気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

このお城は

2016-06-13 | 旅行記

このような風景はTVなどの情報番組であまり放映されません。

この社は、・・・

賽銭箱があり、結界が設けられ、・・・何やら周囲の雰囲気が、・・・社の後方が明るいですね。

しめ縄の上方に、年代物の額があります。文字が彫られているようです。

暗くて判別できないので、明るくしてみましょう。

 

刑部大神と読めます。

少し下がってもう少し周囲をご覧いただきましょう。

明るい室内の中央に祀られています。調べてみましょう。

刑部大神・・・この城が建てられる前からこの土地に、刑部神社(長壁オサカベ神社)が祀ってあったそうです。

この地では夏祭りで有名で、神社は市内に3か所あり、内一つが明治12年にこの場所に祀られるようになったようです。

・・・明るい窓辺に進みます。

 

シャチホコが見えます、金のシャチホコでは無いようです。

眼下の様子は?・・・、連なった山々が見えます。手前を見ると、太い竹竿かロールケーキのような・・・

少し移動して、こちらにもシャチホコが

ここからは区画整理された都市が見渡せます。その手前には外堀があり、大きな広場、城壁の内側に更に2段広場があります

特徴的な白漆喰が、屋根瓦をかまぼこの様に厚く塗りあげられています。

・・・では、この下の長椅子がある所から見上げてみましょう。

昨春、大改修が終わって公開された江戸時代初期のお城です。

この様な時代だったようです。

戻って、お堀の内側に世界遺産とありました

・・・修復後、2015年3月末公開するや、余りの人気に城内大渋滞、・・・入場料が¥600-では安すぎる・・・値上げしようと8月には一気に¥1000-にしました。

入場者を押さえられる効果も期待して・・・しかし白鷺城は、今でも人気が衰えない観光資産です。

季節が変わってしまったが、時間を見つけて整理中です。

 

 

 

 

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晴天の初夏、散歩に 

2016-05-24 | アート・文化

アマリリスが咲き誇る季節になりました。

窓越しの陽光でハイビスカスは年中咲いていますが、我が家のアマリリスは秋に葉を落とし、春に球根を植え替えます。

植え替えから約1か月、ググッと伸び、2~3日で花芽が膨らみ急に咲き出します。

一本の茎の先に、4本の花芽が十字に広がる、不思議な、いや豪華で派手なプロポーションです。

一方、隣のハイビスカスは今日だけよと一日花で、咲いた翌日には花びらを巻貝か葉巻のように巻き込んで、自然落下してしまう・・・鮮烈な花です。

沖縄などでは、雑草同様に自生しているので園芸品種として希少価値は無いでしょうが。

ハイビスカスが長きに渡って存在を主張するには、蕾を沢山つけて新しい花を次々と毎日咲かすことになります。

しかし、連続して咲き続けるにはスタミナが必要となります。

30度以上の猛暑が続く夏は、バテるので咲かないようです。25度前後の春・秋は肥料を与えると絶好調で咲き続けます。

これに対して、アマリリスは大輪の花を咲かせると1週間、昼も夜も咲き続けています。

ハイビスカスが肉食系とすれば、アマリリスは草食系でしょうか? ポーンと咲いて暫くすると数枚の葉があるだけの目立たない状態で生活することになります。

・・・そうでした、花が終わると球根に栄養を集中させるので、茎から切り取り若葉のクンシラン?のような葉だけで年末までそっと静かに置かれています。

横から見てみましょう・・・派手な大輪で誘って、ジッと虫を待っているのでしょうが、野山と違い都会の厳しい環境に置いて・・・スミマセン。

我が家では植え替えも一段落しましたが、これから朝の水やりが大変になる季節です。

イチゴに葉水がかかりすぎたか、葉に少しダメージが・・・、カミキリ虫に根を切られ、ライラックが一鉢ダウン。

・・・梅雨の季節に向かい、生育の観察が必要です。

・・・・・

晴天の休日、宗教情報を収集しているわけではないのに、アンテナに ピピッ と・・・気になるので向かってみました。

交通量の少ない道路から校内に、・・・左に守衛さん、挨拶して中に入って左側、その先に立て看板がありました。

入場料:無料と大きく記されています。 その上?・・・

「素心 バーミヤン大仏天井壁画」 ~流出文化財とともに~ とあります。

バーミヤン 耳にされたことがありますね、ファミリーレストランにも同じ名前がありますが・・・

・・・左に進みます。奥に待ち構える洋館は、年代物ですね。

「陳列館」と見慣れない看板が掛かっています。

ここは、・・・東京芸術大学大学美術館陳列館 昭和4年(1929年)竣工とありました。

・・・なるほど、昭和の始めですか、・・・大正13年9月、関東大震災で壊滅的な被害を受けながら、前年までに次々と隅田川に橋が架けられた。

三越呉服店は、社名から呉服店を外し三越へ、この年の秋には上野広小路に松坂屋が新装され、日本初 昇降機ガールの誕生とサービスも近代へ変わろうとしています。

震災後の復興はインフラの整備、さらに如水会館など近代建築のビルが建ち、新しい文化が生まれ・・・

知識だけが重視の今日と違い、公私混同しない人間性が基本にあって、貪欲に知識と技能を学ぼう、社会に貢献しようという精神が多くの人々にあったのでしょう。

そこに情熱が加われば、責任感が生まれ、知恵が働き、目標を短期間で達成しようとする、そんな日本人がかつては役人を筆頭に奮闘されたようです。

明治の人々の、侍の精神、清貧の思想がまだ残っていたのでしょうか。

そんな物思いにふける・・・、ここは東京、優秀な知識・学歴が売りの都知事が高給を頂きながら、・・・政治資金という税金を公私混同に利用し、・・・セコイと叩かれています。

しかし、このようなことはここ数十年、特殊な例ではなく・・・「領収書で落とせれば」 公私混同しても分らない・・・

領収書で落とせるのだったら、他人の銭です、高級?いえ、出来るだけ高額な宿泊、贅沢品を購入しようと欲望が高まるのです。

3万円の桐箱入りメロンにサクランボ、3000円では交際費にならないのです。

金額が最初にありきのゆがんだ交際費天国、それにあやかる商売で高級料亭や異常な高額品が売れるのです。

かつて、社会人になりたての頃かそれ以前か、某通信大手(多分KDD)の社長夫人がブランド品の化粧品、宝石から下着などの生活品まで

日本橋三越本店にハイヤー(社用車)で乗り付け購入していました。お店にとっては上客です・・・女王様のようにおもてなしをして頂いて、・・・と週刊誌が騒ぎ立てた記憶があります。

有名店で購入したこれら私物の領収書が、主人の会社で当然のように経費で処理されていたと・・・何故記憶に残っていたのでしょう。

社長は元郵政省のエリートキャリア(役人)出身・・・独占的な、社会的な企業の社長です。銭は十分あるけれど、主人も妻も、自分の銭は使わない・・・。

こんなしょうもない社長夫人の話が、週刊誌にスクープされたのでしょう。実は、このエリート社長と部下連中は、脱税か汚職で摘発され、大きなニュースになりました。

当然調査が入り、その過程で芋づる式に品の無い話が発覚してしまったようです。

・・・「領収書下さい」・・・上様で?、・・・「いや、〇△会社名で」・・・、今日でも家庭の生活費まで経費で落とす人々はおりますよね。

・・・架空領収書の需要が多く、発行する会社が摘発されたこともありました。・・・もちろん・・・領収書は?と尋ねられ・・・「要らない」と公私混同せず・・・ごちそうされる気前がいい人もたくさんおりますが・・・。

・・・横道にいたので? 話が横道にそれました。

左の柵の外に見える道路は・・・上野公園の高台を通る抜け道です。下谷、JR上野駅から鶯谷・池之端・根津方面へ・・・左斜め前方に東京国立博物館があり、この陳列館の右裏は、東京都美術館、

・・・公園内に縮小されましたが噴水があって、・・・昔家族でこの季節に自転車で散歩に来て、公園の噴水横でアンケートに記入したら、後日黄色の自転車が「当選です」と届きビックリしたのを思い出しました。

