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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

安来節

2018-01-28 | 旅行記

玉作湯神社から・・・川に沿って下るとまもなく玉造温泉街、

足立美術館から玉造温泉街まで30km弱でしょうか、グーグルで

川の右岸を上流から下って来たのだが、目指す宿の目前で進入禁止、右岸が一方通行になっている。

右折して大通りに一旦出て、温泉街を下流側から再度川に沿って上ると無事到着。

このような工芸品、いや奉納品があちこちに飾られていた。

出雲大社の拝殿に奉納された、・・・稲わら細工の「鶴亀額」とあります。

手作りですから、味があります。

亀の頭や、鶴の翼に苦労が見えます。

さて、島根県の有名な安木節は、地元安木市や松江市の名所が登場するようですが、どじょうすくいがユニークな腰使いで人気があります。

この地は勾玉以外に砂鉄が採れたので、たたら製法が発達した地であり、砂鉄の採取とどじょうすくいの踊りは関係がありそうです。

動画撮影は禁止でしたので、こんな画像で雰囲気を味わってください。

中央で演じられている女性の両手に持っている30cmくらいの棒、両端に紅白の房が付いていて・・・これが鉢巻きに書かれている銭太鼓と言われるもののようです。

どじょうすくいの主人公は、豆絞りの手ぬぐい、腰に籠を結わえて登場です。

頭にかぶっているのは、竹で編んだ ふるい でしょうか。

・・・親父どこへ行く 腰に籠下げて

前の小川へ どじょう取りに

わしが生まれは浜佐陀生まれ

 

朝まとうからどじょやどじょ

唄に千両の値ぶみがあれば

どじょうは万両の味がある

ドジョウ、ウナギ、スッポン・・・滋養強壮ではなくて、どじょうは味が万両でした。

腰を落として後ろに突き出し上下に振る滑稽な動作は、砂金採りで疲れを癒す仕草を取入れたのでしょうか。

楽しいひととき、ありがとうございました。

伝承されている皆様の繁栄が続きますように。

翌朝の庭園です。

気温は結構低い、路面は凍結しているでしょう。

西に向かいます。


 


 

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古代の工業製品は、この地で生まれた

2018-01-26 | 旅行記

ユダヤ教の旧約聖書、出(シュツ)エジプト記、前13世紀モーセの時代の頃・・・

この島国では縄文時代中期、ピラミッドではなく勾玉が(マガタマ)が生産されていたようです。

翡翠などの素材を精密加工して孔も加工する産業がこの地にあったようです。

ここは人気の神社のようです。

広い駐車場の片隅に、ポツンと1台駐車があった。その近くに車を停め、正面の鳥居をくぐり、左側に社務所がある。

明るい女性の方が何やら説明されています。

振り返ると・・・こんな雪景色です。

神社のマークが・・・Tamatsukuriyu Shrine と記されています。

日本語は訓読みです。玉作湯神社

ここが目的地だったようです。

何か社務所で購入し、この階段を登り本殿へ参拝します。

階段は、大木に雪もさえぎられて積雪が少なく登るのに問題はなかった。

これが拝殿、すっきりした神社で歴史が感じられます。

右側に目を移すと高床式のような古い建物が・・・屋根が若干カーブしているので出雲大社の流れ、大社造りでしょう。

入手したパンフレットでは、玉宮神社と思われます。

取り囲むようにに澤玉神社、福徳神社、稲荷神社などがあります。

拝殿の左側から本殿の裏手にまわってみましょう。

湯姫大明神や金毘羅神社があり、裏側の広場に面白いものがありました、

さらに裏側の右手の山側に沿って・・・少し進みますと、先程の面白いものが左手に見えます。

正面の看板が 玉作湯神社・・・保存 御假殿建立之御座 と書かれています。

チョット分かり難いでしたか、左に戻ってみましょう。

床に土俵が造られていました。俵で円形に・・・本格的な土俵です。

遷宮時の土地でしょうか、この地で奉納相撲が盛んに行われたのでしょうか。

再度拝殿の右側に進むと、・・・この神社の人気の源がありました。

触って祈れば願いが叶うと言われる『願い石』です。山からは 御神水 が・・・

一周して、手水舎からの景観です。

・・・拝殿の右側で・・・願い石になにやら・・・作法があるのでしょうか

社務所で玉造湯神社祈願 願い石・叶い石 参拝手順の書 を発行されていました。

叶い石セット(600円)があるようです、社務所で依頼し受け取って来たようです。

この参拝手順の書に、お守りの作り方が記載されてあり、・・・略・・・叶い石を、本殿右横にある御神水で清め、大きな 願い石 に願いを心の中で唱えながら、清めた 叶い石 を直接触れさせるようです.

拝殿に戻りセットされていた願い札(複写)に願い事、住所、名前を書いて一枚は願い札入れに投函、(宮司さんが御祭神へとおとりつぎくださいます)

もう一枚は 叶い石 と共にお守り袋へ入れて・・・お守り ができあがる 

なるほど・・・願い石 叶い石 そして お守り よくできています。(願いが叶った叶い石は兼ねて御返納ください。お祓いいたします)とありました

歴史あるこの地で、このような楽しい行為は人気スポットになるはずです。

雪模様の夕刻30~40分間に3組が参拝、多分お守りも作られたのでしょう。

一部の有名な神社を除き、神社を維持するのが困難な時代になって来たようです。

宮司さんが少なくなった檀家に経済的な支援が期待できなくなたら、あとは神頼みでは・・・人心は離れます。

ここの神社のように、知恵を出し、駐車場の一角にボランティアさんが運営するおすそ分け茶屋があったり、玉造温泉全体で温かくなれるような・・・そんな街は人気になります。

・・・多分SNSなどで情報が拡散し、このようなパワースポット神社100か所制覇とか・・・神社巡りがブームになるような予感・・・

勾玉の地で、人々がいつの時代も自然界に宿る神を敬う・・・そんな風景に接してきました。

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雪の風景

2018-01-22 | 旅行記

成人の日に何故か大雪が降る確率が高い・・・ここ東京で、今年は1月22日朝から粉雪模様だった。

夕刻4:30、本日は早仕舞い、フロントガラス、屋根に積もった雪は10Cm位になったか・・・。

ノーマルタイヤの古いレクサス(乗用車)のドライバー、幹線道路を走るだけと・・・車で帰ったが・・・30分後に戻って来た。

信号3つ先の高低差3mくらいの上り坂が上れそうもなく、横のファミマに入れようとしたが、それも無理、必死でUターン・・・やっと戻って来たとのこと。

三鷹方面に帰る二人組、話を聞いて車での帰宅を断念、電車に変更する。

最初から電車と決めていた者と・・・合わせて4人を同乗させ、JR駅を経由して帰ることにした。

PM5:10過ぎ退社、通行量の少ない裏道を進み、川沿いを走り急坂を登ると10分位で大きな橋の麓にある信号に出る、

・・・急坂を登るから途中でスリップしたら、4人もいるから降りて押してね!・・・と軽い冗談、しかし、冗談が通じなかった。

大丈夫!・・・楽勝と言っても、・・・反対が出て、・・・やむをえず途中で右折しバス通りを走る。

10分もすると、大きな交差点、3車線の内、左車線に5~6台後に並んでいる後に続く、・・・信号2回変わっても動かない。

交差点を左折すると500mくらいで橋の信号、ナビはそこまで渋滞の表示が出ている。

直交する幹線道路は、橋まで片側3車線とも全く動く様子が無く、・・・中央側に車線を変更し交差点を斜め左に進路変更。

目的の一つ手前のJR駅に・・・ほどなく4人を送り届けた。

あちこちでハザードランプを点滅させて、動けない・・・困った連中がいた。

ノーマルタイヤは、道路の表面が白くなったらグリップ力無く・・・走行禁止だろう。

自由になったので渋滞している橋の下側を抜け、Uターンして別の急坂を上ろとすると、パトカーが・・・通行止め?

・・・坂上の信号手前でハザード点滅させ動けない貨物車がいた。

坂を上り、横をスリ抜け、信号が青になった、・・・坂道発進・・・

ここがAWSの安心できるところ、難なく上り終え橋に到達、・・・橋から先は40~50km/h 交通量は少なかった。

やがて5分も走ると片側3車線が、中央の車線に集約され、仮想一本道をダラダラ 20~30km/h で走っている。

視界が悪く、道路中央が安心するのだろう、パトライト点滅のパトカーも路肩に停車している。

自然に左端は積雪多く残り、右車線は中央分地帯から中途半端に空いていて積雪が多い。

・・・しょうがない、一番左車線をラッセルしながら・・・最低2車線にトレースし直す。

もうすぐ・・・1km先の立体交差の上道に乗り換えるのに、左折し側道を登る必要がある。交差点左には交番がある。

別段何のトラブルも無い所だが・・・何と立体交差の三か所も手前の信号から左車線に回送の都バスを含め・・・長くて動きの悪い渋滞車線ができていた。

・・・割り込まず中央車線を通り過ぎ、1km先を左折して裏通りを走ると、ここでも途中から渋滞、

2つ先の信号左折、その先の小さな登り坂から多分渋滞しているのだろうだろう・・・あきらめモード、

車窓を観察しよう・・・車道のわだちをフラフラしながら走る自転車、歩道を押しているバイク、道路上に故障か放置されたピザの配達車を囲む人

雑多な風景・・・渋滞30分後・・・PM7:00前、やっと到着。

・・・モノトーンの世界・・・モノクロ写真、モノクロTVから・・・情報量が飛躍的に増えた カラー の世界は刺激的です。

鮮烈な印象・・・カラーの極致 “紅葉”は、

玄関の右側に・・・レプリカのパネルがありました。

この「足立美術館」 目玉の作品です。

横山大観(ヨコヤマ タイカン) 、作品名:「紅葉(コウヨウ)」 163.3×361.0cm 昭和6年作といわれます。

昨秋、台風のため〝秋季展”に来れず季節が変わり、新春となり・・・実物(紅葉)は展示されていないでしょう。

では、パンフレットから 右側の正面入り口から緑の順路に沿って進みます、ガラス窓の通路をクランク状に進むと

通路角に貴重な明治、大正期の蒔絵工芸品などがありますが、庭園以外は撮影禁止でした。

❷から〝苔庭” 

さてどのような現実でしょう。

雪に覆われた苔庭です。乾燥し、ひび割れた苔庭は、あまり見たくないですが苔に水分は必要です。

この反対側は、・・・茶室の案内があります

いきなり、ここで時間を取られるのも・・・昼食前なので眺めるだけ

左下の小道を進むと左上に茶室の入口があります。

向き直って右側に進むと、この足立美術館の創設者、この土地生まれの足立全康氏の「案内する足立翁」の彫像が建っています。

その横の景観です。

少し寄ってみましょう・・・

トリミング って、楽しいですね。

❸のロビーに向かいます。

ここが庭園の "枯山水” 海外にも有名になっている言葉です。

大きなガラス越しに、手入れが行き届いた枯山水庭です。

近景、中景に四季を通して手を入れるのは当然、何と借景かと思える遠景まで買い上げた結果、

鉄塔も無く、山の手入れと植林を続け、赤松なども自前で補充もされているように聞いたことがありました。

6000円で2年間フリーパス、会員募集中!・・・年 数回来てみたい (参考 入館料 ¥2300-)

通路右側の喫茶室 翠 を通り過ぎると

❹生の額絵 コーナがあります

ガラス窓の枠を入れると、このような額縁の雰囲気に・・・

贅沢な時間が流れます。

➎亀鶴の滝

ボタボタと雪が降るので遠景はすべて白糸の滝のようです。

❻の "池庭” へ

こんなパノラマ風景です。

では、池庭に沿って竹垣があり、この画面の右側に古びた和室があります。

向こう側の庭園が、生の掛け軸として鑑賞できます。

右隣に進むと

畳がありますので、比較すると、非常に大きい掛け軸ではありますが、面白い発想ではあります。

軒下を回り、反対側に進む

❽ "白砂青松庭” この青松は残念でした。

墨絵からイメージを膨らまして・・・。

・・・この先2階に上がり 横山大観特別展示室 などを拝見しますが、池庭の横にある 喫茶室  大観 で

名物の島根和牛ビーフカレーでチョット休息を。

 ・・・

喫茶室  大観のガラス窓の外は

先程の 池庭 の池です。

燈籠、池には錦鯉

・・・先程の雪景色だった白砂青松は、・・・島根県のパンフレットでは、このように

手前の黒光りする石、水に濡れるとこの様に鮮やかに・・・(紅石は有名ですね)

横山大観の名作「白砂青松」(ハクサセイショウ)の持つ清澄なイメージを日本庭園で表現すべく造られた庭

・・・足立美術館のパンフレットには、このように鑑賞のポイントとして記載されています。

もう一点、枯山水も足立美術館の主庭、水を用いず山水の趣を表したものと案内されています。

絵葉書そのままの世界です。

・・・雪景色も・・・雪がやんで、翌朝青空が広がったら・・・想像してみよう

朝日に照らされた雪景色、気温が低いと素敵な写真が撮れそう、・・・昼、太陽が眩しい・・・雪を載せた枝から雫がしたたり落ちて、夕方、河川の一部が水溜りになり・・・

しかし、朝から・・・日本海に垂れ下がる鉛色の曇り空だったら・・・

それはそれで貴重な体験でしょう・・・日本の四季、移り変わる自然が溶け込んだこれだけの広大な世界、・・・その一瞬の時、感性で切り取る

樹木は芽摘みをし、葉透かしをし、容姿をあまり変えないように管理されている足立美術館、再訪したい・・・

本館2階、絵画、掛け軸、日本画など

横山大観特別展示室は、上のパンフレットにあるように、正面にドーンと紅葉が・・・ありませんでした。

龍躍る 昭和15年 81.0×119.5Cm (島根県のパンフレットより)など新春にふさわしい作品、が展示されていました。

横山大観の作品は、初期から晩年まで120点を所蔵されていて、展示予定表を参照され来館されますように。

河合玉堂(カワイギョクドウ)、伊東深水(イトウシンスイ)、平山郁夫(ヒラヤマイクオ)など有名人も多く展示されています。

日本画の知識は、ほとんど無いのでこれを機会に学びたいと思っていますが・・・。

1階に降りて、

喫茶室:翠(ミドリ)、抹茶1000円、ここで2時間・・・読書するのは・・・贅沢でしょうね

再度、ロビーで雪が積もった 枯山水庭 を鑑賞し・・・

上の画像の左手前(枠外)が❷の苔庭です。

右上が正面入り口です。ここから下図の案内図のように売店を経由して、正面入り口の右側の建物に進みます。

陶芸館、一階は地元の陶芸家、二階は有名な魯山人(ロサンジン)

