子の様子見ている女性が居て、階段の中ごろで声をかけられた。
「ああいう、男たちには関わらない方がいいわ。ボストンバックを奪う男もいるんだから」
相手を見ると芳子の母親と同世代の女性であった。
芳子はホット胸をなでおろした。
「東京、初めてなのね?」
ボストンバックを下げ、地味な濃紺のスーツ姿の芳子は、如何にも都会慣れしていない様相であった。
「東京の世田谷区用賀へ行くのですが、渋谷駅は何番線でしょうか?」
芳子はメモを見ながら相手にたずねた。
「私は目黒まで行くので、方角が同じね」
女性は芳子に微笑みかけると先に立ってキビキビとした足取りで歩き出した。
芳子は高校の数学の教師の辻村玲子から就職先を世話された。
辻村玲子の大学の恩師である大学教授宅のお手伝いとして雇われたのだ。
メモ用紙には、用賀駅からの地図も記されていた。
芳子はお手伝いをしながら、看護婦(当時)を目指すことにしていた。
ところで、昭和36年当時、国鉄の初乗りは10円、私鉄は15円であった。

創作欄 芳子の青春 1

2016年07月17日 11時54分56秒 | 創作欄
2012年4 月12日 (木曜日)
小金井芳子が上京する日、母と妹たちが上越線の岩本駅まで見送りに来た。
夫を戦争で亡くした母は戦後、苦労をして5人の子どもたちを育ててきた。
芳子の2人の兄は中学を出ると家を出た。
1人の兄は、戦死した父親の弟に呼ばれて神奈川県の横須賀に働きに出た。
叔父の魚屋で働いて、「将来は自分の店を持ちたい」と手紙に書いて寄こした。
もう一人の兄は、埼玉県の桶川にある精密機械の工場で働いていた。
岩本駅舎は小さく、何の変哲のない寂しい感じのする駅の佇まいだった。
この駅は昭和61年から無人駅となったいる。
利根川が東側に流れいて、西側は東京電力の水力発電所になっている。
沼田市岩本町は子持山の麓の町であり、山と川に挟まれ細長く南北に広がって土地である。
南東方面は赤城山の麓につながっている。
徹とは前日、沼田城址公園で会って別れを告げていた。
徹は別れ際に、「後で読んでください」と白い封筒を芳子に手渡した。
「体に気をつけるんだよ。何か困ったことがあったら手紙に書いて送ってきてね」
母はそれだけ言うとハンカチで目頭を押さえた。
妹たちは2人は「東京に遊びに行ってもいい」と目を輝かせていた。
別れの悲しさを感じていないようであり、芳子は2人の妹を胸に抱き寄せ頭を優しく撫でた。
母は戦後、再婚したが夫は昭和27年、出稼ぎ先の群馬県高崎の建設工事現場の事故で亡くなってしまった。
母と義父の間に生まれた妹は、12歳と13歳になっていた。
蒸気汽車は故郷の駅に余韻を残すように汽笛を鳴らした。
妹たちがホームを駆けながら追ってきた。
母はホームの中ほどに立ち止まって、白いハンカチを振っていた。
ゆっくりと汽車がホームを走行していく。
芳子は汽車のデッキに佇み3人の姿が見えるまで見送った。
涙がとめどなく頬を伝わってきた。
客車内の4人がけ席は空いていたので、脇にボストンバックを置く。
そして芳子は徹に昨日渡された封筒をボストンバックから取り出した。
<徹の手紙>
芳子さんの旅立ちに同行できなく、とても残念です。
逢える日が、なるべく早く訪れることを念じています。
「東京へ出て受験勉強をしたい」と父に相談したら、「沼田で勉強しろ」と義父に反対されて上京できなくなったことは、先日、芳子さんに告げましたが、自分にも義父を説得できるだけの具体的な計画がありませんでした。
まずは、大学に合格することです。
頑張ります。
落ち着いたら手紙をください。
手紙を心待ちにしています。
お元気で! 
何卒ご自愛ください。

