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話はやや脱線だが、クオータ制のメリットの一つは、政界とは基本的に男社会で、均衡とした男勝りや、また対抗的なラディカル・フェミニストのように急進改革派に成りがちな女性政治家に庶民感覚を吹き込むと言われる面。これは大きい。
個人的には賛成で、50:50でも良いと思うが、ただ、恐らく庶民感覚とは逆に【不倫や不正に厳しい】と思う。何故なら《奴隷的道徳》が大前提になるから。
奴隷的道徳=キリスト教的道徳。日本で言うなら浄土真宗的道徳だろうな。
要は君主的・将軍的な《高貴・強い・美しい・裕福・機能的・有用》=【良い物】とする道徳に対して、〘庶民の嫉み・妬み・恨み〙を前提に〚弱い・卑しい・貧しいと、その正当性を体現する潔癖さを体系化した偏狭な倫理観を美徳〛として【何れ救われる人間と定義した道徳】なんだよね。
ニーチェも言ってる話だが、因みに私は【奴隷的道徳】を〚不合理な道徳〛だと思ってる。
英雄色を好むとも言うのだから倫理観=能力の高さでは無い。従って能力にだけに注目すべきだし、また例えば山尾志桜里さん等は明らかに【疑わしきは罰しろ】に成っていて、それこそ〚奴隷的道徳に置ける潔癖さを体現する為の《偏狭な倫理観》〛にすら抵触するだろ。
《自らを弱者と定義した偏狭な処罰感情》は、逆に〚自らの潔癖さをも凌駕する〛と言う【壮大な皮肉に至ってる】訳だよね。
愚かだ。
キリスト教は基本的に「自由」の宗教ですよ。
貴君がどれほどキリスト教のことを理解しておっしゃっているかは知りませんが、聖典や教会の慣習の実例を根拠として引いてくるならともかく、ただ「奴隷的道徳」と言われるだけではたんなる誹謗中傷に見えます。。宗教をターゲットにしたヘイトスピーチになりかねませんよ。
どうかご自身でキリスト教のことを勉強していただいたうえ、ご主張を立証できないならこの記事は撤回してください。
まず、ヘイトの定義を提示してください。ヘイトとは憎悪表現の事で、気に入らない相手を黙らせる都合のいい言葉では有りません。
それと、キリスト教その物では無く、《キリスト教【的】》な道徳考えてください。
キリスト教【的】な道徳とは、奴隷を容認するようなギリシャ的な価値観である君主的道徳の対比で、正直な庶民・弱者が報われる・救われるように作られてると定義されてます。
しかし、その原動力は社会的強者への恨みから出来ており。それは合理性を度返しする事がある。例えば、不倫を疑われる場合、その【能力とは関係なく】社会的に抹殺しようとしますよね?
更に言うなら山尾志桜里さんの場合は疑わしきは罰しろに成ってます。それは人の歩むべき道・倫理観に反すると思いませんか?
