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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

梅雨の合間に出かけよう&山田長政の活躍

2018-06-14 | 旅行記

週末、日曜日は天候が崩れるとの予報だったが、金曜夜9時過ぎから・・・翌日宿泊可能な宿探しが何故か始まった。

バラとアジサイ?、近くにいくらでも・・・アジサイが特別?・・・しょうがない・・・宿が取れて出かけることになった。

初夏の神社に出向き、・・・箱根は外国人の観光客が多い

隣は九頭龍神社

そして駐車場横の大木は、「幸せの 大きな かしわの木」です。

湖畔まで階段で下りれます・・・境内の地図を。

そして夕刻、本命ではないのだが・・・宿泊先の近くで,、アジサイの写真を撮りに出かけたら

踏切が上がって・・・電車を追うと、線路の左右から何かが飛び出してきた

・・・モゴモゴ動くのでビックリしたが、撮り鉄さん達だった。

無人駅のホームには、多分大昔・・・乗ったことのある箱根登山電車が入っていた。


右側の1番ホームから、下り電車が箱根湯本に向かって下りていくところでした。

左側の2番ホームは、これから上り、・・・スイッチバックをしながら・・・次は宮ノ下に進む電車です。

・・・さて翌日は朝から若干小雨模様、目的地はこちらでした。

駐車場との間にも、ライトアップされると・・・キラキラと光り輝く樹木がありました。。

 

開館はAM10:00、駐車場には20台以上車が入ってきました。もうすぐ開館です。

庭園内は、バラとアジサイが来館者を持っているはずです。

ベネチア、「風にそよぐグラス」1895年 ジュゼッペ・バロビエール作

15世紀に初めて透明ガラスを開発したアンジェロから、芸術の域に高めたエルコレまで

約80点のコレクションが展示されています 11月25日迄 公開中。

一時間毎に行われる今回のミュージアムコンサートは、ヴァイオリン奏者 Alberto De Meis

11:30から、イタリー人のメイスさん でした

さて、庭園の風景をと・・・2階の展望室から、誰もいなくなるのを待って、この景観です。

人の手が入っているのに気づかない・・足立美術館の日本庭園に対して、

人工の構築物も配置して・・・自然を支配したい、西洋庭園

バラは単独でも存在感があります

アジサイ、紫陽花、あじさい、・・・実にさまざまの品種がつくられています。

この新種は、ここだけのようです。葉の色が元気がない?  もうすぐ、夕刻から輝きだします。

ここは、ガラスの森でした。

こんな人工樹木が得意な館です。もちろん、この様な製品も販売しています。

耳を澄ますと ・・・光を下さい、想像以上にキラキラと輝いてみせます・・・と、聞こえたような・・・ 

・・・日常生活にメリハリを、自分でチョット光を当てるだけで、想像以上に見た目も、意識も変わるのです。


(史実 山田長政 江碕 惇)によれば、

長政は日本人町の頭領になり、ソンタム王から「クン・チヤヤ・スン」の官爵名をもらった。

軍人の位でいえば上から4番目、大尉級となる。

・・・1621年ソンタム王は、また使者を日本に送った。

この時の模様が江戸幕府初期の外交文書控帳「異国日記」上下2冊(京都南禅寺金地院が所蔵)に残っている。

王の宮廷使者以外に、長政は家来の伊藤久太夫を乗船させ、老中の土井、本田に手紙を送り、将軍秀忠には鮫2本、塩硝200斤を献上している。

他に通訳官、木屋弥佐三右衛門、一行の護衛として日本町から60数名が従った。

・・・シャム側から到着後のスケジュールを調べてみましょう。

8/11 長崎奉行所へ到着の届けを提出、江戸の将軍に謁見を願い出る。

8/26 一行が江戸に到着、誓願時が客館に当てられ、牧野豊前守信成が接待役になる。

8/27 老中の邸に通訳が呼ばれ、シャムの使者が趣意を尋問される。

8/28 通訳官などが江戸城に上がり、本田、土井に贈る書簡、木綿織(当時は貴重)10条ずつを贈呈する。

シャム国王からは将軍に、長剣、短剣、各1把、鳥銃1双、全磐一具、木綿織10条、硯一具、象牙1000斤などを贈る。

8/29 客館に江戸城側から3名来られ、シャムの使者に国土風俗などを聞いて帰る。

 この際に土井、本田両名の名で長政に返書と、晒20匹(さらした布?40反)を贈っている。

9/1 シャムの使節が江戸城に上がれる。将軍がシャム国の使節を引見(インケン)の日、貢物が将軍の前に並べられていた。

酒井、土井、本田らの前で将軍に謁見した。

9/3 シャムの使節は江戸城へ上がって お別れの言葉を言上する。

将軍からシャム国王への答礼として、金屏風3双、鎧3領、太刀2振、馬3頭、

使者二人には銀200枚、小袖10枚ずつ、通訳には銀50枚、小袖20枚ずつが贈られた。

・・・かくして長政が「日本人長政ここにあり」と、その名を日本の将軍、幕府に知らしめた儀式は終わった。

( 日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 )

さて、前景の江戸城、天守閣がそびえています。

大江戸博物館(墨田区・両国)のジオラマにも天守閣がありましたが、見慣れていないので違和感がありました。

・・・山田長政の活躍した時代、シャム国の使者は天守閣を見ているはずです。

1657年、「明暦の大火」があり、町は三日間燃え続け、外堀の内側をすべて焼き尽くし、江戸城も被災、天守は焼け落ち、・・・この時4代将軍・家綱はまだ若かった。

権現様が建てた地上58mという巨大な天守閣は、何故か・・・再建されなかった。

家綱の後見人、3代将軍家光の異母兄弟、会津藩主・保科正之が再建をさせなかった。「天守は戦国時代のもの、多額の資金は町の復興に回すべし」

以後、大金を天守閣に注ぎ込むことはできなかったようです。

・・・隣国カンボニアとの話

翌1622年、シャム国王は、隣国カンボニア王が貢物を持ってこないので怒った。

表面上は対等だがシャムの国力が上なのでカンボジアは毎年貢物を献じていた。

従属関係を明確にするため大軍を出す・・・この情報がカンボニアに伝わり、・・・長政に密使が来た。

・・・カンボジアの首都プノンペンの日本人町には・・・小西行長、加藤清正の遺臣が千人ばかりいた。

密使は、「我ら日本人部隊はカンボジア王の厚い庇護のもとにあり、絶えず王の親衛隊として戦っている。今度もシャム軍と戦う決意である。

同胞相殺し合う流血の惨だけは避けたい、何とか・・・善処して頂きたい・・・必ず貴君らに報いんことを誓う」

・・・長政は「日本人同士で争ってはならない」・・・と密使に伝えた。

ソンタム王の出陣の要請を、日本人同士の争いは避けたいと長政は辞退申し上げ、・・・王はやむなく了承した。

・・・結果、シャム軍は惨敗、大将戦死、数千人と250頭の象部隊も捕虜となり、ソンタム王は命からがら退却した。

勝者 カンボジア王は、プノンペンのポルトガル人町、オランダ人町の監督権まで、総出動して先陣をかけ勇猛果敢な戦いの日本人(軍)町に与えた。

一方敗者のソンタム王は、日本人町の日本人部隊をさらに信頼し重用することになります。

・・・1624年念願の 軍船 が完成した・・・

東南アジアに基地を設けたオランダが、ポルトガルのマカオの基地を奪取しようと艦隊を派遣した。

しかし、ポルトガルスペイン連合艦隊に敗北する。

・・・スペイン艦隊チャオプラヤ川へ侵入し暴れまくり、シャム王室の貿易船も拿捕され、王は早速 長政に援助 を依頼した。

日本水軍の演習の結果を試す時が来た。

・・・夜襲は古来日本の得意な戦法、軍船と小舟・・・夜陰に縄梯子をスペイン艦に掛け艦内に忍び込み、敵の火薬庫に放火。

・・・着火後、河中に飛び込み軍船に戻るか両岸へ泳ぎ着く、勝手知った土地だった。

5隻ばかりのスペイン艦隊は、河を深紅に染めていた。・・・軍船から実践の訓練である大砲を発射、日本水軍とどめの一斉射撃となった。

生き残ったわずかの敵将校は、ポルトガル人町に収容された。

・・・一夜にして猛威を振るったスペイン艦隊を全滅させ、日本の水軍はほとんど無傷、ソンタム王は驚喜した。

長政は三階級特進「オーク・プラ・セナー・ピムック」上から2番目の位を授かった。

1626年の正月は、毎日王宮に参内しタイ宮廷語を操り、ソンタム王や側近の高官と日本の軍法や、中国の「四書五経」など話す。

そして王位継承は、弟に譲る慣習を世襲にすべきと説き、・・・王は王子に譲る決意をした。・・・王位継承争いに巻き込まれる・・・。

 ・・・長政は年中戦争状態だったわけではなく、数隻の船を持ち貿易で活躍している。

1624年にオランダ商館が長崎にできて、これ以後の記録が残っている。

長政の持船が持ってきた鮫革は品質が最優秀、大鹿皮、香木などもあり、自国の荷よりはるかに高値で売れた。

その後自国の船に長政が運賃を払って長崎まで荷を載せることも、特例(シャム王の有力者であり)として認めざるを得なかった。

艦首に巨砲が2門、舷側にも各8門の大砲、計18門を備えた軍艦が日本人町の造船所で完成している。

(戦艦図)浅間神社

甲板上中央に銃を横たえた武士が見え、その奥に扇を持ち立っている人物が長政でしょう。

1626年、浅間神社にこの軍船を描いた戦艦図が絹地に描かれ奉納されている。

これは1788年に焼失したが、8代将軍吉宗が見たいとのことで江戸城に運んで吉宗に見せた。

その際模写されたものが1923年(大正12年)発見され現在公開されている。

この頃が長政の絶頂期、日本側や長政の船が、オランダ、スペイン、ポルトガルより10倍の物資をシャムから買っていた。

オランダ商館は競争に負け事務員1人を残し引き上げた。

・・・

1628年12月12日ソンタム王38歳で亡くなる。

宮内長官オーヤー・シ-・ウオラ・ウオン(長政より10歳年下、父は侍従、叔母がソンタム王の母后、粗暴で残虐、親王の殺害未遂で入牢も・・・戦功を上げ・・・言葉巧みに、近年宮内庁官になった)による毒殺だった。

宮内庁官は15歳の王子を王座に就かせ、謀反の罪で政敵の陸軍大臣、騎兵隊長らを処刑、

・・・王から 陸軍大臣を受けてもよろしいです と進言し、自ら陸軍大臣(オーヤ・カラホム)となり、以後陰謀で15歳の王子を始め王の系譜を抹殺します。

陰謀にあとから気付いた長政は、日本人町の維持も重要で、王宮には病気を理由に参内しなくなった。

・・・

バンコクから南に1100㎞、マレー半島のシャム湾の南に位置し、大寺院があり、良港もあるが、隣国はマレー語の回教徒・・・当時リゴールと呼ばれ、現在はナコン・シー・タマラー。

下図の赤枠の部分が、ナコン・シー・タマラー

陸軍大臣(オーヤ・カラホム)の最後の仕上げは、紛争状態のこの地の長官を処罰し、

新長官に長政を送り出しアユタヤに戻れなくする、戦争による戦死、あるいは刺客による暗殺も狙っていたでしょう。

陸軍大臣の依頼を断る長政に、王からもたっての依頼を受け、・・・沈静化したらアユタヤに戻る約束で承諾した。

・・・「六昆(リゴール)王 山田長政」と書かれた書物は、著者「江碕惇」氏によれば正しいとのことです。

「シャム国の王となり、王女と結婚した」・・・シャム国の王は間違い、

宮中で幼王の手で金字塔型の冠を長政に冠した・・・この異例中の異例で、冠を頂いたものはいなかった。

初めて長官兼リゴール王として王冠を戴かせた

嬉しそうでない長政に王からの贈り物、黄金の鉢、剣、国王の用いる調度品の数々を贈呈した。

・・・山田長政は、マレーシア国境のパッタニ日本人町と連絡を取り、現地に向かった。

長政が不在になると、幼王は法門で勉学が必要と宮廷から出され、陸軍大臣が二人の支配者はいらない・・・在位38日で幼王処刑

1629年3代将軍家光の時代に 陸軍大臣が、プラサート・トーン王と称した。

・・・一方、長政はやがて時が来て、バタニー軍 7万が 異教徒撲滅と攻め込んできた。

リゴール軍 4万、アユタヤからのシャム軍 6千日本人部隊 4千(パッタニ日本人軍1000人含む)

異国の地で4000人の日本人部隊が、4万人の外人部隊を指揮する・・・長政の指揮統率の能力がいかに卓越していたか、日本人がいかに勇猛果敢であったかがわかる。

日本人町所有の軍艦中心の日本水軍は、バタニー水軍を全滅させた。

七日七晩死闘の結果、バタニー軍は再起不能、リゴール軍の大勝利に終った。

しかし、長政も足に敵の矢傷を受けた。

・・・アユタヤ経由で大御所秀忠・三代将軍家光あてに出した国書と貢物への返事を持って、腹心の明智五右衛門が日本から帰って来て、アユタヤ経由六昆城へ到着した。

将軍よりの親書は王朝の大臣に届けました、日本人町の話ではカラコム(陸軍大臣)が幼少の王を殺して王位についているそうです

・・・長政は幼王宛て報告書を、「バタニ―軍を破った今、一日も早くアユタヤへ帰り・・・」

カラホムのチラーヤ王は報告書を読み驚愕した。

リゴールへ追い払えば長政は戦死か暗殺されるだろうと確信していた。・・・このままでは大軍を率いてアユタヤへ攻めてくるであろうと戦慄した。

アユタヤの王宮の人々は、この報に沸き立った。

・・・チラーヤ王は、心とは裏腹に貴族と重臣会議を招集し、新六昆総督王の武勲に最高の恩賞贈与を決議した。

新六昆総督王には、王の妹と称し別の女性を仕立て美女達と商品の行列が六昆城に向かった。

・・・リゴール前長官に城に出入りすることを許し、別名で密書を贈り「長政の暗殺を指示した」

王の妹と鍬する女性は長政を信頼しており、密書の情報を長政へ伝え、自分も毒殺を指示されてますと伝えた。

長政は前長官を牢獄に投じた・・・長官の弟は医薬の心得があり足に負傷後は城内に留め治療にあたらせていた

祝宴の翌日八月の末、長官の弟がの治療の時間ですと膏薬塗布して下がった。

長政は全身に痙攣(ケイレン)を感じた。

足はマヒして動かない。「やったな!」声だけは出た。大声で側近を呼んだ。

まず六昆を治めよ。守りきれなかったらカンボジア王と日本人町を頼れ。

しかる後、必ずアユタヤへ攻め入ってカラホムを倒せ。アユタヤの日本人町は何としても護り抜け・・・1630年8月末没40歳の生涯だった。

・・・18歳になったオクン、一人息子がいた。

ほくそ笑んだ王は・・・長政はバタニ―軍との戦闘で戦死したとし、大聖骨寺院に葬った

ファン・フリートの「革命史話」には、「長官は最大なる歓喜と光栄を感じ、その幸福が絶頂に達した時、不幸をまた最も近づき、

諸人歓喜に満ち少しも不幸の接近に気付かなかった時、オプラ・マリットは彼の脚に毒の膏薬を貼って毒殺した。これによって彼は数時間後に死亡した」と書かれている。


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今から400年前

2018-06-03 | 旅行記

後に山田長政と名乗る人物は、1590年尾張で生まれた。

母は夫と死別後、実家の駿府へ戻り、紺屋を営む山田家の跡取りに入った養子と1593年再婚しています。

従って長政は3歳から駿府育ち、10歳で地元徳川家康軍が大軍で豊臣軍を討ち破った話を聞くことになったでしょう。

近くの臨済寺で学問を学び、家業の紺屋に関心は無かったようで、ひそかに町道場に通う少年時代、体格も良く、雄弁で、織田信長の血筋と周囲にほらを吹いていた。

・・・倭寇(ワコウ)という言葉があります。

倭は日本・日本人、寇は賊、外敵の意味、・・・13~16世紀、朝鮮、中国の沿岸を日本の海賊が荒らしたことに対する朝鮮、中国側の呼称。

さて、当時の日本国の国情は、ヨーロッパ人がこの国の文化に感銘を受け国体から食事の作法まで多くの情報を本国に送っています。

ライフ 人間世界史No.20 EARLY JAPAN から引用しましょう。

瀬戸内海や北九州の海賊が朝鮮・中国の沿岸部を荒らしまわり、何も対応できない朝鮮や中国にあいそをつかした沿岸部の一部の人々は日本船の乗組員として働き、・・・密貿易が繁栄します。