北大路魯山人、明治の人です。料理、骨董、陶芸、書と有名です。

魯山人室では約250点の所蔵作品を、年4回に分けて公開とあります。

文化人は戦争の時代をどう生きたのか、そんな事も気になっていましたが・・・・美術品も撮影禁止なので、省略

戻って、地下通路(エレベータ有り)で、新館に向かいます。

2010年、開館40周年を機に新館がオープンしました。

新館の1階と2階に展示室があり、50号~200号サイズの現代日本画(平山郁夫さんの作品はもちろん現代日本画)が

50~150点も展示されていて、関心のある方は時間に余裕をもって来館されたし。

充分に満ち足りた4時間を過ごし、雪の降り続ける足立美術館の駐車場に足を運んだ。

そして、ナビのガイドで玉造温泉の某神社に向かったのでした。

アップダウンの多い山道でした。

車がAWSでは無いのは確か、FFでしょうか、スタッドレスは履いています。

シフトダウンを繰り返し、エンジンブレーキを多用してスリップを避け・・・夕暮れに到着。

 

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2018年 新春!雪国のドライブ

2018-01-14 | 旅行記

昨秋、本州直撃の大きな台風が連続して襲来したことがありました。

”紅葉”を鑑賞したかったが・・・急きょ旅行を断念し、行き先を北に変更したことがありました。

あれから・・・新年となり、急きょ再計画をしたところ、どうしたことか最大の寒波が襲ってきました。

自家用車で出発するのをあきらめ、向かった先がこの案内板・・・。

良し、何とか飛び立てそうだ・・・。が、気になるアナウンスが流れている・・・。

・・・鳥取空港が着陸できない場合は、大阪空港へ引き返し・・・着陸となります。

行ってみないと解らない、・・・羽田空港は快晴、とすると日本海側は多分大雪でしょう。

定刻にC滑走路を東京湾アクアラインに向かって離陸、雪景色の富士山を右に見て、・・・東京湾を左回りに周回し、

北上して、富士山を左に見ながら西に向かいます。

日本海が見えてきました、雲海が厚くなっているようです。

時速350kmの強力な向かい風で、到着が10分程度遅れますとのアナウンスが流れてきた。

真っ白な視界不良の世界から降下してくると、飛行場はミゾレ状態の天候に変わっていた。

若干遅れたが無事到着、空港内のレンタカー会社に直行、

スタッドレスタイヤ装着の予約車で、鬼太郎空港を後にし、ドライブに出発した。

ナビの案内を無視して、反対方向に進むと10分位で、中海に架かる大きな橋を渡る。

そして、振り返るとこの風景です。

前回は橋の麓、信号のある交差点付近からの撮影だったので、今回は離れた位置から望遠での撮影です。

有名な ”べた踏み坂” 融雪剤は蒔かれているでしょうが、もう少し気温が下がると通行止めでしょう。

こちら側が急斜面で、向こう側は緩斜面です。

では、一路本日の目的地に進みます。

途中からボタ雪になる中40~50分くらい走り、時間は12時40分到着、駐車場内の車はさすがに少ないようです。

重い水分を含んだ雪が結構積もっています。

道路を渡って、・・・この庭園美術館 入口左側の風景

そして、右側の風景

不幸中の幸い、大雪で入館者が少なくゆっくり観れるでしょう。

このような人気の庭園が続きます。・・・「別途整理中!」

・・・

そして、宍道湖の夕日をあきらめ、ナビを頼りに玉造温泉に向かう。

雪道と知らずに、ナビは最短距離の山道を・・・

左右の竹林の竹が雪の重みで道路上に所々倒れている、ポンピングブレーキで急減速。

松江市内に出かけるのを中止し、地元の郷土芸能と言えば

安来節、どぜうすくい

翌日、出雲大社に再訪する

前回は、夕刻突然の雹に降られたが・・・、

稲佐の浜は、砂粒が飛び交っていた。

そしてチューン規制の出ている高速道路を、太陽の出ている日中に走り

スキー場に到着しそうな・・・錯覚の中、約4時間後・・・瀬戸内海に・・・やっと降り立った。

・・・略、

翌日は、標高2000m・・・寺子屋スキー場の凍てつ風のような・・・青空が見えては粉雪が舞う・・・

厳冬の空気を裂いて向こう側に渡ります。

・・・サクラダ・ファミリアの整理が終わっていなかった。

仕事も溜まっていそう・・・、

1/15、気合を入れて・・・昼休みに30分、4kmジョギングして体調を整え、

今年もボチボチ、リズムを取り戻して、旧年同様にご覧戴いております皆様と共に本年も健康に過ごせますようにとお祈り申し上げました。

 

 

 

 



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新春ぶらり散歩

2018-01-03 | 日記

2018年 新年明けましておめでとうございます。

新年は、自宅でカウントダウンを聞いてから地元の神社に参拝に・・・

天候の悪化も無く、風も弱く・・・40~50分並んで参拝。

御福銭を頂き、少し冷えた体を甘酒を頂きながら焚火に当たり、無病息災を祈願して帰宅。

・・・

翌正月2日、家族を迎えに丸ビルへ、神田明神は相変わらず道路に行列ができていた。

仕事始めの1月4日は、会社関係者でさらに混雑することでしょう。

丸ビル・・・地下の駐車場に車を入れ、1階正面に・・・立派な門松、三菱地所が設置された伝統のソギ(斜めカット)スタイル。

”本日最後の(天皇陛下)お立ちが2時〇〇からあります” と言うようなアナウンスが聞こえてきた。

直ぐ先の皇居で一般参賀の日です、多くの人出があり、この丸ビルも本日から営業しているのでした。

・・・時間は2時30分、皇居に向かってみよう。

東京駅から真っすぐ皇居に向かうと直ぐに外堀通り、和田倉門の交差点、

ここから道路は規制を受けて皇居側には通行できない。・・・閉門 見かけない案内板があった。

歩道を100mくらい進むと、・・・内堀通りに達する。この皇居を周回する内堀通も・・・当然通行止め、向こうに気象庁、竹橋が見える。

・・・”どちらに行かれます?”・・・警官から質問を受け・・・”一般参賀は終わったようで、散歩です" と答え

一般参賀の人は、どこに並ぶのですか?・・・と警備の人に聞いてみた。

・・・”こちら、左側から進みます・・・、帰りは右側からになります” と目の前の交差点が、赤いコーンで仕切られていた。

他にはと聞くと ”向こうから並ぶと・・・あのテントで持ち物検査をして・・・” と、

左隣の二重橋側からのコース、・・・その先に道路を塞いで警備の車両が沢山駐車している、

そして皇居前広場に、持ち物検査のテントが並んでいた。

その先に・・・宮殿長和殿でしょうか、青天の空の下、日の丸の旗が翻っています。

一般参賀も終わり、警備の人も道路封鎖を解除する準備のようです。

・・・では帰ろうと振り向くと、・・・右側に懐かしい公園、そして広場があった。

このアスファルトの広い広場、人々が歩いている方向に進み、先の角を右に曲ると、外堀の石垣に沿って200mくらい直線が続きます。

逆に、向こうの馬場先門から外堀を渡って入ってきた所に、土日、臨時の受付が設置されて、自転車を無料で貸し出し、利用させてくれていた。

我が家の子供たちは、ここで週末に練習して、短期間に乗れるようになった懐かしい場所だった。

当時多分、財団法人が運営していて、昼前に大型貨物で自転車を運び込み夕方の回収まで利用できたと思ったが。

車で内堀り・外掘り通りは通り過ぎるばかりで、歩いてくることはほとんど無かったので、歩いてみるのも良いものでした。

・・・白鳥のシーズンです。

近くの三井物産前から、ひなが道路を渡るシーンが良く記事になっていました。

あれは、カルガモ親子だったか?

外堀から東京駅に向かうと、何か赤い小さな車が・・・ゴーカート?

最近よく見かける、観光客向けのレンタルカー、全国の繁華街を走り始めています。

普通免許でヘルメット無しで気軽に走れるようで、このように2列で話しながら走行し、車道を占有されると車のドライバーは、

無防備なこのようなカートが危なくて必要以上に離れて走り、渋滞にもなるし・・・左側車線を一列で走ってほしいのだが・・・

 

東京駅です。長い間駅前が工事中で、フェンスが立ち並んでいたので殺風景でしたが、やっと無くなりスッキリしました。

・・・駐車場から車を出し、銀座をドライブ・・・銀座は中央通りの2~4丁目、数寄屋橋東芝ビルなど・・・長い間通っていた場所です。

路上駐車を得意にしていた時代もあり、時には地下駐車場に入れてB1の待合室で商談したり・・・アゲインも懐かしく・・・。

こちらの門松は、寸胴タイプ、旧松坂屋と近隣のビルが昨春に大型ビルGINZA SIXに

・・・旧名古屋資本も大丸松坂屋から・・・新ビルになって、新会社はどちらの資本か?

ここは2回目だが、デパートもテナントビルも、主要客層はファッションに敏感な女性でしょう

流行を創り出し、最新トレンドの言葉で誘惑し、イメージ戦略に最大の投資を行う、ご苦労が多い美容・ファッション業界です。

原価はどの位でしょう、半値、八掛け」、2割引きは呉服業界でしたか?

薬九層倍、そんな言葉もありました、1階の目立つ売り場は化粧品でしたが、ここではB1が化粧品売り場です。

美容部員を化粧品メーカーが抱え、対面販売で高額商品を販売する従来からの戦略に対し、商品の説明を聞かずに購入する人は50%引きとされたらフェアと思うのですが。

・・・福袋に相変わらず行列ができ、いらないものはネットで処分とか、一方で物を持たない生活など価値観が多少変わりつつあるようですが

ブラブラしていると・・・上層階から賑やかな音が聞こえてきました。

景気が良いのはロボット業界、制御関連、電子部品など生産が追いつかない分野もありますが、製造業でも濃淡が多いようです。

小売店業界は・・・外人観光客に頼る・・・そうでした国策ですが・・・優秀な商品 Made in Japan の品質問題 劣化の傾向を止められるか・・・。

マア、景気も・・・気の持ちよう、

GINZA SIX から、新春 幸多かれとお祈り申し上げます。

 

 

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大晦日

2017-12-31 | まち歩き

師走、あっと言う間に大晦日、・・・東京は寒い一日になりそうと・・・予報が出ていた。

チラホラ白い物が舞っているような・・・気温は数度、・・・今年は蟹、イクラ、大根などが例年より相当値上がりしているようです。

久し振りにのぞいてみました。

そうです、アメ横!、・・・年末の風物詩も最近は築地市場に人気が移ったようですが、どうでしょうか。

11時前、周辺の飲食店が開店するのを待つ人の列があちこちに・・・キャリアバッグを引く人達が結構目立つ。

団体客も見かける。

かに、蟹、肩ブロック、相当残っているようですが・・・

右側から呼び込みの声、

ケバブ・・・アラブ、中近東、イラン、トルコ・・・上野公園は1980年代からイラン人たちが多く集まり

その流れもあったのですが、・・・カレーの匂いも漂ってきて、インド、朝鮮の人たちも結構多い。

センター街の中を抜け

これらの値札板は複数用意されていて、すぐに更に安い2枚目がでてきたのですが・・・

観光客が六割とか、・・・冷凍品を買う客は、少なくなってもしょうがないか?

こんなとこにも、観光客に依存し始めた日本が見えてきた。

この先、右側に外人旅行客向けファストフードの飲食店が並んでいるのに、違和感を覚えた。

お茶屋、海産物、そしてジーンズ、アクセサリーショップ、化粧品、

中田商店は変わらず、・・・

400年の歴史を持つお寺に・・・

階段の上、境内の右側に・・・京浜東北線が横を走り・・・・右が、鐘楼、除夜の鐘がもうすぐ、・・・

そして、御徒町に吉池あり・・・新装なって

魚館・・・横長になってから・・・入口が狭い、

レジの行列とその横を店内に入る人混みの列、その横にアワビや伊勢エビが並ぶので大渋滞。

ダメ、買い物をアキラメUターンで出口に必死に戻り・・・年末を体感してきました。

どうぞようお年を!

 

 

 

 

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贖罪教会とは?

2017-12-16 | 旅行記

バルセロナ・・・スペイン観光で人気No.1の都市のようです。

・・・12月22日、日本(TOKYO)・・・朝からカタルーニャ自治州で(現地21日)実施された州議会選挙の速報が流れていました。

2か月ほど前、憲法裁判所が住民投票を違法として選挙妨害したが・・・カタルーニャ州が住民投票の結果、得票率は50%以下でしたが

得票の90%が独立を支持し、10月27日、ここバルセロナのあるカタルーニャ州がカタルーニャ共和国として・・・一方的に独立宣言しました。

・・・スペイン政府のラホイ首相、カタルーニャ自治州議会を解散させ、関係者を逮捕、しかし州首相らはベルギーに逃亡・・・

議決したにっくき議会議員の再選挙が、12/21でした。

独立派を押さえ込めるだろうと選挙を実施した結果、ラホイ首相の国民党は大敗、独立支持派が過半数を獲得したニュースでした。

予想された結果のようで、EU諸国はスペインの国内問題とカタルーニャ共和国の独立を承認することは無いようです。

混乱状態が続くでしょうが、再度独立宣言しても効果は無く・・・内戦にはならないので、州の不満は国政を変えることができるでしょうか?

・・・地中海に面し北上すれば、すぐにフランス、・・・モンペリエ、アヴィニヨン、マルセイユにも近く、

この地域は今回の選挙結果のように、世代交代が進んだとはいえ独立運動が続く独自の文化・歴史を持った都市です。

その観光資源の重量な一角を占めるのが、完成が近づいて来たカトリック教の教会・サグラダ・ファミリアです。

El Temple Expiatori de la Sagrada Família、聖家族贖罪教会と訳されるようですが・・・

贖罪(ショクザイ)?広辞苑では、①体刑に服する代わりに、財物を差し出して罪過を許されること。

⓶自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果たしたとする。

和解。赦し。とあります。

サグラダ・ファミリアは、どのような経過をたどって建設が始まったのでしょうか・・・

・・・まずはこの地、バルセロナを考えると・・・アテネに至る地中海を支配していた全盛期がありました、確か アラゴン連合王国の時代 12世紀から14世紀でしょう。

15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国で統一王朝となり、スペインの首都がマドリードになると、この地バルセロナは衰退が始まります。

・・・サグラダ・ファミリア ガイドブックには、下記のような記述が・・・

スペイン継承戦争(1701~1714年)では、バルセロナの包囲戦が三度も起こり、フェリペ5世が反乱を起こしたバルセロナを処罰、商業地区の半分を取り壊して城塞を建設しました。

その後・・・19世紀に産業革命が起こり、産業が発展すると、この街でも人口が増加して市域の拡張が必要となります、今から約160年ちょっと前

軍事的理由から建物の建築が禁止されていた山裾が開放され、1854年から56年に城塞は都市公園になり城壁が除去され、都市計画で道路が整然と走る現在の形になりました。

現在の鳥瞰図を、グーグルの画像から見てみましょう。

城壁は結構海岸近くまであったことが解ります。

都市計画の新たな区画で、一番安価な土地には果樹園とヤギの楽園があったようです。

・・・聖ヨセフ信仰者協会のボカベージャ会長が、この新たな区画の中央で聖家族に献納する寺院を建立したいと考えていました。

”聖家族?”  集まった寄付金は170,000ペセタ(当時の価値が分からないが)。

しかし、中央部はもちろん条件の良い土地は非常に高価だった。かろうじて都市計画の区画内で一番安価な土地が購入できた。

この土地にボカベージャ会長は、聖家族に捧げる贖罪寺院を貧しい人々のために建立しようと、教区の設計者に依頼します。

上の人物が、ボカベージャ会長、聖堂の地下博物館に展示されています。

”贖罪寺院?” 贖罪(寄付金)で建てるとすると、建築費は?土地代で消えたのでは?、免罪符でも発行したのでしょうか・・・

1882年着工、早速ゴシック様式の地下礼拝堂の建築に取り掛かかります。

しかし、無報酬で仕事を引き受けていた設計者は、ボカベージャ会長と意見が対立し半年で辞職することになります。

ガイドブックの写真を紹介します。

この方が無報酬で引き受けた設計者、ビジャールとそのデッサン、端正なゴシック調の教会です。

設計図を提示し、建設費、工期も関係者に説明されたことでしょう、

対立した理由は分かりませんが・・・贖罪寺院なのにもっと豪華な大聖堂に設計変更を要求したのか、それとも資材費や作業者の工賃未払い?