さて、陳列館、内部に入ってみましょう。左に受付、正面が1階展示室、右に階段・・・2階には後程

・・・撮影はOKのようです、ストロボはもちろん禁止、しかしカメラを持参してこなかった。急きょSONYの動画で見にくいですが紹介します。

1階ドアの先に進むと、左側に不思議な

標本のようなBOXが並んでいます。中身は、彩色された工芸品、・・・いや、破片です。

これは美術品、スルタン?・・・サイズがバラバラ、・・・これも頭部のカットが雑で破壊された物でしょう

拡大です

奥の中央に存在感のある石像が・・・これは、残念・・・頭部が無い

オッ! ワンポイントマーク付きのしゃれたサンダル履きです。

これらの陳列品は、ピントが甘いですネ、・・・自動のピントは暗くて振り回しが早いと付いていけないようです。

上部に、横長の写真が展示されています。

隆起したと思われる切り立った崖が延々と続いています。手前からの並木道が付き当たった所の少し右側に、黒い長穴が見えます。

ここが世界的なNEWSになった、バーミヤンです。

そして黒い長穴には巨大な大仏が彫られ、その天井に大仏天井壁画がかつてまばゆい光を放っていたそうです、・・・当 特別企画展の展示品がまさに光彩を放っていた、貴重な破片そのものなのでしょう。

 

大仏頭部の彫刻は、エーゲ海ギリシャ文明の影響も見られる素晴らしいものです。

 ・・・改めて、学習してみましょう。バーミヤンとは・・・まずは地球上の位置です。

 

地中海・・・中近東、シリア、ペルシャ・・・アフガニスタン・・・モンゴル、敦煌、中国、 東西にシルクロードが走っています。

そこは、アフガニスタン その北部

かつて、ソ連軍がアフガンに侵攻し長期に渡り戦争状態が続き、・・・隣国パキスタンに大勢の人々が逃れ・・・難民となります。

難民の中で若者が、イスラ神学校で娯楽も禁止する極端なイスラム教を学びます。そして、彼ら学生がタリバンと呼ばれます。

ソ連が撤退し混乱状態のアフガニスタンに、パキスタンの軍事援助も受けたタリバンが武闘勢力として・・・かつてのアレキサンダー大王の名のついた都市カンダハルから祖国を制圧し始めます。

このアフガニスタン北部を拡大します。

首都カブールから北西230kmに、Bamyanがあります。

1996年このカブールをタリバンが制圧し、その後アフガン全土を支配しタリバン政権を樹立します。

そしてタリバンは、偶像崇拝は認められていないと、他宗派の仏像まで爆薬で破壊し、2001年3月その映像を世界に公開したのでした。

Bamyan、バーミヤン、バーミヤーン、航空写真では山間の盆地、いや内陸部ですが・・・標高は、2500mもあります。

2500mは空気が薄い山岳地帯です。

現代の交通機関は、・・・らくだ、それともジープでしょうか?

・・・飛行場がありました。幹線道路も走っているようです。飛行場の北を探すと目的地が見えてきました。

見易い地図で、この位置になります。

山岳地帯のオアシスです。切り立った崖に大きな仏像は二つあるようです。

位置が理解できたところで、この企画展の案内を読んでみましょう。

タリバン、イスラム教原理主義の武闘派と呼ばれた政権は数年後、2001年12月崩壊します。アルカイダの9.11テロ、首謀者とされたビンラディンをかくまったとされ、アメリカ軍から攻撃され・・・

しかし、神学校の学生武闘派の残党は・・・、今日でもニュースによく登場します。

先日、USAの無人機が他国(アフガニスタン)の領土上空から・・・タリバンのリーダをテロ犯罪者としてロケット砲で殺害しています。

この件が実際そうだったかは不明ですが、ご存知の方も多いと思いますが、現地アフガンのCIA 諜報員から標的の情報が衛星を介して伝わります。

米軍はアメリカ本土から狙撃担当チームがスクリーンを見ながら発射ボタンを押します。

標的に向かって無人のカメラが誘導します。近代戦争は、敵対者を背後から(天空から)暗殺です。

本人確認も何もなく・・・逮捕して裁判が必要?・・・関係ない・・・とこの地域は戦争状態が続いています。

精神が集中せず、展示品の説明をじっくり読むことができずにいると、これから2階で天井画の説明をします。

時間のある方は、・・そんな関係者の案内が近くから聞こえた。

明るい階段を登ると、独特の青色が鮮やかです、ラピスラズリの顔料です。

この青の建物は、ペルシャには多いようです。イスタンブール、トルコにも・・・、顔料はアフガニスタンで産出するようです。

さらに右側にこの様な画像がありました。白馬が2頭、

では、映画館でしょうか、内部に入ってみると

天井から柔らかい暖かい光線が・・・両サイドから照らし出されているのが・・・天井画、

その前方スクリーンに映し出されているのが・・・そうです、1.5kmも続く断崖の風景でしょう。

前に進み出てスクリーンを見つめると雲が微かに流れ、車のようなものが下方を移動して行く。

定点カメラで撮影された映像を時の流れが感じられるように、ユックリと・・・プロジェクターで今日のバーミヤンの風景が放映されていました。

バーミヤンの東西の2大仏、更に数多くの石窟は2001年3月13日にタリバンによって破壊されてしまった。

東大仏の石仏像は高さ38m、釈迦如来。西大仏の石仏像は高さ55m、阿弥陀如来といわれる。

間もなく関係者、多分芸大の教授でしょう、天井画の復元について説明して頂けました。

破壊された東大仏の天井画を忠実に再現されたのがこの天井画です。縦6m横7m

床に描かれた黒い幅広の曲線がありました。中央部がスクリーン側に膨らんだ線は、大仏の頭頂部(顔側)の輪郭になるわけです。

この線の前方、スクリーン側の床は断崖絶壁で、38mの下に地面があると思うと、・・・自然にラインの内側で天井画を鑑賞したくなりました。

一般の人々はこの下方の地面から大仏を見上げ、さらに頭頂部の上にこの空間が存在していることになります。

当時、この天井画を製作するにも長い年月と職人、そして資金が必要です。

費用を負担した一部の人々(国王はもちろんでしょうが)は階段でこの付近まで登り、近くから天井画を鑑賞できたそうです。

630年玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師)がこのバーミヤンを訪れ、「バーミヤン大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していた」と書かれているそうです。

天井画は当時は多神教時代で、太陽を表わす大きな白いコロナのある円の中に、翼のある馬車に乗って天空をかける地元の太陽神ミトラが描かれているそうです。

前方の隅に日本でも良く見かける・・・風神が描かれています。

後方左には、天使の翼を持ったギリシャの女神が、そして壁に並んだ多くの人物像の中には、・・・仏陀も描かれているとの説明でした。

・・・破壊され粉々になったであろう天井画を忠実に再現? 

土中から破片を集めて組み立てる壺のように再現したのでしょうか?・・・ハイテク技術、画像処理と、印刷技術+職人・学生の情熱 だったようです。

この地にフランス、ドイツ、日本各国が何度となく調査隊を送り調査された資料、その中に京都大学が1970年代に撮影された15000枚の写真を利用されたそうです。

この中から150枚を組み合わせ、重ね合せ、合成・変形させ、ドイツ隊の測定した採寸を基準に貼り付けていかれたようです。

芸大の特殊画像処理技法も駆使されて半年、天井の3Dを情報をユニット化し造形したベースに、和紙に印刷した画像を貼り付けます。

さらに学生たちも含め大勢で質感、彩度を高めるために、顔料を刷毛で塗布し、見事に再現し、このように天井画として組立てられたそうです。

朝日新聞で公開された画像を借用しましょう。

 改めてこの地点から、スクリーンに映る自然界を眺めてみる、天空の気分には少し遠い、人混みの間から・・確実に・時は流れていく。

10秒、20秒・・・しかしこの場では1分と集中できなかった。

・・・・

この石仏群はいつ頃の製作か諸説あったようですが、破壊された破片に木片や麦わらが存在し、今日これらを分析して年代測定しようと進行しているようです。

しかし推定値には幅があり450年~850年位に建立されたとする説や、別の資料と測定法で、東大仏は495~519年、西大仏は536年~566年などと発表されているようです。

・・・源蔵法師は、当時シルクロードの北方ルートからこのバーミヤンに下りてこられたそうです。

有名なこの大仏を地上から参拝し、偶像製作の目的の一つでしょう「巨大さで圧倒し、神仏を人間とは比較にならない絶対的なものとして崇拝させる」・・・に大きく影響させられたのでしょうか。

さらに大仏頭部の位置に上がられると、源蔵法師の頭上には鮮明な太陽神と多くの人々が天空から包み込み、足元を巨大な大仏の・・・その頭上付近に置きながら・・・地上38mからの眺望が手に入ります。