結果、西日本の大名にも富が流れ込んできます。

倭寇は、フィリッピン諸島、シャム、スマトラ、マラッカ海峡まで進出し、各地に日本の植民地が建設されていました。

これらの地で平和的に貿易が行われたが、現地の政治闘争にも、攻撃的で武力に勝る日本人が影響力を行使しています。

・・・ところが世は大航海時代に突入、1513年ポルトガルの船が中国に初めて到着します。

小型帆船に手漕ぎの倭寇船団が往来する中に、大砲を積んだポルトガル船が現れ・・・勢力図が変わってきます

中国人の密貿易者も多くなった時期に・・・中国の船が種子島に漂着し、中国人の中に三人のポルトガル人が乗船していました。

彼らは島民に鉄砲を撃ってきた。1543年のこと。

 島の領主、16歳の種子島時尭(トキタカ)がポルトガル人を手厚くもてなし・・・鉄砲2丁を銀2000両(数千万円~1億円)で買い取ります。

ポルトガル人は商人です、日本は金持ちと思ったのでしょう、後に大量の鉄砲を持ち込みますが・・・当てが外れて売れなかった・・・何故でしょう?

・・・種子島時尭は買い取った鉄砲の1丁は家宝に、もう1丁を分解し構造を学ばせます。

火薬、使い方・・・そしてネジの機構をポルトガル人に学びます。

・・・浜辺の砂鉄を利用して、刀鍛冶が苦労しながら、・・・翌年には国産第一号が完成。

種子島(鉄砲)は、堺(大坂)、国友(滋賀)、根来(和歌山)と生産地が広まり・・・独自の火縄銃が生産されていきます。

10年後には、需要があるので日本各地で製造され、・・・ヨーロッパの保有数を上回る30万丁とも言われます。

1575年の長篠の戦では、織田軍で1000丁以上(これまでは3000丁と言われていましたが)の鉄砲が使われたといわれます。

(火縄銃は1丁約数十万円と刀剣よりかなり安価で、鉄砲隊は短期間の訓練で実戦配備ができた)。

関ケ原の戦いの前には、世界の50%以上の保有数で性能もトップクラス・・・輸出もされています。

・・・関ケ原の戦いの前に、大分の臼杵湾に大きな帆船が漂着しました。

(堺市博物館 リーフデン号復元模型)

アフリカを回り遠洋航海、5艘の船団だったがやっとたどり着いた日本・・・生存者はわずか20数人、

日本に最初にやってきたオランダ船 (当時は神聖ローマ帝国です)「リーフデ号」300トンです。

イエズス会の人々は海賊だ処罰をと進言するが豊後の大名は、紅毛人(コウモウジン)と呼び彼らを歓待した

この船の水先案内人が、日本に来た最初のイギリス人、ウィリアム・アダムス、もう一人のオランダ人ヤン・ヨーステンの二人を徳川家康が招いた

彼らの情報は、ポルトガル宣教師らの内容と異なりカトリックプロテスタントの宗教戦争を知ることにもなったのでしょう。

やがてアダムスら二人は家康の外交顧問となり、その後多くのオランダ人がやって来て、九州・平戸を貿易港として使用することが許されます。

・・・さて徳川家康が関ケ原での大戦で大勝し、1603年朝廷より征夷大将軍の命を受け・・・武士のトップになり・・・終戦・平和な世となるのでしょうか?

いやいや、秀吉の息子と豊臣方の象徴大阪城の攻略が悲願であり、思案していました。

一方、石田三成、小西行長ら敗者の残党の中には、他国で一旗揚げようと南方に渡った者も多数いました。

家康は征夷大将軍になると同時に、対外貿易を始めます。

朝鮮との仲を回復し、安南(台南市)、ルソン(フィリピン)と交易を開始し、渡航は許可制として朱印状を授けます。

(史実 山田長政 江碕 惇)によれば、

1604年8月にシャム居住の与右衛門にシャム渡海の朱印状を授けた。

大阪城攻略には大砲が役に立つ、その砲弾には火薬・・・シャム産の火薬(焔硝エンショウ)は良質だった。

・・・長政の駿府にも海外渡船を許された商家が10件弱あった。

大名では、島津忠恒、有馬晴信、加藤清正、亀井玆知、細川忠興、長谷川藤正など。

商人では田辺屋又左衛門、今井宗忠などなど。

家康は長崎の豪商・木屋弥三右衛門に命じ毎年シャムに船を出し、シャムの宮廷にも出入りさせて、鉄砲、硝石(火薬の原料)、鉛などを買い入れさせた。

時の最先端の世界地図です。日本の国土にも、ヨーロッパから測量船が来てこれだけ調べたということでしょう。・・・伊能忠敬が活躍するのは、まだまだ先のことです。

山陰因幡の領主(亀井)が貿易で利益が上がることを知り、配下の者に長崎で300トンの帆船を建造させます。

懇意な老中より朱印状を手に入れ、京都、堺、大阪で物資を購入、領内の農民・漁夫をかりたてて水夫とし、シャム、カンボジアに乗り込み多大の利益を収めた。

その後数多くの貿易船を各地へ派遣しています、国内での造船が間に合わなくなり、現地での製造も依頼しています。

亀井家に現存している3通の文章のうちに、1606年家康が鉄砲20挺をシャム王に贈り、答礼としてシャム王が鉛千斤(約600kg)を贈った記載があります。

鉛は鉄砲や大筒の砲弾として貴重な輸入品でした。  家康が攻略目標の大阪城・・・大坂冬の陣まで8年でした。

以後1618年までに34艘の船に朱印状を与えている。

 ・・・さて、山田長政は、大阪に出向き北風が吹く時期に出帆する船をチェックし続けていました。

駿府の商人太田治郎右衛門、滝佐右衛門の仕立てた大宛(タイワン)行きの船、富士丸(400トン、長さ40m、幅12m内部に座敷が三つ、風呂の設備もあったそうです)

が晩秋になり大阪港で積荷が完了し、北風を待っている時・・・水夫姿の長政は出帆直前に潜り込みます。

・・・出帆後、大宛(タイワン)まで連れて行ってと名乗り出て・・・断られると・・・船主にも違法乗船の責任が及ぶと脅します。

しぶしぶ承諾させると・・・操船、水夫仕事も覚えようと積極的に仕事を手伝いながら長崎経由、大宛

そして大宛(タイワン)、ここでシャム行の船を待ちました。

・・・長崎から着いた豪商・木屋弥三右衛門の船に交渉し、アユタヤの日本人町に乗り込んでゆく。

長崎からシャムまでは船賃、銀50匁(約150g)・・・米2石(360リットル)≒米285kg、サァ 米換算で 10k≒1万円とすると・・・28万円位 

金と日本刀を持ち込んで密航したので、木屋さんには船賃を支払ったのでしょう。

 

当時(1610年頃)のシャム国は、もちろんアユタヤ王朝の時代です。

王は20歳で即位し現在25歳、オランダ、ポルトガル等との交易に重点を置いていました。

このアユタヤには、日本人町(居住地)が与えられていて、広さは東西250m、南北500m、約3万坪、ここに約2000人が居住していたと推定されるそうです。

・・・100人程度かと想像していたら2000人?

日本人の多くがシャム王の近衛兵をつとめ、戦時には外人部隊として活躍、平時は物資の買い付けや貿易に従事していました。

日本人町の北にオランダ人町、対岸にポルトガル人町、支那人町、マレー人町、コーチ人町があった。

(オランダ ヘーグ文書館 アユタヤ古図 を参考に 当時の様子を想像してみました、河川の幅は広かったようです)

日本人町の頭領はオープラ純広(スミヒロ)、オープラとは武官の位で少将、(上から3番目)、純弘は関ヶ原の戦い後単身因幡の亀井大名の指示で渡ってきていた。

(純弘は、1609年から1612年まで頭領)

アユタヤの都は、チャオプラヤ川に囲まれた(浮かんだような)東西4㎞、南西30㎞の町、デルタ上の土地にいくつか小島があり、河川が縦横に走っていた

(現在よりは湿地帯が多く、河川の護岸も洪水には弱かったでしょう)

長政は木屋の口添えもあり純弘に同居を許され、日本からの物資の積み替え、買い付けを手伝った。

日本からは、日本刀、金銀の細工物、京染の小袖、蒔絵の道具、絵屏風、銀など

持ち帰る物資は、紗(シャ)、ビロード、毛織物、豹(ヒョウ)、鹿、鮫の皮、鉛、火薬、サンゴ、メノウ、沈香(ジンコウ)、白檀(ビャクダン)、紫檀、黒檀など

しかし、木屋の船は南風が吹く翌年の春から初夏まで船出は出来ず、なお足りない物資の買い付けをしていた。

・・・25歳の王が精神に異常を起こし・・・王位継承問題が勃発・・・、策謀の疑惑で皇太子と貿易長官が処刑されてしまう。

王は間もなく亡くなり、末弟(ソンタム)が新王となった。

この貿易長官は日本人に好意を持ち、便宜をはかってくれていた・・・恩人が処刑され、仇を討てとオープラ(純弘)の号令一下、500人の日本人部隊が隆起した。

新王が寺院に参拝するとの情報で、寺院を包囲し王に三か条の要求を突き付けた。

1・日本人に敵対する高官二人の引き渡し、2.日本人に、居住、商業、貿易の権利を認めること(無許可っだったの?)、3.保証するなら数人の高僧を人質として出せ

分かり易いですネ・・・王は長政と同じく21歳、その場で3か条を承諾した(させられた)

・・・王宮に帰り、王はポルトガル兵に援助を依頼し、王の兵と連合部隊で日本人町を攻撃してきた。

長政はオープラに進言した。ポルトガル兵は大砲を持っています、城壁が無い日本人町は砲撃されたらひとたまりもない。

夜になったら脱出する、・・・1隻ある軍船に半数、残りの部隊は陸上に分かれ、約250km先の南シャムに向かった。

木屋の船でこの湾から川の上流に向かう際に見かけた要塞だった。

ここを本境地として長政は志願して軍船に乗り、水軍を指揮して神出鬼没の戦い振り、

やがて、もともと日本人に好意を持っていた王は、敵対関係を解消したく和解を申し入れた。

オープラは、和解の条件、1.チャオプラヤ河口の水上警備と、出入船の関所の管理権を日本人に委ねることを承知させた。

この河口には中洲があって船が自由に航行できなかったので、関所として関税を徴収するには最適地であった。

・・・ライバル国のポルトガルは約100年も前の1516年に通商許可を得ています。

遅れたオランダ(当時は神聖ローマ帝国)でさえ、1592年に通商許可を得てシャム産のコメを輸出していました。

日本人は・・・関ケ原の戦い後どっと増え、遅れてきた日本人が戦闘的だった面もあるようですが、

日本国の将軍にシャムの使節をたびたび派遣しているが、報告は日本人の教養・文化は他国を著しく抜きん出ているという。

貿易も信頼がおけ、信義に篤く、武勇も抜群と日本人は優遇されたようです。

・・・日本人町も再建され貿易も忙しいが、若い長政は・・・権力者は宮廷、宮廷の王に近づくには、正しくきれいな宮廷語、宮廷用語の研究に努めた。

武闘派の話題は、1212年、純広(頭領:オープラ)が日本に帰り、津田がオープラ(1612~1616年)を引き継ぐと間もなく、シャムとビルマで戦争が起こります。

長政は100人の隊長を任命され、鎧、兜、家宝の大刀を差し、背には旗指物、日の丸の下に「南無八幡大菩薩」・・・そして得意の弁舌をふるう。

日本人部隊は勇猛果敢な戦いでビルマ・ポルトガル連合軍に大勝します。

・・・ソンタム王は、自分の妹をオープラ津田の妻として与えた。(シャム王室の慣習の一つ)

王は津田に先陣の身体の大きい若い隊長は、名を何というか・・・彼に、一代限りの官爵名「オーク・バン」6階級の一番下の位を授けた。

宮中で、山田長政は王の前で任官式を行った。・・・今後姓名では呼ばず、官爵名で呼ばれることになった。

・・・アユタヤは水の都、陸路は無く、日本人町の間でも百位の船を所有していた。

オープラが津田から城井(1616~1620年)に変わるころ長政がかかわり大軍船を建造します。

長政30歳、駿府を出てから10年、1620年10月日本人町の頭領になります。

 