困った・・・有名な建築家に後任を相談すると、自分の弟子で地元出身のガウディを推薦された、そこで、彼に設計を依頼することになりました。

1883年、アントニー・ガウディ(31歳)が就任します。

・・・この時期、日本では文明開化・鹿鳴館が完成し、官軍出身の貴族が湯水のように国費を散在していたころです。

ガウディは、21歳でバルセロナの建築学校に入学、26歳で卒業しています。

彼は家業の銅細工の血筋でしょうか、学生時代、アール・ヌーヴォ(自然界の動植物の形状に見られるような曲線を多用した、凝ったデザイン?)に共鳴し、

・・・評価の分かれる作品が多かったようです。

まもなくパリ万博に出店した企業のショーケースを製作し、この作品が富豪の繊維会社経営者、エウセビオ・グエルの目にとまり、以後40年近くパトロンとして支援を受けます。

・・・さて、サクラダ・ファミリアの東西の配置を見てみましょう。

碁盤の目状のブロックは、海岸から北西に一直線、区画の右下が東、左上が西(多くは、こちらが入口ファサード側)ですが・・・、

前任者が地下に礼拝堂を着工していた・・・迫害されていたキリスト教徒たちは墓を洞窟や家の地下に隠していた歴史が影響しているのでしょうか、

ガウディは前任者の様式を引き継いで、地下礼拝堂を完成させます。

下の写真は1886年、「聖ヨセフの伝道者」に掲載されたものとガイドブックにあります。

7つの礼拝室があり円形で、中央がカトリック教会の守護聖人聖ヨセフに献納、

ガイドブックから中央祭壇です

さらに聖体、聖母カルメンの礼拝室、聖母マリアの無原罪の御宿りの礼拝室、聖心の礼拝室

(聖家族)・・・聖母崇拝、聖書・福音書に目立った記述は無いが、トゥレントの公会議で相当な拡張を見せ、

聖母の処女性の教義がカトリック教徒に大歓喜をもって受け入れられ、聖母崇拝は19世紀にその絶頂期を迎える。

・・・とガイドブックにも説明されてあるように、聖母はいつのまにかファンタジーの世界へと拡大解釈。

ガウディは宗教には関心が薄かったようですが、教会建設のモチーフは旧約聖書、新約聖書の物語、登場人物です。

名場面の人物描写は重要です、・・・やがて聖母の熱心な崇拝者となり、この地下礼拝堂の聖母の下に埋葬を望みます。

・・・丸天井に穴を開け光と空気が入るように変更し着工から9年後、1891年完成させます。

この間に当然施主?(ボカベージャ会長)にガウディは、完成予想図を説明していることでしょう。

ガイドブックから、ガウディのサグラダ・ファミリアのデッサンです。

前任者の優秀な実務派に対して、このデッサンを見せられたら・・・、

スゴイデスネ!、・・・完成はいつごろになりますか? と聞くのは、多分、芸術に理解の無い者なのでしょう

しかし、説明は求めたでしょうね、あなたが生存中にどの位まで完成できます?

完成まで500年も掛かった大聖堂はいくつもあります。

・・・この地には既に14世紀、海の大聖堂「サンタ・マリア・デル・マル」が有力な商人や船主により建立されていた。

さらに、ラ・セウと呼ばれバルセロナ大司教座が置かれている「サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂」

があり、長い歴史を持ち、現在の建物は15世紀のゴシック様式で建てられています。

・・・何と、大聖堂が二つも存在していたのです。

聖ヨセフ信仰者協会のボカベージャ会長は、”三つ目の壮大な大聖堂を建てましょう、贖罪で何とかなるでしょう、

あなたと共に、延々と夢を追いかけましょうか・・・” とでも言ったのでしょうか? 何が契約されたのでしょうか?

上の写真、右側のガウディは、1878年26歳で建築学校を卒業したころとありました。

ダンディなガウディは、上等なスーツにシルクハット、馬車に乗ってやってきて、馬車から指示をしていたとあります。

この写真は、・・・はしごで上階に登り・・・視察?  いや、はしごの位置が悪く、登り難いでしょう

これは、資材の強度試験をしている、・・・その監督をしている際の写真のようです。

建造物は複雑な意匠です、ガウディは図面で説明、指示をするよりも、実験を繰り返し、模型を作り、模型で指示をするので

新しい試みの構造体を採用するには、長い間実験を繰り返すことが続き、工期は遅れに遅れ、建築現場は混乱したことでしょう。

これは、今日でも聖堂の地下でこのように模型を造ったり、作業の検討中。

・・・さて、教会の全体図は・・・多くの教会のように西にファサード(正面出入口)、後陣(主祭壇)は朝日の当たる東に置きたい、

この教会は、南北にもさらにファサードと考えたようですが、地下礼拝堂の方位が、ガウディの東西構想とはズレが起きていた。

・・・地下礼拝堂の天上(地上部)の位置は敷地の北西側になるが、ここに後陣を建てることにし、ここにも7つの礼拝室を設けています。

後陣の外観が建ち上がり、全体像が見えてきた写真があります。

手前にガウディが乗ってきたのでしょう馬車が見えます、1892頃の写真

後陣は地下礼拝堂と同じく前任者のゴシック様式を引き継ぎ、1893年完成します。

後陣の左右2か所に螺旋階段を造り、地下礼拝堂とつながりました。

将来、後陣の上には超高層のドームが建立され、聖母被昇天がモチーフの回廊の門と一体になって聖母崇拝が完成します。

  

エル・グレコ ”無原罪の御宿り” ・・・ガウディは聖母崇拝でしたから、完成形はどのようになるのか注目です。 

後陣が北西に向いたので、残りの三方向にファサードが計画されます。

南東(後陣の正面)に栄光のファサード、そして朝日が差し込む北東(東側)に生誕のファサード、南西(西側)に受難のファサード

受難の物語より、生誕が人々には好感を持たれるでしょう、生誕のファサード側の建築が進みます。

1904年頃の風景です。

着工から約20年後でも確かに多くのヤギの群れが見えます・・・、大きな塔が何本も、糸杉のように立ち上ってきました。

大きな歯車のウィンチらしきものや、チェーンの滑車、クレーン?などが、のどかな田園に異様な塔を建てています。

・・・ガウディが、生誕のファサードに取り掛かったころ、現在の案と違いかなり質素なデザインだったようです。

ところが(建ち上がって来た後陣を見たのでしょう・・・聖母マリアのような女性が現れたようです)

60,000ドゥーロを寄付する者が現れ、その後さらに、70,000ドゥーロの寄付を受けました。(140,000ドゥーロとの説も)

これらの寄付が無ければ、1883年にバルセロナ司教に任命されたカタラー博士が他の目的に資金を使っていただろう。

この寄付を受けて、状況は一変したようです。

可能な限りの費用を注ぎ込むよう、ボカベージャの娘婿の理事から指示が出されました。

・・・この寄付で生誕の門と1年間に渡り12人の大工で造る石膏の飾り迫縁の型代、計20,000ドゥーロの支払いができたそうです。

この女神の名はイサベル、名前以外は何も残されていないと言われています。

これが生誕のファサード完成図です。


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バルセロナへ

2017-11-30 | 旅行記

1917年12月6日 、驚くニュースが流れてきました。フェイクニュース? でもなさそうで・・・

・・・いや、何か衝撃的な話題を発表して、・・・注目をそらす意図があるのでしょうか、

エルサレムをイスラエルの首都と認めると・・・あのトランプ氏が宣言した

パレスチナ人を武力で追い出して、流浪のユダヤ人にイスラエルを建国させ、軍事力を提供して

イスラエルが国連を無視して武力で国土を拡大するのを助け、今日までイスラエル国内のパレスチナ人を差別し支配し続けた国家です。

・・・神話に登場する三大宗教の聖地があるのが「エルサレム」、聖地はパレスチナ側にあり、この地は管理された状態にあった。

世界最強国大統領がこの地をイスラエルの首都と承認し、パレスチナ(イスラム教徒)の迫害に一歩踏み出した。

・・・この身勝手な一言で、パレスチナの元住民は今後どのような行動に走るのか・・・

トランプ氏の身内にロシア疑惑が迫って来て・・・マスコミの追及を避ける必要に迫られ、焦った挙句に反対を押し切って決断したのでしょうか・・・。

競争社会を勝ち抜いた欧米人の勝ち組、一部のエリート連中の傲慢さを改めて感じ、彼らにかき回されないように気をつけないと。

・・・宗教戦争の側面もあり、歴史に禍根を残す世界規模の紛争とならないように祈るばかりです。

ユダヤグループに恩返しと・・・そろばん勘定で、USAの大統領が国際世論を敵に回して・・・この先勝ち目はあるのか、

この結果、USAと優柔不断な日本の地盤沈下は速度を増すでしょう・・・困ったことです。

・・・エルサレムは10番目くらいに訪問したい都市でしたが・・・当面旅行禁止でしょう・暗黒の日々にならないように

日が沈む・・・もうすぐ冬至・・・、

・・・ここバレンシアにも日が沈む・・・

・・・そして、・・・早朝の散歩

カラフルな公園です。もうすぐ幼児の歓声が聞こえてくるでしょう、

通りに、通勤の人々がチラホラと見かける時間帯となりました。

・・・ホテルに戻り朝食の時間・・・、そして・・・地球海沿岸部を北上します。

これは、何でしょう。西洋タンポポ?・・・楕円形の落とし物があります。

この状態は、落ちてから時間が経っているようです。梅やクルミと同じく緑のカバーがあったのでしょうが・・・。

何の木の実でしょうか。

この状態で日本のスーパーでも売っています。

真上に薄紅色の花が咲いていました。

葉が伸びる前に花が咲いて、桜のようです。

これが、アーモンドの花、

少し色が濃いタイプも、花が終わって葉が伸びてきています。

アーモンドはここ数年、昼食時持参するサラダのトッピングに欠かさないようにしています。

ビタミンE、ビタミンB2が豊富で、クルミと共に重宝しています。

・・・地中海沿岸部の有料道路を走り続け、・・・やがてスピードダウン・・・ゲートが見えてきました。

ゲートを抜けて・・・トンネルも結構ありますが・・・もう少しでしょう。

高速道路の進行方向が開けてきました、やっと目的地バルセロナに近づいたようです。

案内板が、カステイダフェルスを表示しました。

 ここでC-31に降りて、海岸線を走るようです。

中心部から10数kmほど手前でしょう。

国際空港を過ぎ・・・臨海地帯に入る、やはりコンテナを運ぶトレーラーが結構多い。

左側の崖の上は、港が見える見晴らしの良い展望台、ムンジュイック城跡や公園などもあります。

右側の臨海部の先、長い桟橋に豪華客船が停泊していました。

が、このアングルは殺風景でした、もうすぐバルセロナ旧市街です。

コロンブスの記念碑を通り、バルセロナ動物園の先を海岸方向に右折

マリナ通り、ヨットハーバー・・・この先右側の大きい地中海料理店で昼食です、

そして・・・ヤシの木の街路樹が並ぶ中心街を北西に一直線・・・

この建物は、新宿西口に、名古屋にも・・・しかしこれはちょっと違う、円錐状の建物のようです。

トーレ・アグバール、10年ほど前に完成した水道局の建物144.4m、38階建て、バルセロナで3番目の高さの建物のようです。

そして・・・見えて来てしまいました。突然前方に・・・

海岸から3km弱ですから・・・すぐ見えてきました。

工事中・・・仏塔のような建物が・・・

この地区には、こんな歴史を感じさせる建物もありました。

大きな円形の建物・・・青と白、トルコ、イスラム風のデザイン・・・

最近まで闘牛場として使われていた、モニュメンタル闘牛場、今日では、多目的に利用されているようです。

バスを降りて、チョット歩きます。

MESSIのユニフォーム・・・目立ちます。

I ♥ BARCELONA・・・

道路の右側の歩道を歩いて来ました。交差点の左斜め前方に巨大な建造物が現れました。

左側の面が、これから工事が本格化するブロックのようです。

仮設の建物が並んでいます・・・建設資材などがあるのでしょう。

右側の面は少し日陰になり始めていますが・・・結構仕上がっているようです。

横断歩道を渡ると道路の右側一角が公園です。・・・この大きな建造物から離れるように、公園の右側中程から公園内に入ります。

こちらからは逆光の時間帯です・・・朝日が昇る東側になります。

公園の池越しに、道路を隔てて工事中の巨大な建造物を見上げます。

これが「サグラダ・ファミリア」

・・・この教会は中世のカトリックの教会とは少し変わっているようです。

こちらの面が「生誕のファサード」と呼ばれています。

夜間にチョットした驚きもありましたが・・・後程。

 

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芸術科学都市その2

2017-11-13 | 旅行記

グーグルの画像から

60年前のバレンシアで・・・、トゥリア川が大洪水になり・・・結果、河川が付け替えになり、使いようのない長さ10kmの川底がここにありました。

後にここを利用する計画が提案され・・・、水面から顔を出したようなプラネタリウムやオペラハウス、科学博物館など個性のある建造物を中心とした再開発案です。

政府も35万㎡のこの土地活用を許可します。そして、・・・この地に2kmに渡って芸術科学都市が建設されました。。

・・・提案し基本設計をしたのがここバレンシア生まれのサンティアゴ・カラトラバ(Santiago Calatrava)、彼は、構造計算、建築・土木・彫刻・画家とマルチの才能の持ち主。

1900年代中頃から工事に入り1998年 目玉の施設プラネタリウム/レミスフェリック(L'Hemisfèric)が完成します。

・・・ロータリーからの景観です。

大きいトンネル状の温室?、植物園でしょうか

バスから降りたところで、道路に面して謎の楕円形の窓が並んでいます・・・未来の人工都市、建造物、排気口?