感銘を受けたのは、・・・これから目指すインドには古くから階級制度(カースト制度)があり、最上位の司祭者(バラモン)権力者の気分を味わえたことでしょうか。

あるいは、バラモンの下の階級、王侯貴族、その王子だった 「シッダールタ」 がこのような階級制度などを否定して、その後・・・「仏陀:真理を悟った者」となり、仏教の祖となられたように・・・・この世を何とか変えなければと思われたのでしょうか。

・・・・

・・・歴史の情報が頭の中で混沌として、・・・同じ2階には、頭部を間違えて付けられた仏像があり、その間違えた頭部を外した仏像や

 

他にも「仏陀の誕生」などが展示されていた。

 これらの展示品も先程説明して頂いたのですが、思い出せずに・・・失礼します。

やはり、タリバンに貴重な文化遺産を破壊されたショックな映像を思い出し、どうも集中力に欠けた時間帯でした。

これらの掲示物も撮影して後で確認しようと・・・しかし不鮮明で・・・雰囲気だけ紹介します。

どうぞ、関心のある方は、上野公園の北 東京国立博物館 「黄金のアフガニスタン・・・」、その斜め右前方が藝大です。

東京藝術大学大學美術館 陳列館 「アフガニスタン特別企画展・ 素心 バーミヤン大仏天井壁画 」 会期は、6月19日(日曜)まで (月曜休館)

もう一度拝見したいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

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残波岬から那覇へ

2016-04-18 | 旅行記

書きかけのブログが中断してしまった。

大きなランドセルが左右に揺れている・・・大丈夫かと目で追うと・・・時々帽子が見え隠れした、そんな桜の季節が過ぎ

・・・春の楽しい気分の最中に・・・まだ忘れもしないうちに、またも大地震が起こり、この世とは何だろう・・・自然の力を思い知らされます。

春から秋にかけてこの季節は、日の出と共に毎朝ベランダに出て朝の太陽を20~30分は浴びたいものです。

頭皮・頭骸骨を通して脳内まで光が届き、気分一新し体内時計がリセットされ、自然に一日がスタートします。

種から育てた葉物野菜も大きくなりサニーレタスやルッコラ、ラディッシュ、パセリと両手一杯に収穫しサラダで頂きます。週末にはブルーベリーの受粉と忙しく過ごす毎日。

・・・もう5月、・・・未投稿だったのをまとめておこう。

半島の西側、残波岬に来ています。駐車場に車を入れ遊歩道を歩いて灯台に向かいます。

大型の観光バスから団体さんも・・・騒々しい中国系の観光客と一緒になってしまった。

遊歩道の柵が切れている所から、岩肌を乗り越え岸壁の真上に行くこともできます。

東から見る灯台です。

 

磯釣りの道具もないので、灯台に向かいましょう。

 灯台の1階、左に窓口があり

  ¥200-、灯台展望台の入場料です・・・階段を登って展望台へ行ってみよう。

・・・教会のドームに描かれた天井画を鑑賞したり鐘楼には、階段をよく登った、この灯台はそんなに高くないから一気に登れるだろう。

階段は横幅が狭い・・・周囲に見る物も無いので一気に登る、・・・真上から光が注いでくる・・・もうすぐ最上階、

最後の急な階段を登ると、出口から廻廊へ・・・。

大海原を背にして、目の前は沖縄半島の中央から南の方角になります。

右上に観光バスが見えますが、多分小屋の販売業者の車でしょう。・・・その先小屋の向こうに無料駐車場があります。

沖縄残波岬ロイヤルホテルが中央の白い建物、その左裏には海岸に沿ってリンクスのゴルフコースがあり、反対側の右側はビーチがあります。

北に面した海岸線は、切り立った崖が続いています。水深が深いのでしょう、あるいは崩れやすいのでしょうか

灯台の真下を見てみよう。

遊歩道がスロープになり足元の灯台まで続いています。この遊歩道を歩いてきたのでした。

左に移動してみましょう。

磯釣りの人、発見!・・・風が無いので絶好の釣り日和です。

北の海、はるか彼方に見えるのは沖縄本島の

二つ山が見えるが、中央左に見える小高い山が八重岳でしょうか、その左に進めば海洋公園 その先には島があり・・・

・・・灯台をさらに左に回り込むと、正面は海原が続きやがて

海の色が違ってきました。岩礁地帯が続いています。

こちらは灯台から西の方角になります。

左端にコバルトブルーの海の色が見えてきました。

そうです・・・一周しました。・・・砂浜が見えます、小さな入り江で囲まれたビーチです。

ビーチの向こう側の海岸線は、緑の岩礁帯が続いているようです。

北東と南西に300mくらい離れただけで、中央に山があるわけでもなく海流の力で陰と陽、全く違った海岸線を見ることができます。

では、灯台を下りましょう

ビーチの先に見えた磯に行ってみよう。

車で5分、駐車場に車を入れ、磯に下りてみます。

この岩礁帯にも、見事なアオサが茂っていました。

綺麗な海岸線です。

廃油ボールやプラスチックの海洋ゴミは一切見られず、ひと安心・・・

しかし、そんなことが頭をよぎるようでは、・・・ダメですね!

EUのREACH規制に対する環境調査依頼が多く、無意識のうちに環境の文字が頭をよぎってしまうこの頃です。

 

しかし今日、ただで綺麗な環境が維持できることは不可能な時代です。

もったいない精神を一方で尊重するといいつつ、他方、消費拡大・成長戦略・インフレ・・・スクラップアンドビルドのゴミ生産社会ですから・・・。

・・・高速を飛ばして那覇へ向かいます

南には旅行会社が案内する観光スポットが数多くあります。

那覇市内に宿泊し、近郊を散策・・・

国際通りなどの観光は割愛

これから沖縄、離島の観光シーズンです。日中は木陰で、地元の人々のペースが一番のようです。

日本全国若葉の季節です、活力がみなぎりますように。

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読谷村の城壁と岸壁

2016-04-09 | 旅行記

北谷の夕日は・・・残念ながら雲が厚くて、・・・自然界の現象に一喜一憂せず、素晴らしい光景に出会える時の喜びを・・・再訪時に期待、・・・夕暮れは近くの温泉で休息タイムでした。

翌朝、遅い朝食を頂き、読谷(ヨミタン)村をドライブします。

国道58号を北上し、右側は広大な軍用飛行場

嘉手納基地の横を通り読谷村へ・・・まもなく国道を左折し、半島の西へ進みます。

ナビを頼りに丘を登り、細い道を進むと・・・ありました。

最初の目的地はホテルを出て30分弱で到着、左側の南駐車場に車を入れます。

駐車場から横の小道を渡ると、すぐに高床式の小屋が目に飛び込んできます。

昔の穀物倉庫でしょう、・・・案内板を読んでないので正確なことは分かりませんが

石碑があります。

さらに隣には、世界遺産、琉球王国・グスクの案内がありました。

では参道?・・・そんな雰囲気の木立の中を進みます

現在は城跡公園として管理されており、周囲は松林の緑に囲まれています。

丘の斜面を登ると、護佐丸さんが築城したといわれる座喜味城の跡が無料で公開されています。

この城の説明は、・・・詳しい案内板がありました。

座喜味城は、1400年代の始めの築城とあります。

時代的には、この琉球本島内での争いから本拠を防御することでしょう・・・鉄砲がまだ無い時代です、弓矢には城壁で囲めば対抗できるでしょう。

柔らかく加工しやすい石灰岩が多量に使えるこの地では、城壁を石積みで造る技術が発展したようです。

・・・このころ本州では石灰岩が簡単に入手できなかったのでしょう。

城の立地条件は高所を利用した山城で、自然石をそのまま組み上げる野面積(ノヅラヅミ)が発達する時代でした。

安土城の近くの穴太衆(アノウシュウ)が栄えたのはもう少し後の時代です。

ここの城壁は、・・・見えてきました。優雅な曲線美・・・見事です。

石積みのアーチ、ローマ人の技術と同様アーチの上部にクサビが入っています。

正面入り口、門・・・城壁の周囲に過剰装飾や遊びが無い簡潔な仕上がりです。自然崇拝の文化の影響でしょうか。

貧富の差が少ない、時代だったのでしょう。・・・しかし当時、祭りや催事には鮮やかな旗や垂れ幕、にぎやかな飾りが立ち並んだことでしょう。

城壁の中に入りましょう。

この門の中が、二の郭です。少し右側が小高くなっています。

城壁に沿って右側から見ていきましょう。

右は入口側、正面から左にかけて東に面しています。

東に面した城壁、さらに左に目をやると

一の郭に入る二つ目の門があります。

この門は今入ってきた二の郭の正面になります。

さらに左を向くと城壁は西側に膨らんでいます。

つまり、南側の入り口から入り、右側(東側)は大きく膨らんでいるが、左側(西側)は上の画像のように、一の郭の城壁に沿って空掘り状態が続く二重の城壁となっています。

では、一の郭に入る門に進みます。

階段の上で振り返って、外側の二の郭を見てみましょう

二の郭は、紋がある南側が下り坂で南東からの侵略者対策が重要だったのでしょう。

では戻って、一の郭に入ります。

門から見た正面に、山脈のような城壁が続いています。

一の郭の中に進み、右側の城壁に沿って東に進むと、城壁の上に登れる階段があった。

早速登ってみましょう。

城壁の上は思った以上に広かった。右側の城壁の先に・・崩れやすいのか立入禁止の看板が下がっています。

その先には・・・戦闘機の爆音も聞こえてこない、平和な東シナ海が見えます。

先に進めないので、左側に進みましょう。

半周すると徐々に西側の城壁が低くなってきます。

右上の階段からこの城壁に上がってきました。

この先やはり、立ち入り禁止になっています。

 