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AYUTTHAYA アユタヤ・・・かつて日本人が

2018-05-21 | 旅行記

気が付くと、春があっという間に流れて行きます。

アマリリスからハイビスカスの季節に

新緑の5月も・・・残り少ない週末になってしまい、・・・土曜日は運動会、曇天で幸いでした。

小学生全員参加の玉転がしも、盛り上がりました。

終了後、首都高速で・・・港の見える公園に

見事な庭園です

この色の名前は?ピンクオブプリンス?・・・イングリッシュローズ?、・・・若干熟女になってしまいましたが、・・・

停泊している船が見えます。

そしてマリンタワー、・・・山下公園、フェステバルが行われています。

近くのレンガ倉庫もイベントが行われ、多くの人出で賑わっていました。

PM7:00、中華街、先日のお店に再訪します。

今日は朝9:00から予約していた成人病検査があり、その後運動会に駆け付け・・・慌ただしい一日だった。

検査も終了したし、ゆっくり食事をして・・・PM9:00、ベイブリッジの夜景も素敵だが、

お台場からレインボーブリッジに入ると・・・高層ビルが日増しに増え景観が変化していくのに驚く。

・・・5月最後の日曜日、三社祭の次は、

金曜日から、今日の宮入まで本祭が続きます。

湯島天満宮、平成30年5月27日

PM2:00から「古事記伝の魅力」 本居宣長記念館館長の講演が参集殿で行われます。

・・・三重県松坂から来られた吉田悦之氏の講演・・・期待していた題材でしたが、

冒頭「講演時間が1時間の依頼ですが、話は1時間半くらいにすぐなってしまいます、今回は1時間と言われておりますので・・・」

と前置きがありましたが、本居宣長の生い立ちなどの話に55分、資料を配布された古事記は・・・残り時間10分強を使って・・・慌ただしくさわりだけ

・・・古事記の内容あれこれよりも、まず「信じること」と最初に強調されました・・・何故か宗教の布教に通じるものがあるのかと興味を抱いたのでしたが・・・

「古事記伝の魅力」因幡の白うさぎ、ヤマタノオロチが何故登場するのか?・・・学者肌の人は、伝いたい情報をアレヤコレヤト順を追って説明したいのでしょう・・・

本題にたどり着かず消化不良・・・本居宣長の功績で、古事記をどのように読むか、・・・そして読めるようになったようです。・・・別途、関係書を読んでみましょう。

本殿で大祭の祭典、玉串拝礼後、参集殿で直会の儀・・・初夏がすぐそこに

・・・ブログ、UPされずにありました。

シャム国 (現タイ国)の都、アユタヤ、しかし略奪されて廃虚の都です、・・・旧市街地?に入ります。

河川に囲まれたかつての都は・・・

このような案内板がありました。現在地は中央の赤丸です。

では、先程のワット・ヤイ・チャイ・モンコンは・・・右斜め下、緑の丸印です。

入口の手前に模型が展示されていました、マット・マハー・タート

ガイドブックによれば、1374年の建立。仏舎利を納めるための寺院です。

中央の高い仏塔がランドマークでしょう・・・塔の上部は豪華な金色に輝いていたそうです。

回りを小さな仏塔で囲み・・・さらに周囲を回廊が囲み・・・寺院の一番外側は立派な塀が続いている。

・・・では、内部に進んでみましょう。

これが中央の仏塔でしょう。レンガ積みの技術は相当高度な感じです。

このような目を引く看板がありました。タイ語、英語、日本語です。

中国語が無いのが・・・看板の作成が相当古いからでしょうか

観光客向けに、この様な行為は禁止ですと警告しています。

多分、管理されていない(放置された)状態の遺跡に見物客が押し寄せ、好奇心から探索を始め

そのような状態の写真が出回り・・・人気が出ると旅行会社がツアーを組み、観光客に場内が荒らされて

・・・多少管理をするようになった。推測ですが?

周辺に、・・・無残な残骸が集められていました。

坐像の胴体ばかりです、・・・頭部が人工的にカットされて、残っていません。

ビルマに約1年半占領され、その期間に荒らされてしまいました。

この都では、一部の仏像は頭部が金で光り輝いていたそうです。

寺院の宝物と金で装飾された仏像頭部は、隣国ビルマに持ち去られたそうです。

 かつては緑も多かった都だったのでしょう。

この大木をぐるっと・・・反時計回りに回り込んで、裏側に進みます。

見つめられましたか?・・・、 n・・・n、角度が悪い?

 有名な、撮影スポットです。

ガイドブックなどで、タイ国で仏像を撮影する場合、カメラ目線が仏像を見下す状態にならないように・・・

この場合、地面すれすれのローアングルが好ましいようです。

ビルマ軍に切り落とされ放置された頭部は・・・、自立しているのが大変なので、周囲のモノに支えて下さいとお願いすると

この様な感じでいかがですか?・・・共存共栄です

周囲は、・・・立派な構造物があったのでしょうが、この様な略奪された廃虚となって、・・・今日まで残っていました。

異様な光景です、両腕も切り取られています。

寺院の中央に進むと、何故か破損の少ない仏像がありました。

 金迫等が貼ってなかったのでしょう。

この仏像は・・・寺院内で狼藉を働く連中を一部始終目の当たりにしていたのでしょう。

彼らが引き上げると、悲惨な映像を脳に焼き付け、眼を閉じてしまった。・・・同胞が修理され寺院が復興なった日に、開眼するかも知れません。

このアユタヤは、タイ国の・・・かつての首都だった。貿易で繁栄した歴史上の仏教都市です。

しかし、1767年、略奪され、火災も発生し、全てのアユタヤ王国の資料が焼失してしまいます。

・・・近代になり、タイ国の国史で重要なアユタヤ時代・・・資料が少なく歴史の作成に事欠くありさまで・・・修復・復興は夢のまた夢。

 

残っているレンガも、建築当時から相当風化したことでしょう

足場が組まれ、倒壊防止の補修なのでしょうか、

この地は、・・・世界遺産(文化遺産)でした。都の復興は諦めて、現状を維持するのが大役でした。

「文化遺産:(3)現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくともまれな証拠。」

この樹木は・・・樹齢何年になるのでしょう

焼け落ちた都で生き残り、成長を続けてきたのでしょうか、それとも、代替わりをしたのでしょうか

・・・境内から戻り、・・・売店でマンゴージュース、ここのジュースは美味しいとガイドさん

バスに戻り、西に数百メートル移動し、次の寺院へ

グーグルの画像を拝借しましょう。

中央右上の赤丸から、左に移動して1ブロック先の赤丸が、Wat phra Si Sanphet ワット・プラ・シー・サンペット

上方が北、・・・北から左右に二本の河川が流れ、南東部で合流しています。

ここは、中洲のように周囲が河川に囲まれた水の都、海運業が発達した都、貿易の盛んな都でした。

 仏塔が見えてきました。広大な緑の境内が広がっています。

セイロン式の仏塔です。

残念、この地も・・・レンガ積の建造物が破壊されています。

・・・ここでも入口手前の建物内に、このような模型が展示されていました。

ガイドブックによれば、ここの寺院は 1491年に建造された第一級の王室守護寺院。

この都で最大規模、王宮と同様1767年ビルマ軍により破壊される。

石灰によって白くなってしまった3基の仏塔しか残っていない。

仏塔の近くに進むとこの様な案内板が立っていました。(上段の横長の看板と下段が別々に立っていました)

 上段が境内の全景・配置図、下段は境内中央部に建っている仏塔の案内でしょうか

境内中央から右側に

 景観にマッチするような女性が・・・ハムストリングの発達が素晴らしい

三つの仏塔を、何とか一つの画面に収めたい・・・こんな感じになりました。

 

これらの仏塔には15世紀、アユタヤを統治した3代の王の遺骨が納められています。

 

 

 仏塔の周囲の建造物は、壁だけが残っています。

全てレンガ積みの重厚な建物で・・・高さも結構ある、・・・

壁の立ち上がり部、黒くなっているのは火災の跡か、どのような内装だったのでしょう

 アユタヤが繁栄した時代、日本人もこの郊外に多く居住していたそうです。

 日本刀を差した侍は、この地の文化に触れてどのような感想を持ったのでしょう・・・何か資料は?

・・・侍の世の中は、1600年、関ヶ原の合戦以後大きく変わりました。

敗れた西軍・豊臣側は多くの浪人が誕生してしまいます。

士農工商、農民のあこがれだった武士が生活に困る時代、浪人が職業を生かすには・・・。

・・・浪人の一部が東南アジアに流れ、各地で傭兵・外人部隊として活躍するのは・・・帰れる保証は無いが・・・一度きりの人生・・・

世は大航海時代です。海路での貿易が活発になり、特に香辛料を求めインド・インドネシアでは各国の勢力争いが激しくなりつつありました。

長崎、堺の貿易商はもとより、貿易で大きな利潤が得られるうまみ知った各地の藩も東南アジアに駐在員を派遣する・・・そんな時代が始まっていました。

日本が東南アジアに資源を求めた昭和の始め、山田長政の伝記は小学校の教科書にも登場したそうです。

江碕  惇 著、史実 山田長政 を読んでみました。

染工(紺屋コウヤ)の息子が臨済寺で学問を学び、町道場に通い、体格も良く、しかし武士になれず、雄弁でほら吹き仁佐と呼ばれた人物が

1610年、20歳で堺から長崎経由台湾に密航します。台湾でシャム行きに乗り換え・・・目指すはシャム(現タイ国)の都アユタヤ

・・・1606年から8年間の間に30隻余の朱印船が遠いシャムに到着している、・・・そんな時代に青春を過ごした人でした。

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アユタヤへ

2018-05-07 | 旅行記

寺院(ワット・プラ・ケオ)の周囲を見渡してみましょう。

中央の寺院は?・・・資料によればプラサート・プラ・テープビドーンでしょうか。ラーマ4世が建立というと、ラーマ1世の孫にあたる人物です

この新しい寺院に、チャックリー将軍(ラーマ1世)が戦利品として持ち帰り、国の宝となったエメラルド仏を安置する予定だった。

しかし、完成後、・・・仏教行事を行うにはやや手狭で安置を断念し、替わりに歴代国王の像を安置することになったそうです。

寺院は、公開されていません。

多くの仏塔・建物をファインダーの中へ納めるのに一苦労・・・

日差しが強くなってきました、・・・時間は11時近い、

エメラルド仏は、現在本堂の西側に安置されています。

本堂内へは、入口の外にある下足棚に履物を置き、拝観することになります。

そろそろ この一角、ワット・プラ・ケオ寺院から、宮殿内に戻ることにしましょう。

廻廊には6つの門があり、各々1対の鬼が立ってい。ます

この大きな鬼の門番に挨拶して、・・・日傘が進む、出口方向に続きましょう。

出口の先では、多くのグループ(団体)が集合していました。あちこちで、人数確認が始まっています。

おそろいのハットは、引率する方にとっては識別しやすくて便利ですね!・・・人混みの間を縫って先へ進みます。

緑の芝生に囲まれた チャックリー・マハー・プラサート殿 が存在感を示していました。

洋館に屋根の上だけタイ風な感じです。

パンフレットによると、ラーマ5世により建てられ、1882年のバンコク王朝(チャクリー王朝)100年祭に完成したとあります。

イギリス人建築家にルネッサンス様式でと命ずるが、途中でタイ様式の進言を受け入れ・・・このようなスタイルになったようです。

・・・ラーマ2世(1世の子)の時代、隣国ビルマが度々侵攻してきたが、1822年西方インド・ベンガル地方にビルマが侵攻し、

・・・1824年、進出していた英国と戦争になり、ビルマは英国に占領されるきっかけになりました。

ラーマ1世が崩御すると、前王朝のタクシン王の子が反乱を起こします・・・

しかし、ラーマ1世の孫が制圧を命じられ・・・この反乱を制圧し、後にラーマ3世として即位します。

ラーマ4世は、前王朝以来続いていた清への朝貢を1854年に止めます、・・・そして西洋と自由貿易を開始し米を輸出します。

・・・さて、この宮殿を建てたラーマ5世は、現在のタイを作った国王として有名で、国民から絶大に尊敬されています。

即位が1868年10月1日です。即位後、欧米を視察旅行して自国の弱体を痛感されたのでしょう、改革に着手されます。

・・・(時を同じくして、日本では何が 起こっていたのでしょう。

1868年10月8日から一ヵ月間に渡り、幕府側の会津藩が会津鶴ヶ城に籠城すると、板垣退助の新政府軍は大砲を撃ち込んでいます。

徳川将軍が白旗を上げ謹慎していました。しかし、薩長は 内戦 に持込み、徳川側の人材をせん滅させ、主導権を握ろうと・・・。)

さて当時タイでは、英国やフランスが隣国を植民地にしていました。

ラーマ5世は他国のようにヨーロッパの植民地にはならずに、タイの領土の一部をイギリスやフランスに割譲して独立を守ります。

ヨーロッパの制度を取り入れ、奴隷解放し、中央集権化を進め近代国家へと・・・絶対君主制を確立しました。

1944年発行された小説「アンナとシャム王」、これを原作としたミュージカルや「王様と私」が欧米でヒットしました。

後進国のアジアの王が幼少時代、王宮で家庭教師アンナの影響を受け、・・・西洋化を遂げ、奴隷解放にも影響を与えた。

・・・そのモデルがラーマ5世で、欧米では先進国の家庭教師?・・・の美談でも、タイ国では上演されないそうです。

ラーマ6世はイギリスに9年間留学し、1910年11月に即位します。この王が歴代国王を「ラーマ**世」と呼ぶように決めました。

1917年7月、連合国側から第一次世界大戦に参戦し、その後国際連盟に加盟し、独立王国としての地位を確立しますが、・・・タイ国の財政は最悪。

弟のラーマ7世の時代1932年に、チャクリー王朝 150周年の式典を執り行います。

その後、クーデターにより絶対王政が終わり、立憲君主制国家となります。

王も望んでいたようで、絶対権力者から国家元首、新国家の象徴となり、国名も1939年6月シャムからタイと変更されました。

・・・ラーマ8世は1935年即位するもスイスで学業を続け、1945年第二次大戦後帰国したが、1946年他殺説が強い変死を遂げます。

そして、ラーマ5世の69番目の子息が即位します。当時、国王への信頼も権威も低下していました。

ラーマ9世 は努力し、1946年6月から70年間と長期間国王の座に有り、国民に慕われ、人気もありましたが 2016年10月 に88歳で崩御。

・・・子息は1男3女ですが、長女は外国人と結婚し、王位継承権は無くなっています

長男ワチラーロンコーン、1972年王位継承権、次女シリントーン王女1975年王位継承権が贈られています。

3女は王族以外との男性と結婚しましたので、王位継承権は無くなっています。

この長男がーマ10世として、2016年12月1日正式に国王に即位。

軍人の経歴が長く、離婚、結婚、離婚、結婚・・・他に愛人の風評があり、新国王の評判は?、ウッカリ話せない。

・・・シリントーン王女を待望する国民が多いとか、ラーマ10世の今後が気になります。

・・・

・・・王宮に入った正門(チャイシー門)から西に100m程離れたテ-ウェッド門が出口だった。

出口から東に進み、再度正門の前を通り大通りに出る、目の前は官庁街、国防省の横を東に向かって進む。

小さな運河を渡り、左の路地にはいると人気のスイーツ、アイスなどの青い街並みがあった。

この先東に400mくらいで大ブランコで有名な寺院があるのだが、割愛

タクシーでMBKセンターへ、タイ料理の昼食後、近くのサイアム・デザインホテルに・・・

午後のオプショナルツアー アユタヤ観光の集合場所です。PM1:00、大型バスはクーラーを利かせて待っていました。

近くの高速道路から郊外へ・・・チャオプラヤー川の上流に向かいます。

バンコクから北に80㎞くらい、アユタヤの中心部に入る手前に、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンがあります。

平日の午後、バンコク市内で若干渋滞し、現在時間 PM2:30近い、

市内より郊外が気温は高いようで 38℃くらいと聞くと首筋が痛くなってきた。

慌ててスポーツタオルを取出し、頭を覆いキャップを被って、扇子で風を送る。

・・・ドラえもん人気に驚いた祠の先で、ガイドさんが入場券を購入している、(20B位)

その先右側に本堂があり、売店で金箔を購入し仏像に貼って化粧直しに一役買うこともできるようです

この国では熱心に参拝される方が多く、仏教が身近なのに驚きます。

この本堂の左横から裏側に進みます。

途中から上部が見えていたのですが、非常に高い仏塔の全景が見えてきました。

スリランカ様式と北部インド様式を取り入れた尖塔、円錐形状の仏塔のようです。

崩れたレンガの先、左側に大きな座像が笑みをたたえていました。

この寺院はガイドブックによると、1357年建立とあります。

1351年に王朝を開いたようですから、数年後に先ずこの寺院を建立したのでしょう。

少し右に進んで、・・・仏塔の正面に立ちます

・・・近過ぎて、全景が入らない。

では、下がれるだけ下がって、・・・無理。・・・結果、合成写真です。

この仏塔、高さは、後年・・・正確に測ると72m、

1592年から93年にかけて当時のアユタヤ王が侵略していたビルマ軍と戦い、勝利を祝って建てたそうです。

王朝を開いてから約240年、成熟した都の悩みは、隣国ビルマの侵略が繰り返されることでした。

戦勝記念です、ビルマ王がアユタヤ郊外に建てた仏塔よりも高く建てるよう命じたが、測量技術も未熟で僅かに低くなってしまった。

一方ワット・プー・カオ・トンは高さ80mの仏塔、1569年に因縁のビルマ王が占領してビルマ様式に改修し、後年アユタヤにより奪還されタイ様式に再改修されているようです。

この80mの仏塔はアユタヤ北西の郊外に現存しますが、観光ツアーのコースに組まれてないようです。

搭の反対側、本堂の裏手はこの様な・・・仏像が並んでいました。

では、左側の仏搭に登ってみましょう、

最上部には、洞窟状の礼拝場がありました。

少し下った正面階段の左右に階段があり、上部に登れます。テラス状の外周に出られ時計回りで展望できます。

レンガ色の屋根と緑が調和しています。暑い、しかし緑が多いのが目に優しく素晴らしい展望です。

仏像が整然と並んでいる様は、確かに仏教王国です。

かつてはこの画面に、数多くの僧侶が登場したであろうと思うと・・・宗教の持つ力を感じていた。

仏像の頭上にある巻き毛の螺髪は日本の大仏にも引き継がれていますが、この髪型は・・・

ミニュチュアの搭?いえ、「ラッサミー」と呼ばれ 火焔飾り、放射される光を表現されているようです。

階段を下った左側に、怪獣が・・・ヤマタノオロチの親戚でしょうか?