道路の反対側から

🅿の看板、駐車場の案内です。すると・・・開口部は、駐車場の換気口のようです。

・・・案内板がありました。この案内板は鳥瞰図(上空からのレイアウト図のようです)

手前の、先程の巨大なアーチの骨格が連なるトンネル内は・・・広い、高い、・・・フェニックスなどの開放感のある並木道、

この下に900台収納できる駐車場などが配置されています。

道路から階段を駆け上がると、オッ!

かくれんぼ?、滑り台?気をつけて!

向こうに何やら、奇抜な構造物があるようです。

高架の上に、幅広な遊歩道が広がっていました。

向こうに見える半球上のツートンカラーの建物は、見る位置によって大きく表情が変わります。

これがヨーロッパ最大の水族館です。

・・・眼に飛び込んできたのが、建造物の手前に・・・人体のパーツが逆さ釣り。

向こうに立て看があります・・・

左上の写真の男性:1967年、ポルトガル、シントラのアナソスで生まれたROGÉRIO TIMÓTEO(ロジェリオ・ティモテオ)さんと書かれているようです。

世界各地で個展を開く彫刻家、・・・昨年末から半年間くらいこの地で展時会の最中のようです。

では、彼の作品を追ってみましょう。

何とも・・・、これは・・・背中のストレッチのポーズ?・・・ではないでしょう。

大きいことは良いことだ!そんなCMがありましたが、

脳みそ水平カットは、写真のトリミングでは有りですが

これは、そんなに違和感は無いポーズです。あん馬の一瞬

・・・タイトルを見てなかったので何とも・・・やはり、判り易いのは建築物です。

しかし、左右の建造物は骨組がやたら目立ちます。

反対側には・・・水面と接して・・・球体に変貌する?この施設が・・・基本設計をしたサンティアゴ・カラトラバ作の力作です。

レミスフェリック(L'Hemisfèric):芸術都市に、この施設が最初に造られ1998年4月開館しています。

プラネタリウムやIMAXシアター、など、最新のAVが楽しめます。13,000㎡ ・・・入場料金 :€7.50

水面に映った建物がもう少しよく見える位置に・・・この遊歩道をもう少し後ろに下がると・・・

シャープな効果が見られず・・・良い写真が無かったので、バレンシア観光協会の画像を借用しましょう。

 ライトアップされた夜間の光景で、水面の反対側・対角線上からの画像です。

水面を境界に・・・水鏡効果がうまく生かされて・・・撮影スポット、このような位置を探したくなります。

・・・では、隣の恐竜の骨のような3階建ての建物は、2年後に完成しています・・・

フェリペ王子科学博物館(El Museu de les Ciències Príncipe Felipe) 40,000㎡・・・・・・入場料金 :€7.50

これも観光協会からの画像です

人工池の効果で迫力が倍増します。

この博物館は、40,000㎡ と先程のレミスフェリックの3倍の広さです。・・・入場料金 :€7.50

・・・もう一人気になる先輩のデザイナーの作品があります。

コンクリートの建造物で、スペインが生んだ有名な建築家が、この地にヨーロッパNo.1の水族館を設計しています。

1910年マドリード生まれ、フェリックス・キャンデラ、スペインで建築を学びドイツ留学寸前にスペインの内戦が勃発。

彼は反乱軍フランコの敵側に味方し・・・フランコの勝利で、・・・祖国を捨てメキシコに移住しています。

紆余曲折の後40歳で、建築法規・余り制約が無かったのでしょう実験的な建物を建てています。

何と厚さ1.5cm~4Cm程度の湾曲した型枠にコンクリートを流し込んで、・・・貝殻のようなシュル構造の建物を発表しています。

この地で高齢にもかかわらず・・・優美な外観の水族館を設計しています。

オセアノグラフィック  L'Oceanogràfic 100,000㎡と屋外施設も広大です。 

このようなアングルには、水族館の屋外施設の外側まで足を延ばす必要があります。

画像は Wikipedia より

 入場料金 :€23.30 高齢のフェリックス・キャンデラ Félix Candela さんは87歳で1997年亡くなっています。

このような双曲線の建物を数多く残しています。

・・・2005年10月9日、最後に完成したサンティアゴ・カラトラバの作品が、オペラハウスなどのソフィア王妃芸術宮殿(Palacio de las Artes Reina Sofia)

見る角度でイメージが異なる印象的なデザインです。

・・・このオペラハウスなどの公演は、1年後にやっと開演しています。

いかがですか、素晴らしいデザインです。

許可されないでしょうが、ドローンにカメラを積んで一周させたい・・・そんな被写体です。

個性的な作品を造りたいと思うデザイナーは数多くいますが・・・コンペで採用されても国立競技場のように建設コストが膨大に膨らみそう、

納期までに完成するかが不安・・・新技術でゼネコンの力量が・・・などと、クリアすべき難問が発生し、完成できる人は少数でしょう。

・・・この芸術科学都市、確か当初予算が総工費200億円、しかし政権が交代すると何かと政治力で変更になる。

気が付けば1500億円、完成した後スペイン第二位の人気スポットになり大成功と浮かれていたら、

最後に完成したソフィア王妃芸術宮殿の外壁に亀裂が入り始めた。

完成後8年で劣化し始めた?・・・設計の問題か、施工業者の問題か、不良資材を使用した?

騒ぎになりヒーローの建築家も、マスコミ、市民から・・・カラトバの設計等の支払い150億円(10%)は取り過ぎだ!と・・・。

・・・税金で造られた建造物は、市民の目が厳しいようです。

ヨーロッパの建築物は、中世9~12cのロマネスク、12c~ゴシックと世界遺産の観光地ではそのような建築様式の話題になります。

しかし、今日的なあるいは近未来的なこのような建造物を見ていると、ロマネスクは響きは良いが、キリスト教が科学を嫌った結果、長年倉庫のような建物しかできなかった。

・・・キリストが生まれる前に、既にローマにはこの様な建物が多神教の神殿として崇められていた。

紀元前25年建設、80年後火災で焼失、125年再建されています。

正面の円柱は16本、高さ12.5m、内部は巨大な円筒の聖堂、直径、高さ共に43.2m

壁の厚さは6m、最上部は1.5m、火山灰なども利用したコンクリート製、上部に行くほど軽量な素材で積みあがっています。

天井は直径9mの丸穴開口部から、日の光が差し込みます。

・・・娯楽?施設もあります。

西ローマ帝国が滅亡するとキリスト教世界では、技術革新の時間が止まります。

動き出すのは・・・十字軍の遠征帰りまで待つ必要がありました。

 

 

 

 

 

 

 

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芸術都市 バレンシア

2017-10-31 | 旅行記

 

スペインのニュースが連日流れてきます。

ご存じの通りスペインの北東部、フランスに接し地中海に面したカタルーニャ州が震源地。

国に対し10年前から自治権の拡大闘争をしてきた結果、ついに独立を宣言しました。

・・・しかし、住民投票から独立宣言まで突っ走った感じですが、関係者は誰もすんなり独立できるとは考えていなかったでしょう。

対するスペイン政府は、当然・・・州の自治権を停止し、州政府の首相、幹部を解任し、州警察も指揮下に置き関係者を反逆罪に問うとしています。

・・・その後、ベルギーに脱出した首相以下関係者に・・・欧州逮捕状が出て・・・ベルギーでカタルーニャ州政府の首相と州の元幹部が出頭、

11/5、身柄をベルギー司法当局が拘束と大きなニュースになりました。

この後が気になりますが・・・、ベルギーの検察当局が5人を翌6日条件付きで釈放していますが、ほとんどニュースにはなりませんでした。

12/21に設定された州議会選挙までこう着状況が続くのでしょうか・・・。

プッチダモン前首相は独立支持派の比例名簿1位で選挙に立候補するようですが・・・。

・・・闘牛の国でもあり、陽気な明るいラテン民族ですが暗い時代が近年でもあったようです。

1936年スペインは内戦に入り、混乱・・・軍人のフランコ総統の反乱軍が勝利し・・・・、独裁政治になります。

この状態が・・・1975年のフランコ総統が死去するまで続き、フランコ死去後カタルーニャの人々はタルーニャ語が話せるようになり自治件も回復しました。

しかし、時の流れカタルーニャ州でもカタルーニャ語を母国語にする方は30から40%と言われ、独立支持は最近の世論調査で49%。

このカタルーニャ州は、面積ではスペイン全体の6%、しかし人口では16%、GDPの貢献度は20%・・・豊かな州といわれます。

州都のバルセロナは、都市のランクがスペイン第2位:人口160万人(2011年)そして、・・・サクラダファミリアがありました。

・・・60億円がクラブから、その他の収入が32億円と(昨年の年棒)桁外れのスター・・・リオネル・メッシ(アルゼンチン代表)が在籍しているのがサッカーの FCバルセロナ

では、都市のランク第1位といえば、当然首都のマドリード:人口326万人(2011年)

・・・クラブから63億円、その他の収入が36億円(昨年の年棒)のクリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル代表)の所属する レアル・マドリード があります。

FCバルセロナとは宿命のライバルチームです。

これらの都市には他のチームもありますが、上記の対戦は想像以上に地元民がヒートアップし、サッカーが代理戦争のようです。

 

・・・話は飛んで、11/4(土)昼、湯島天神の菊まつり(第39回 11/1日~23日)に知人と出かけました。

久し振りの湯島天神、七五三のお参りの人々も多いようです。

10月中旬から台風が続き、雨の日が多かったので、菊の開花調節は難しかったでしょう。

「菊まつりの案内」には、菊人形、千輪咲、大懸崖、盆栽など2000株が展示されているとあります。

本殿前は大懸崖が・・・いい塩梅に咲いていました。

今年の菊人形は・・・NHK大河ドラマの主人公です。

・・・ 午後1時から「菊まつり記念講演」が参集殿であり(湯島天満宮崇敬会)、講師が日本で活躍されているルーシーさんです。

本名:ルース・マリー・ジャーマンさん(米国、ハワイ育ち、1988年東京新橋のリクルートに入社、日本人との間に2児の母)。

演題、「やっぱりすごいよ、日本人」(同名の出版もされている)、自身の体験を通し、日本人は国際化にどう対応していくかを楽しく熱弁されました。

 画像は、著書の発行元 あさ出版関連より

・・・講師ルーシーさんの話では、日本に長期滞在する外国人は約600人

・・・彼らには、すっかり日本人の模範的なマナーが見についている人々が多いそうです・・・(名刺の出し方から・・・整然と整列して並ぶetc.)

話は、日本の観光立国を目指す件に、・・・詳しい説明はなかったが、ご自身も政府の推進委員会などに関係されているのでしょう。

・・国の資料を調べてみると、2006年12月 観光立国推進基本法が成立、2008年10月観光庁設置、

2014年6月「観光立国実現に向けたアクション・プログラム2014」決定

「2020年に向けて、訪日外国人旅行者数2000万人の高みを目指す」ことを明記しました。

ルーシさんの会社のデータでは、2013年訪日外国人旅行者数は、1000万人、翌2014年は40%UPの1400万人、

さらに2015年は36%UPの1900万人、昨年は26%UPの2400万人・・・

何と4年も早くも2000万人を突破して、今年は(2017年)3000万人の予想に修正とか。

国は、なぜ目標値と実績がこれほど大幅にズレたのか、要因を説明しているでしょうか?・・・。

達成してもしなくても、責任が伴わない単なる目標ですから、・・・

新たな目標が、東京オリンピックの2020年までに、当初目標の2倍、4000万人とすると発表しています。

更にルーシーさんの話によると、猛スピードの国際化は今後の見通しを・・・

(全国で宿泊可能な容量は充分有る・・・、受入れる体制は大丈夫として)

・・・2030年には何と6000万人の外国人を呼び込もうと目標を修正しました。

調べてみましょう・・・「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」議長:安倍晋三首相、2016/3/30 政府発表:

「訪日外国人数を「2020年に2000万人、30年に3000万人」から「2020年に4000万人、30年に6000万人」に大幅に上積、受け入れ環境の整備も急ぐ。

・・・ところで・・・スペインも観光立国を目指していました、観光立国世界一は?・・・日本は何位でしょう。

2016年、世界一の観光立国、外国人旅行客年間 8,260万人の国とは・・・?

 

マウンテンバイクの POLICE です。

”繁盛してる?” ・・・雰囲気が違うようです・・・中央の女性・・浮かぬ顔

右は婦警さん、切符を切っているのでしょうか

ここは有名な観光地、無許可販売? でしょうか

・・・この広場の下、川の近くに有名な塔が建っています、・・・夜のセーヌ川からの光景が

首都、パリです。

世界No.1の観光立国はフランスです。

では、どこの国からの旅行客が1番多いのでしょうか

・・・日本、中国、アメリカ、サウジ?・・・意外でした・・・リピータが多く、日帰り客も多い英国が1番とのこと。

では、第2位の観光立国は、・・・アメリカが・・・7,747万人

僅差の第3位が、スペインです。7,556万人、やはりスペインは健闘していました。

4位が中国、5,927万人、

5位が世界遺産の多いイタリア、5,237万人

日本は第16位、2,403万人(アジアで6位)でした。大幅に伸びて、2400万人達成してこの順位です。

・・・2030年に日本は、総人口1億人位でしょう、年間6000万人の訪日外国人旅行者を国を挙げて歓迎します・・おもてなしと!

世界でも不思議な国、第2言語の英語が通用しにくい日本で、訪日外国人の言語の壁対策は?

 何とかなりそう?