【奴隷を容認した古代ギリシャ的な道徳=君主的道徳】の対比で〚キリスト教創世記〛の《キリストを信じる正直な弱者(君主的道徳から搾取された)が報われるように作られた=奴隷的道徳】と言う〚ニーチェの定義〛です。
現代のギリシャでも、現代的な広義のキリスト教でも有りません。
昨今では、「イスラムは奴隷の宗教」「イスラムは戦争の宗教」こういう類型化をしたら、立派にヘイトスピーチとして認定されるじゃないですか。ご存知かとは思いますが。「【的】な道徳」とクッションを置いてはありますが、スレスレだと思います。
また、《キリスト教【的】》な道徳の定義の出典を教えていただけますか。特に聖典のどこから来ているのかが知りたいです。【的】とついていようがいまいが、聖典から来ていないなら、それはいち部外者の見解ということになりますから、真実と立証することはできないと思います。
少なくとも、「その原動力は社会的強者への恨み」というお見立ては全く的外れだと思います。イエスはローマ帝国の支配を覆すことには何の関心も持っていなかった(ルカ20:25)し、使徒パウロなどは「権威ある者を敬いなさい(ローマ13:1)」と言っています。
不倫を疑われたら社会的に抹殺というのも違います。悔い改めない性的な罪は、繰り返し注意を受け(マタイ18:15-17) それでも聞き入れなければ最悪の場合教会からの除名の対象になります(Iコリント5:13)が、社会から追い出されるわけではありません。ただ教会に行かなくなるだけです。
ちなみに、山尾志桜里さんなど全く関係ありません。私は議論に取り上げてもいないのにどうして出てくるのでしょう。日本人の99%はキリスト教徒ではないのですから、山尾さんがどれほど叩かれようとキリスト教は無関係です。
ともあれ根拠なく「奴隷的道徳=キリスト教的道徳」と唱えるのはキリスト教徒に対しては侮辱的に聞こえます。説明か、撤回のどちらかをお願いします。
「ニーチェの定義」なのですね。初めて知りました。
しかしニーチェは部外者ですから、何をもって「キリスト教的か」を論ずるなら、それはニーチェの個人的見解となりましょう。
教義論ではなく文化論として、「2000年の歴史から見て、キリスト教文化では・・・」という議論をなさるならそれもありえるかと思いますが、いただいた説明ではそういう背景も考慮されているかどうかもよく分かりません。
「創世記」は新旧約聖典66冊の一冊目と思っていましたが、〚キリスト教創世記〛というニーチェの著作があるのでしょうか?
それと《第三者から見た》【一般に置ける事象の類似性と説明に足る推測】》で実際の動機、また、教義的な見解と関係は無い筈です。
例えばイスラム原理主義過激派の例えば【ダーイシュによる武力テロ】の前提は《神の下の正義》だとしても、我々一般人からすれば〚悪行に見える〛。
まず、教義の正当性では無く、【信者の行動に置ける見た目の判断】で、また、〘キリスト教義を選択した〚信者個人の動機〛〙には《【君主的道徳に対する恨み】は〚内在されて無かった〛》とも言えないでしょう。
お手数ですが、かかるニーチェの定義が収載されている著書のタイトルを教えていただけますか。自分でも勉強してみたいのです。
ともあれ、元の投稿記事は、どこからどこまでがニーチェからの引用かわかりません。ニーチェの見解に抗議せよと仰るならば、その見解と渾然一体となっている貴君の論説に私が抗議したとしても不自然はないと思います。
また、そういった書き方であるゆえ、貴君がキリスト教を根拠なく揶揄する意図を持って記事を考案したと読者が疑うに足る十分な理由があったことはここではっきり指摘しておきます。
また、《第三者から見た》【一般に置ける事象の類似性と説明に足る推測】》・・・の議論、おっしゃりたいことはわかるのですが、私の指摘したことは「実際の動機」がどうということではなく、
ある事象(たとえば「奴隷的道徳」)が、キリスト教(あるいは歴史的に形成されてきたキリスト教「文化」)に帰属するものとして認識できるかどうかの話をしているのです。
「文化」論ならともかく、キリスト教なるものについて教義が関係ないというのはさすがに暴論です。それでは一体そもそもどうやって「キリスト教」を定義するのでしょう?