この右側にも座像が置かれています。

レンガ積みの破損跡が・・・いにしえの都、破壊・略奪された無念な都が何かを語りかけてきます。

こちらにも数多くの仏像が並んでいました。

・・・もう一か所、ドラえもんの近くに急いで移動します。壁面の裏側に涅槃仏が・・・

多分ここは建物で覆われていたのでしょう。裏側に回り込んでみましょう。

全体が分からない・・・離れて

白い涅槃像立像では疲れるし、坐像でも・・・、

この状態で静かに長い間

・・・何を見てきたのでしょう・・・。

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王宮、ワット・プラ・ケオ は混雑していた

2018-04-29 | 旅行記

近年タイ王国は政権が不安定な状態が続き、その中で軍によるクーデターが起こり騒動が勃発、軍事政権化にあり、

重ねて洪水の被害やテロ騒動、国民から長い間尊敬された国王が亡くなり、息子が新国王に就任、・・・親日国家は今後も続くのでしょうか?

歴史を調べてみました。

貿易都市として重要な位置を占めていたタイ族によるアユタヤ王朝は、14世紀から約400年に渡り繁栄しましたが・・・

宿敵ビルマによって、1767年首都アユタヤは陥落、無残に破壊されてしまいました。

華人を集めてアユタヤ奪還に向かったタークシン(中国名:鄭昭)は無残な首都の光景に再建を断念、南に下りチァオプラヤー川左岸のトンブリーに王朝を建てます。

新王朝は清(中国)に認められず、周囲には敵対勢力が存在するので戦いに明け暮れる年月が続きます。

タークシン王は地元の寺院を改修し、これを守護寺院とします、その後この寺院はワット・アルンと呼ばれ今日に至ります。

タクシーン王国は、将軍チャオプラヤー・チャックリーの活躍もあり勝利を続け、1779年ヴィエンチャンを攻略しエメラルド仏を持ち帰り寺院に安置します。

15年間続いたトンブリー王朝に事件が発生します・・・人気のあったタクシーン王の最大の悩みはタイ族出身でないことだったようで・・・

副官から精神錯乱状態が続くと判断され幽閉されます、知らせを聞いて戦場から戻った部下により処刑されてしまいます・・・この王朝は、一代限りで滅亡しました。

・・・フェリーでチャオプラヤー大河を渡って右岸に向かいます。

船着き場から100mくらい先、左側一帯に白い城壁が続きます、この城壁内に王宮があるようです。

正面入り口は敷地の反対側(北側)になるようで、1kmくらい先まで歩きましょう。

持参のペットボトルを飲みながら、・・・観光客が吸い込まれる正面入り口に到着。

王宮にはふさわしくない・・・通用口と思われるような所で、上部を見上げる

よく見ると精緻な造りです。何やら金文字が

しかし、間違いないようです。ここは思ったより狭い正門(北門)です。

多くの観光客の流れに乗って中に入りましょう。

直ぐ左に王宮警備兵の詰め所があり、警備兵に右側の列に誘導され、服装チェックを受けます。

サンダルの人が結構多いのですが、最近は・・・入場黙認?のようでした。

左の芝生の先に仏塔が見えますが、直進します。

正面門の向こうに宮殿が見えます、しかし、ここのゲートからは入れないようです。

左右の角々に10か所以上の人混みができています。

大声で身振り手振り説明を始めるのはガイドさんでしょう。アジア系の団体客が多いようです。

・・・さてと、この先右側のトイレに行ってから、・・・チケット売り場の案内がある左の建物へ進みます。

室内に入り行列の先、売り場の窓口上部に、500B/人 との表示がありました。

n・・・ン!、1,800円? タイの物価で高すぎるだろう!、 50Bの間違いでは? 見直しても・・・確かに500Bです。

・・・一旦外に出て、手持ちのバーツ紙幣を確認する。

少ない・・・、この後食事、ホテルまでタクシー・・・、しかし、悩むことは全然なかった。

その様な外国人旅行客のために、・・・お金はこちらで・・・目の前、同じ建物のチケット売り場の横に、宝くじ売り場のような両替所の窓口が完備されていました。

・・・両替えは、1B=15円ほどで・・・両替完了。

再度チケット売り場に並びます、・・・外国人だけの列です・・・タイ人は無料のようです、・・・タイ国で一番の観光資源です、観光客相手に良い商売を考えたものだと感心です。

3列に並び、改札ゲートから入場です。

ゲートを抜けて・・・通路を進むと、・・・建物入口の上部に・・・直進と左折の矢印が

 文字が3行・・・上から〇△◇(・・・タイ語)、Entrance(英語)、入口(日本語)と手書きで・・・順路のようです。

足元に気をつけて下さい・・・アナウンスが必要と思えるような、ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)の入口です。

狭い入口を進みます、両側の壁面描画は猿将軍でしょうか?

正面の寺院の屋根には、見事なクワガタの足?、・・・失礼、魔除け、鳥の頭部の様式でしたか

飾りの名称は、チョーファー:ここの寺院ではタイの守護神、聖鳥ガルーダ(ヒンズー神話から・・・タイ王室の紋章)

他にも想像上の水鳥や象の鼻など・・・これが無いと寺院とは認められないようです。

 ・・・案内に従い、左に曲がると

 

この入口を大きな1対の鬼(ヤック)が守っています。

入口付近は大混雑です、流れで左に進みましょう。

右側に開けた所で一旦停止、左に別の鬼が、赤鬼と緑鬼です。これは双子のようです、

赤が弟、緑が兄で多分あっているでしょう。

この寺院の鬼の手をジックリ見て下さい。

中指に金の指輪をしています。これらのヤックは、ラーマキエン物語に登場するようで名前もあるようです。

こちらは白い身体で小指に指輪をしています。

後ろの建物で日本語のパンフレットを頂いて来ましょう。

ここタイでは、ヤックが門番のような役目をしているので人々に人気があるようです。

表紙に大きく掲載されています。

ワット・プラ・ケオは地図の左角の部分で、王室の守護寺院、ここに王宮と共に1782年に建設を始めています。

お寺ですが・・・王宮の守護寺院で修行する僧侶はいないとのこと。

どうです、右側の奥から入ってきました。この右側の建物に2対のヤックが立っています。

スライド状のような屋根の建物が本堂です。

行列が出来ています、内部に入ってエメラルドの仏(高さ66cm)を拝観する列でしょうか?

先程の王宮のご案内によれば 実際は緑色の翡翠で彫られ、この仏像の由来は、1434年チェンライにある仏塔が落雷で破壊され、

漆喰で覆われた仏像が発見された。漆喰の剥げた部分から緑色の仏像が現れ、取り出された。

チェンマイの王が継承し、後継者の王女の主人がラオス王になり、ラオスに226年間留まっていた。

1778年ラオスの都ヴェインチャンを占領し、エメラルド仏を再びタイに持ち帰ったのがチャオプラヤー将軍。

この仏は、ワット・アルンに持ち帰り、置かれていました。

将軍が仕える王は、タークシン王でした。その王はその後、副臣に幽閉され、戦場から戻った部下に処刑されました。

その部下とは、チャオプラヤー・チャックリー将軍です。

1782年、チャオプラヤー・チャックリー将軍は、川向うからバンコクの地に都を遷都し、チャクリー朝を開きます。

(現在のタイ王家)後に「ラーマ1世」と呼ばれます。

1784年に、この王室守護寺院にエメラルド仏を安置しています。

残念ながら本堂内は撮影禁止です。

本堂の北側には、上部テラスがあり、ロイヤル・パンテオンなど特徴のある建物があります

人通りが多く、撮影は手早く・・・

ここでも、しっかり支えていました。

外側の建物には、ラーマキエン物語が描かれている回廊が続いています。

確か、北側が最初と思いましたが、順を追って観ていないので・・・何とも。

北東の建物では、日差しが強くて床に座って一休み・・・

こちらの建物は、陶器が素晴らしいです。

屋根もアップにしてみましょう。

独特のデザインです。

ブッダにふさわしいような花柄で、鮮やかな彩色です。

こちらは、経堂 プラ・モンドップでしょうか。

そして西側に、黄金の仏塔(チェーディー)

仏舎利が安置されているとのことです。

すごい人混みです、シッカリ門番してよ!

この方は、誰でしたか?

仏塔の西側高台におられた方だと思うのだが・・・

連休明けに、整理の続きを・・・

 

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ワット・アルン

2018-04-10 | 旅行記

バンコクの観光は、王宮とワット・プラ・ケオから始まるなどと案内しているガイドブックが多かった。

当初はその順路を計画した・・・電車で王宮の最寄りの駅まで行き、そこからタクシーを利用しようと考えていた。

次に隣ブロックに進むと涅槃仏で有名なワット・ポー(ポー寺)があり、さらにチャオプラヤー川を渡し船で渡り対岸のワット・アルン(アルン寺)の観光コースだった。

・・・タクシーは、初乗り料金が安く捕まえやすいが、渋滞区間を通ることを理由に乗車拒否されたり、メーター不使用で高額料金を請求されることがある・・・などに注意ともあった。

ワット・アルンの後は、・・・どうするか、郊外の遺跡アユタヤーに行くには、・・・バンコクの北方約75㎞に位置していた。

江戸時代より長い400年以上の王朝が、日本の戦国時代に繁栄していたそうです。日本との貿易も盛んであの有名な日本人も・・・。

そんなアユタヤー遺跡を回るにはレンタカーが欲しい、無理だとすると電車と徒歩では、・・・熱射病になる、・・・ツアー!、オプショナルツアーがあった。

・・・バンコク到着前日に計画を変更し、対岸のワット・アルンを比較的時間に正確なフェリーで最初に訪問する方法を探しだしたのだった。

しかし、行き過ぎて結果的に早々にタクシーにお世話になった。メーター通りの料金にチップで50B未満だったと思う。

建屋の先に塔が見える。・・・飾り気のないここは裏門でしょうか?、 境内を見ると、・・・すぐ右側に切符売り場があった。

入場券:50B(180円位)

にぎやかな団体客が右側からやってきました。・・・高校生の課外授業でしょうか?

空を見上げるような塔が目前に迫っています。

この建物は、いきなり・・・メインディッシュ・・・でしょうか。

・・・雷門を抜けて、門前町、仲見世通りをユックリ散策してから山門、左に五重塔、右に手水舎、正面浅草寺本堂と徐々に気分が高揚するのは良いものです。

残念ながら、境内の情報を持たないまま裏から入ったので、突然の大仏塔に・・・この高い塔が多分タイのコイン(10B)に描かれた高さ75mの仏塔でしょう。

・・・左側に大きな掲示板があります。

仏像に登るのは厳禁・・・などの注意事項ですが、NOという文字と写真が目立ちます。

タンクトップ、背中の露出、短パン、全て入場にふさわしくない服装で、×と分かり易いです。

・・・空港で出迎えてくれた現地ガイドさん(女史)が車中で、この服装では寺院に入れませんよ、着替えて下さい

とアドバイスされたのがダメージパンツ、・・・ジーンズで若干膝頭が見える服装でもOUTとのことでした。

・・・看板の左下の部分は、・・・なぜか覆い隠されています。

この部分は従来は規制していたのですが、最近OK、入場認めましょう・・・と基準を緩めたのはなぜでしょう?・・・正解は?・・・ワカリマセン

少し左に回り込んで、塔から目一杯離れて全景を・・・、と思ったのですが思いのほか境内が狭く、後ろに下がれずファインダー内に収まりません。

階段の前には四天王のようなガードマン、・・・とにかく、ここは境内の中でどのような状況にあるのでしょうか?気になります・・・

目の前の階段を登り、出来るだけ高い位置を目指します・・・

周回できる廻廊があります。

床からの立ち上がり部には、陶板のようです。中国の影響でしょう、空間の処理が上手ですね。

 

 さらに上部にも回廊があるようです、これだけの絵柄を陶器で焼くのは、相当な資力です。。

この幾何学文様は中華のようで、・・・イスラムの影響も受けているのでしょうか

1/4周もすると、上段に続く階段がありました。

この階段は最近まで登れたのですが・・・、昨年秋、全体の修復工事が終了して喜んでいたのですが・・・、

国王が変わり、登坂は禁止となりました。上部の階段は相当急傾斜です、禁止でやむを得ないでしょう。

塔の上部に牙のような物が見えます。

牙が3本?・・・いや、大きく長い3本は、象の鼻ですが、3面象?頭が3つありました。

この像の上に騎乗している者がおります、右手に何かを持っています。・・・これは調べてみましょう。

・・・検索(ウィキペディア)で調べると、インドラ神が三つの頭を持つ象アイラヴァータの上に鎮座しているとありました。

インドラ神:古代インドの神話における天界の軍神、像に乗り金剛杵の武器を持つ。

・・・このタイ国は仏教王国ですが、仏教が生まれたのはインドです。

インドでは、紀元前カースト制度のバラモン教と後に呼ばれる宗教が生まれ、バラモンという最上位の身分の者は僧侶達でした。彼らによってインドの神様がたくさん作られたようです。