戻って、階段から一の郭 全景を見てみましょう

 

右側の基礎石が並んでいる部分は

建屋の跡です。

案内板には・・・標高120mのこの地に、間口16.58m、奥行14.94mの石組み残り、この上に建物が建っていたと思われるが、・・・屋根瓦が出土していない。

板葺きか茅葺きの建物と推定されるとありました。

15世紀頃・・・本陣と周囲をこれだけ立派な城壁で守れば、攻められてもそこそこ持ちこたえることができる。

武力より外交力に重きを置かれたか、あるいは平和主義だったのでしょうか、

ここ座喜味城は、当時を忍ぶ遺跡は城壁だけですが、勝連城とはまた違った城の歴史に触れられたような気がしました。

駐車場に戻り、一方通行の道を北に進み、半島の先端に向かいます。

 

 

 

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備瀬崎から北谷へ

2016-04-01 | 旅行記

海洋博公園の駐車場を出て、さらに半島の北端を目指します。

道路は少し下り斜面、エメラルドビーチの横を過ぎたころ、水牛舎、レンタサイクルなど利用できますよと左側に案内が出てくる。

車を停め、海岸を見に行こう。横道を海岸方向に走っていくと、海岸沿いに護岸がありコンクリートの小道が続いていた。

向こうに見えるのが、エメラルドビーチの先端です。左側に海水浴ができる砂浜が続いています。

 

こちら側は砂浜が無く、岩礁帯が広がっています。所々に階段が造られていて、磯に降りることができるようですが、・・・車に戻りましょう。

・・・車でもう少し先に進むと・・・駐車場がありました。この先は、細くなった小路が二つに分かれていて、備瀬フク木(ビセフクギ)並木通りの案内板がありました。

並木道は遊歩道、水牛やレンタサイクルが走る小路なのでしょう。車の進入は控えて、どちらに進むか、・・・左に海岸に下る細い道があります・・・では小道を車で海岸近くまで・・・。

護岸の小道に出た、Uターンは出来ない・・・右折する・・・道の右端は側溝、左は何も無い・・・脱輪しないように海岸に沿って北上します。

途中2ヵ所ほど右側の樹木の間に、トンネルのような小道があった。

500mも進むと左側に護岸が少し張りだしている・・・道路も左クランクしている・・・行けるかどうか?

その先は多少道幅が広いようです。ではクランクを通りぬけましょう、・・・しばらく走ると行き止まりの雰囲気!

左側の磯・・・この緑の海藻はアオサ、澄んだ海、潮が引いた海岸一面に広がっています。

ここまで1㎞くらい海岸横を走っただろうか、ここは備瀬崎、サンゴも生息しているようです。

小道の先端に近づくと、右側に駐車場があった。右側の側溝も蓋がしてあり車が渡れそう、・・・右折して駐車場に車を止める。

・・・車を降りて、振り返ると遠くにエメラルドビーチと、走ってきた小道があった。

 駐車場を素通りすると、すぐ近くがこの様な場所でした。

なるほど、先程の駐車場にタクシーが入ってきたが、備瀬フク木並木通りの終点とあります、ここまで観光客を案内しているようです。

この地区では、沖縄はかつてこんな住環境だった・・・今に伝わる二百数十件の住居があるとのこと。

フク木並木:常緑広葉樹でこの沖縄が北限とされ、フィリッピン原産、

防風林として植樹され、樹齢300年位の木々も交じる並木道です、柑橘類のような緑の実が成り、夏以降黄色になるが動物も食べないそうです。

では、フク木並木道を散歩してみましょう。

住環境を良くするために、道の横には側溝が造られています。

地面は砂地と貝殻(カルシューム)、塩分でこのようになっているのでしょうか?

楕円形の厚手の葉が見えるのが、フク木です。樹の根元にサンスベリアなども見られます。

石塔の灯りが良いですね、夜道はどんな様子か気になります。

ただ、防風林と灼熱の太陽をフク木が和らげてくれますが、砂地ではご苦労が多いでしょう。

サンスベリアも鉢植えです・・・エアコンは現代では必要な設備でしょう。

シーサーと琉球瓦、バナナが育ち、・・・素敵な民宿もありました。

懐かしい街灯があります、昼前なのに点灯中、24時間点灯しているのでしょうか?・・・良く見ると口金部が長く・・・LED電球でしょうか。

この様な果樹もありました、・・・パイナップルでしょう、地面は多少腐葉土があるようで実が成っています。

・・・車に戻って、備瀬フク木並木通りのバイバスでしょうか、左側を走る道路を南下し、元に戻って来ました。

この先半島沿いに北東に走ると今帰仁村です。

次の予定があるので、来た道を戻ります。

海洋博公園、名護市内を過ぎて、許田を目指します。高速の入り口近くに、道の駅があります。

この道の駅は人気があります。

食事は・・・他ですることにしましたが、お土産などのお買い物はお勧めです。

・・・では、途中から高速を使って、北谷に向かいます。

 沖縄南ICで降り、国道23号を4km位西海岸に方向に走ると、南北に走る幹線道路の国道58号に突き当たる。

ここを左折すると間もなく右側がリゾートタウン北谷(チャタン)です。

 こんな POLICE も走っています。

国産車ですが、MARINE CORPS ・・・米軍、海兵隊でしょう。

海岸近くの 宿泊先が見えてきました。

3:00 チェックイン、この右側が沖縄西海岸でもっとも有名な「北谷の夕日スポット」です。

ここは高層のホテル、角部屋はバルコニーも広く、南はアラハビーチが見えます。

右端がアラハ島。

反対側の北東が、美浜アメリカンヴィレッジです。

この観覧車から左側にアメリカンヴィレッジが広がっています。

更に西側は

中央右の白い高層ビルがヒルトン沖縄 北谷リゾート、・・・真っ赤な夕日が見られるでしょうか?

では中日のキャンプやアメリカンヴィレッジを散策しましょう。

この地区の案内板です。

こんな看板があります。

平日の夕方ですので観光客が大半です。

ユニークな形状のテナントビルが迷路のような通路で繋がっています。

ここが夜になると、こんな感じに 

隣接するイオンの大型スーパーに寄ってみました。

何と営業時間が深夜12時までです。(一部は10時)・・・太陽が沈んだら過ごしやすい沖縄時間です。

ホテルの横に、この地区の人々が利用される温泉施設があります。

ホテル側から頂いた入浴券で温泉に入るため一旦帰り、夜8時過ぎ食事に戻って来ました。

ライトアップされたアメリカンヴィレッジ、・・・仕事を終えた人々も繰り出し・・・賑やかな街・・・ここは沖縄でした。 

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Ocean Expo Park

2016-03-27 | 旅行記

横浜 磯子カンツリークラブ近くの海の見える高台に、高速を飛ばして向かいましたが・・・

連休でお台場・羽田・臨海部は大渋滞・・・、(4月から東京港に一般道の海底トンネルがもう1本増えて、多少渋滞は改善するでしょう)

予定の時刻を2時間も過ぎたころ何とか到着、・・・彼岸に叔父の墓参りを無事済ませ、・・・待ちに待った、忙しい春がやってきました。

翌3月21には桜の開花宣言、東京の標準木はソメイヨシノ(染井吉野)、しかし、その後寒い日が続き、3/29、まだ3分から5分咲きでしょうか。・・・3/31満開になりました。

昨春植え替えてなかった黒松を植え替え、ブルーベリーも生育が弱っている2鉢を植え替え、ライラック、アマリリス、頂いたイチゴの鉢も植え替えて・・・手をかければ、4月になると新緑がベランダを楽しくしてくれます。