創作欄 無神論者の徹が神に祈った

2016年07月17日 11時31分16秒 | 創作欄
2012年12 月 2日 (日曜日)
アメリカの指揮者メニューインは、「南無妙法蓮華経は本当に口ずみやすいし、心地よい音律です」と語っていたそうだ。
徹は、「南無妙法蓮華経」が脈拍の規則正しいリズムに合致していることを悟った。
それは実に不思議な体験であった。
迂闊にも海の高波に飲まれたのだった。
台風が迫っていた神奈川県の茅ケ崎海岸の遊泳禁止の海岸では6、7人ほど泳いでいた。
[なぜ、ここが遊泳禁止なのだ]
強風に激しくはためく幟を無視し、「大丈夫じゃないか」と足を踏み入れると直ぐ、3歩4歩歩いた時に、遠浅だと思い込んでいた砂浜はずぼっと徹の身を体飲み込んだ。
それでまずパニックになった。
泳ぎには自身があったし、スタミナは抜群と思い込んでいたのだ。
それは愚かな過信であった。
それからは自然の脅威に翻弄される身となっていた。
沖へ自分はどんどんと流されていく。
必死に抵抗した。
だが成すすべもなく段々虚しさに覆われ出した。
その時、何処からもなく、「南無妙法蓮華経」と唱える誰かの声がしたのだ。
「自分はこのまま死ぬのだろうか?まだ25歳で」はないか!」
無信者を任じていた徹であるが、神に祈った。
「神さま。悔い改めますから、どうか僕を助けてください」
徹は交際をしていた女医の芳子から「徹ちゃん、よしなさい。お友だちが誘っているのね?でも、台風が接近しているのよ。海へ行くことを絶対にダメ!」と反対されていた。
結局、その日は芳子と喧嘩別れをした。
誰かの声は母の声であった。
母親との確執から、家を出たいと思っていた。
「私と住む」と芳子が言っていたが・・・。
徹は迷っていた。
何故なら、芳子から「徹ちゃんは私の母親の生まれ変わりだから、絶対に結婚できないのよ。いいわね、私の本当の気持ちを理解してね」と宣告されていたのだ。
それは男25歳の男にとっては非常に辛いことであった。
徹は結婚してからも、幼い娘を残って肺がんで逝ってしまった芳子の幻影にとりつかれていたのだ・・・
結局、徹は救われた。
その日、茅ケ崎海岸で死んだのが4人、行方不明が3人であったこと新聞で読んで愕然とした。
そして芳子には海で泳いだことを伏せていたのだ。
無神論者の徹無信論者を任じていた徹であるが、その時は必死になって神に祈った。
「神さま。悔い改めますから、どうか僕を助けてください」
徹は「南無妙法蓮華経」と唱え続けていた。
実に不思議な体験であった、徹がダメだと身を任せた波が岸へ向かって、ぐんぐんと勢いを増しながら徹の身を運んだのだった。異変に気づいた友人たちの人工呼吸によって徹は蘇生したのだった。
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<参考>
ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク - 1999年3月12日ベルリン)はアメリカ合衆国出身のユダヤ系ヴァイオリン・ヴィオラ奏者、指揮者、音楽教師。年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。
イギリスに帰化し、長年の多方面にわたる国際的な音楽活動に対してサーの勲位を授与され、さらに貴族の称号であるロードも授与された。
爵位名は、メニューイン男爵(Baron Menuhin of Stoke d'Abernon。なお、音楽家でロードの称号を授与された。

創作欄 下宿人の大学生たち

2016年07月17日 11時18分31秒 | 創作欄
2012年12 月13日 (木曜日)
徹は堅実な生き方をした働き者の母親似でもあったが、同時に道楽者であった父親似でもあった。
つまり、徹の道楽は父親の血筋と言っても良かっただろう。
父親は高等小学校を出た(尋常小学校が6年間、高等小学校が2年間)から高崎市立商業補習学校 (現・群馬県立高崎商業高等学校)で学んだ。
卒業後に上京し、三並精機工業(株)に入社している。
終身雇用の安定した企業と安心していたが、昭和30年前後から赤字経営となり会社更生法が適用された。
会社の生き残りのために人員整理が行われ、父親はその対象になった。
それはまさに戦力外通告である。
三並精機には東京・大田区田園調布本町と大田区雪谷大塚に社員寮があった。
社員寮の一角に社の土地があって、父親はそこの土地を借りて家を建った。
庭は80坪であり、母屋の脇に離れの棟を建て、そこの2部屋を学生の下宿部屋にした。
ところが家を建て2年目に失職したのだった。
このため、母屋の2部屋も下宿部屋とした。
結局、大学生4人が真田家の住民となったのだ。
どのような経緯からか、父親は失業保険の金を手にすると川崎競馬や大井競馬場へ足を向けていた。
父親には思わぬ博才があったのか、度々大金を手にしていた。
そして川崎の遊郭外などで遊んで帰る日が多くなっていた。
だが、しょせん競馬は博打であり、金を失う日も多くなった。
その結果、妻の着物を質屋に入れたりする。
たちまち家計は火の車になり夫婦喧嘩が絶えなくなる。
思い余って学生の一人が仲裁に入ることもあった。
実はその学生の父親も名古屋の競馬にはまっていたのだった。
学生の父親は大きな建設会社を経営し、業績が順調であった時に知人から勧めれて馬を持ったことから、競馬にはまてってしまった。
「親父に泣かされていた母親とおばさんの姿が重なる」と同情していた。
結局、徹の父親は家を出て行った。
それから気丈な母親は下宿屋の他に家政婦として働きだいた。
「おばさん、頑張るね!」と学生たちは感心をしていた。
早朝5時に起きて学生たちの朝食を作り、それから家政婦の仕事に出て、家へ戻ってくると夜食も用意していた。
下宿人は東京芸大の学生、理科大学の学生、法学部に通い将来は弁護士を目指している学生、電気大学に通っている学生の4人であった。
一人っ子だった徹は、下宿人である学生たちの部屋に行くことが楽しみであった。