イスラムの話で言えば、貴君は、武力テロを正義ととらえるか悪行ととらえるかの例えを出しておられますが、第三者から見て「そもそも武力テロはイスラムに帰属するのか否か」を論じる、という視点もそこにあるはずです。(帰属しない、とする見解も昨今では盛んに論じられています。これは例示であり私が必ずしもこれに同意するわけではありませんが。)
キリスト教に戻りますと、奴隷的道徳がキリスト教的なるものに帰属するのかといえば、内部者から言えばもちろん否、ですし、第三者の視点を持って論じるとしても、そこに何の具体的傍証もなければ単なる決め付けの域を出ないと思います。
上述したように、「君主的道徳に対する恨み」をあえて「捨てなさい」というのがキリスト教の教えの根幹ですから、「信者の行動に置ける見た目の判断」をもって信者の中にそれを見出す事例があるならば、それは単に信者が「教義を遵守することに失敗した」というだけの話です。
従って、貴君の指摘は的外れといわざるを得ないと思います。
・ググれば出ます。
>また、そういった書き方であるゆえ、貴君がキリスト教を根拠なく揶揄する意図を持って記事を考案したと読者が疑うに足る十分な理由があったことはここではっきり指摘しておきます。
・それは失礼しました。しかし、ルサンチマンなとは、ウイキペディアやコトバンクでも、またメディア等でも普通に説明されてる、極々一般的な話です。
>《第三者から見た》【一般に置ける事象の類似性と説明に足る推測】》・・・の議論、おっしゃりたいことはわかるのですが、私の指摘したことは「実際の動機」がどうということではなく、ある事象(たとえば「奴隷的道徳」)が、キリスト教(あるいは歴史的に形成されてきたキリスト教「文化」)に帰属するものとして認識できるかどうかの話をしているのです。
・私は一般的な印象の話をしています。例えばイスラム教義では殺人は許されないとする人は居るが、しかし、イスラム原理主義過激派を見る時の印象はポジティブでは無いはずです。
>「文化」論ならともかく、キリスト教なるものについて教義が関係ないというのはさすがに暴論です。それでは一体そもそもどうやって「キリスト教」を定義するのでしょう?
・信者の【 信仰する物 】と《行動の類似性》でしょう。従って《中には違う人も居る》となる筈です。
例えば〚イスラム原理主義過激派でも、武力テロを否定する人は居る〛でしょうと憶測します。
>上述したように、「君主的道徳に対する恨み」をあえて「捨てなさい」というのがキリスト教の教えの根幹ですから、「信者の行動に置ける見た目の判断」をもって信者の中にそれを見出す事例があるならば、それは単に信者が「教義を遵守することに失敗した」というだけの話です。
・第三者の多くは見た目と、総体的な傾向で判断します。
『それはキリスト教その物では無い。』と言うのなら〚失敗させてはダメ〛なのです。つまり《私の見解に置ける貴方の違和感の源泉》は〚キリスト教側に有ります〛よね?
自浄を求めます。明らかに違うと成れば社会的に否定されるでしょう。
つまりはルサンチマンはキリスト教的価値観の特徴である、あるいはキリスト教的価値観の中に有意に見出せる、という理解をされているのですね。
・第三者の多くは見た目と、総体的な傾向で判断します。
と仰るならば、その実例を挙げていただけませんでしょうか。
私の違和感が「キリスト教側に有」るといくら主張されても、実例や根拠がなく、ただ漠然と「見た目」と「総体的傾向」というお話であれば、あまりにも具体性を欠いており、恣意的な決め付けと言われても仕方がないと思います。
イスラム原理主義の例えをされていますが、そもそも部外者の間でも当事者の間でも「それはイスラムではない」という議論が存在しているのです。
キリスト教でにおいても、第三者の一般的印象として、ルサンチマンとキリスト教的価値観を関連づけようとする場合、そのキリスト教的価値観なるものが「信者の信仰するもの」を元にしているということなら結局「教義」を外して語ることはできませんし、行動の類似性、ということならどのような行動か実例がないと議論にならないと思います。
「失敗させてはだめ」とはまた大胆なご提言ですね(笑)。そんなことを言い始めたら、自らの何らの立証努力もすることなく世の中の宗教を全て否定できるではないですか。(だからニーチェがお好きなのかもしれませんが。)
しかし、それなら宗教だけではなく全てのイデオロギーは灰燼のごとく無意味だということになりましょう。必ず失敗者は出てくるのですから。ニーチェ自身も発狂してしまったのだから失敗者でしょう。
宗教は信じた途端スーパーマンになれる魔法ではありませんよ。ゴルフと同じように、参加者にはあるルールのもと、巧拙はあってもそれに向かっていくだけです。しかし、競技のルールは厳然と存在するのですから、ある部外者が勝手に競技の特徴を定義したら、こちらとしては訂正を申し入れるのが筋というものです。
ともあれ、ご持論を支持するなんらかの実例をご提示くださいますようお願いします。
質問しますよ。キリスト教教義【暴君に対して有利になる様に作られた物】ですか?