・・・さて、画像の整理は・・・Ocean Expo Park・・・「Expo」昔ありました。

大阪万博の成功・・・続いて5年後、沖縄海洋博が復帰なった沖縄で開かれました。

しかし沖縄は、当時遠かった。沖縄は、米軍の爆撃機が軍需産業のため?、在庫処分?でしたか、大量の爆弾を落としに飛び立っていた時代です。

今から40年以上前、1975年、南ベトナムのサイゴンが陥落し、戦火の中を米軍が本国に逃げ帰る映像が流れました。

その年の夏、Expo、大きなイベントです・・・利権に群がった人々、・・・本土のゼネコン以外は目論見が外れた・・・そんな映像に接した記憶があります。

・・・早朝と同じく海岸沿いを北上し、名護市の繁華街を抜けるとこんな風景が広がっています。

八重岳(標高453m)の南西、国道449号線片側2車線の快適な道路です。・・・この先で名護市から本部(モトブ)町に入ります。

名護湾の穏やかな海は、広大な東シナ海にと続きます。

この海岸を過ぎると、目的地まで10数分で到着です。

ここは、沖縄観光の定番コース。

北端のエメラルドビーチの砂浜で綺麗な貝をいくつか拾って宿に持ち帰り、・・・気が付くと卓上に置いた貝の周りで、ヤドカリが遊んでいたこともありました。

貝の中にヤドカリが入っていたんですネ

 公園内は、このような立体花飾りで歓迎してくれてます。

海に向かって正面の階段を下り、(エスカレータもあります)噴水に進みます。

団体観光客は、美ら海(チュラウミ)水族館が目当てでしょうが、・・・公園内は広大で、他の施設も多く循環バスも走っているので、家族連れは一日遊べます。

右側に進むと見えてきました低層の建物が・・・沖縄美ら海(チュラウミ)水族館です。

左の台座の上に、大きな青銅の・・・クジラ?・・・いや、イルカでしょうか?

・・・海洋博の閉幕後1979年8月に、当時世界最大の水槽を持つ水族館として開館し、人気がありましたが、やがてバブル崩壊と老朽化で入館者も減少し・・・閉鎖の運命

1989年に東京ディズニーランド近くに東京臨海水族館がオープンし、マグロの泳ぐ巨大円筒水槽が大人気となりました。

東京湾岸に人口の渚と水族館が出現したのです、開館するや年間300万人以上という日本一の入場者となりました。

当時、家から10分位の上野動物園にも水族館は地味ながらありましたが、・・・臨海水族館の水槽でマグロがサンマの群れと一緒に泳ぐのを見に行ったものです。

・・・水族館も世界一の何かがあれば・・・2002年に沖縄本土復帰30周年として新館が開館(休館は閉館)します。

新たな名称が「美ら海水族館」、目玉は世界一の大水槽・・・飼育しているのがこの青銅の生き物でした。・・・これでブームになりました。

後ほど大水槽で・・・では、入館しましょう。斜面を利用した建物です。

チケット売り場は4階です。エスカレーターで3階へ下り館内へ

まずは、サンゴの海、熱帯魚の海・・・(地元の海です) 

こんな魚・・・メガネモチオウオ や

これも有名人・・・ハナミニカサゴです。

スロープを下り2階へ・・・砂地にもぐったり、垂直に立ったり・・・この魚は立ち泳ぎ

やがて大水槽の上部へ・・・スロープを下り、観客席の椅子が並ぶ前を横切り、

巨大水槽の正面へ、「黒潮の海」がテーマで、この水槽は深さ10m、幅35m、奥行き27m、7,500m³もあります。

マンタがグライダーのようにゆらゆらと泳ぎ・・・左から大きな生物がこちらに・・・

鏡に反射し、二つに見えてる?・・・のでは無く、2頭が段違いで目の前を通り過ぎます。これが美ら海水族館、目玉の・・・「ジンベイザメ」です。

 何かが挟まった?・・・、水槽の清掃が大変なようです。

複数のジンベイザメを泳がすことや、最大のエイ・・・マンタの繁殖に成功したりするには、新鮮な海水が必要でこのような日々の努力が続けられています。

 

 パンフレットには、ジンベイザメは全長14mに達する魚類の最大種で、長期飼育記録世界一を更新中とあります。

飼育してますと、こんな光景にも出会うことがあります。

貴重な落し物?

何が貴重か?・・・失礼しました。

ではお口直しに、最近人気のクラゲです。

1階が出口です。屋外に、マナティ館、ウミガメ館などがあります。

マナティの食事風景です。マナティの案内板があります。

メキシコから贈られたオス2頭とメス1頭と、ここで生まれたメスが飼育されています。

隣のウミガメ館

では、移動しましょう。

水族館の全景です。

このような立体花壇で楽しませてくれます。

これは、シーサー

背中に乗れる、花マンタ

これは、カニ?・・・ヤドカリでした。

ドルフィン、イルカの群れが

凝った、カメです。

 駐車場が近づいてきました。

まだまだ、園内数多くの作品があるようです。人気が続く沖縄 美ら海水族館でした。

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早朝のドライブ

2016-03-22 | 旅行記

勝連城から10km位先に沖縄北ICがあります。

ホテルから夕陽を見ようとチェックインを5時に予定していたが、1時間遅れの6時に変更し、沖縄の高速道路を飛ばすことにしました。

20分位走ると・・・高速入口の案内が見えてきました。ETCカードは既にセット済み。

ここから北の名護市に向かって走ります。

目指すは、約30~35km先の終点、許田。

沖縄自動車道は、しばらくは本島の東側を走ります。

最高速度80kmの表示です・・・車の流れは自然と約100km。

・・・一般道では最高速度が50Kmの表示を多く見かけます。一部の海岸線などでは60㎞表示の幹線道路もあります。

これらの一般道では、60kmから80km弱で走れるわけですから、渋滞がなければ高速道路は使う必要がないですね。

・・・阪神タイガースのキャンプ地、宜野座に入ってから道路は大きく左カーブをし、山間を抜けて本島の西側海岸の終点をめざします。

間もなく終点 許田料金所から10分位で幸喜ビーチに到着、ホテルにチェックイン。

PM6時、沖縄は東京より日が沈むのが遅いので・・・部屋のベランダへと急ぐ・・・

窓の外には、懐かしいエメラルドグリーンの光景が広がっていました。

真っ赤な夕日は・・・残念、水平線上の雲が厚い・・・週間天気予報では徐々に天候が崩れ、週末は雨模様の天気予報だったのを思い出す。

八重岳のある北の半島方面です。桜は既に葉桜でしょうか?

海開きは一部が3 月中のようですが、大半は4月から、

2週間前(2月上旬)に、八重岳では桜まつりが開かれたそうです。

南側は、街灯が灯り、夕暮れ・・・PM6:30・・・沖縄の最初の夕食は、名物の一つ・・・ステーキ

では、早く休んで早朝のドライブに・・・

AM6:15 薄明りの中、海岸線に沿って国道58号線を北上する。

やがて西に延びた半島の付け根を縦走する・・・30分も走っただろうか、左前方に飛び飛びの島が見えてきた。

この先の信号を左折し、奥武島を通り、目指すのはもう少し先、大きな橋を渡ると屋我地島、ここは少し大きい島でここまでが名護市

屋我地島のサトウキビ畑や紅いも畑の中を走っていると日が明けてきた、もうすぐ7時・・・北端部に近いところで 古宇利大橋 の看板

案内通りここを右折し、一直線の下り坂を進む・・・

橋の左手前に駐車場が見えたが、直進する

橋の中央部に向かって、ここから登り坂が続く 古宇利大橋 駐停車禁止とあります。

観光名所のこの橋は、2005年2月開通、1.96km、透明度の高い沖縄の海の上を離島に向かって走ります。

 この橋が最初の目的地でした。

橋の西側(左手)を見てみましょう、古宇利島の漁港が見えます。

島の近くで地元の方が数人釣りをされていました。

タコですか?・・・タコはダメ、禁漁!