旅行客が出会う確率の高いコンビニ、レストラン、居酒屋、旅館・・・サービス業に今日でも多くの外国人が働いています。

講演者のルーシさんは、これらの情報が、フェイスブックや旅行業界で流れているので、

外人の店員と、旅行者が共に第2外国語(英語)でコミュニケーションが取れる状況になってきたと話されます。

・・・ルーシさんが来日間もない1989年頃の話を・・・

ハンバーグを購入しに、・・・新橋駅前のマクドナルドに入ると店員に ”外国人” と叫ばれたそうです。

今日、同じ新橋のマクドナルドに行くと、インド人が流ちょうな日本語で応対をされているそうです。

インド人は第2外国語の英語とさらに日本語も使いこなしています。

訪日外国人旅行者にとっては、接客業などのサービス産業で外国人が働くことにより、英語でコミュニケーションがとれると・・・変わって来たようです。

・・・ルーシさんが育ったハワイでは、戦後は ドールバナナサトウキビ が主要な産業だったそうです。

1959年アメリカの50州目に組み込まれるとアメリカのルールが適用され・・・最低賃金も本土並みになり・・・農産品からの変革が求められた。

目指したのが観光立国・・・戸惑いからウェルカム、当時おおよそ年間10万人位の観光客が・・・数年後から急激に伸びていきます。

ルーシーさん10歳の1976年、1$=326円の頃には・・・スーツ姿の日本人(研修?)旅行客は上得意客になっていきます。

観光客は300万人目前になり、観光収入も5000万$を越え10年で5倍と急成長以後順調に伸びていきます。

日本語専門のTV放送局が開局され、ルーシさんは日本のアニメ(〇〇レインジャー)で日本のファンに。

以降1990年頃まで急激に観光客と観光収入は伸びていきます。以後は景気変動で上下しながら・・・

現在はハワイの人口150万人に対し、観光客は年間700~800万人で推移しています。(アメリカ全体の10%を占めています)

・・・では、ハワイに訪れる人が多いのは・・・、アメリカ西海岸が圧倒的に多く、次いで東海岸、日本も続いているようです。

さて、各国が観光立国を目指す、日本も 2030年にトップ5に入ろうとしています。

観光収入で直接に潤う人々は、旅行代理店、旅行者の移動に伴う運送業、宿泊施設、飲食業、観光地商店街、物品販売、神社仏閣・祭事関連

 

普通に生活している人々の生活が観光客に好奇心で覗かれたら・・・迷惑ですし邪魔な存在です。

我々が観光で出かける先でも、異文化に関心があるわけで珍しい物にカメラを向けます。

ここ白川郷では住民と一体で積極的に観光客を呼び込んでおられるようですが、観光客を好き勝手にさせないで

地元に観光収入を落として頂くには、英語はもちろん中国語などの表示、音声ガイドなどで理解して頂く努力が重要でしょう。

・・・ルーシさんは、日本人は変わる必要はない、良い点を数多く上げられ、そして外国人と異なる点を楽しむようにと。

しかし、日本人は会話で・・・空気を読む、言葉少なくても顔色を察し、高度のハイコンタクトコミュニケーションを使う国民性です。

このようなコミュニケーション能力のすぐれた国の第二位は、メキシコだそうです。

最下位は、アメリカ合衆国、移民の国です。多くの人が第二外国語の英語でコミュニケーションをとっています。

・・・・強調されるのは、日本と同じような国は世界にありません!

ハイコンタクトコミュニケーションは外国人に誤解されやすいので、多少の説明力を期待されていました。

外人観光客は、誰もパーフェクトな英語を期待してない。

May I help You? 切符売り場などで、困っている旅行客を見つけたら・・・話しかけて下さい!

ペラペラペラ・・・と早口で言われたら、Just amoment Please.と言って、係員を呼んでください。

近くに誰もいなかったら?

Please repeat much more slowly. と言ってください。 ゆっくり話すと・・・そのスピードでもう一度話してくれます。

日本人はユックリ話されれば、話の中に固有名詞があれば大体意味は分かります。

・・・親切にされた印象が強く残り、旅行者同士の口コミで・・・訪日観光客が増えますと勧められました。

明るく、前向きで、行動的、話好きで楽しい、日本大好きなルーシーさんでした。

講演の後、御社殿で祭典式に参列され、玉串拝礼も一緒されました。

キリスト教とのことですが、日本人と結婚されていたので神道もOKだったのでしょう。

神仏習合の日本の歴史も御存じでしょうし、日本人の過半数が無宗教の国です。

その後参集殿で

宮司さんと若干お話しさせて戴きましたが、その隣のルーシさんにキリスト教以外の宗教について・・・聞くタイミングで無いので、またの機会に。

 しかし、アレヤコレヤで時間の経つのが早い、

10月の運動会、その後以前出雲大社で夕刻雹に降られ、松江の宿で晩秋なのに雪になり、慌てて瀬戸内海に避難したことがありました。

その続き、足立美術館や錦帯橋コースが台風接近で前日にキャンセルすることになり、

慌ただしく 開いたスケジュールをどう埋めるか・・・、化粧直しの終わった日光東照宮に出かけたり、気が付けば温室を組み立てる季節です。

・・・バレンシアが途中でした。

さて、スペイン第3位の都市がバレンシア:人口80万人(2011年)

この都市は地中海に面したスペイン東海岸の南北のほぼ中央に位置しています。

豊かな穀倉地帯で、収穫された野菜をサフランで色付けし・・・有名な料理がパエリア、お米の産地です。

この写真はセビーリャの公園ですが、このフルーツ、ブランドが・・・

・・・バレンシア・オレンジ・・・有名です。(収穫は2~3月)

公園や街路樹のオレンジは食べない?・・・酸っぱくて。オレンジの原産はインド・ヒマラヤの高原地帯、中国南部に伝わり大航海時代に地中海へ

そして写真の公園のようなオレンジがマーマレードなどに利用され、19世紀にはカルフォルニアやフロリダへ伝わったそうです。

移民や奴隷と共に伝わったのでしょうか。突然変異で甘いものが発見されました、カリフォルニアでの農園で・・・スペイン出身の農家の人により。

懐かしい「バレンシア・オレンジ」の名がアメリカで付けられ、今日ではスペインのこの地で「バレンシア・オレンジ」は特産品となっているようです。

セビーリャ、スペイン広場のタイル画は

騎士の時代のようです。

今日のバレンシアは、世界遺産に頼らない芸術・科学都市として観光客が押し寄せています。

何やら近代建築が立ち並んでいました。

 

 

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グラナダを後に

2017-09-15 | 旅行記

・・馬上槍試合を大混乱に陥れ、王をも侮蔑した自分はもうトレドには居座り続けられない。

しかし責任を痛感しているし、逃げ帰ってきた都の様子も気になる。

・・・オウムに探ってきてもらった。トレド中、蜂の巣をつついたような状態だという。

都中が、失心して宮殿へと運び込まれた王女と、大混乱で中止になった試合と、突如、降って湧いたように姿を現わし、桁外れの狼藉をはたらき、こつぜんと姿をくらましてしまったイスラム教徒の騎士について

・・・あれはモーロの魔術師の仕業だ、魔人だ、洞窟から魔法にかけられた戦士が飛び出してきたなどと噂話を報告した。

夜になりフクロウが王宮に偵察にいくと、王女は独りになると一通の手紙を取り出し、読み、それに接吻なされて、ヨヨヨとばかりに泣き崩れておしまいになった。

 ・・・

この報告にアフメッド王子の優しい胸は張り裂けんばかりだった。

・・・やがて王女は病魔に取りつかれた、食事を受け付けず固く心を閉ざし、名医の処方も効き目無く、魔法の呪文にかけられたと考えられた。

・・・「誰であれ、王女の病を治したものには、王国の財宝庫にある一番値打ちのある宝石を取らせよう」と布告、お触れが出された。

・・・フクロウが、「王の財宝庫から何を取るべきかが問題だ!  紫檀の箱があり、中の賢者ソロモンの王座に敷かれておった絹の絨毯

・・・不思議な霊力のある魔除けを手に入れれば・・・」王子も魔除けの絨緞の話を聞いたことがあった。

翌日、王子はアラブ人の粗末な衣装に身をやつし、顔も顔料で黄褐色に変装し、・・・。

・・・門衛の兵士から、宿なしアラブ人が、・・・殴って追い返すところだったが、運よく騒動を聞きつけた王が連れてくるように命じた。

アフメッドは、羊飼いの短い葦笛を持参していて 「王女様の病気が何かの魔の仕業でしたら、この首にかけてお祓いしてみせましょう」 と言った。

王はアラブ人が神秘的な秘法に通じていることも承知していたので・・・塔の一番上にある王女の部屋に連れて行った。

・・・暗がりの中に王女は横たわっていた。

王子はテラスに出て、小鳥たちから学んだ楽曲を数曲、笛に乗せて吹き鳴らした、・・・王女は何の反応も示さない。

葦笛を脇にやり、単調なメロディに乗せて・・・鳩に託した手紙の愛の詩を口ずさみ始めた。

王女は、はっと気づいた、頭をもたげて、じーと耳を澄ました。

・・・見る間に眼には涙が溢れ、嵐のような激情に襲われ、その優美な胸はあえぐかのように、波打っていた。

「吟遊詩人をここに」 と王は命じた。

アフメッドは部屋に入り王女と言葉を押し殺し、眼と眼とを見交わした。

王は賛辞と畏怖の入り交じった眼で、アラブの吟遊詩人を見つめた。

「奇跡の若者よ!わしの宮廷の第一位の侍医としよう。約束の褒美として宝物庫の最も高価な宝石をとらせようぞ」

「おお、王様!金銀財宝は欲しくはありません。イスラム教徒の遺品、絹の絨緞を納めた紫檀の箱が戴きたい」

・・・紫檀の箱が運び込まれ、古い絨毯が取り出され・・・。

アフメッドは「この絨毯は、その昔、賢者ソロモンの玉座に敷かれていたものです。

美しい王女様がお立ちになるだけの値打ちがございます」

「長椅子の下にその絨毯を・・・」 王女がそこに立つと・・・その足元にひざまずき、

「いったい誰が運命の書に記されていることに逆らえるでしょうか?占星術師たちの予言が、果たして虚言であるかどうか、見ていただきましょう。

王様、今こそ言いましょう。お嬢様とぼくとは、もう長いこと、ひそかに愛し合ってきたのです。ぼくが、恋の巡礼です!」

王子がこう言い終わるか終らないうちに、絨毯は、王子と王女を乗せたまま、空へと舞い上がっていった。

王も、侍医たちも、呆気にとられ、ただ見ているだけだった。

二人を乗せた絨毯は、・・・一片の雲に吸い寄せられるように・・・消えてしまった。

我に返った王は、怒り狂い・・・トレド王は、大軍勢を組織して、逃亡した二人を探すため、グラナダへ向けて出立した。

・・・

15世紀は変革の時代です。ヨーロッパで、依然注目することは・・・やはり宗教、いや布教する、維持することが目的の教団の活動と信徒の行動。

ルネッサンスが起こる一方で、ジャンヌ・ダルクの登場など騎士の時代は続いていました。

日本も戦国時代へ・・・肉体と肉体が戦っていた時代です。

・・・三大宗教の元祖、ユダヤ民族は武力闘争は好まず、弾圧からは集団で逃避行・・・、避難先で頭脳で勝負と保険、金融、税の取り立てと・・・、

キリスト教徒は弾圧には抵抗し、異教徒を迫害し、武力も行使し、有名な十字軍は異教徒ユダヤ人も殺害しているようです。為政者には便利な宗教のようです。

最後にイスラム教徒、アラビア砂漠の物流中継都市で、経済が衰退していた時代に誕生したムハンマドの宗教は、・・・。

・・・当時の砂漠の遊牧民は、生活するために「隊商を襲って輸送品を略奪すること」を普通に行っていたようです。

隊列の警備隊に戦闘を仕掛け、・・・略奪ですから遊牧民は武闘派です。戦利品は一定の割合で分配し、捕虜の身代金要求など今日の中南米でよく聞かれる行為です。

イスラム教は、この様な遊牧民の生き方が根底にあり、「砂漠の掟」;部族に従って生きていくそんな環境で誕生しています。

・・・アラーの側につけば・・・勝てば戦利品をもらえるし、戦死しても天国に行ける、天国では官能的な快楽を飽くことなく追い求めることができる、彼らはこう信じた。

(EARIY ISLAM 18頁)、信じている者は無敵です。

・・・イベリア半島でも、イスラム教徒側がキリスト教徒側に攻め込まれ、やむなくモロッコに援軍を頼むと、信心深い新興勢力のイスラム教徒軍は、圧倒的な武力でキリスト教徒軍を撃退します。

堕落した城主を追い出し、イスラム原理主義に従い厳格に治世を始めるが、勇猛なモロッコのイスラム教徒も、この地で歌舞音曲、美女にワインにと溺れ、豊かなアンダルシア地方で腑抜けになっていく。

ここグラナダ王国は、キリスト教徒側に貢物を献上したり、外交に手腕を発揮したが、・・・ついに、この時を迎えてしまいます。

中世、ヨーロッパの騎士団が向かい合っています。

余裕の見える白馬の女王、隣は栗毛の馬上に赤装束の貴族、国王でしょうか、轍(ワダチ)を挟んで対峙するのは、黒毛の騎馬、黒装束に金刺繍のマントの将軍?でしょうか。

背景の建物は・・・アルハンブラの要塞のようです。右が東です・・・やや西日を浴びているようですが・・・、赤土の丘陵地帯に赤土で焼かれたレンガで築いた城壁からなる赤い城(カルアト・アルハムラー)・・・。

・・・この絵画は、グラナダ無血開城:Francisco Pradilla画、マドリード王宮近くのPalacio del Senado Madrid所蔵。

黒毛馬上の王が、グラナダ王国最後の王 ボアブディル王Boabdil(ムハンマド 12世:1459年〜1533年)

この場所で、グラナダ王国の鍵を・・・戦勝国に手渡す儀式が行われたのでした。右手に持っているのが王国の鍵でしょう。

白馬の女王は、イサベル、カスティリア女王です。

栗毛色の馬上の主は、イサベルの夫、アラゴン国王フェルナンド。これら連合国の兵20万の包囲に屈し、アルハンブラ宮殿を無血開城した。

1492年1月2日のことであった。

8世紀から700年以上続いたイスラム教王国のイベリア半島支配、・・・最後に、この地グラナダを首都に255年間続いたナスル朝も幕を閉じた。

 

 ボアブディル王はカトリック両王から 、20㎞程南の Alpujarra(アルプハラ)地方の裾野を新しい領地として与えられた。

しかし、安住の地とはならず2年後、更なる屈辱・・・、カトリック両王は領地を召し上げ立ち退きを命じた。

やむなく、モロッコ王を頼って、落ちて行く、

途中・・・母親、妻と 2人の子供、それにお供の者たちを連れて Lanjaron(ランハロン村)に投宿したとされている。

現在もシエラネバダ山系の鉱泉からつくられるミネラルウォーター「ランハロン」は有名で、人口4000人弱の村です。

・・・地中海の港に向かう一行は、峠の稜線を越えようとしていた。

下ればグラナダは永遠に視界の外に去ってしまう。ボアブディル王は、グラナダの街を振り返り涙を流したという。

 

Alfred Dehodencq 画 (Les Adieux du roi Boabdil a Grenade)

Suspiro del Moro(モーロ人の最後のため息)と呼ばれる峠が残っています。

 そこで王の母親 Aixa(アイシャ)が “Llora como mujer lo que no supiste defender como hombre”「男として国を守れなかったからには女のように泣きなさい。」と嘆いたとか。

(母親はゲルマン系ゴート族、キリスト教からイスラム教に改宗しています)

いろんな文書でこの逸話が記されていますが、

 ・・・アルハンブラ宮殿の無血開城後 3世紀を経た 18世紀に el padre Echevarriaが Los paseos de Granada の中で始めて記された言葉で、創作の説もあります。

