St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

カトリック飯田教会、伊藤神父様の「主の昇天」ミサご説教より

2010-05-16 23:28:59 | Weblog
主日のミサ。祭日。
「主の昇天」より、カトリック飯田教会の主任司祭である伊藤神父様の福音説教より。
文責はわたしにあります。


主の御昇天。イエスが天にお帰りになった。
第1・福音は、「天にあげられた」と表現している。
「自分の力で」でなく、「天にあげられた」。
受身。御父が「天にあげられた」。受難でもそう。
”Jesus was carried up to heaven.”
福音のイエス、神様みたいに思う。
「ご自分の力で復活された。」「ご自分の力で天国へ帰って行った。」
それは異端。
「イエスは神でありながら、神であろうとせず」。
人間となった。
神であることを捨てて、人間になった。
自分の力で、復活する力・天国へ行く力は無い。
化現説。異端。
神なのに人間の姿、仮の姿。
「イエスは人間になられた」ことを信じられない。
人間イエスが十字架上で死んで御父が復活させられた。
昇天。
強い印象ないが、大きな意味。
改めて御父から神とされる。
主は御自分の元に引き寄せて、神とし主とされた。
再臨して、万物を救われる。メシア=キリスト。
そして、世の終わりまでキリストとされた。
信仰が確立していく。
「あのイエスがキリスト」。それが信仰。
神であり父。
自分の信仰って何か?ふと分からなくなる。
「イエス様は分からないが、神様を信じているからいい。」
それは福音を知らない信者。
ユダヤ教・イスラム教でも同じ。
キリスト教徒の信仰は、イエスが神であり、主であり、キリストである。
ユダヤ教では、メシアは未だ現れていない。
イスラム教では、マホメットがメシアであると信じている。
何を信じているか?
はっきりと「イエスが神あでり、主であり、キリストである」。
「プロテスタントみたい!」
プロテスタントでもカトリックでも、「イエスは神・主・キリスト」。
それが信仰の根本・土台。
世の終わりまで「わたしたちを救うのがキリスト」。
信仰をしっかり理解して、信仰生活を送らないと。
「カトリックの信仰はドーナツ」、よく言う。
真中一番大事な「これがわたしの信仰です」が無い。
そうあってはいけない。
「信仰はこれです」。
毎日辛い不幸なことばかり。
御言葉が導いてくれる。
解決・救いはイエスである。
毎日導いてくれるのはイエス。
「こっちに向けて進め」と導いてくれるのはイエス。
聖書を読んで、何度も繰り返し読んで生きる力を頂くことによって、
すべての生きる目的はイエスにあり、わたしたちを救ってくれるのもイエス。
ミサの中で「私達の主イエス・キリストによってアーメン」。
分からないときの解決法はそれ。
ミサの中で何度も出て来る。
わたしたちの信仰をしっかりと捉えていく。
分からなくなった時、答は主イエスにある。
キリストの信仰、何処かで分からなくなってしまっている。それを確信としていかなければ。
ご昇天。大切な意味がある。
「万物の創造~御子誕生」・・・御父の時代。預言者の時代。
「御子が人間となって生まれ、言葉・命を以って神の望み・願いを知らせる。
十字架・復活・昇天」・・・御子の時代。
その直後、神様のなさったことを理解出来ない。弟子さえも。
何度も言うように、わたしたちは量りの上の埃。
詩篇に出ている。わたしたちはちっちゃなちっちゃな存在。
神のことを理解することが出来ない。
宇宙万物からみてもちっちゃな存在。どうやって理解出来よう。
すべてのこと理解出来ないので忘れ去られていっただろう。
神はそこで、御子まで送った。理解出来なかったのを聖霊によって理解出来るようにした。
それによってはっきりと分かるようになった。
「聖霊降臨~現代~世の終わり」・・・聖霊の時代。
何時も父と子と聖霊は1つだが、信仰の時代が敢えて3つに分かれる。
御子の時代の締め括りが昇天。
今日は大切な祭日。私達の信仰は何なのか?それを確認する祭日。

・・・
「高い所からの力に覆われる」・・・聖霊降臨をこのように表現なさっている。
「手を上げて祝福された」「祝福しながら彼らを離れ天に上げられた。」「イエスを伏し拝む」
・・・絵柄をリアルに想像出来る。
「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」
・・・力強い。
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