釣り糸の先にエギ(エビの疑似餌)が見えた。アア、烏賊ですか・・・そう言うと、突然橋の下を指さし、「マンタ・マンタ・・・そこ、見えるか?」藻に向かって泳ぐ姿が見えた。

さすが、勝手知ったる地元の磯、

道路の東側・・・きれいな海です。潜りたい、海藻の中にいろんな生物が潜んでいる、豊かな海です。

ここは漁協の管理下なんでしょう、広範囲に移動する魚類は捕獲が自由だが、縄張りからあまり移動しない貝類やタコ、海藻などは組合員が期間を限って捕っているのでしょう。

前方の丘の上、灯台のような建物が見えます。

最近2013年オープンした観光施設、古宇利オーシャンタワーのようです。

入場料が¥800-、AM9:00オープン、展望レストランや貝の博物館などがあるとのこと、

 

島の漁港横、防波堤から・・・古宇利大橋のある風景

砂浜、こんな岩も

遠浅の海、白砂と磯

この島は一周7.9km・・・気分転換にちょうどいい距離です。

では、ドライブに・・・山裾の斜面に広がるサトウキビ畑・・・一本道をユックリ走ろう、脇道は道幅が狭いので寄り道をせずに

・・・脇道を下って海岸に下りないと何も無いかな?・・・向こうに橋が見えてきた。

今帰仁村(ナキジンソン)の古宇利島(コウリジマ)、大橋が架かる前は、今帰仁村村の大半が隣の本島にあるので役場などには船で行き来していたようです。

斜面を下り、古宇利大橋に・・・橋を渡り終えるころ、雲の上をオレンジ色に染めていた太陽が雲間から顔を出しました。・・・では。再会!

そろそろ宿に帰らないと・・・屋我地島に戻り、一直線の坂道を上り信号を右折します。

道なりにカーブを進むと西側の本島に渡れる橋が架かっています。

「わるみ大橋」:

ワルミ海峡に架かる橋で、2010年、最近開通して便利になった道路です。

この橋を渡ると、今帰仁村です。

古宇利島の人達は、この橋が完成するまで大橋を渡って大きく島々を迂回して、この先に通われたそうです。

新しい橋を渡り、左折して山道を登ります。

20分くらいでしょうか、こんな風景が見えてきました。

八重岳の桜、満開は過ぎてしまったようです。が、鮮やかな花びらを

・・・淡い吉野の山桜も素敵ですが、こんな南国にふさわしい桜もありました。

そして5分位坂道を登ると、八重岳の山頂へ到着です。展望台や神社もありませんが、このような景観です。

ここは、自然のままでした。

では・・・山道を下り、橋を渡り別のルートで名護市に下りてきました。

ここ名護は、中日ドラゴンズがキャンプをしていました。

海岸線を90㎞近くで飛ばす通勤の車の横を、80㎞弱で快適にドライブし、市街地はもちろんスピードダウン・・・まもなく到着。

時間はもうすぐAM9:00、

 

 アグー豚のしゃぶしゃぶと海藻サラダで今日も笑顔

・・・食後は、・・・波打ち際を思案して・・・イヤ、何も考えず・・・潮騒に浸って歩く

では、そろそろ例の水族館に行きましょう。その先には、琉球の文化が・・・。

 

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世界遺産 グスク?

2016-03-06 | 旅行記

サムネールのクリックが面倒?   ・・・表示方法を変えてみました。

ここは、沖縄中部うるま市、目的は・・・海中道路です。

 

 那覇空港、2月中旬、空気が湿っている、やはり南国、10年振り位になるかな・・・。家族は数年前にも訪れていると思うが。

空港の2F東側から、渡り廊下を通り目の前のモノレール乗り場に移動する。

モノレールは、延伸工事中のようです。

沖縄が誇る?交通機関です。 名称は、ゆいレールです。

那覇空港駅が始発駅です。

では、県庁に近い所で車を予約しているので、¥260-の切符を買いレンタカーを借りに行きましょう。

・・・平日昼過ぎ、・・・”海中道路に行こうと思うけど、迂回して高速載った方が良い?”・・・レンタカー会社の若い女性、・・・”高速?・・・使わないで、国道真っ直ぐいけば・・・”

ナビとETCの装備車を依頼しているので・・・、便利な世の中です。県内の有名観光地はコード番号を入力することでも目的地が登録できます。

このコード番号表を渡されて、”休業補償のオプションはどうされます?”

保険もすべて入った契約だが・・・面倒なやり取りは時間の無駄?・・・付けてと言うと、オプション金額が上乗せされたレシートだけがプリントされて、・・・渡された。

・・・那覇市内の国道58号は、片側3車線と広く走りやすい、渋滞も無く北上する。地元の人々で混み合うのは夕方以降か。

宜野湾市内で右折し東海岸側を北上する。片側2車線の中央の車線、60~70km位の流れが時々40~50kmになる。

左に車線変更し、遅い一団の車列をやり過ごしていたが、30分位でユックリ走ることにした。

多分80歳過ぎと思われる方達が、先頭でシッカリとハンドルを握られている、この方達は自分たちの生活道路を走られているのでした。

ここは長寿県、時の流れはユックリなのです。

そして、海中道路の案内が見えてきました。もうすぐです。

東京湾には、羽田空港付近、多摩川河口の海底、川崎~東京湾上の海ほたる、大井町と臨海部と多くの海底トンネルがあります。

しかし東京に海中道路は無いので、水族館のように水中トンネルになっているのでしょうか。

丘を下ると海が見えてきました。標識です。

海中道路西口。この先、道路両側に海水をシールドする防潮壁が続いているのでしょうか・・・。

そんなことは、やはりなっかたのです。海面より道路は高いようです。

平坦な道を進み、前方に橋脚が見えてきて、橋を渡ります。・・・海面から多少高くなる程度なので、この下は小型船舶の航行や、潮がよどまないようにしているのでしょう。

橋を下ると左側に張り出した埋立地が・・・ここが「海の駅」、寄ってみよう。与勝(ヨカツ)半島と、平安座島(ヘンザジマ)の中央付近です。

 「あやはし館」・・・店内は1階は土産品や地元の物産品などが並んでいるが・・・販売員もお客も、誰もいなっかった。外に出ると話し声が別の場所から聞こえてくる。

多分併設しているレストランが近くにあり・・・接客で忙しいのでしょう。販売員が不在の店内は、居心地が悪いものです。直ぐに退館し、さてどうしよう。

・・・この付近の情報を、

この先の島で戦後、アメリカの石油会社が石油の備蓄基地を造るため、本島に2車線の道路を建設した、これが1971年。

1974年には地元に道路を無償で譲渡されます、海中道路という名称で呼ばれたのはこの頃からでしょうか、

県道に昇格し、1999年に現在の4車線、観光道路としても利用されるようになりました。全長4.75kmの道路。

名称が良かったですね! 海中道路・・・海面下をトンネルで無く、一部でも道路として走れるのでは?

・・・そんなことも無く、海原に埋め立てて道路を通した海中道路・・・これも観光資源です。

この日は、時より重い雲が発生しスカットした青空が望めない。

周辺には、浜比嘉島に架かる浜比嘉大橋のある風景や

 