 ところで、 ボアブディル王のその後は・・・モロッコ王の下、その後戦いに駆り出され戦死されたようです。

・・・

王子の伝説は・・・。・・・グラナダのイスラム教徒は大軍勢で立ち向かったのでしょうか。

トレド王は大軍勢を組織して、グラナダへ向かった。

・・・日数を要する、難渋な行軍の結果、グラナダを望む平野に陣を敷き、使者を立てて、娘の返還を要求した。

・・・グラナダ王自らが。全廷臣を従えて出向いて来た。

対面するとグラナダ王は、娘をさらった吟遊詩人その人だった。

アフメッドは、身罷(ミマカ)った父の王座を継ぎ、美しいアルデゴンダは彼の后になっていた。 

(現 スペイン国王夫妻です)

はるばるトレドから娘を取り返しにやって来たキリスト教徒の王は、娘がキリスト教徒のまま、イスラム教徒の王の后として迎え入れられていることを知って、容易に怒りを解いたのだった。

それは何も王が特別に敬虔なキリスト教徒だったからではなく、一国に君臨する者にとって、宗教はいつの場合も、対面と礼節のしるしとして尊重されなければならないからである。

(セビーリャ :スペイン広場 、トレドにはこの様な描写がありました)

血腥(チナマグサ)い戦争になるはずが、連日連夜、盛大な祝宴と催し物がうちつづいた。

宴が果てると、王とその軍勢は帰途についた。

・・・以下略。

・・・いたずらに二転三転させずに、ハッピーエンドの物語です。

フクロウは大臣に、オウムも式部長官に任命されたそうです。

ここスペイン広場の撮影画像から、もう一か所探しました。

 

GRANADA が見つかりました。

見たことがあるような・・・。拡大しましょう。

やはり、GRANADA は 「1492年1月2日」 キリスト教徒側、 戦勝国の記念日でした。

・・・500年以上前のイスラムの都、・・・アルハンブラ宮殿、ヘネラリーヘ離宮からの眺め

この谷の向こうには、当時のように洞窟で生活をする人々が後を絶たず、行政側も大変なようです。

予想外だった水と緑のグラナダから北上し、530km離れたカタルーニャ地方バレンシアへ、

地中海、学生の街、芸術と科学・・・穀倉地帯・・・米を生産している・・・パエリアが名物料理のようです。


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新たな宮殿 ヘネラリーヘ離宮

2017-08-30 | 旅行記

アルハンブラ宮殿の王宮から外に出ると、別世界が広がっていました。

北側には、こんな素敵な景観がありました。

このイメージは・・・砂塵が舞うアラブ、モロッコ、あるいは灼熱の異国ソンブレロのメキシコ・・・の雰囲気でしょうか。

左側に14世紀建造の建物が続き、小さなモスクもあるようです。

・・・別段、別世界でも無い?・・・確かにそうです。

幾何学文様、精緻な図案の集合体だけに囲まれ続けると、・・・精神のバランスが崩れるシグナルがでません?・・・何かを欲します。

幾何学文様の型を多数製作し、そこに石膏などを流し込んで作った部品を各種組み合わせて、見事な空間を創りあげたイスラムの芸術ですが・・・そこは、人工的なシャープな空間です。

幾何学文様だけで広大な面積を埋め尽くされると、定型パターンの規則性で囲い込まれ、堅苦しくなるのです。

遊び(余分なスペース、余白、フリーハンド)が無いのです。

・・・そこに、この異国情緒あふれる・・・多少風化した景観に接し、皮膚に触れる自然の風を感じるとゆったりとした感情が沸いてきます。

緊張、そして緩和が大事です、・・・この右の生け垣の先には、ムハンマド(マホメット)生誕のアラビア半島の砂漠にはありえない広大な・・・水鏡がありました。

人工的なシャープなデザインのインテリア、屋外には、自然な物を利用して・・・時の流れを感じさせる、庭園は心の和む空間です。

先程の砂塵が舞いそうな古い宮殿も、少し離れ視点を変えると、このような光景になります。

手前に左右二つの池、中央に水路が走り一段下がった生垣の向こうに・・・、建物との間に、・・・ここからは見難いですが大きな池があります。

このように整然と配置された上下二段の池が緑に囲まれて・・・西洋の近代庭園の元祖かと思えるレイアウトです。

・・・ワシントン・アーヴィングが「アルハンブラ物語」を発表した、1830年頃の「王宮見取り図」を作品から借用しましょう。

「アルハンブラ物語」 平沼 孝之 (翻訳) 岩波文庫 上下巻

右端のパルタル宮から、最も古いと言われるダマス(貴婦人)の塔の光景でした。

アルハンブラ宮殿は、豊かな水を地下の貯水槽に引込み、渇水とは縁の無い水の都でした。

・・・この廃墟跡は、

凝った噴水の跡が見えます。かつては宮殿が7棟あったようで、ユースフ3世の宮殿跡でしょうか。

・・・少し歩くと・・・城壁には、いくつもの塔が築かれています。

「アルハンブラ物語」から全体の見取り図も参考に借用しましょう。

右端(東)の塔の先まで進み、城壁の門から出て、橋を渡って向かいの丘陵地の右上18ヘネラリーヘ離宮に向かいます。 

では、ここから北側の城壁の内側にある散策路を東側に向かって進んでいきます。

囚われ貴婦人の塔16や17の塔があり・・・、向かい側の丘陵地が見えます。

囚われの貴婦人(王女たち)の塔、こんな名前の塔には、もちろん3人姉妹の王女の伝承があります。

父親(王)があまりの美貌の3姉妹を心配し・・・閉じ込めていた話も「アルハンブラ物語」に書かれていますが・・・省略。

守衛塔と水の塔(水の管理)の間の城門を通り、橋を渡って対岸へ進みます。

 

 アーチ橋を渡ると、ここから丘陵地になります。

宮殿の城壁は結構高いですね、レンガの品質があまり良くないようですが、立派な城壁です。

・・・斜面に平行に、遊歩道を西に進みます。

渓谷側の遊歩道から・・・先程のアルハンブラ宮殿の城壁が見えます。内側からは気が付かないが、ほぼ垂直な大きい城壁です。

ヘネラリーヘ離宮の長い庭園は、植栽の生垣が綺麗に刈り込まれて迷路のようです。

ベンチも置かれ、ここで1時間くらい・・・読書・・・。しかし、筆者は自然科学や工学系が多く、文学作品は縁がなかった。

・・・ベンチで読むのにふさわしい読み物が無い・・・。そうだ!この話は

その昔グラナダを統治するモーロ人(イスラム)の王に、アフメッドという一人息子がいた。

占星術師らは名君主になると予言したが、1点だけ、恋に溺れやすい、その結果大きな苦難に逢われます。

分別が付くまで恋に陥ることなくお過ごしになれば、至福の王道となりますと王様に伝えたのでした。

そこで王は、女性の顔や恋の言葉も聞こえない所で育てると決め・・・アルハンブラ宮殿より一段高い急傾斜地に美しい宮殿を築いた。

目を楽しませる庭園をいくつも配置して、周りを高い城壁で囲った。

・・・これが今日の ヘネラリーヘ宮殿です。

(アーヴィング著 アルハンブラ物語 の中で、作者が古いモーロ人の宮殿にまつわる伝承のいくつかをまとめて 

アフメッド・アル・カミール王子の伝説 の最初の部分です)

・・・

展望台からアルハンブラ宮殿を眺めてみましょう。

中央やや右にカトリックの教会、その右斜面に建つのが貴婦人の塔、宮殿、要塞です。

庭園の東の端に宮殿がありました。

丘陵地ですから、斜面に平行に谷側が見えるように回廊が続き・・・文才が無いのでグーグルの画像を借用しましょう。

方位は北が上、東(右)の庭園を・・・下側遊歩道を散策しながら宮殿までやってきました。

中央の建物の内部に入り中庭に進みます。

この画像は、ヘネラリーフェ離宮の噴水のある中庭 有名な場所です。

左(南側)が谷になり、回廊が奥(西側)に向かって建てられ、反対側にも建物と高い塔があります。

手入れされた花壇に花々が咲き、中央に水路、噴水のある涼しげな中庭です。

反対側の宮殿東端に回ってみましょう。

右(谷側)の回廊からは見晴らしも良く、花壇やプチ農園が続いています。

左(山側)の建物は・・・、こちら側の塔のある建物の内部にある階段を上階に上がると、左の建物の2階に出ることができます。

屋根は平らで散策路、さらに山側には中庭が造られていて、

段差を利用した見事な構造です。

 一段高い所から回廊越しに、アルハンブラ宮殿とグラナダ市内が見えます。

右側の一段と高い塔・・・気になりました。

・・・物語の続き こんな内容です。

アラブ最高の賢者が、王子の教育と保護を王からゆだねられた・・・やがて、王子は無事二十歳になった。

しかし学問に関心が薄れ、心に訴えてくるものを学びたいと物思いにふける悪い兆候がみられ始めた。

そこでフェネラリーヘの一番高い塔の最上階に隔離し、シバの女王から賢者ソロモンが学んで以来の術「鳥語」を教えた。

高い塔とは、この東の角の塔?それとも、この斜面のもっと上に登った場所にあったのでしょうか?

・・・王子は、タカ、フクロウ、コウモリ、時々ツバメと話したが話も飽きて、・・・春になり森や庭園で小鳥たちが恋の歌をさえずり始めた。

「恋って何?」鳥は相手にしてくれず、老師(賢者)も「耳を塞ぎ下さい!恋は悲惨と争いの原因です」と教えてくれない。

ある朝、鳩が飛び込んできた、話を聞くと「恋の季節なのに、タカに追われて・・・離れ離れになってしまった」

王子は、「恋の季節?・・・恋って何?」と鳩に聞くと

「恋は、独りでいれば悩ましく、二人でいれば最高の幸せで、三人になれば争いと憎しみの絶えないものです。

恋は他人同士を慕い寄らせ、心地よい共感によって二人を結び、二人で暮らすことができれば幸せの元となり、離れ離れになれば嘆きの元となる。

不思議な魔法のようなものです。

王子様にだって、このような優しい愛情の絆で結ばれた方がおいでになるのではないですか?」

と語り始めた。・・・恋・恋・恋

「二度と巡ってはこない青春の日々、恋も知らずに、一人の女性もいない、想えば想うほどせつなくて、いとおしくて、胸が張り裂けるかと思う、そんな女王様か お嬢様は?」

と聞かれ・・・

王子は「こんな塔に閉じ込められて・・・少しわかってきたぞ」 ・・・鳩から恋のレッスンを受けた。

王子は老師に詰め寄り、王が隔離した理由を聞き出しますが、老師を尊敬しているので、恋の概略を知った知を自分の胸に秘め口外しないと心に決めた。

・・・さてどうなるでしょう。第2幕?

鳩が遠い国の王女様の情報を持ってきます。王子は、見知らぬ王女に情熱の手紙をしたため鳩に託します。

役立たずの鳩と、待ち続けたある日没近く、鳩が足元に・・・、矢で射ぬかれていて息絶えてしまう。

首には真珠の首飾りと肖像の入ったペンダントが・・・。求愛を受けてくれた印なのか、愛の使者が息絶えて答えは謎のまま。

王子は宮殿から抜け出し、恋の巡礼になり王女を求めて世界中を探す決心をした。

・・・ユダヤ教の旧約聖書の中に納められた物語も、このアラブ人の伝承も良くできた話です。

脱出は夜、スカーフを繋ぎ合わせ塔から滑り下り、道案内にフクロウを同行させ、ヘネラリーフェ離宮の外壁を乗り越え山中に逃げ込んだ。

・・・どこに向かうか?フクロウの助言でセビーリャの師匠ワタリガラスにお伺いをたてようとなった。

やっとたどり着いたセビーリャ、魔術師の塔(今日の「風見の塔」)の最上階へ

 

・・・しかしワタリガラスは、王女に関して何一つ情報が無い、・・・コルドバの中庭の木の下に大旅行家がおるはず、そこへ行きなさいと教示されコルドバへ向かうことに。

ここはコルドバ・・・木の下の人混みの中、大旅行家はオウムだった。

 

オウムからやっと聞き出す・・・王女は「アルデコンダ姫」、トレドに君臨するキリスト教徒の王のひとり娘。

17度目の誕生日までは王女は幽閉の身、拙者オウム以外はお目通りできません。

そこで王子はオウムを優遇する約束で、トレドに同行させた。

・・・タホ川に囲まれ、城壁にさらに囲まれたトレドの都

 

オウムが城壁の中の王女を探し出し「グラナダの王子がタホ川の堤に到着しました」と伝えると、王女は変わらぬ心で慕っていてくれた。

王女は、明日が17歳の誕生日、「王が大馬上試合を開催します」と伝えられ

お触れが出ていた・・・特定の王子に肩入れして他国を敵に回さないように、この試合の勝者に王女を嫁がせると・・・。

 何ということだ!

・・・老師は何故、武道を教えてくれなかったのか・・・代数学や哲学が何の役に立つ・・・、王子は引きこもりの身を嘆いた。

フクロウ

 “・・・神は偉大なり!” 押し黙っていたイスラム教徒のフクロウが声を上げた。

 ”神秘をおわすれになりませんように!”

昔、トレドがキリスト教徒に征服されたとき、魔術師は山中の洞窟に逃げ込み、武具(鎧兜一式)と愛馬に神秘の呪文をかけた。

イスラム教徒が・・・後に使う時が到来したら・・・日の出から正午までは無敵になる。

フクロウの力で洞窟を見つけ、武具と馬を手に入れた。

・・・運命の朝、試合開始寸前、伝令官が未知の騎士の到来を告げた。

 宝石のはめ込まれた兜、胴鎧には金の浮き彫り、腰に宝石が輝く新月刀と短剣、肩に円盾、もう一方の手に長槍、騎乗するアラブ馬は豪華な刺繍入り衣装が足元まで垂れていた。

 この優雅な騎士は、「恋の巡礼」と告げられ・・・会場はどよめいた。

しかし、王子以外は参加できないと告げられ、・・・やむなくアフメッド王子は名前と身分を明かした。

登場人物のイメージと違う? なんとなく、武道が苦手な感じでしょう。

が違う円卓、長槍を持っていない、馬の衣装も違う・・・プラド美術館 フェリペ4世騎馬像 ベラスケス作でした。

  ・・・この檜舞台に宿敵の異教徒を参加はさせぬ!制止され、強引に突破して入城した。

恋敵のキリスト教徒の王子らは、血相を変えて取り囲み、中でも筋骨隆々の王子が、あどけない少年のようなアフメッドを嘲笑し挑発した。

顎がでているこの人は、ハプスブルグ家の血筋です。キリスト教徒、戦いに明け暮れた生涯です。

この作品はカール5世(神聖ローマ皇帝) プラド美術館 ティツィアーノ作、・・・ここの宮殿にもちろん関係があります。

 アフメッドは、かっと頭に血がのぼり、両者は馬を駆って二方向へと離れ、向き直ると突進した。

このような感じの(見た目の年齢は置いといて)両者が戦ったのでしょう。

・・・魔法の長槍が一撃、屈強の相手は馬上から転落した。

ここから魔性のアラブ馬と武具は、アフメッドの制止を無視して突っ走る。

会場を所狭しと駆け巡り、長槍は立ち塞がるものを突き倒し続けた。

 トレドの王は、臣下と招待客がなぎ倒される乱暴狼狽に怒り狂い、礼服をかなぐり捨て、

盾と長槍をつかむと自ら馬に飛び乗り、王の威光で屈服せしめようと立ち向かった。

  恐るべき事態だった!