日本の奈良時代もそうだったようですが、特権階級の僧侶はやがて腐敗してしまいます・・・改革しようと仏教 が生まれ、バラモン教は衰退をしながらも変化して生き延びます。

その後、西からイスラム教も渡ってきます。偶像崇拝を禁止するイスラム教は、仏教を圧迫したでしょう。

今日、そのインドは身分の低い階層の信仰をも取入れ、バラモン教から変化したヒンドゥー教の国です。

インドの北部チベットのカイラス山(標高6656m)は、チベット仏教などでは信仰の山とされ聖地ですが、この山は古代インドのヒンドゥ-教でも聖地とされ、宇宙の中心の創造の山、須弥山(シュミセン)となって神話の世界に登場します。

この須弥山の頂上には天上界があり、忉利天(トウリテン)と称される所に喜見城(キケンジョウ)があり、そこに帝釈天(タイシャクテン)が住んでいるとのこと。

・・・まさにこの階段の上の一角が忉利天であり、神の乗り物とされる象と帝釈天がそこに存在しているようです。この頂が天上界の一部のようです。

・・・この階段の麓の回廊で振り返ると、黄金の仏像がありました。

よく見ると、これは珍しい・・・門弟のいる光景です。

こちらは、仏陀と菩提樹 では無いでしょうが、その様な雰囲気の構図です。

再度、振り返ってこの境内で一番高い仏塔を見てみましょう。

塔の先端は、写真で見るチベットのカイラス山に似ています。

これはシヴァ神の象徴の形(バラモン教)でもあり、神話の時代は・・・ギリシャ神話の神も元気で色欲です。

・・・ヒンドゥー教では、輪廻転生(六道の世界)の教えがあります。

六道の世界(六欲界)は日本の仏教でもよく見かけますが、・・・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の世界を輪廻転生(リンネテンショウ)、・・・生死を繰り返すとの教えです。

須弥山(シュミセン)の中腹から下側は、・・・当然ながら人間界などの五道があり、上の方に天上界があるという。

階段でかつて登れた最上段までが人間界であり、それから上段は天上界を表わしているのでしょう。

天上界は、想像上の須弥山の山頂までが二層に分かれ、下天(ゲテン)・・・(信長が人間50年、下天に・・・使った下天です)その上に、忉利天(トウリテン)があるとされます。

・・・各種資料を斜めに目を通すと、高野山で空海が根本大塔で曼荼羅の世界を立体的に具現化しようとしたように、

神話の世界、宇宙論を具現化しようと、従来の高さ16mの仏塔を現在の約75mの大仏塔に大改修されたのは、19世紀、ラーマ3世の時代とあります。

中央に大塔、周囲に小塔を4塔配置し須弥山の世界を表現しているようです。

四方の峰に(4つの小塔)八天があり、(小塔は、下側はスリムな形だった)

これらを合わせると三十三天と呼ばれます。

・・・天上界はまだ続き、ここから上は四段階の層になり、山頂の上空・・・空中に浮いているそうです。(計六層が天上界との教えです)

 

この天上界まで、欲望や煩悩と縁が切れない六道の世界、・・・輪廻転生の世界です。

ではその天上界の上には、声聞界(ショウモンカイ)、縁覚界(エンカクカイ)、菩薩界(ボサツカイ)、仏界(ブッカイ)があるという。

この古代インドの教えや、仏教では、六道と天上界の上の仏界まで合わせて十界(ジッカイ)であり、

仏界にあるのが、・・・天国ではなく・・・極楽浄土、・・・仏教の極楽浄土の世界は、この天空にあるとの教えです。

・・・境内の隅に移動して、小塔から奥の大塔を見上げてみます。

大塔の上部の階段が急傾斜なのが分かります。

・・・下界で、向こうに黄金の仏像が見えます。

優しい顔立ちの仏像でした。

境内の散策がほぼ終わり、思ったより狭い、正方形のようです。

・・・出口に向かいましょう。

ここにも恵比寿大黒様のような仏像がありました。

そして、警備員がいる正面から・・・境内を後にします。

大半の観光客はこちらの正面入り口からの入場となります。

左右にある建物・・・境内に向かって、右側の内部に入ってみましょう。

いきなり華僑の香り、中華の雰囲気です、提灯が下がり・・・

金色、赤、緑、鮮やかな色彩が溢れ、奉納品が所狭しと・・・

奥には、落ち着いた雰囲気の仏像が沢山・・・寺院を出て

ここまで離れてくると、やっとワット・アルンの全景が見えてきます。

左から小塔(大塔と形が同じ)、一つ飛ばして、中央に大塔、重なって手前に小塔、また一つ飛ばして右端木立の向こうに小塔と見えています。

残る小塔は、大塔の裏側にあり、四方を囲む配置が見て取れます。

更に川の上流側に少し移動します。

案内板がありました。

・・・北にあたる右側が川です、上流は上(西側)です。

上流に行き過ぎてタクシーで左側の道路を上から戻ってきて、中央よりやや下の小道を右側に進んで大きな正方形の境内に入ったのでした。

正方形の境内の右側に、小さな二つの長方形の建物があり、この間を通って正面入り口から出てきました。

そして上流(上方)に進むとこの案内板があり、近くには長方形の大きな建物があります。

これが、その建物です、このようなタイ国らしいオレンジの屋根の寺院は、温かみを感じさせてくれます。

タイ国政府観光庁のワット・アルンの案内文です。

アルンとは「暁」という意味で、三島由紀夫の小説「暁の寺」に描かれた寺院です。

アユタヤ時代に建立され、当時はワット・マコークという小さな寺院でしたが、1779年、トンブリ王朝のタクシン王がエメラルド仏を祀りワット・アルンと名付け、第一級王室寺院としました。

トンブリ王朝からチャクリー王朝となってからはワット・プラ・ケオが第一級王室寺院となり、エメラルド仏も移されました。

大仏塔の右にある本堂はラーマ2世の建立で、台座には王の遺骨が納められています。

本堂 です。

門番のヤック(鬼)がいます。

これは、タイ人は誰でも知っている「ラーマキエン物語」(古代インド、バラモン教の「ラーマヤナ」のタイ国版。

冥界が登場し王が王妃を取り戻すギリシャ神話のような、

昔話の鬼退治のような、ヤマタノオロチが登場する建国物語のような、

元祖インド版は悲しい最後、タイ国版はハッピーエンドで長い物語に・・・そんなこんなで鬼も人気があるのでしょうか。

船着き場は、何ヵ所かありましたが上流のこの建物から、対岸に渡りましょう。

WAT PHO と赤い大きな矢印で分かり易いですね。

片道切符4Bを購入し、間もなく乗船です。

 

少し上流に進みユーターン、横断です。のどかな春の海、下流に高層ビルが見えます。

 右にワット・アルンです。

・・・やはりワット・ポーから川を渡って、・・・この全景を、この景色を眺めてからワット・アルンに入場するのがお勧めです。

 

直ぐ対岸かと思っていましたが、なぜか横断と接岸に時間がかかっています。

大きなエンジン音を響かせて、危険なボートが結構走っています。

何故このような水しぶきを飛ばして走行しているのでしょう?

多分、他から取り外した中古エンジンを再利用しているようです。

エンジンを船底において水平にシャフトを伸ばし、船尾に孔をあけ(防水して)船外にスクリューを取り付けるには・・・難しい。

エンジンを船尾の甲板の台に取付け、台を上下左右に動くようにします。

そのままシャフトを長くして、スクリューを水面から水中に上下に動かしながら出し入れしているのです。

水平に近くなれば推進力が大きくなるので、水面近くでこのような水しぶきを上げながら他の迷惑顧みず商売に励んでいるように見えます。

 やっと、ワット・ポー側に接岸します。

桟橋から・・・この小屋を目指します。

建物内では、渡し船の切符売り場があり、食堂や売店もあります。

薄暗い通路を抜けて・・・AM9:40 まだ10時前でした。

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通勤ラッシュ前にバンコクの街へ

2018-04-02 | 旅行記

現地時間、AM6:30頃ホテルに到着、車から降りると・・・日が明けてきたようです。

早速 真夏のバンコク仕様に・・・着替えが必要となります。

フロントに荷物を預け、バンコク市内の観光案内地図を入手し、出かけましょう・・・今日の予定は、PM1:00まで自由行動。

午後にオプションツアーで、アユタヤ観光を予約しているだけだった。

・・・バンコクの通勤ラッシュは道路以外に電車も相当混雑するそうで、早めに電車に乗ろう・・・気が焦る。

時間は朝7時ちょっと前、繁華街のスクンビット通りを最寄りの駅に向かって歩く。

右側の道路、・・・車は日本と同じ左側通行です、これは良い、行き先に向かってタクシーを拾うにも分かり易い。

さて、道路の上を走っているのは・・・高速道路ではなく・・・上の方に架線が見えます、これが高架式の鉄道です。

道路の渋滞緩和に期待されて、1999年に開業した天空を走る鉄道スカイトレインです。

目前に横断橋のように道路に架かった橋が見えてきました。

左に見える大きな曲面が特徴のモダンな建物は、ターミナル21、有名なショッピングモールです。

ターミナル21は、2階で右側の電車の駅と繋がっていました。帰りに寄りましょう。

・・・手前の階段を上がって、これから道路の中程の通路を100mくらい駅に向かって歩きます。

このスカイトレインは、券売機がコイン専用が多いとのことでホテルで適当に両替してきました。

駅到着。・・・改札の手前で券売機が1台見えました。その横には路線図で駅名が表示されています。

この駅はASOK(アソーク)と言うことが解りました。

これから乗る緑の路線から、青の路線に乗り換える駅は・・・4駅先のSIAM(サイアム)のようです。

・・・そして5つ目くらいでチャオ・プラヤー川の手前の駅、SAPHN TAKSIN(サパーン・タクシン)が目的地です。

その駅には、数字が37か42か忘れたが表示されていた。券売機にも数字が表示されたボタンが並んでいる。

最近値上げされたばかりのようです。

では切符を購入しようと券売機に小銭を適当に投入するが、なかなか表示の数字に達しない。

適当に7~8個以上入れても反応が無い・・・一番大きなコインが10B(バーツ)で、それ以下はあまり役に立たないのに気が付いた。

これで3人分を購入するには、・・・大量のコインは・・・無い、・・・日が暮れると気づき、リセット、返金を受ける。

・・・改札横の窓口で購入するのが早い、担当はスキルアップのために娘の役目、係員に行き先の数字と人数を説明し、カードサイズのプラスチック製切符を購入することができた。

カードを投入し自動改札を通り抜け、右側の階段で上階のホームへと思うが・・・表示されている行き先のタイ語は理解不能

係員に、コートート、サイアムと言うと右側の階段を指示して丁寧に教えて頂けた。

初のバンコク、BTS(スカイトレイン)ホーム、ここは地上3階のようです。

んn、何か?、ホームの縁にあるのは、安全扉のようで扉でない、デジタル・サイネージ(電子看板)が置かれているようだ。

駅構内、正面のビル壁面、あちこちに・・・多くの大型映像が流れているのに驚いた。

この街は雑然としているが、最近再び経済が上向き、活気にあふれた大都会、想像以上です。

電車が入って来て、多くの人が降りてきました。

ここから多少歩くが、メトロ(MRT)地下鉄に乗り換えができる利用客の多い駅です。

先程入手した路線図を見てみましょう。(メトロは青の細いコの字、一路線のみ)

分かり難いが、黄緑の路線(スクンビット線)右横から9個目の駅から中央で紺色の(シーロム線)で左下の青い川岸の駅まで行きます。

後にこの路線図が失敗の要因になりましたが、・・・

電車の中は、清潔な車内で安心・・・

(東京で昨夜、浜松町に向かう電車、・・・何故か黒いカラが沢山ぶらさっがているような異様な光景に出会いゾッとしました。

車内には、幅広のトライアングル状の取っ手と長い柄が、全て真っ黒な樹脂製で・・・無数に狭い間隔でぶら下がっていたのです。

黒は再生樹脂が使えるし、汚れが目立たない?・・・そんな下らない理由ではないでしょうが、久しぶりに乗った電車が、

・・・いつの間に、こんな黒い物体がぶら下がったデザインが採用されていたのか、これが最先端の東京?・・・何故話題にならないのか?・・・驚いたばかりでした)

そんな事を思い出していると、・・・乗り換えです。

さてと・・・人々の流れは一方向・・・下りエスカレータに乗りましょう。

下の階で、多分左だろうと・・・左に進むと・・・違う電車のホームのようです。

ここは3階、先程降車したホームは4階だったのでしょう。

しばらく待っていると、右側から隣の始発駅を出てきた電車が入って来ました。

電車に乗り込み、ドア近くに立っていると、こんな風景がありました。

AM7:37、この路線に乗り換えて間もなく、カーブの所で郊外から都心に乗り込む高速道路の渋滞が目に飛び込んできました。

走っている車は圧倒的に日本車です。バイク通勤が多いのは、アジアの特徴・・・走行が?、3車線が当然のごとく6車線になっています。

・・・降車駅を間違えずに下車し、進行方向の出口に進みます。

進行方向に川があるはずです。

改札を出て高架鉄道の下の道を川に向かって進むと、船着き場が・・・左に一か所と思ったが右側にもボートが見えた。

何かタブロイド版のようなペーパーを配布している人に話しかけようとすると・・・手を振り、何故か避けられた。

古風な船や、高速ボート、小型観光船、乗合船・・・イヤーいろんな船が人々を運んでいるので、これは困った。

先程の路線図で、川の左岸にお寺のマークの表示が2,3個あった・・・行き先は川の左岸のお寺。

路線図の寺の名前は、・・・文字が小さくて読めなかった。

・・・左に進み家族の者が小さな案内所の係員に、地図を差して、どこの乗り場のどの列に並ぶのか教えてもらった。

一番左の大勢の列のようです。途中で切符を買う、予想外に安かった。

計画ではチョプラヤエクスプレスボート、50B、高速船で15分くらいの予定だったが、忘れていた。

他の代替手段でも良いだろうと列に並んだ。

10分弱並んでいただろうか、異様に高音のホイッスルの音がして乗合船が接岸し、乗船が始まった。

 

この付近で川幅は、・・・200mくらいかな。

川の右岸で、船着き場らしいのが見えた、通り過ぎてから船員のホイッスルが鳴り、停船、バックし始めた。

まもなく発進、乗り降りがあったのだろう。

乗り降りは、船体後部の甲板が桟橋と同じくらいの高さになり、この後部から乗船します。

屋根が付いた船室に階段を降りて入り、中央に通路があり左右に2座席の椅子が並ぶ。

通路にも客が並び、100人位は乗船しているでしょうか。

年配の女性が検札にやって来た。乗り場から新しいお客が乗船すると、検札に周って来る。

欧米の観光客も結構乗り込んでいたが、もちろん地元の人が、通勤を始め気軽に利用する安価な交通手段です。

川の右岸に独特の屋根を持つ寺院が見えている。

やがて、外人観光客が後部に移動し始めた、・・・川の右側を上流に向かってずっと走っていた。

ワット・ポー(涅槃の巨大な大仏で有名)や王宮は後で行く予定だった。

高速船は川の左岸の寺院に停船するらしいが、通常の各駅停車は川の右岸を次々に、・・・エッ、左岸には行かない?。

・・・チャオプラヤー川の右岸を次々と弓上に上流に続く航路が書かれていたのを思い出した。

この船はワット・ポー側に着いてしまう、一旦降りて、往復切符を買って(8Bと安価)川を横切るしかないか?