奇岩のある風景、など

金武湾で自然を相手に幸運なシャッターチャンスにチャレンジできます。

では、戻ってグスクに行きましょう。・・・グスク?・・・世界遺産登録は、カタカナのグスクと表記することで登録されたそうです。

大中小含めた城や貴族の邸宅、神殿や墓まで離島を含めグスクと呼ばれるものがこの沖縄本島や離島一体を含めると400か所以上あるとのことです。

沖縄最初のグスク訪問は、この勝連半島の西側に向かいます。

・・・入口が工事中で車輛進入禁止、隣の道は、・・・これは歩行者?、周辺を見渡すと前方の道路反対側に駐車場がありました。

では、この入口から入りましょう。無料で公開しています。ここのグスクは親切に、案内板が数多く設置されていました。

工事車両と通行人を分離するためでしょうか、右カーブの道路をカットするように歩行者用の木製階段が一直線に伸びています。

全体図を押さえておきましょう。

階段を登り終え道路と合流すると、城壁の遺跡が見えてきます、正面に西日が・・・小走りに進むとその先に海原が・・・

・・・折り畳み傘?・・・開けないの?・・・貴女が主人公、自撮りが大流行です。

有名観光地に行って来ました・・・そんな証明する写真が必要なのでしょうが、自撮り棒、・・・電信柱と同じくらい自然な景観には障害物となる存在になってきました。

気を取り直して、四の曲輪から三の曲輪へ・・・

この場所に、この様な赤門がかつてあったという

なるほど、ここでは上段の二の曲輪と一対になり、大きな広場で儀式を行ったとあります

ここが現在の三の曲輪、

そして、他にもいろんな案内板がありました。

これが洞窟跡

では、先に進もう・・・新しく海側に作られた木製の階段を登ろう

先を急ぎすぎたか、・・・目の前の階段を登りと左側の城壁が目の前に現れる。

この遊歩道のような幅の城壁の上を進む、・・・途中で気が付いたがこの先は城壁で行き止まり、通行禁止です

二の曲輪で、大きく右に回り込むと上の曲輪に登ることができる。

せっかくですから、眺望を・・・、海側は急斜面、攻め上がることはできません。

戻って、二の曲輪の案内板を見てみよう。

や、火の神などが

あった場所とのことです。

目の前に最上階の石垣が見えた、ここも右側から登るようだが石畳が歩きにくく、失礼!・・横に木製階段が出来ていました。 

石垣に近づくと・・・これが最後の階段です。

所々自然石を積み上げたのか、多分岩山を削ったのでしょう不揃いで凸凹の坂道がある。

 500~600年も時が流れれば、当時と変わったところがあっても不思議ではないのだが

 狭くなった階段の最上部で、振り返る。

ここが最上部、一の曲輪です。足元は岩山のような雰囲気です。・・・海側に案内図があります。

下を覗くと南西側は絶壁です。

案内板には、最初の四の曲輪の外側にも東の曲輪があるようです。

やや右手中城湾の先に見える陸地に中城城(ナカグスクジョウ)があり、その先に首里城があります。

この高台では、360度はるか彼方まで見渡せます。築城当時城主は何を考えていたのでしょうか、ライバルの動向でしょうね。

若き阿麻和利は勝連城第10代城主、・・・この湾の向こう・・・中城城の護佐丸は1458年落としたが、・・・その先の首里を焦って攻め込んだが、王府は落とせなかった。

この城に戻って籠城するも・・・1458年落城、ここ勝連城は滅亡します。

何があったのでしょう。

・・・、まだ見ていない北の方面を、パノラマでご覧いただきましょう。

失礼、修復工事中でした。・・・、フェンスの向こうには金武湾、太平洋の島々が・・・

・・・夕日が沈む前に・・・狭い階段を下ります。この幅です・・・足元をしっかり見ないと踏み外します。

 この勝連城が栄えた時期は、15世紀、勝連城主 阿麻和利(アマワリ)時代、貿易で繁栄したようです。

 当時この島では、北部本部半島の今帰仁城、中部の浦添城、南部の南山城らが争う戦国の世でした。

北部、南部を滅ぼして1429年、尚巴志(ショウ・ハシ)によって統一されたとあります。

琉球統一王朝は10年後尚巴志が亡くなると、その後は子や孫が即位するが短命で・・・王権争いが起こり統一から24年後、内乱で首里城は全焼する。

その様な時期に第6代王を継いだのが尚巴志の七男尚泰久でした。

新任の王は、クーデターが起きないように実力者を何とかしなければと思います・・・政略結婚で身内にする手がありました。

今帰仁城主の護佐丸は、父と共に戦った琉球統一の功労者で一番信頼できる実力者です。

一方、若き実力者が勝連城主の阿麻和利でした。

王は、阿麻和利の脅威から王府を守るため、護佐丸を勝連城と首里城の中間の中城城に居城替えをします。

さらに、護佐丸の娘を王の妻に迎え、王の娘を阿麻和利の妻として嫁がせました。

実力者の二人とは、義父と娘婿の関係になりました。

ところが、・・・忠臣の護佐丸に謀反の動きありと王に知らせが届きます・・・内偵すると軍事訓練の様子、実力の無い、経験の浅い者の判断は

・・・護佐丸を討てと・・・まるでドラマのようです・・・王府軍の大群を率いるのは・・・想像がつくでしょう。

謀反の動きと王に情報を流し、一番の実力者を王府の兵隊で攻める・・・この策略は、勝連城主 阿麻和利です。筋書き通りに中城城に攻め込みます。

・・・中城城の護佐丸は、24年間忠誠をつくした王府から謀反の疑いをかけられ・・・しかし、人間ができていたのか、無抵抗で一族と自刃されたそうです。

1458年中城城落城、忠臣 護佐丸 生前の記録は無いようで、この落城の時に歴史に名前が残されたそうです。

・・・さて策士 阿麻和利が次に狙うのは・・・もちろん王府・首里城です。

しかし、何故あせって攻め込んだのでしょう?

・・・策略がバレたようです・・・妻によって・・・信長が妹のお市によって義弟の襲撃を知らされたように

王の娘は、夫の襲撃を察知し付き人と勝連城を抜けだし首里城へ・・・25kmの道のりを数時間かけて向かいます。

・・・異変に気付いた勝連城主 阿麻和利は、妻が王に知らせれば策略がバレると思い、急遽兵をまとめ首里城へ向かいます。

一方、王府軍は知らせを受け、弱体とはいえ急ぎ守備態勢を整えます。

最初は攻勢の阿麻和利軍も、やがて落城させるのは困難と・・・勝連城に引き返します。

・・・何故、難攻不落と思われた勝連城が落城したのでしょう?

籠城している勝連城に、王府討伐軍を率いて攻め込んだ人物は・・・付き人でした。

阿麻和利に嫁いだ王の娘、その付き人で、勝連城から一緒に逃げ出した人物、

勝連城は難攻不落でも、今まで住んでいたお城です、・・・ついに落城しました。

ドラマのエンディング、・・・策士 阿麻和利 滅亡する!・・・でしょうか?

策士第6代王尚泰久、 護佐丸・阿麻和利の2大勢力を滅亡させ、琉球王国を強固な体制に・・・!と、テロップが流れたのでしょうか?

フゥ! ・・・絆も信頼関係も、忠義も誠も信用も・・・何かを犠牲にして、目的のために、でしょうか

・・・石段を下る途中で、気になった。この傾斜は、前に転倒しそうで危ない、上りは気にならなかったが。

高度な石組み技術があるのだが

悲惨な20世紀、そして今日の沖縄

・・・石段の坂道を登るには、踏み込み面が広く蹴上高さが小さいと女性が和服でも上りやすいが、斜面が多少急になると蹴上高さが大きくなる、しかし大きいと大股でないと上がれない

そこで踏み込み面を傾斜にして・・・高さを稼いでいるのかな?

階段が気になりながら、高速道路の沖縄北ICに向かいます。

 

 

 

 

 

 

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球春

2016-03-01 | 旅行記

球春!・・・ここ10年、キャンプインのニュースにも、オープン戦のニュースにも関心が無くなっていた。

野茂の後を追い大リーグに挑戦する選手を応援するのは、細かい野球、駆け引きに焦点が当たる日本野球に飽きたからでしょうか。

パワーに対抗するスピードとテクニック、そして熱い想い・・・そこに感動があるのでしょう。

節分が過ぎ・・・、梅が咲き、ブルーベリーの蕾が膨らみかけたころ、慌ただしく飛び出した。

・・・2月上旬に8日間振替休日を過ごした家族の者が、また突然に2月中旬に有給休暇を消化するようにと・・・。

家族旅行となり、行先、スケジュールを考えるが適当なところが無く、すったもんだの挙句、フライト便、宿泊先、まとまったのが休みの1週間前。

・・・航空運賃を決済する前に念のためパスポートを確認すると・・・私のパスポートは5月1日で期限切れになる。

有効期間が3か月を切っていた。これは大問題、多分どこの国も入国できない・・・ウッソー・・・、家族のブーイング・・・。

良く解釈しよう・・・成田に着いて出国できなかったら事件だった、それに比べれば早期発見、ダメージは浅い。

・・・翌木曜日、・・・この時期は何もイベントが無い季節、北海道でスキー?・・・中国人が多く騒がしいゲレンデが想像できる、・・・代替案作成は困難した。

土曜日になってしまった。レンタカーでドライブをする案のみが残った・・・自由気ままに成り行きで、とにかくどこかに行きたい。困った連中だ!