 アフメッドの当惑をよそに、長槍は真っ直ぐに王に狙いを定め、次の瞬間、

王は真っ逆さまに宙に舞い、王冠は、土埃の中を転がっていった。

まさにこの時、太陽が、最高点に達したのだ。

・・・

 アラブ馬は肝をつぶしている王子を乗せたままタホ川を泳ぎ渡り、元の洞窟に一気に駆け戻り、王子はやっと解放された。

 思いもよらない運命的出来事は、自分を絶望的状態に導いたと知った。

騎士道を汚し、王を侮辱し、王女はどれだけ胸を痛めたことだろう?



 

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アルハンブラ宮殿

2017-07-31 | 旅行記

 

アルハンブラ宮殿・・・チョット休憩が長くなりました。

人気の庭園から、次の王宮・ライオンの間の画像を整理していると、いくつかの疑問がわいてきます。

水が豊富なのは、山に雪が降るから・・・冬の季節、アンダルシアに雪が降る?・・・スペインと雪山どうもピンときません、調べてみました。

アルハンブラの南東にあるシエラ・ネバダ山脈は3000m級の山々が連なっていました、富士山より若干標高が高い山々です。

写真補則:山頂以外の白い場所は、大理石や石灰石などの石切り場と思われます。

そして・・・アルハンブラ宮殿の駐車場から・・・曲がりくねった道路を30数キロ(直線で20km弱)山頂に向かって走ると、

40分くらいで山頂近くのレジャー施設に到着するようです。

何と、スペイン アンダルシア地方で・・・冬の季節になると・・・このレジャー施設は、シエラ・ネバダスキー場です。

このゲレンデの案内をジート見ていたら、山麓から高速リフトやケーブルカーが沢山設置された素晴らしいスキー場のようです。、

山頂付近は森林限界を超えているので樹木の成長が難しく、あるのは岩山かブッシュ程度でしょう。

斜面に崖や大岩が無い限り・・・全面スキー場です。

 上の写真は、スイス クライネシャイデック

グラナダのシエラ・ネバダ スキー場は、標高2700m位(8合目位)から滑れるようで、朝はアルハンブラ宮殿見学、午後はスキー場、夜はフラメンコ・・・密度の濃い一級の観光地です。

気が付かなかった・・・2017/3/8 世界フリースタイルスキー大会がここで行われ、19歳堀島さんが男子モーグルで初の金メダルを獲得していました。

スペインの北部、フランス国境近くの山脈にスキー場が多数あっても驚かないのですが、アンダルシア地方や首都マドリードの近くにもスキー場があるのには驚きました。

・・・雪解け水が豊富で、ここがグラナダ一帯に豊かな自然環境を造り出す源泉でした。

・・・・・

・・イスラム教徒は、なぜ短期間にかつてのローマ帝国並みにインドの西からスペインまで領土を拡大できたのか。

何か資料が無いかと壁の書棚に目をやると、昔の積読本(捨てようと思っていた)が目に留まり、ライフ・人間世界史が並んでいた。

探していくとEARLY ISLAM (12巻)があった、・・・イスラム教・最も戦闘的な宗教、他国に侵略して殺人までして布教する必要があるのでしょうか?

マホメットの出生や環境・時代背景も学び直して別の機会に・・・考えてみましょう。

アルハンブラ宮殿に関しては、旅名人ブックスのアルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語も目を通してみました。

豊富な水源を水道管で引込み、見事に利用し夏の快適な過ごし方のモデルハウスのようです。

砂漠の旅人・アラブ人の天国は、ナツメヤシに囲まれて泉が湧き出るオアシスだったのでしょう。

・・・振り返って、ここまでの順路を整理してみます

カルロス5世宮殿、従来にないデザインとして四角の中に円形が、円形はイスラム文化では中庭でしょうが、

カトリック教徒、16世紀の発想では古きローマ時代のコロッセオの再現だったのではないでしょうか?

1526年カルロス5世は26歳でポルトガルの王女と結婚し、ここアルハンブラ宮殿に宿泊した際に感動し、この宮殿を取り込んでイスラムを越える新宮殿を建てる・・・と決めたそうです。

・・・さて順路は、右端の庭園から旧宮殿の敷地に入りました。

この庭園の奥(北側の谷を見下ろす)の塔に寝泊まりして、長い間仕事をした人がいました。

ペドロ・マチューカという有名な建築家、国王の依頼でこの新宮殿を設計した人です。

・・・現在、宮殿に勝手口のような所からなぜ入場するのでしょうか?

多分、メスアール宮の南側に大きな建物の正面入口があったのでしょう。

この目立つ豪華な正面と隣のコマレス宮の南側の建物を取り壊して、新宮殿を出来るだけ大きく建てようとしたのでしょうが、

なぜ旧宮殿に平行に新宮殿を建てなかったのか?・・・斜めに解体した建屋に接しているが・・・

新宮殿の中心を多少ずらせば工事も簡単なのに、不思議な配置の新宮殿です。

庭園は、その設計者、マチューカの名前で呼ばれています。いつになっても完成しない・・・そんなに長く住んでいたのでしょうか。

・・・かつて国王に謁見を望む者や嘆願者は、現在の見学コースの様に最初の宮殿メスアール宮(Mexuar)に入ります。

「メスアールの間」の入口の扉のタイルに、「中に入り要求せよ、正義を求めよ、求めることを恐れるなかれ」と書かれていたそうですが今は無いようです。

ここは行政と司法の部屋です。

レコンキスタ後メスアールの間付近の壁が壊され、外側の回廊を含め礼拝堂になり、天井も改造されています。

その後何度も改造され、宮殿に入る本来の入口は今日全く分からなくなっているようです。

現在の縁取り彫刻された入口の扉は後世の物だそうです。

・・・手続きを終えたらメスアールの中庭に入っていきます。

大理石が敷かれた中庭の北側に控室の「黄金の間」があり、ダーロ渓谷や対岸のアルバイシン地区が見渡せます。

王に謁見する人は、ここで待機します。

やがて、嘆願者らは「黄金の間」から中庭の反対側(南側)に進み、宮殿の中心部であるコマレス宮殿のファサード(上の写真・正面)

に入ると回廊があります。四方に小部屋が並んでいます、衛兵の詰め所もあったでしょう。

そして東に進むと中庭(パティオ)に出ます、ここに案内されると・・・水鏡の演出効果にまた感動することになります。

・・・今日では、ここはアラヤネスの中庭と呼ばれています。

・・・アラヤネスとは?

池の両脇の生垣がアラヤネス=薄紅色の天人花(テンジンカ)と各種のガイドブックにありますが、生垣は香りのある白い花「銀梅花」ではないかと思います。

この池の水鏡に感動しながら北側の塔に進むと、塔の手前に控えの部屋(小船の間)があり、ここで待ちます。

この天井は・・・ナニコレ!ツバメの巣?・・・不思議な凹凸です。

調べると、イスラム装飾で伝統の漆喰(シックイ)細工を組み合わせて鍾乳洞のような雰囲気に仕上げています・・・ムカルナス(muqarnas)とあります。

コマレス塔(大使)の間、北側に奥行きのある馬蹄形をした3つの部屋が並んでます。

中央に王の座が置かれていたようで、背後には窓があります。

当時は床には絨毯、窓枠にはカーテン、背後からの光が王の姿を浮かび上がらせて重厚な雰囲気だったでしょう。

この空間は調度品が無く、筆者にはアラブ人の友人もいないので、当時の人々のイメージが浮かんでこない。

・・・タイムライフに掲載されていた素晴らしい絨毯を・・・

この絨毯は、かつて縁のあるハプスブルグ家が所有していたもので、見る角度によって色が変わる世界で最も見事な絨毯の一つ

と折り紙付きの作品です。このような絨毯は(多分シルクでしょう)タピストリー、室内装飾として飾られたと思います。

まだピンとこないので、続いて偶像を・・・人物がいないとどうも雰囲気が・・・これもタイムライフから、

この場面は、アルハンブラ風漫才?でしょうか・・・、 イヤ違うのです。

絵の説明文では、ムスリムの結婚の最終局面、・・・左の男が女の父親に結婚させてくれと頼んでいるところだそうです。

・・・当事者の女性を抜きに双方の母親がさまざまな取り決めを行ってから、上の場面、・・・男が女の父親に会いに行くこととなります。

承諾が得られ、最後に女の年齢、処女性が確認されて、男が女に対して支払う結婚贈与金の額も決められる・・・そして結婚が成立、なかなか大変のようです。

・・・残念ながら、宮殿内で王に謁見しているイメージが見つからず失礼しました。

・・・上の写真の正面の回廊と建物が無かったら・・・・開放的ですね!

1354年までは、向こう側に建物が無かったそうです。では、何が・・・散歩をする庭があったそうです。経過は後程。

・・・・・ここで前回、休憩でした、

さて、アルハンブラ宮殿はいつ頃建てられて、なぜ今日でも絶賛されるのでしょうか・・・調べてみましょう。

1085年にトレドの陥落、・・・1236年に当時最先端の文明都市コルドバが陥落し、イスラム教徒、ユダヤ教徒がアンダルシアの各地に逃避します。

分裂していたスペイン南部のイスラム勢力の中で、コルドバ陥落から2年後、1238年グラナダでムハンマド1世がナスル朝を建国します。

グラナダのを見下ろす尾根の先端に要塞(アルカサバ)が建っていて、その中の塔で住まいながら、やがて隣に王宮を建てます。(その後解体されます)

生活に重要なのは水、ムハンマド2世(息子)が跡を継ぎ60年の歳月を掛け水道を完成させ、この地にアルハンブラ宮殿の基礎を築きます。

・・・この間、1246年には南部にあるイスラムの都セビーリャも、ついに陥落しています。

残るイスラムの都はここグラナダ地区だけです。(下図参照)

半島の西は「ポルトガル王国」、中央に「カスティーリャ王国」、東に「アラゴン王国」、がありますが、・・・イヤー各国の王家は複雑な対立があり、

そこで血縁関係、婚姻関係で表面は友好を装い勢力拡大を図りますが・・・、半島の北には「フランク王国」があり複雑、

・・・グラナダ王国はキリスト教徒側に貢物外交で友好を保っています。

・・・数十年前にコルドバが陥落し、イスラムの図書館にあったアラビア語で書かれた世界最先端の文献は、

キリスト教徒が奪還したトレドの都で彼らの言語・ラテン語への翻訳が盛んにおこなわれます。

そして、最先端のこの情報が暗黒の中世ヨーロッパ、キリスト教国家で革新的な一部の文化人に伝わり、

ギリシャ文明の再発見、哲学・文学・科学・数学・・・と暗黒に光が見え始め、・・・ルネッサンスと続きます。

・・・イスラム国は、税を支払えばユダヤ教徒もキリスト教徒も改宗を強要しませんでした、(住民は改宗すると利点は多いのですが)。

アフリカ北部に逃げ出した人以外は、イスラム教徒はもちろんユダヤ教徒も大半がグラナダに集まってきました。

建築、科学、工芸、数学、文学と優秀な人々は、このグラナダ王国で才能を発揮します。

そして、ユーフス1世(在位1332~54年)の時代に黄金時代を迎え、イスラム文化の集大成の宮殿が完成形に近づいていきます。

 ・・・ユーノス1世は、先程の池がある写真で

正面の中庭と池、左右の回廊、手前側の小船の間、コマレスの塔、そして、左の回廊の隣に王の浴室を建造したとあります。

 ・・・次の国王:息子のムハンマド5世(在位1354~59、62~91))が、これから入るライオン宮など他の部分を完成させています。

(アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語より)

 その際に、アラヤネスの中庭で反対側に庭があったという所に、夏の日差し対策も兼ねて回廊を造り便利にしたようです。

・・・では隣の宮殿に・・・回廊の中から、ライオン宮の中庭が見えます。

 大理石と思われる細い柱が木立の様に立ち並んでいます。

足元から水路が、中庭中央の動物が支える噴水に続いています。床は大理石です。

中庭の左側に1362年までに建物が建てられます。

二姉妹の間と呼ばれています。名前の由来は色々ありますが、割愛。

・・・順路は回廊を右に進み、中庭を周回して最後に二姉妹の間に進むようです。

正面の建物が王の間ですが、中庭の右側にアベンセラヘスの間と呼ばれる建物を先に建てています。

現在は修復中でした。

このアベンセラヘスの間は(1階の広間)は血の海となった場所として、陰惨な物語が伝わっています。

多分、作家ワシントン・アーヴィングが”1829年の春のことである。好奇心に誘われ、スペインに滞在していた筆者は、・・・友人とグラナダ、ロマンスの地として名高いアンダルシアの山岳地帯をこころゆくまでさまよってみよう・・・”

で始まる「アルハンブラ物語」を1832年発売し、この荒廃しているが素晴らしい宮殿が世に紹介されました。

この中で様々な伝説や徘徊する亡霊などの話と共に、アベンセラヘス家(ナスル朝の有力な豪族)一族(男子)を中庭に集め、広間に一人づつ連れ込んで噴水の脇で首をはねるよう家臣に命じた。

36人全員の首がはねられた。悲惨な物語が書かれています。

・・・宮廷は権力闘争の場であり、嫉妬心からあるいは陰謀に乗せられて、ライバルを全員抹殺する話が数多く伝わっています。いろんな伝承がありますが・・・

サアド王(グラナダ最後の王の祖父)が、1462年サッラージュ家(当時最大の豪族)が王子の一人を担いで実権を握ろうとしたが、サアド王に発覚し一族がアルハンブラ宮殿で謀殺された。

この事件からアベンセラヘス物語が誕生したのではとの説もあります。

・・・さて、このライオン宮が素晴らしいと評価されるのには、やはり天井の装飾があるでのでしょう。

この天井を支える柱も凝った装飾が施されています。

アーチの裏側にもこのように。

 

 

 

この星型の天井、16個の高窓があります。

ここが、アベンセラスの間、回廊側の天井です。

24時間、定点カメラで撮影してみたい、光の芸術が違った側面を提供してくれるはずです。

この中央部は、何と表現するのがいいのか、・・・絹を生みだす蚕が無数に・・・

人々の生活は、床に絨毯が敷かれ、クッションにもたれて横になる。・・・気がかりなのは、最後の審判・・・そして天国。

庭に出て満天の星空を見上げれば、吸い込まれるような広大な空間。魔力のある夜空を天井に再現したのでしょうか。。

 幾何学文様とアラビア文字のデザイン化が非常に発達した時代ですので、イスラム独特の凝った装飾です。

庭の反対側まで進んで振り返ってみましょう。

左がアベンセラヘスの間です。

奥に上部が見えるのが、後に建てられた、カルロス5世新宮殿になります。

・・・この天井は四角形です。

このような木工細工の素晴らしい物もあります。レバノン杉でしょうか、松材?