後方に移動しようとすると・・・椅子に座っていた家族が手にしている路線図をのぞいて、後ろの座席の老紳士が尋ねていた。

家族が指さすのは、・・・川の左岸にある寺院マーク。

老紳士・・・ここではない、まだ先、大丈夫・・・と下船は早いとアドバイス。

船内からは後部甲板は見えないが・・・ホイッスルが鳴り、多くの人が下船したようです。

チャオプラヤー川の左岸の寺院と言えばマークが三つあったが、暁の〇〇寺院は別格で有名だから説明しなくても間違うことは無いだろう。

しかし、気になるのは、ワット・ポーの川の反対側に位置するので、先程がワット・ポーだったと思う、・・・多分通り過ぎた。

ウーン、地図を取り寄せ左岸を見ようとすると、老紳士、大丈夫まだ先、安心させようとする。

結局10分以上走ったか、・・・マア、川の左岸に着けば多少行き過ぎても大きな街でしょう、何があるか散策も楽しみです。

陸続きだったら、・・・タクシーでなんとかなるでしょう。

思案していると・・・老紳士、・・・後ろへと親切に下船の移動を勧められた。

お礼を言って下船

ここで降りたのは、他に数人だった。時間は、AM8:17。

何か、観光地の大寺院とは違う、学生街、役所?

改札を出ると、ロータリーや広場は無く極小寺院が出迎えてくれた。

少し歩くと、緑の街路樹?公園?右側に近代的な建物

予想外の散策コースに戸惑い、ここはどこ?

船着き場からの道は、公園内の遊歩道のような感じです。

50mくらい進むと、突然目の前にUの字の道路が現れた。

この先前方100mくらいに交差点があり、右側のビルに沿って2車線の道路が目の前にきてUターンして、左側のビルに沿って交差点に戻っていく。

両端の道路の真ん中に下り坂の2車線の道路があるが・・・多分地下駐車場に出入りする道路でしょう。

左の建物に沿ってビルの横の軒下のような歩道を進んで交差点にたどり着いて、右前方は塀の中に駐車場、内部に小規模な寺院が見える。

左は狭い道路、左前方は古びた塀の前に露店が並び朝の食事の人々が見える。

予想外だった、散策するには刺激が無さすぎる・・・ロータリの交差点を渡り、塀の中の寺院へ

100mくらい進んで断念した、多分この先に駅がある、目的の暁の寺院より相当上流に来てしまった。

・・・戻ろう、先程のロータリに近づくと、派手な女性に声を掛けられた。

スーツケースも引いてない、ガイドブックも開いていないが、交差点から駐車場に入り5分もしないで違う所から戻って来た。

・・・困りごとですか? どこに行きたいのでしょうか?。

忘れていた、スマホのエバーノート(メモアプリ)にスケジュールをメモしておいた。

調べ始めると画像が表示されるのかと彼女ものぞき込むが、文字ばかりで・・・、

・・・”ワット・アルン”と言うと、すぐに納得して、ロータリの警備員?にタクシー を止めさせた。

そして、親切にドライバーに行き先を説明し乗車させてくれた。

丁寧に礼をしなければ・・・コップン・クラップ、コップン・カ と皆でお礼を述べてタクシーへ。

改めて、路線図を調べると、川の左岸に3か所寺院のマークがあったのですが、目的地は中ほどのマークが Wat Arunでした。

ここは目的地から2.5kmくらい上流の一番上のマーク Wat Rakhang でした。

寺院のマークの横に駅のマークがありThon Buri RailWay Station の表示がありました。

先程の両側のビルは病院でした。

多少渋滞に巻き込まれることになったが、ワット・アルン(暁の寺院)の裏側付近の道路で、タクシを降り、

真っ直ぐとのアドバイスで、・・・

裏側の入口に向かいます。時間は8:45です。

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暑いバンコク、東京もあっという間に桜が咲いた

2018-03-31 | 日記

東京、桜が開花して・・・突然雪が降り、そして5月並みの陽気が続くと・・・気が付くと桜は?

3月29日金曜日、枝垂桜で人気の六義園(リクギエン)に夜桜見物に出かけた。

駒込駅の近くに駐車し、駅から2分の・・・この期間だけ特別に入口を開放している六義園の北の角、染井門に向かいます。

警備員がいて、入口もライトアップされ、イベント会場の入口です。

4月5日迄のライトアップでPM9:00まで延長して公開してますが、今日明日で正面のエドヒガンだったと思う枝垂れ桜は・・・

大変な人気のようです。

庭園のアップが

上の案内図で、左下が現在地今回はここから入園しますが、できれば左側は本郷通りで、この通りの右側を都心(本郷、御茶ノ水)に向かって300mくらい進み

右に折れて100m位の所にある正門(上の案内図の左上)から入って枝垂れ桜を鑑賞するのがお勧めです。

ライトアップの案内図があります。

この案内図では、入って左に進み、時計回りに庭園を鑑賞することをお願いしているようです。

この染井門から左に進むと

この画面の中央広場にでます。右が染井門

左に進むとお目当ての枝垂桜があるのですが・・・

nnn、・・・もはや、桜吹雪のようです。・・・夜桜鑑賞で良かった。

・・・探すと、微かに遅れて咲いているのがありました。

正面から入ると、強烈な印象が味わえます。

これは、閉演時間ですから人影が少ないのですが、

また、正門から管理棟を左に見て、左に進まないとこの様に周囲の光景が目に入りますので

下を向いて進んでみましょうか?

さて枝垂桜、エドヒガンはソメイヨシノより開花時期が少し早いといわれています。

大島桜と江戸彼岸の交配が染井吉野のようです。

左側の空間が残念です。

樹齢70年、高さ15m、幅20m、エドヒガンの枝垂桜

2011年4月の同じ位置からの写真が見つかりました。

・・・ライトアップが多分依然と違うでしょうが、これも閉園直前に撮影したものです。

 

もう少し右に周ると、

近くの桜が元気なので、重なるようです。

もう少し右

ライトアップの演出は、光源の色が気になります。

では、周回して南側に進みましょう。

このように、中央部の一部は、ライトアップされていました。

次の枝垂桜に向かいましょう。

こちらは、光源の色を周期的に変えているようです。

左に回り込むと、月が画面に入ってきます。

こちらも人気の枝垂桜です。

高さ13mとのことです。

観光立国に向かっているのが感じられる、混み具合でした。

PM8:30まで入場できますが、

8:45頃から・・・人混みも少なくなっているのに、警備員の出口に誘導する案内がうるさ過ぎて

イベント会場と思って入場されるのが賢明かと思います。

 

 

 

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3月13日昼 痛い!この暑さ・・・

2018-03-24 | 旅行記

バスを降りて、売店の横を進む・・・3月13日PM2;00頃、

・・・痛い!・・・この暑さは何だ・・・慌てて背負っていたバッグからスポーツタオルを取出し、頭に掛けキャップをかぶり首筋をカバーした。

日焼け止めクリームは多めに塗ったのだが、日差しが強すぎた。

右側に仏塔が見え、道の左側、見たことのあるような青い物体が飾ってあった。

いたずら?・・・いいえ、奉納品のようです。

かつてこの地の王妃と共に亡くなった王子を祀った祠(ホコラ)のようです。サーンチャオ・ポースィッティチャイ

・・・お参りして願いが叶ったら、この国で大人気のドラえもんグッズ(ぬいぐるみ)を奉納する・・・。

なぜ?ドラえもん? 王妃と共に亡くなったのが出産前の赤ん坊で・・・奉納品は子供向けの物、

中でも願いをかなえてくれるドラえもんが一番人気・・・との説が有力のようです。

この日は、たまたま一つだけでしたが、ぬいぐるみが溢れる状態になると、孤児院などに寄付されるそうです。

・・・この地は?、入口にこんな看板がありました。

3行目が英文のようです。

WATYAICHAIMONGKHOL ワット・ヤイ・チャイ・モンコン 資料によると、8:00〜17:00営業、年中無休、拝観料:20B(外国人)

WATは、お寺とのこと。・・・ここは現地の方は無料、外国人は有料の寺院です。

・・・東京は、連日寒い日が続いていました。

メトロポリタン美術館は良いが他は寒いだろう・・・アーダコーダと擦った揉んだの結果、南の国を訪問することに2月中旬決定したのでした。

3月13日(火曜)仕事から帰宅し、夕食後深夜便に登場するため自宅を9時過ぎ出かけることになり、

浜松町からモノレールで羽田空港国際線ビル駅で下車しました。羽田空港第一・第二ビル駅は地下に到着するが、国際線ビルは3Fに滑り込むので便利です。

改札を出ると出発フロア、PM10時を少し回った頃、

WebチェックインをしているのでカウンターでJALに手荷物を預け、5階の展望デッキへ

左にJALの機体が、右側に進むとANAの機体が多く見られる。

滑走路の向こうに都心の夜景が見えます・・・羽田から国際線が飛んでくれると非常に便利で、始めて深夜便を利用することになります。

成田空港はスカイライナーが高速になり、都心から近くなったがやはり精神的に遠くまで来たという感じが残ります。

・・・3階に降りて出国手続きをし、出国エリア内に入ります。

JL33便 バンコク行き 0:05発

23:00 過ぎたが免税売店も大半が営業している、しかし従業員は交代制とはいえ深夜勤務は大変でしょう。

売店で購入したい人は早く来るでしょう・・・人間の生体リズムに合わせ、21:00~7:00まではコンビニ除いて全店協定で閉店すればいいと思うのですが・・・

23:45過ぎ搭乗、機内でパン類の軽食が出て・・・睡眠

やがてアナウンス、6時間くらいのフライト後朝食を頂く、やがて高度を下げ始めもうすぐ到着予定

AM7:00前、バンコク・スワンナプーム国際空港着陸。

時差は2時間、現地時間は朝の5時、まだ薄暗い、この空港は2006年開港、まだ新しい国際空港です。

入国審査を終え、手荷物を引き取り

税関を抜け、エーとさて右か左かと思案していると・・・名前を呼ばれた。

ホテルまで送迎してくれる出迎えの現地の方だった。

近くの両替で本日の必要現地通貨に両替し、迎えのマイクロバスに我がファミリー3人を乗せて頂き、

バンコク市内に向け高速道路を走ったのでした。

 

 

 

 

 

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厳島 日が暮れる

2018-03-04 | 旅行記

昔の人々はこの島全体を神が宿るとして崇められていたそうです。・・・そこで、陸地では畏(オソ)れ多いと潮の満ち引きする所に社(ヤシロ)が建てられた。

鎌倉時代からはこの島全体が神社地として保護され、農耕が禁じられてきたことから、自然が保存されてきたことも評価され、世界遺産に登録されています。

隣に「大願寺」というお寺があります。

歴史あるお寺で、この場所はかつては僧坊だったようです。

入江の反対側の高台に秀吉が建立させた千畳閣あたりもこの寺の境内で、かつて本堂が建っていた時代もあったと思われます。

神仏習合で有名な所ですから、明治になり神仏分離令以降、千畳閣から本尊の釈迦如来座像などが移され、

五重塔からも本尊の釈迦如来坐像、脇侍・文殊菩薩、脇侍・普賢菩薩が大願寺に移されています。

さらに今日の大願寺の本尊・厳島弁財天は厳島神社の御本殿に祀られていたものです。これは日本三大弁財天の一つとされます。

宗派は、高野山真言宗・・・弘法大師の作と伝えられる国の重要文化財・薬師如来坐像も本堂にあるようです。

これは厳島最古と伝わり・・・この大願寺は、推定794年~1185年頃(平安時代)の創建とありました。

・・・近くの食事処が閉まっているので、商店街を散策・・・途中厳島神社の裏側から、ロープウエー乗り場の案内が

 

 健脚自慢?トレーニングを兼ねて登る予定だったが・・・中止して、清盛通りと呼ばれる表参道商店街へ

お土産といえば、有名所が沢山並んでいました。

「しゃもじ」・・・家にも飾ってありますが・・・本来は実用品、木製の「しゃもじ」この宮島が発祥の地と言われています。

この「しゃもじ」このお店でお話を聞くと、シルク印刷が一般的で、手書きで墨文字を書いているのはこの店(店内で職人の女性が書かれていました)だけになってしまったとか。

・・・しゃもじは・・・江戸時代後期にこの裏にある光明院の誓信(セイシン)という修行僧が「厳島・弁財天」が手に持つ「琵琶ビワ」とよく似た形の杓子(シャクシ)を作られた。

これを宮島参拝の御土産として売り出すことを産業の無い島民に勧めたのが始まりといわれます。

・・・「しゃくし」は多分昔からすくう道具としてあったのでしょう。

オリジナルデザインの木製杓子を「しゃもじ」と名付けて販売したのではないでしょうか(詳しい説明は聞いてませんが)

・・・しゃもじ(杓文字)はご飯などに使い比較的平らな形、しゃくし(杓子)は汁物にも使えるように、丸い窪みがあり柄が付いている、お玉杓子など(自己流の解釈です)

