巨匠 ~小杉匠の作家生活~

売れない小説家上がりの詩人気取り
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無題

2013-05-25 23:49:07 | 日記
我が家は積み木をいくつか組み合わせたような建て売り住宅が立ち並ぶ団地の一角にある。どこにでもいる普通のサラリーマンと専業主婦の夫婦が息子一人を育てる何の変哲もない平凡な家庭だ。ウチから3ブロックほど北に古い平屋建ての家がある。そこに「師匠」は一人で住んでいる。ご近所さんは秀爺などと呼んでいるが、口の悪いウチの親父は「世捨て人」と切り捨て無関係に過ごしている。親父から「あのろくでなしに近付くんじゃないぞ」と教育されて育った僕は小学校に上がるまでは親父と同じように師匠のことを遠ざけて過ごしていた。あの瞬間のあの目を見、あの言葉を耳にするまでは。

今思うと、親父も不憫だったと思う。自分を捨てた父親を自宅の傍に住まわせ、何かあったときに備えていたのだから。その懊悩は今この年齢の僕には分かりっこない。

師匠のもとに足繁く通うようになった僕を親父は最初は面白くなく感じていたようだったが、そのうちに好きなようにさせてくれるようになった。今思えば、自分が傍で世話をするつもりがない分、代わりに僕が行くことで安心のようなものを得られると思い直したのかもしれない。親父の心変わりの理由はいくらでも思い付くが、「師匠」のことについて親父と深く論じたことがないので本当のところは分かりっこない。


師匠はいつも干からびている。何も求めないし、何も与えない。実質的には生きていると言えない状況なのかもしれない。僕は暇さえあればそんな師匠の傍で読書に耽っていた。

僕が読んでいたのは太宰治全集。「師匠」の家の書棚に置いてあるのを見付け端から読み始めて今4冊目だ。太宰の退廃的な生き様の末路が伏せっている師匠の姿と何となく重なって見えることがある。師匠は床に就いたまま、僕が一心不乱に読んでいる本の表紙に時折目を向けることがあった。そんなとき師匠は決まってすぐに視線を逸らし、ふんと鼻で小さく息を鳴らした。僕はその仕草を認めると、なんだか今自分が読んでいる本がまるで無意味なものに思えて本を畳み、帰り支度を始める。

あるとき師匠は玄関に向かう僕の背中に「おい」としわがれた声で呼びかけた。僕は仰天して師匠のほうを振り返った。師匠は上半身を起こして僕に語りかけていた。

師匠の言葉はいわゆる言葉ではなかった。何か僕の脳波を刺激するような形で伝わってきた。

「お前......」

「な、なんですか、師匠?」

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