通路横の修理箇所はガラスで鑑賞できるようにし保護していました。

中庭の中央には、白大理石で造られたライオンが12頭、水盤の周囲に配置されています。

顔の表情・毛並みもさまざまなライオンの口から水がほとばしりでています。

これは二姉妹の間からの写真です。後ろ側が先程のアベンセラヘスの間です。

そして二姉妹の間です。王妃やその家族、女性のための建物のようです。

ここの幾何学文様も見事な仕事です。向こうに見えるのは裏側の庭園です。

天井はステンドグラスです。

ステンドグラスは結構使用されていたようですが、現存するステンドグラスは少なくなったようです。

二姉妹の間から奥に進むと裏側には、リンダラハの中庭と呼ばれる庭園があります。

こちらの杉はレバノン杉?とガイドさんに質問してみました。レバノン杉は無いそうです。

この天井の装飾は、アラビア語ではないですね、「アルハンブラ物語」の作者ワシントン・アービングの間です。

 この北側から、アルバイシン地区が見渡せます。

斜面に洞窟を彫り、生活をされていた人々が今日でも残っています。

また博物館や洞窟フラメンコのお店もあります。では外に出ましょう。

右側に・・・この建物は見たことがあるような気がします。

キリスト教の教会、サンタ・マリア教会を北側から見ています。

この一帯は宮殿の外になります。、グラナダ王国時代は、軍隊の駐屯地も、厩舎、モスク、官庁、一般人の住居まで約2000人が城壁の中で暮らす都市でした。

当時の様子は分かりませんが、今日では庭園が整備されています。

これから谷を挟んだ対岸にある、夏の避暑地、ヘネラリフェ・離宮まで、水の都を満喫してきましょう。



 

 

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グラナダは45.5度

2017-07-13 | 旅行記

今日7月13日、木曜日 朝、TVは芸能人夫婦の話題ばかりで、海外ニュースに切り替えたら、気温46度とアナウンサーが・・・スペインで?

・・・エッ!どこ・・・トレド、かわいそう、続いてグラナダが45.5度、どうしたの・・・

アフリカ北部から通常より8度~10度(位だったと思う)も高温の熱風が流れ込みスペイン各地に注意報が出されたそうです。

噴水での水浴がOKされたそうですが、体温より外気温がはるかに高い状況とは?・・・想像できないが・・・暑さに強いグラナダの人々もさすがに厳しい状況でした。

・・・そういえば6月末に欧州に行って、いや・・・治安の良い 奥州 の間違いでした。

白河の関所跡は何にもないが、奥州の玄関といえば中尊寺、・・・ここにはこれがあります。

内部に入ると金色堂の正面で、説明のガイド音声が流れる親切な演出でした。(内部の写真・ビデオ撮影は禁止)、その後岩手県を北上し、アレコレ・・・

翌日は秋田・角館武家屋敷・・・

ここは大正時代にタイムスリップできる、浴衣が似合う温泉街

山形・尾花沢の銀山温泉・・・

山形といえばフルーツ

佐藤錦の食べ放題がありました・・・このように想像以上の鈴生りでした。

盛夏を迎える前、梅雨の合間にリフレッシュ・・・。

・・・グラナダ・アルハンブラ宮殿以後の写真・動画の整理が進んでいなかった、サグラダファミリアまでもう少し・・・

気がかりだった動画編集の件は、昨年購入して未使用だった別のソフトを試してみた、それなりに使えそうなので、データを整理中です。

セビーリャ・スペイン広場のタイル壁画を撮影したSDカードも見つかり・・・これは後回し、アルハンブラ宮殿でした。

・・・グーグルの航空写真のお世話になりましょう。

画像の右下、ホテルの裏側の丘から夕暮れのグラナダの街を眺めようと出かけました・・・赤土のオリーブ畑の丘を登り、

・・・その先、下りの斜面でアーモンドの花が咲いていた場所です。

翌朝、アルハンブラ宮殿にはホテルから徒歩で道路を下ります。

すぐ右側に宮殿観光者用の駐車場があります、右側に移動しましょう。

ここは入口やチケット売り場もあるようですが・・・

 

道路と城壁との間に小道がありました。

ここを下っていくと城壁から水音が・・・

こんなに水量が豊富なのです、・・・先程のスペインのニュースでもアルハンブラ宮殿に涼を求める人々がありました。

この水源は北部にある山々に雪が降りその雪水が地下水となり豊富な水源となっているようです。

この様な案内板がありました。

現在地は、案内板の左下から2番目の赤い四角の所です。下側から歩いて来ました。

別のパンフレットを見てみましょう。(上の立て看板を左に倒した状態です)

このパンフレットには広い宮殿内の順路が点線で引かれています。

➃から城内に入って城壁に沿って南下するコースが描かれていますが、城壁の外を南下しています。

宮殿内には3か所から入れるようです。④、⑤、⑥です。

城壁を見学しながら・・・しばらく歩くと塔の前で分岐、城壁側の坂を少し登ると、・・・着きました。⑤です。

 

ここから城壁の中に入るのですが門が修復中、この画面の左外側、横から入りましょう。

ところで、城内にはチケットが無くても自由に入れます。

左横から入ったのに城壁があります、ここは通路のようです、左右の壁の中を城壁に沿って進みます。

坂道を上がってきました。振り返ると・・・歴史を感じる城壁です。

レンガや川石が使われているようですが、自然の素材を利用しながら幾何学文様のセンスはやはりイスラム文化が優れていますね。

場内で最初に目にしたものが・・・これは、今日的な量産品です。

広場横に、電動カート?赤十字のマークです。

大砲が置かれています。

レコンキスタ以降も戦争は数多くあり、ナポレオン軍も駐留しました、近代戦争のモニュメントとして展示効果はありますが・・・

城壁の左側を進むと眼下に・・・

古そうですね、1348年頃完成のようで約670年の歴史を刻んでいます。

ここの下の道を進んで、Puerta de la Justicia(裁きの門)から入場するのがパンフレットの⑥のコースです。

一旦戻りましょう。

車の近くには、不思議な建物が・・・尖塔があります。

イスラムのモスクは解体したのでしょう、レコンキスタ後の聖母教会、サンタ・マリア教会とパンフにはあります。 

建築様式がミケランジェロがローマで建てたような・・・しかし壁面はイスラムの文様と不思議な雰囲気です。

付近に、立て看板(案内板)がありました。

上の中央やや左、赤枠が現在地です。

拡大しましょう。

教会が B です。

A は大きな四角の中に丸があります。プラネタリウムでしょうか、教会のドームでしょうか。

Aの壁面です、これは大きな石材を加工しています。

この様な建造物はレコンキスタ後でしょう・・・正面に回ってみましょう。

 何やら偶像が掲げられ、これもれレコンキスタ後の後期ルネッサンス、キリスト教徒の建築物の雰囲気です。

Palacio de CarlosV : カルロス5世宮殿とあります。

 カルロス5世はイサベル女王の(1世)の孫です。

内部に入ってみると、何故か略奪されたような・・・何もない円形の広場でした。

直径44m、広い空間です、この空間は何に使う予定だったのでしょうか。

何もない2階建ての建物を出て(博物館などが併設されています、また広場ではコンサートとか多目的利用がされているようです)

・・・今のは円形ドームだったのか? と振り返ると、・・・何故か四角形の重厚な建物です。

調べてみました、ルハンブラ宮殿の横に1526年神聖ローマ皇帝(カルロス5世/カール1世)が建てたが、資金不足で中断とあります。

屋根ができたのは後年18世紀になってからだそうです。

16世紀はスペインが無敵艦隊を操り、太陽の沈まない国と世界から富を収奪した時代です。

散財をしてスペインには産業も起こさなかったのですが、カール1世として神聖ローマ帝国の皇帝になるのに多額の買収金も必要だったりしたのも影響したのでしょう。

 目の前に大きな要塞が見えます。

ここの地区に最初に造られた要塞(キリスト教徒の攻撃に対して)です。Alcazaba アルカサバ(城塞)とあります。

このアルカザバは入場チケットが必要ですが、城塞跡なので文化的な見どころは少ないようです。

本命のナスル朝宮殿は予約制で人数制限です。

スペインの最大の産業・・・国を挙げての世界一の観光立国です。

太陽と地中海の碧い海、富裕層のリゾート地から脱却し、世界から観光客を呼び込む・・・最大の観光資源がレコンキスタ以前イスラム文化です。

暗黒の長い長い中世時代、キリスト教文化に後世の人々があこがれるものは何一つなかった。

イスラム教徒、ユダヤ人を排除したイベリア半島のキリスト教徒にはイスラム文化が最大の観光資源とは皮肉な結果です。

・・・イスラム文化の歴史的建造物として、その頂点がアルハンブラ宮殿です。

スペインでは旅行会社にコルドバ、グラナダ、セビージャを目玉にして、間に小都市を観光するコースを積極的にPRしています。

その最大の文化遺産アルハンブラ宮殿で、観光客の評判を落とさない対策の一つが、入場制限と安全対策です。

 城壁の近くに門があります。 Puerta de Vino ビーノ(ぶどう酒)の門です。

 ぶどうの蔓(ツル)でしょう、アーチの上部左右に文様として彫り込まれています。

この門の先アルカサバ方向に進み、右側に曲がりアルカサバに沿って少し下り坂を・・・人々が並んでいます。

ここで宮殿に入るチケットのチェックです。・・・チケットはこの様な物でした。右下に8:30h もうすぐです。予約時間までしばし休憩。

入口、旧式のゲートがありました。

・・・中に入ると、何故か・・・城壁が見えて、その向こうに見える景観は、川向うの洞窟フラメンコ?・・・建物ではなく屋外です。

 ここは、マチュカの庭園のようです。

右に曲がり庭園の右端の小道を進む。

宮殿ではなく庭園を散歩(通り抜け)・・・で、2~30m先の正面建物に小さい地味な入口が・・・

中に入ってストップ、係員に停止させられ、・・・先程のゲートのチェックが失敗だったようで人数チェックのやり直しの雰囲気です。

係員によるハンディタイプの光学読み取り機(OCR)で再チェックを受けました。慎重にチェックをし、やっと薄暗い部屋に入れた。

後日調べると、先程のカルロス宮殿を建てるために(63m四方)足場も必要だったでしょう、

アルハンブラ宮殿の多くの建物を取り壊し宮殿の大玄関が使用できなくなり、暫定的な入口から現在も入っているようです。

・・・さて宮殿内の最初の部屋は、ガイドの説明ではメスアール宮殿内で一番古い場所

メスアールの間、政庁、政治や行政、司法などの業務をしたところのようです。

 床、壁面、そして柱、天井と装飾は幾何学文様であふれています。

当時はどのような採光だったのでしょうか?・・・現代の壁面照明は白熱灯でしょう、少し薄暗い状態での鑑賞となります。

・・・陳列品が何もない空間は・・・モンサンミッシェル修道院のように戦争で持ち去られたのでしょうか。

天井に・・・彩色された複雑なデザインです。

これら天井は木製でしようか、箱根寄木とは違い木象嵌でしょうか。

中央部の突起物が多分円錐状に造られているようで、精緻な造りはどのような状態で見るのが最善なのでしょうか?

外に出ると中庭があります。メスアールの中庭とあります。

噴水があり、南側の壁面デザインは素晴らしいです。窓には格子があり落ち着いた配色。

トルコブルーでも夏は涼しくて良いと思うのですが、冬は寒くなるので中間色が良いですか。

ガイドさんが説明していますが、精緻な力作であることは遠くからでも十分に伝わってきます。

続いて、中に入って・・・突然現れた

・・・ここが、有名なアラヤネスの中庭です。

朝早いので混雑していない、 このような静粛な?画像です。

しかし背景の建物群が、左右対称ではなく、重なっていて重い感じです。

2階建ての建物、アーチ型の回廊があり・・・何故か奥行きが狭いように思えます。

後部に右側が高い壁?は・・・

カルロス5世宮殿・・・レコンキスタ後建築された建物がここまで壊してしまったのでしょう。高さが高いので圧迫しています。・・・残念ですね。

では、この光景は室内からも観れます。

少しづつ下がって、室内からの画像です。

これはもう少しトリミングすると一枚の絵です。

足立美術館の窓越しの庭園に匹敵するでしょう。

ここの壁面も同じく精緻な造りです。

天井は、花火ではなく、光が点滅?しているのでしょうか、星空?それとも宇宙?

もう少し観察していたいが、多分ここは大使の間、コナレス(大使)を迎えるゲストルームだったのでしょうか。

反対側に回ってみましょう。

こちらが良く知られています、向こう側の左右対称の建物が先程のコマレス宮です。

スッキリした光景です。

アルハンブラ宮殿、チョット休憩です。

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フラメンコ 苦難の時

2017-06-28 | 旅行記

フラメンコに関心がおありで動画アップをお待ち頂いたごく一部の方々、画像の紛失か編集の力量不足かとご心配をおかけいたしました。

フラメンコ誕生には苦難の物語もあるようです。

月とスッポンの違いはありますがフラメンコの動画作成にもバタバタと苦難の時が流れました。

・・・使い慣れた編集ソフトを動画作成途中でうっかりバージョンアッした結果、シリアルNo.の入力を要求され、悪戦苦闘・・・探せど見つからず、同じソフト会社のプロ用編集ソフトの体験版を使おうと浮気をしたら、

使い方を学んで2日目、PCを終了しようとするとWindow10のUpdate要求が目に入り・・・、軽い気持ちでOKすると・・・翌日、体験版を開くと、何とシリアルNo.の入力を再要求される。

嫌な予感、シリアルNo.を入力するが入力エラー、メーカに交渉すると体験版は1回限り、対策は別のPCにアドレス変えて再インストールしか無いようで、・・・OSのUpdetaで設定が一部消えたようです。

有効期間を28日残して使用不可。

止むを得ず別のPCで旧ソフトを動かすが動作か遅い、サクサクと進まず・・・断念。

そこで先週、Adobe Premiere Pro CC 2017体験版をインストール、何とかしようと

使用期間は各々異なりとの説明で、・・・使い始めると何と使用期間は7日間と非常に短い、

使い方を学んでいるうちに、時間が無い、何とかまとめなければ・・・その期限が先程終了したのでした。

イヤー、未熟なフラメンコ動画作成、画像のブレ補正も不十分、60%の作品ですが何とかYouTubeにアップしました。

 グラナダ 洞窟フラメンコ

https://youtu.be/4lcnGSC5p9I

<iframe width="1280" height="720" src="https://www.youtube.com/embed/4lcnGSC5p9I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

この様な場所で

この様な方々の登場です。

総勢6名

男性も

この長髪を振り乱して

手振れが多く、不鮮明な部分もありますが、雰囲気が伝われば幸いです。

動画アプリをどうするか、・・・月間使用料方式は、使用頻度が少ないから、別の方法を探さなければ・・・と思案の最中です。

 

 

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