商店街にシンボルが展示されていました。

これは世界一の「しゃもじ」です。一本の木材からの削り出しです、節も無さそうで、多分もう作れないでしょう。

パンフレットでは「大杓子」と紹介しています。樹齢270年の素材はケヤキで製作に2年10か月とか。

長さ7.7m、幅2.7m、重量は2.5トン、厳島神社の世界遺産登録以後に展示されています。

食事を済ませ、大鳥居を見に行ってみました。

結構潮が満ちてきましたが、日暮れまではまだ時間がありそうです。

再度商店街をブラリ、ぶらり・・・

・・・もみじ饅頭の藤い屋さんの店先に、

フェニックスの樹、害虫退治にゴザが巻いてあるのかと思ったが

あまりに綺麗すぎるので上を見上げると、葉が無い、替わりにしめ縄が巻いてありました。

これは、松明(タイマツ)でしょう・・・お店の人に聞いてみましょう。

大晦日にあったそうです、・・・。

それを店先に飾っていたのでした。

・・・厳島神社のHPで、こんな案内を見つけました。

江戸時代から続く松明神事・・・大晦日の夜、鎮火祭(チンカサイ)が行われ、持ち寄った松明に採火を受けて御笠浜を練り歩く。

この神事で付近が火事になったことが無く、松明の燃え残りは火災除けのお守りとされています。

松明の上部、黒い部分は燃え残りで、この後お守りとして利用されるようです。

散策も終了、・・・御笠浜に近い所に人気のお店がありました。

一階で注文し、品物を持って2階に上がりましょう。

ここの2階でバルコニーに出られます。暗くなるまで休憩です。

こんな風景が見られるようになってきました。

PM5:30過ぎ、燈籠に火が入り、大鳥居が燃えるような感じに・・・

スタバから飛び出して参道に向かいましょう。

ライトアップが始まったようです。

海面に温かい光が映ると寒さも忘れ、不思議な感覚です。

波を目の当たりにすると、・・・現実の厳しさに、・・・戻されます。

・・・そして、・・・

フェリー乗り場に戻り、船上に・・・航路は最短で、宮島口へ

宮島口で最後の鳥居に別れを告げ、

駐車場に戻ると、1台だけ残っていました。

花の金曜日道路は混んでいるでしょう。寒かった広島の夜でした。

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伊都岐島神社

2018-02-27 | 旅行記

「伊都岐島神社」と掲げられている鳥居の横から、パノラマ写真を・・・

左端のフェリー乗り場から、大鳥居の横まで進んできて振り返った光景です。

徐々に潮が満ちてきます。

中央を拡大してみます。

入江の最深部に、本殿が築かれています。

では、参道に戻って、参拝入口から入場します・・・すぐ右側に手水舎

・・・昔(いつ頃かは不明)は、こちらが出口だったと言われています。

参拝入口の表示があり、一方通行のようです、・・・入りましょう。

国宝厳島神社・金箔の看板があります。・・・左側の、世界文化遺産の看板は墨文字です。

英文・中国語・ハングル文字の表示はありませんが、各国語のパンフレットや音声ガイドがあれば?観光地としても問題ないでしょう。

ヨロッパ諸国の大半が、現地の有資格者の有料ガイドを付けないと観光案内ができない(添乗員などは観光地でガイドはできない)のと違い、

日本は自由で観光地にはボランティアの案内人までいるお国柄です。

国宝・廻廊(カイロウ)を進むと、右側に本殿から大鳥居に向かってせり出した舞台が見えます。

手前の檜皮葺きの建物は、右楽坊のようです。

そして、回廊の左側には社殿がありました。

パンフレットによれば、国宝・客(マロウド)神社とあります。

御祭神も違うのですが、ここでの祭典は先ずこの神社で始まり、その後 御本社で行われるようです。

廻廊の床が若干波打っているのは、床板が僅かに間隔が空いているので、高潮時の波による浮力をやわらげたり

床に上がった海水を抜く役目もはたしています。

・・・それでも台風などの襲来で、時々大きな損傷に遭われています。

この先の角から右側に続くのが・・・東回廊です。

廻廊の中程から、大鳥居がこのように見えます。

ここで満潮時の想像をすると、水面に浮かぶ幻想的な景観が頭をよぎります。

廻廊の幅は、約4m、御本社の手前で右に折れます。

正面の柱だけの建物が右楽坊、その左は?

御本社に沿って、回廊の角を左に曲がると・・・

御本社の祓殿(ハライデン)と拝殿(ハイデン)の間に到着しました。

御本社(ゴホンシャ)は、拝殿(ハイデン)、さらに幣殿(ヘイデン)があり別棟の本殿(ホンデン)が最深部にあるようです。

鳥居側に振り返ってみます。

この建物は祓殿(ハライデン)高舞台との間にあります。

そして屋外に、国宝・高舞台(タカブタイ)、現在も平清盛が伝えた舞楽が、毎年春秋にこの舞台で行われているようです。

高舞台は正面に素木(イラキ)の階段(立入禁止)、周囲は黒漆塗の基壇(キダン)に朱漆塗の高欄(コウラン)、・・・確かに黒と朱です。

その向こうに両サイドに倉庫のような小屋が見えますが、近づくと門客神社の札が掲げられていました。

さらにその外側の角にある建物は国宝、右が右楽坊、左に左楽房になります。

・・・高舞台の向こう側、平舞台に移動します。

反対側から高舞台と御本社(祓殿)です。

手前が平舞台・・・大鳥居側は

このような縦長の平舞台が突き出ていて火焼前(ひたさき)と呼ばれるようです、管絃祭の出御・還御はここから行われますとあります。

では、少し東によって右楽坊の位置から、

左にこの神社の入口・・・中央が廻廊・・・(こちらに張りだしているのは、昔は船着き場)右側に東廻廊までのパノラマ画像を・・・

続いて御本社・高舞台、その周囲の平舞台と続きます。

また、鳥瞰図をグーグルでお世話になります

高舞台の周囲が賑やかになってきました。

周囲には、灯篭や狛犬なども配置されています。

少し戻ってみましょう、東廻廊の山側に池のような窪地に、一つ大きな岩が置かれていました。

立札があります、・・・その地点に移動すると

内部には立ち入り禁止のようです。

「卒塔婆石」説明があります。母恋しさに・・・母は無くなっていたのでしょうか?

卒塔婆、・・・釈迦の遺骨を納めた仏舎利塔(ストゥーバ)から五重塔に、さらに五輪塔へ・・・これが卒塔婆の起源とすれば

・・・鹿児島県の南西にある小島、薩摩硫黄島が鬼界島と言われるようですが、・・・1000本もの供養塔を海に流した平安末期の話

そして許され・・・帰京して奉納した燈籠と伝えられているとあります。

御本社の西側の廻廊に移動します。

右側に、海面に浮かぶであろう建物が見えます。

これは、能舞台のようです。

 長い回廊を進むと、この先右側に、大国社や天神社とあります。

しかし手前を右に折れ、出口に向かいます。

左に太鼓橋?・・・右側は

先程の舞台です

能舞台です。

一方、山側は

・・・反橋(ソリバシ)とパンフレットに書かれていました。

 案内板もありました。

 右側の石垣は、隣の大願寺です。

この廻廊の先が出口です。左側に反橋、

こちらから見るとスッキリしています。

出口です。(昔はこちらが入口)

廻廊の出口の先は、小川に架かる石橋でした。

 

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厳島神社

2018-02-17 | 日記

久し振りの広島、市内をドライブするのは初めてだった。

JR広島駅近くでショッピング、広島城を横目に走り

原爆ドームにはやはり足が向いてしまう

何故か、原爆を受け・・・焼け野原になってしまった街中、・・・このような廃虚の中を必死に走っている市電、復興時の映像が時々放映され、・・・無念さが強く記憶に残っている。

そして、目の前でこのようなモダンな市電に出会うと、・・・元気な街にホッとする。

・・・昼頃、広島岩国道路から一般道に降り、まもなく岸壁近くの宮島口駐車場に車を入れる。

厳島に渡るには、・・・多くはフェリーに乗船することになります。

宮島松大汽船フェリー乗り場と・・・その先にJR西日本宮島フェリー乗り場、・・・二つの乗り場があります。

どちらも10分~20分間隔くらいで運行しています。

JR宮島フェリーに乗船します。ちょっと良いことがありそうで・・・

フェリー乗り場は、改札を抜けて、歩いて数十mくらいです。

厳島は遠方に見えますが、乗船時間は約10分。(フェリー航路は1.8km)

天候は晴れ、青空も見えるのですが・・・

寒い・・・出港・・・。デッキの上で寒風に当たりながら・・・朱色の鳥居を追い続けた。

想像以上に厳島は大きい島だった、周囲は約30km、裏山は・・・弥山(ミセン)(標高:535m)

鳥居の近くまで観光客が押し寄せています。

今は干潮時、今日の引き潮はあまり大きくないのだが・・・

JR宮島フェリーは、出港後大きく西側に迂回して厳島神社の前を通るように航行してくれます。

観光客向けの嬉しいサービスです・・・日中の時間帯に限られますが、・・・満潮時には大鳥居の近くを進んでくれるとのこと。

宮島フェリーの「宮島」とは?・・・、この島は平安の時代から厳島でしたが、お宮のある島で「宮島」、江戸時代中頃から・・・安芸の宮島と親しく呼ばれるようになったようです。

桟橋に到着、隣の桟橋にもフェリーが着いています。ここは観光地・・・年間300万人の観光客が訪れます。

広島港からの高速船(約30分)が運行されていたり、それ以外にも世界遺産航路や遊覧航路などがあるようです。

フェリー乗り場を抜けて、・・・ここは広島県廿日市市宮島町、に到着しました。(戦後、町名も宮島町となりました)

この先右側に進み、その先で左の商店街を通り厳島神社・参拝口に進むか、海岸沿いに進むか分かれます・・・海岸沿いに行きましょう。

道路に平行して、海岸沿いに遊歩道があります。

近年整備されたのでしょうか、砂浜から立派な石垣を積み上げて、堤防状に遊歩道が続いています。

波は穏やかで・・・綺麗な海岸線です。

右前方の大鳥居まで、数百メートルくらいでしょうか。

途中、階段があり砂浜に降りて・・・歩いて鳥居の近くまで進んでみましょう。

締まった目の細かい砂です、磯の香りはあまりなかった・・・前方に低い防砂提?でしょうか

その上に乗り、・・・先端まで進むと

大鳥居の横まで進んで、柱を見ると頑丈な構造です。

柱は波に洗われ、基礎も侵食され傾く危険もあります・・・大鳥居は、柱を2本の袖柱で支えていました。

ここで振り返ると、遠浅の入り江です、その最深部中央に本殿が建立されています。

そして左側の岸壁に眼をやると、結構上まで岩肌が茶色に変色しています。

この周囲は若干水深があるのか・・・潮が満ちてきました。左側の岸壁に引き返しましょう。

・・・砂浜を少し戻って・・・階段から歩道に上がると、ここにも鳥居がありました。

近くに、宮島の案内図もあります。

ここは参道です。・・・灰色の灯籠が並び、緑の松並木が続いている。

横に目をやれば、砂浜と青い海、穏やかな風景の中に、朱色の鳥居が存在を主張しています。

参道を進み、この先の角を左に曲がると

右前方に、横に長い厳島神社が・・・再度見えてきました。

さらに参道を中程まで進み、そして大鳥居の方を振り返ると、こんな光景です。

ここから階段を下りて、また大鳥居の方に進んでみましょう。

中央部が小川のように大鳥居に向かって流れています。

資料によると大鳥居の高さは約16.6m、柱の間隔は約11m、

鳥居の左側に行ってみましょう。

浅瀬を回り込み、大鳥居の正面から・・・額には、「厳島神社」と書かれています。

では、反対側を・・・本殿側からは、

何やら、文字数が多いようです。「伊都岐島神社」(イツキシマ)とあります。

平安時代、平清盛がこの神社を大改築するまで、この島は伊都岐島(イツキシマ)と呼ばれていたようです。

1168年の改築にあたり、本殿側に従来の神社名「伊都岐島神社」を掲示し、反対側に「厳島神社」と掲げ、以降厳島と呼ぶようになったと言われています。

この鳥居、屋根があるのに気づかれました?檜皮葺きで箱状の中に5~7トンの石を敷き詰め、鳥居の総重量を増やして自立するように工夫がされていました。

中央を流れる小川に飛び石が置かれています。その中程から厳島神社の全景です。

 参拝は、左側からとなります、東回廊経由し・・・本殿・正面手前に舞台があり、西回廊・・・右側が出口となります。

 先程の階段から、参道に戻りました。

正面が入り口ですが、

 左の丘の上に古い建物があります、階段を上ると、大きな建造物ですが・・・寂しげな雰囲気です。

千畳閣(センジョウカク):秀吉が建立を命じたが、秀吉の死により未完成で現在に・・・、明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。

五重塔は、1407年建立、高さ27.6mとあります。

参道に降りて、左側に「厳島神社御由緒」が掲げられています。

御祭神:市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命(タギツヒメノモコト)とあります。

女性が3人、・・・『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群・・・世界文化遺産に登場します。

昨年7月、文化遺産に沖ノ島以外も認められてニュースになりました。女人禁制の沖の島の映像もTV特番で流れました。

古事記に登場する神話の世界です。・・・宗像3女神を祀っているということは、とにかく古い・・・沿革に593年とあります。

天照皇大神とスサノオノミコトに関係して出現したといわれる3女神です。(・・・略)

昔々からの伝承で・・・航海の安全祈願、守護神として3女神が祀られていました。

・・・弥山(ミヤマ)山頂に登る予定だったが、予期せぬ事情でストップし、周辺を散策していたのだが。

弥山を断念し、・・・参拝することにしましょう。

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呉 大和ミュージアム

2018-02-11 | 旅行記

出雲大社を昼過ぎ出発、国道431号を東に進み・・・斐川町三絡から山陰自動車道(有料)に入り、

宍道JCTから三次・広島方向に進むため松江自動車道に乗り換える。

三刀屋木次料金所まで有料区間、この料金所を通過して、・・・何故か料金所の先、いつの間にか左カーブに入る車線を走行している。

このまま高速を直進する予定だが・・・道が違う・・・ハザードランプを点灯して停車、後続の車を右手で追い越させる指示をして、なぜ道を間違えたか確認しにバックする。

と、料金所から係員が走って来た。

スミマセンこのまま進んで一般道に降りてタイヤのチェックを受けて、・・・また本線に上がって下さい。

・・・直進・通行止めの表示は出てた?、チェーン規制・検問の矢印は無かったでしょう?・・・何故か車線が絞られて、そのまま下道に誘導された。

料金所の手前で検問を実施し、適合車両は、そのまま高速を走らせて欲しいのだが、チェックするスペースが無いのか一般道まで降ろされて・・・また坂道を登って本線に戻った。

・・・吉田掛合ICを通過した・・・雪が降らなければ出雲大社から須佐神社を経由して峠を越えてこのICまで走る予定だった。

この付近、結構雪が多い、・・・峠の除雪は難しかったかも知れない。

・・・中国山脈を北から南に走る無料の区間は、「中国やまなみ街道」の名前がついたようです。

平成27年3月22日全線開通とのことで、国と地方字自体で建設を負担したので無料の高速道路です。

島根県松江市から広島県尾道まで約137km、無料区間に入って30数kmも走らない内に県境の表示があり広島県に入った。

県境は中国地方の中央を東西に走る中国自動車道付近かと思ったら、結構北まで広島県が侵食していた。

この広島県の高野から中国自動車道までは、まだ約45㎞も走らなければならない。

この先で故障車や事故発生で突然渋滞にぶつからないように祈りながら進む。

道路は対面通行の片側一車線、トンネル内は路面に積雪が無いので問題ないが、橋の上は横風が強く、路面温度も低くスリップの危険がある。

しばらく走ると、やっと三次東の案内が出てきた。

この先で中国自動車道と交差する。中国自動車道は、北広島、通行止めの表示・・・他にもあるようだ

直進して・・・尾道方面に進む。

途中、世羅から一般道をショートカットと考えたが、所々に雪注意の表示があるので・・・このまま約50km走る

 この案内板の手前で無料区間は終了。

高速道路をそのまま進み、瀬戸内海側を走る山陽自動車道(有料)に入り、広島方面に。

路肩に雪が残っていたり、雪注意の表示も見られる。

50kmくらい走ると、また別の無料高速道路に乗り移る。

広島空港がこのJCTの手前、右側山間部に移って、・・・どのくらいになったでしょう。・・・(こちらに移ったのは、1993年10月でした)

かつての旧広島空港は海に近く、JR広島駅までタクシーが便利だった・・・などと思い出していた。

・・・東広島呉自動車道に乗り換える、・・・青い空、・・・しかし、雲の流れが速かった。

 

