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国旗・国歌

2010-07-02 10:32:58 | 日記





W杯に絡んで【橋下氏W杯国歌斉唱に「これが国民感覚」】って記事。ネタ探しにブログ探訪していたら、「へ~。」と思ったんで、少しだけ内心の表明してみようかなぁ。




国旗や国歌。国家を代表する、また象徴する記しとして定められた旗だったり歌だったり、つまり、そう言うことでしょう。国章とは、また別に国籍の標識なんかにも用いられたりしますよね。

まぁ、基本的には、国の尊厳を広く世間に知らせるものとして大切に、また、ある意味の敬意をもって扱われるべきものなんじゃないですか。それは自国民にも言えるでしょう。自国民が粗末に扱うものを他国民が敬意をもって大切に扱うなんて、おかしな話ですからね。

ある記しが、ある国において国旗や国家として定められた、また、それに準ずる意味合いがあるのなら、大切に、また、ある意味の敬意をもって扱われるべきものとしても否定する人はあまりいないと思います。中には焼き捨てたりする人もいますけどね。


問われるのは「日の丸だから」や「君が代だから」ではなくて、そもそもの国旗や国歌に対する接し方なのでしょう。「日の丸や君が代が嫌でも、それが国旗や国歌である以上、対して妥当な接し方をするべき。」と言う主張なら、それほど否定できたものでもないでしょうね。

教育として考えるなら、国際化が進む中、他国の国旗や国歌に対する態度について相手を不快にさせない接し方を教えることは必要なことでしょう。であるなら、延長上に、自国民として自国の国歌や国旗に対する態度も、それ相応にあるべきことを教えることは否定はできないと思いますけどね・・・。

でもさ、これ、橋下府知事ってちょっと保守で鷹派なイメージがあるからね。国旗や国歌としての意味合い以前に「日章旗や君が代に敬意を表せ。」って言う風にも聞こえるんだよなぁ。単なる俺の個人的な印象だけどね。

それとは別にだけど、日の丸や君が代が国旗や国歌としての意味合いを持たないのなら、どう接するかは個人の自由となるんじゃないですか。それが国旗・国歌として定められているからアイデンティティーを代表して「尊いものとして侵し難い。」と言う存在になるんだと思います。


 

 

国旗や国歌の意味合いとして言うなら、国家的行事などに掲揚することや演奏することを否定することはできないのだろうけれども、まぁ、学校行事はどうでしょうね。

所謂、学校における式典が、国家的行事などに類するか否かと言う問題もあるのだろうけれども、仮に、準ずる以上の意味合いがあるとして言うと、そうね・・・。

一教師の思想的判断による式典妨害なんて言うのは、そもそも論ずることにも値しないでしょうね。それは教育者として明確に誤りと言えるんじゃないですか。

また、生徒や保護者が民主的手段を用い決めれば良いなんて論調もあったりするんだけど、それじゃきっと駄目なんだよなぁ。その手法程度のものが掲揚や演奏までも否定して妥当と言えるだけの正当性を持つものなのか疑問ですね。




日本の場合は国民の追認と言う形ですかね。国旗や国歌の意味合いから言えば、定めた以上は式典において演奏・掲揚することを否定できないでしょう。また、否定して妥当なものでもないでしょうね。

でも、生徒や教師の内心までは強制できないので、内心において敬意を持って接するか否かは個人の判断でしょう。

まぁ、個人的な意見ですが、他国であれ国旗や国歌そのものの意味合いを教える側の教師としては必ずしも相応しいとは言えないだろうが、内心の表明として生徒が国歌を斉唱しない程度までは許容されるんじゃないですか。起立しないのはどうでしょうね。式典妨害に相当するかもしれません。

 因みに俺は学生の頃、式典自体に参加しなかった方なので、まぁ、高卒だし、所謂、地方の偏差値の低い高校にしか入れない良好とは言われない人間でしたね。高校自体を言えば、夏休みの終わりにはクラスの半分が停学になっていたりするような学校でした。

確かに左側の教師もいましたが、どちらかと言うと俺達を式典に参加させ何事もなく終わらせることに心血を注いでいましたね。言うなれば、教師が自分達の思想心情なんて言っている場合ではなかったのかもしれません。まぁ、そんな程度の思想心情だと言うこともあるのかもしれませんけどね。

それは別として、現在の国旗や国家を国を象徴するものとして相応しくないと考えるのは良いんですよ。また、混乱をもたらさない程度の行動なら許容もされるでしょう。

俺自身は、現状の追認に近い状態ではなく正面から国民の同意を求めるべきではないのかと思っている。でも、それは国政選挙などを介して変えて行くしかないでしょうね。

個人的意見ですが、「一教師の在り方として、個人的な思想心情はなるべく廃して公平中立な教育を目指すべき。」と言うのは、ある程度の妥当性を含んでいるんじゃないですか。それを前提にして言うのなら。

当然、客観的見地や両論の併記は求められるでしょうが、過去に君が代や日の丸がどのような使われ方をしたのか。また君が代や日の丸に対してネガティブなイメージを持っている人はいる訳で、その思いの内容を教えるのは否定されるべきものではないでしょうね。

君が代や日の丸を中心にした議論は、確かに存在するのだから、その両論を示して、生徒自ら考えさせることは重要なのかもしれません。疑問を持たないことほど怖いものはないですからね。その中で自ずと変化して行くのならそれを否定することはできないんじゃないですか。


まぁ、基本的に国旗や国歌に反対する直接的で、ある種の過激な行動が、教育現場に、ある意味の混乱をもたらし、国旗国歌法の制定や教育基本法の改正に正当性を持たせ、ある意味の自由が奪われる結果に至ったんじゃないですか。

学校であっても社会の一部であるのだから、混乱をもたらして妥当だとは言えないですよね。そうはならない方法を考える必要があった、またあるのでしょう。

自制は自由の根拠になるが、身勝手は強制の根拠になりますよね。暴力を用いることは相手の暴力に正当性を与えるでしょう。多分ですけどね。そう言うことのような気がします。




自由と身勝手は似ているけど違いますよね。国旗を掲揚すること、起立すること、国歌を斉唱することで式典が良好に運ばれるのなら、思想心情はどうあれ教師は教育者として生徒達に、そう作用するべきでしょう。

一個人の思想心情として現在の日章旗や君が代が国旗や国歌に相応しくないとするなら、運動なりを行い選挙を介した民主的な方法で替えて行くべきなんじゃないですか。極地的な妨害は単に自らを狭める結果になるだけだと思います。


まぁ、寛容を求める側が寛容ではないなんてことは世の常ですが、気に入らないならなにをやっても良いとするのなら世の中は混乱するだけです。基本は法に基づき理性を持って対処するべきでしょう。これが今世界で求められているんじゃないですか。

法に基づき理性を持って対処することができれば武力紛争の多くが解決するかもしれませんよね。









参考にしました。

【橋下氏W杯国歌斉唱に「これが国民感覚」】
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20100630-647699.html


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1 コメント

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Unknown (えまのん)
2010-07-02 16:22:11
>君が代や日の丸に対してネガティブなイメージを持っている人はいる訳で、その思いの内容を教えるのは否定されるべきものではないでしょうね

ネガティブなイメージの思いの内容「しか」教えないから問題になるのだと思いますが。

まずは、おっしゃられるように「国旗や国歌に対する接し方」を教えるべきでしょうね。

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