お断りします。
私の質問に答えていただけますか。
禅問答とはそう言う物です。答えられないと言うなら、そこが核心で、そして限界なのでしょう。
続けます。キリスト教の教義とは【暴君に有利に成るように作られた物ですか?】
貴君がTwitterなどで活発に発信しておられる内容に興味を持ちブログを拝見したので投げかけさせていただいたのですが、期待に反しごく普通の対話さえ成り立たなかったのがとても残念です。
ちなみに禅問答には全く興味はありませんが貴君の興味にお応えする意味で見解を述べさせていただきます。
キリスト教の教義は、そもそも1世紀パレスチナ地方に居住したユダヤ人たちに対して、彼らの神(アブラハム、イサク、ヤコブの神でありモーセに律法を与えた神)への真の礼拝に立ち返るよう呼びかけるものです。(ヨハネ4:21-24)
イエスはユダヤ人のラビです。イエスは当初イスラエル以外への伝道を明確に禁じたこともありますし(マタイ10:5)、少なくとも異邦人(ユダヤ人以外の諸民族)への伝道に乗り気ではありませんでした。(同15:24)
異邦人への伝道が大々的に行われるようになったのは、使徒パウロの時代に、ユダヤ人の大多数がイエスのメシア性を拒絶してからです(使徒13:46)。
そして、異邦人信者の集団に対しては、「教会外部の人間が不道徳であろうと、うまく付き合え、これを裁くな」という趣旨の助言がなされていました。(Iコリント5:10-12)
このように、キリスト(メシア・イエシュア(イエス))教は、純然たるユダヤ人コミュニティの内部で出発した後、たまたま異邦人の間でも信仰されるようになった教えであって、(先のコメントで記述したように)純非政治的・非軍事的で私的な宗教集団として形成されました。
キリスト教の教義とはつまり、神への礼拝に関する事柄であって、暴君に有利とか不利とかはそもそも教義の中で想定されてさえいないのです。
結果論として、キリスト教の実践が暴君に有利か不利かと試問するなら、キリスト教はイエス以外への礼拝を禁じますから、その暴君が、自らを神として礼拝することを国民に強いる政策をとる場合、かかる暴君にとってはキリスト教徒の存在が、不利、というか「不愉快」な結果となります。(それが原因でローマ帝国内で迫害が起きました。)
ただし、かかる暴君がそのようなことをしない場合には、上述したように「権威に従う」ことを是とする教えですから、暴君にとっては「ただの一市民」です。従順に労役につき(コロサイ3:22)、納税に励む(ローマ13:7)ぶん、若干有利かも知れませんが、他にも沢山そういう市民は居たでしょうから、厳密にはなんとも言えません。
その後のコンスタティヌス帝の時代から、キリスト教と帝政が一致し、はじめて(貴君お得意の)宗教批判の分野で槍玉に挙げられる事例が発生することになりますが、それは「キリスト教教義」というより「キリスト教社会の慣習」です。「教義」というからには聖典の裏づけがなければ教義とはいえません。(カトリックは教皇の教えを聖典と同格に位置づけましたが、それはまた別の話です。私はプロテスタントですので、過去の教皇による政治力行使を批判される場合、それはカトリックの問題であってルターが克服した、と片付けるだけで終わりです。)
なんにせよ「キリスト教教義とは」と大上段に語られるなら、面倒くさがらずにご自分でも少し紐解いてみることをお勧めします。
新約聖書の比較的読みやすい「新改訳」版は無料で閲覧できますし、
http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/
もしお暇と気力があるなら旧約もあわせた全巻はこちらです。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
それではごきげんよう。
先にも説明してますが、禅問答とは自ら答えを見出す事です。
何故そうしなければ成らないかは簡単で、私が何を言おうとも貴方は【教義と合致しない】として《納得しない体》を作ることが出来るからです。
だから、【貴方から答えを引き出す】しか無いんです。そして私の問い掛けかに対して貴方が答えられない事が《【核心】》なのでしょう。
話から読み取れるのはつまり【 キリスト教の教義は暴君の為に作られた物では無い 】ですね。
では、次の質をします。
【 それは何故、暴君の助けに成るようには作られ無かったのですか? 】