・・・空いている高速道路を順調に走り・・・終点の看板が出てきました。

急に交通量が多くなった呉市内をドライブし、岸壁近くの駐車場に駐車、・・・・目指す建物横に・・・いきなりドカーンと展示されていました。

巨大なスクリュー、その向こうに・・・金色に輝く真鍮製か、砲身を左右に振るためでしょうシャフトが目立っていた。

第一印象「イヤー重そう」砲身がさく裂しないようにとはいえ、こんなのをたくさん装備したら・・・紀元前、ハンニバルの象部隊のようです。

戦艦大和の有名な、巨大46cm砲(口径18.1インチ)、砲身長:21.13m、砲身重量:165トン

これを3連装砲台(2510トン)に取付けて、乗用車クラスの重さ1.5トンの砲弾を・・・42km(42、000m)、4kmでなく42kmくらいまで到達できる(最大射程)驚きの仕様です。

呉市訪問の目的は、

2005年開館したこの大和ミュージアムです。

昨秋の訪問スケジュールでは江田島の夕日や・・・釣りも計画したが、今回は無し。

閉館がPM6:00なので、慌ただしく飛び込む。

入って右側にミニドッグがあった。そこに戦艦大和の S=1/10 の姿があった。

鹿児島県枕崎市の沖200㎞の海域で撃沈され、長い年月が経過しました・・・近年、海底探索で菊の紋章がカメラで撮影されTVで放映されました。

船首の菊の紋章は、・・・大きいです。

 46cm主砲が並び、砲身の根元カバーが上下動の可動域を教えてくれる。

艦首の両舷に集中して機銃台が並んでいる。

大和の予備知識は少ないが・・・完成した時は、戦艦至上主義から、空域を制する航空母艦時代に進んでいたといわれる。

水上艇は積載されていた。

もちろん、航空母艦も当時の艦隊の中心に存在していました。

赤城、真珠湾攻撃に参加

 こちらは、これも有名な紫電改(詳細略)

 日本の職人が優秀なのは、このような見本(これは機械加工の仕上げの程度)△記号の数が多い右側が精細仕上げ

を作成し、目標の品質に合格しているか・・・加工開始時、中間時、終了時などとチェックし合否の判定をし、不適合品を除外しているからです。

仕上げ記号が理解できる学力と、根気よく目標に合格するまで学習する国民性でしょうか。

・・・依頼した勢品の見本品は良くできていた・・・合格、しかし数多く生産すると、不適合品が続々混入し・・・

全数検査をすると半分以上が使えない。時間をかけて良品を1~2個生産するのと、量産品で品質を安定させるのは、また違うのですが

そんな隣国で生産した結果、10年も修理が続いたこともありました。

「大和」の概要が掲示されていました。(動画などの撮影は禁止されています。)

 

そして、当時の設計図の一部も

窓の外が輝き始めた。

呉の、元軍港に夕日が沈む

隣のコーナーに進みます。潜水艦や人間魚雷などの横に・・・誰もが知っている機体がありました。

ゼロ戦です。

軽量化からくるスピード、圧倒的な操縦性能、そして付属タンクを装着すれば驚くほどの航続距離、

後年、軽量化による無防備な点を攻め込まれ・・・

訓練し力量の優れた人材育成は時間がかかる、人材は貴重な財産との発想が無く、簡単に補充が利く消耗品との発想がどこかにあったのでしょうか

複雑な思いで大和ミュージアムを後にした。

・・・呉から広島市内に向かうが、退社時のラッシュに若干遭遇。

そして広島市内、平和大通りのホテルに駐車、PM7:00前、八丁堀方向へ散策

しかし、寒風が・・・雪は舞っていないが寒い、地元の人の話でも異常なくらい寒いとか、

厳島神社は雪が残っているのだろうか・・・明日昼頃に参拝しよう。

 

 

 

 

 

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出雲は雪が少なかった

2018-02-06 | 旅行記

松江や福井・金沢などの都市では例年にない大雪が続き、またもや多くの車両が路上でやむなく青空駐車。

事前に大雪注意報が出されていたのに、・・・道路が白くなりそうと判断出来たら、国道は検問を実施しチェーン規制を早めに行って欲しい。

国道は動脈です、全体の通行量を減らして除雪を行いながら、雪道を走れる車は何とかその地域から脱出できるように通行止めは避けて欲しい。

ドライバーの忍耐や沿線の人々の好意がマスコミに取り上げられ、管理する当事者の不適切な対応がまたも見逃され、・・・今後も再発するだろうと思うとスキー場へ足が向かなくなりそう。

・・・山国の日本は多くの山脈が走り、尾根と谷間が平地に向かい複雑に走っています。

この地形の影響で雪雲の流れと気流の上下流が100m離れただけで大きく異なる地域もあり、積雪も違ってくるようです。

出雲の地は、西側が開けた海岸線を持ち、東に向かって平地が続き、北側と南側に防風林のように山並みが続く。

・・・風の抜けが良いからか何故か出雲地方は雪が少なかった。

国土省のライブカメラをチェックしても、出雲の平地では路面が露出しているのに、裾野からは道路が真っ白、雪が積もっています。

・・・前回2015年11月の訪問時は、出雲大社の東隣の古代出雲歴史博物館に駐車したので、・・・ここを通っていなかった。

1月11日、10時、高浜川に架かる宇迦橋の大鳥居の近くで停車、ここが参道の入口。

高さ23m、鉄筋コンクリート製、中央の額(扁額)はタタミ6畳もあるとのこと。

(鈴鹿ICを出てすぐ、道路に架かる椿大神社の赤い大鳥居も大きいが、高さはこちらの方がありそう)

出雲の地は、鳥居の向こうに見える宇迦山(ウカヤマ)が西から東に屏風のように走り、裏側の北の日本海からの風をさえぎっているかのようです。

・・・橋を渡り、新門通りの参道を進みます。気温も低く早朝の人通りは数えるほどです。

左側の松の木の先、左に入ると 竹内まりあ さんの実家(旅館)があるようです。

緩やかなのぼり坂の先にある高台が勢溜(セイダマリ)と呼ばれています。江戸時代はこの一角は特に賑やかだったのでしょう。

そして、石段の上に優雅な正面鳥居が建っています。

出雲大社では、一の鳥居、二の鳥居などと順番には呼んではいないようですので、どこから参拝されても歓迎のようです。

この一番目立つ正面鳥居が、勢溜の鳥居、木製です。

いつものグーグルで確認しましょう。

勢溜の信号を右に行くと古代出雲歴史博物館があります。

今回は信号を左折し、

スターバックスの横を通り、その先を右折し、出雲大社の駐車場に車を入れます。

天候は、チラホラ小雪が舞うが・・・傘は持たなくても大丈夫。

駐車場の東端、境内との境に小川が流れています。お城の外堀のようですが、後ろの山から流れ出した清流です。

川には、欄干付きの立派な橋が架かっています。

では、橋を渡り境内に入ります。

足立美術館や玉造温泉では結構積雪があったのですが、ここで作業される方に聞いても、このようにほとんど降らなかったようです。

この先右側、松並木の参道に鉄製の鳥居があります。(三番目の鳥居)

(2015年12月、2016年1月のブログ ~ 出雲大社 旅行記)・・・前回と重複しないようにしないと

・・・斜めに進み、手水舎に向かいましょう

まもなく、こんな親子連れが出迎えてくれました。

因幡の白うさぎ、

この石碑の右側には、縁むすびの碑が

縁結び・・・なるほどここにも縁結び・・・出雲大社は、若い女性に特に人気のようです。

右手前方に進むと、参道中央の松並木に合流しました。

正面に鳥居が見えます。四番目の鳥居になります。

この鳥居は、毛利さんの名が刻んである銅製の歴史ある鳥居です。

右側の境内の案内図を

左側には、遷宮の御挨拶があります。

 伊勢神宮も橋を架け変えたり、遷宮には長い期間必要とされるようですが、ここ出雲大社は伊勢神宮と異なり

隣に用地を用意していないので本殿は移さず、大屋根などが葺き替えられています。

2008年4月からの遷宮は、2013年に本殿遷座祭が斎行され、2016年3月にほぼ完了しました。

 胴鳥居の正面に本堂が見えるのですが、拝殿の東端が中心のラインに重なり、スッキリしない。

鳥居ー拝殿-本殿と くの字 に並んでいるので、この位置からの画像は・・・難しい。

・・・拝殿の西側に建築中の建物があります

なるほど、遷宮の御挨拶に記されていた、2期工事のようです。

ここ拝殿で参拝します。2礼・4拍・2礼です。

何故(シ)四なのでしょう、幸せの(シ)と説明されるガイドさんがおられました。

拝殿の裏に周ると本殿があります。

正面階段の上の門が「八足門」(ヤツアシモン)正月三が日は内部に入れるようです。

江戸時代初期の建造ですが、まもなく解体され、1744年現在の位置に移築再建された年代物です。

御祈祷を申し込めば、この階段の先(八足門の左側)から内側に入り、

楼門の近くでお祓いを受けられます。

ご朱印帖は左の「御守所」で・・・神社名は記されず、参拝 の文字と日付、社印 のスッキリした形です。

「八足門」の前に、ミッキーマウスのような大きな赤い丸印が3つ、4か所にあります。

江戸時代の・・・さらにその昔から・・・神話の物語がありました。

・・・発掘されて神話の世界が・・・現実の出来事となり

(出雲大社のHPより画像1点と文書を引用します。)

古代には3本の大木を鉄輪で束ねて1本の柱とし、高さ16丈(48メートル)の御本殿でありました。
千家國造家(出雲大社の宮司家)に伝わる古代御本殿の平面図「金輪御造営差図」が、その壮大な御本殿の容姿を今に伝えています。
平成12年には境内より、古代御本殿の御柱が「金輪御造営差図」そのままに3本束ねの姿で発掘され、今の世に顕現しました。

・・・とあります、

拝殿の東側にある宝物殿の入り口横には

再現された柱が展示されています。

先程の床にある赤丸は・・・八足門から、このような巨大な橋脚だったようです。

伝承によると平安時代は本殿の屋根まで高さ約48m、

その本殿に上る階段の橋脚で、・・・この様な物が並んでいたと言われています。

古事記、日本書紀に登場する重要な社(ヤシロ)です。

皇族や天皇陛下のお名前も見られます。

では西側(左)に周って、もう一か所重要な所に

西側のほぼ中央右側に進み

案内板があり

奥にある一番高いのが御本殿です

更に本殿の裏(北側)に周ってみます。

摂社の中でも大国主大神の親神を祀る素鵞社(ソガノヤシロ)があり重要文化財です。

振り返って本殿を反対側から見るとこの様に、スッキリしています。

平安時代には、このような本殿のみが高い所におかれていたようです。

 瑞垣(ミズガキ)の外で四天王?・・・白うさぎが守っていました。

戻って、

 

 境内の西側からのパノラマ写真です。

左端に半分だけしか映っていませんが長屋のように続く建物は、この出雲大社だけの特別な建物です。

十九社(ジュウクシャ)重要文化財・・・全国から八百万の神様が集まられた時、ここに宿泊されるそうです。

境内の東西の端に、向き合って建てられています・・・そうです、神無月(旧暦10月)、いやこの地では神有月(神在祭)期間中、十九ある扉が開かれます。

撮影ポイントは、下の画面で左端中程 十九社横から眺めた、拝殿裏と本堂です。

神楽殿は省略

帰り際、胴鳥居の横で、神馬神牛像に挨拶し

世界共通、撫でるとご利益があると伝わるので

ピカピカです。

多少雪が舞い始めた出雲大社から、・・・稲佐の浜へ

 

荒れた冬の海に、何故か砂浜に目立つ岩山が一つあります。

昔ははるか沖合にあり「沖御前」と呼ばれ弁財天が祀られていたそうです。

現在は、豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)・・・?、時々、一般の方と話題が神社の話になり、・・・主祭神が〇?、と登場する神様に詳しい方が多いのに驚かされます。

・・・全国から集まる神々は、宿泊する十九社は分かり難いので?、ここの浜に集合し、その後宿泊する十九社に向かうそうです。

さて、この後、須佐神社に行きたいが、休憩して情報を収取すことに、

新門通りで、お店の人に駐車場を教えて頂き、・・・通りから西側に入った先に大きな駐車場がありました。

日本ぜんざい学会壱号店

食べ物の登場が少ないので、時には甘味も・・・シュークリームのように丸くふっくらした焼き餅入りです。

・・・ヤマタノオロチ、須佐神社・・・積雪が無ければ25㎞、30~40分なのだが、その先山道を走り、松江道路まで20㎞

除雪作業が済んでいれば大丈夫なのだが、引き返すことになると面倒なので断念し、

太陽が出ているでしょうか?・・・雪模様と言われる瀬戸内海に向かうことにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皇族の方々・・・天皇陛下の文字も見えます。

 

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節分祭

2018-02-04 | まち歩き

2月2日金曜日、朝から小雪が舞っていたが、昼過ぎには止み、翌3日は太陽も顔を出してくれた。

昼の気温は8~9℃、午後2時過ぎ、池之端文化センター駐車場に車を入れ、切通坂の夫婦坂から境内に入る。

坂の上部、欄干の陰に先日の雪が残っていた。

例年になく気温が低い東京だが、この樹木は春の訪れを知らせてくれる。

今日は、節分だ。

本堂の裏、右手には仮設の舞台ができていた。

舞台横には、これから節分祭があり、参加者の御芳名なども貼り出されている。

境内は、沢山の絵馬が掛けられ、多くの親子連れも見られる。

インフルエンザが大流行しているので、マスク姿の人達も多い。

・・・さて、白梅・・・昔からある本堂横の白梅「白加賀」も沢山咲いていました。

正面にかつて紅白の大木の梅が置かれたが、今は無く、

しかし他にもたくさん咲き始めていた。

ここは、湯島の高台、湯島天満宮、・・・社務所前に案内図があるので

渡り廊下の向こう側が、豆まきの特設会場、

社務所内で裃を着つけて頂き、関係者、知人たちと談笑していると午後3時、節分祭が斎行されると案内があった。

・・・渡り廊下を渡り、本堂内へ

・・・他の神社では、豆まきに関取が引っ張りだこのようですが、ここは湯島、

切通坂の下は上野広小路、鈴本演芸場があります。そうです、噺家の方達が来れれています。

宮司さんにより節分祭が執り行われ、やがて3時半、豆まきが開始されました。

福は内!、福は内!と連呼。

鬼への掛け声が聞こえない・・・

鬼も・・・いた。

赤鬼!

衣裳が派手だ。

渡り廊下を戻り、社務所横から廊下を進み豆まき会場へ

会場は満員で警備の人も大変、本富士警察からも来れれているのか

芸能人も・・・演歌歌手の方や

若手俳優や

青鬼もいました。

その昔、京都の奥、鞍馬山で鬼がでる・・・豆を投げて撃退させた。

そんないわれがあるようで、今日では

インフルエンザの鬼退治!

袋入りの豆は軽くて、空気抵抗が多く、遠くまで届かない、

紅白の餅パックは、顔面に当たらないようにそっと下から投げる。

ジャズシンガー阿川さん、にこやかに登場されて大歓声!

風が無く、絶好の豆まき日和となりました・・・笑顔が一番。

・・・

社務所に戻り、裃をお返しして、

宮司さん他にご挨拶をし、社務所を出ました。

本堂を半周すると、・・・まだ後半の豆まきが行われています。

寒い毎日ですが、季節は春に向かって動いていました。

2月8日から3月8日・・・「湯島天神 梅まつり」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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