日曜日、宿泊先を決定する、最後に始めてのLCCにフライトを申し込み、現地でのレンタカーを申し込んだ。

・・・フー、水曜日の出発に間に合った。

そしてこの時期、この地では・・・各地で真っ最中でした。

北谷IC、高速を降りると横断幕が・・・

そして、海辺の高層ホテルのベランダからは、海と公園、野球場が一望できる。

散歩に行こう・・・ここは、中日ドラゴンズ

スタンドを無量開放しているので、練習風景を見に来るファンが多い。

プロ野球のキャンプ地は、メインスタンド以外に練習グランド、室内練習場などの施設が必要とされる。

そして、近くのグランドではこんな光景も、

この付近は、突然轟音が発生するのが日常です。

北東の丘陵地帯から・・・いったん海上に出て

Uターン・・・北東の丘陵地に降下、・・・その先には、嘉手納空軍基地

・・・

2月20日土曜日には、那覇のホテルからタクシーで向かった先が・・・

海に近い河口に米軍の輸送船が接岸

ここの見学ではなくて、道路の反対側で歓声が聞こえる

スタジアム、・・・こんな人々が集まっていた

そして、特設ステージでは

主催者のゆるキャラが、・・・昔から見たことがある、球団マスコットだったり

地元の人気グループやマスコットガールが登場

この地の案内板です。

今日は、オープン戦初日、球春到来と朝からイベントが開かれていた。

オープン戦とはいえ、有料でチケット売り場には行列が・・・

近くのモノレール駅付近の芝生で、投手陣がピクニック

イヤ、昨夜の雨でシートを敷いて、筋トレ中でした。

内海さーん、沢村サーン、・・・色紙を持った女性が沢山

近くを走るモノレールも、化粧していました。

そして、初采配の高橋ジャイアンツ、オープン戦初勝利でした。

ここは、沖縄、キャンプ地訪問はオプション、サイドメニューでした。

八重岳では、2週間前に桜祭りが開催された。

そんな、沖縄ドライブ旅行です。

 

 

 

 

 

 

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出雲大社2

2016-01-07 | 旅行記

出雲大社の西側、気になったので再度礼拝する側から本殿を見てみよう。角を曲がると

こちらが西側、瑞垣に沿って北に進むと、本殿の上部が見えてくる。

垣から少し離れて本殿を眺めるとこのような感じです。礼拝所横に立てられた案内板の下側一部を拡大すると

礼拝所からはこのような配置になる。この本殿の左(北側)奥にご祭神がこちら向き(西向き)に安置されている。

もう少し北側に進むと、このような感じになります。

ここで本殿の大きさを調べると、屋根の最上部まで24mと記されています。屋根は大きな丸太(直径1.1m)の柱、高さ11.8mを中央に、南北に(直径87cm)、高さ15.5mの柱を組み、東西にも各々3本を建てた構造のようです。

屋根(大棟)の両端にX状の置き千木(チギ)が(長さ7.9m)載り、さらに鰹木(カツオギ)と呼ばれる長さ5.45m周囲2.67mの重しの飾り丸太が3本載っています。

屋根の傾斜は東西に流れています、開口部側は妻と呼び、南側が入口で妻入りと言います。この入口に斜めの霜取り屋根が連なっているのが不思議な印象でした。

伊勢神宮とは入口が異なる様式となります。

瑞垣があり本殿には近寄れないので、周囲から見る限り高さはそれ程感じなかった。

配置図を見るとまだ瑞垣の内側に神社が点在し、さらに玉垣が囲む内側に本殿が建っています。

垣と段差で二重三重の結界を創ってあるのでしょう。

・・・南側で正面の八足門の横から内部を見てみましょう。

西隣の神楽殿から団体客の行列が・・・通り過ぎるのを待ち、再度正面階段を上がり左側の格子の隙間から内部を見てみる。

仮設テントで覆われているのが発掘された丸太跡のようです。瑞垣内のこの部分は埋め戻さないでブルーシートで保存されていたようです。

金輪御造営図を裏付けるような、直径1mの丸太柱を3本束ねて巨大な柱とした宇豆柱が発掘された跡です。

玉砂利の右側石畳を奥に進むと楼門があります。向こう側、楼門の両側に玉垣が見えています。

・・・本殿・玉垣・瑞垣・・・この境内の北に裏山があります。この社の裏山は登ることが許されていない八雲山、標高175m、・・・昔はこの山が神様だったのでしょう。

鎌倉時代(1200年頃)には、本殿の建物は現在と同じくらいだったようです。それ以前の平安時代に高さ48mの社が建立された可能性は?記録が少なくまだ疑問が残るようです。

いずれにしても、弥生時代頃に出雲を始め日本海沿岸が栄えた時代があったようです。

特にこの出雲地方は日本海側に山並みが走り、その南側に谷間のように窪地が並行して存在している。この航空写真を見ていたら、

多分大昔この窪地は満潮時に海になり、北風を避けることができる港として絶好の土地だったに違いないと思えるようになった。こんな感じに・・・人々は浅瀬の向こう側に社を建てて、海の安全などを祈ったのでしょうか・・・。

・・・しかしなぜ、温暖な瀬戸内海よりもこの山陰地方が発展したのでしょうか?

朝鮮半島からの小型の帆掛け船でやってきた渡来人がこの地を重要視したのは、・・・近いこと以外に避難場所だったり、食料や水の補給場所だったり、資源もあり交易拠点でもあったのでしょう。

・・・瀬戸内海は小型の船では急流が多く、潮の流れも変化して操船が難しいことや、島が多く突然襲われることもあるでしょう・・・小舟では危険な海域だったのでしょうか・・・

・・・同じ頃、地球の反対側では地中海文明が生まれ、ローマ帝国が勢力を伸ばした時代です。彼らとの文明の違いは、・・・宗教と関連して、建築(石と木)技術が(周辺の資源が違っていましたが)大きく異なって発展しました。

エジプトにピラミッド・・・オベリスクが建ち(これをローマ人が持ち帰り)・・・この出雲の地にもオベリスクが建てば神話は変わったでしょう。

アテネに神殿が建ち、ローマに円形ドームのパンテオン神殿が建ち(直径43.2m、高さ43.2m)高度な建築技術が発展していました。・・・時代が移り日本でも宗教が栄え、やっと奈良に大仏が完成します。

・・・この出雲の地で、神話時代の痕跡に触れられたので・・・歴史を学びなおそうかと思いながら西隣の神楽殿に向かう・・・。

大きなしめ縄があった。

神楽殿を後にして、銅の鳥居を抜け、手水舎の先に・・・今の鳥取県の海岸で因幡の白うさぎに出会ったそうな・・・

参道を戻り、坂道を登って木の鳥居から街並みを見渡す・・・一の鳥居が見えました、石の鳥居、堀川の宇迦橋大鳥居です。

目の前の参道は神門通り、両側にお土産屋さんや甘味処などが並んでいます。

車に戻り、すぐ西の海岸で日本海に沈む夕日を見に行こう・・・

まだ少し日が沈むには時間がありそうなので、岬を目指す・・・途中で強風となり曇天から暗雲・・・途中道路工事区間もあり

この地点で、穏やかな夕日と出会えるのは難しいとあきらめる

日本海は波荒く、雲の流れが速い

戻って、日本各地から神様が上陸した稲佐の浜で再度夕日を・・・稲佐の浜の案内です

到着するや10分もしない内に

天照大御神から試練の雹が降り注ぎ・・・・あっと言う間に雹は止み・・・そして、この地の東約40㎞、島根県松江市では突然の雪に見舞われたのでした。

 

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ここが出雲大社

2015-12-23 | 旅行記

山陰地方の北西端、その山裾に神話の土地、島根県簸川郡大社町杵築東宮内195がありました。古事記の「大国主神の国譲り」に巨大な建造物が登場する、その場所がこの地です。

その昔、杵築(キヅキ)の郷(サト)の杵築大社(キヅキタイシャ・キヅキノオオヤシロ)と呼ばれていたそうですが、巨大な建造物の子孫は、明治4年(1871年)、出雲大社に改称されました。

出雲大社前の交差点から、石段を上がり参道に入る所に木造の二の鳥居があります。

この場所・勢溜(セイダマリ)は集客においては、一等地です。かつては露天商が並び、市が立ったり、芝居小屋や、見世物小屋・・・繁盛して多くの人の勢いが集まり、留まる場所・・・勢留(セイダマリ)と呼ばれています。

今日では、スターバックス(コーヒーチェーン店)が大きな看板を出していて、目を引きました。

鳥居をくぐる前に、左のお知らせを・・・神様が11月21日に日本全国から集まって来られて11月28日まで、この一週間は会議中と札が下がっています。

・・・隣国・中華人民共和国、韓国、北朝鮮とのお付き合いについて、知恵を出しあって会議をされているのでしょう。

二の鳥居・勢溜の大鳥居(正門鳥居)の先、右側に境内の案内板が立っているようです。

ここの特徴は、海岸に近いことでしょうか。参道は多くの松林に囲まれて防風林の役目も兼ねています。

ここから参道は下り坂になるので、鳥居の立つこの辺が一番の高台です。

坂道を進むと少し先の右側に、小さな社(ヤシロ)、

祓社(ハライノヤシロ)です。祓戸四柱神が祀られていて、ここで心身を祓い清めます。

そして、間もなく祓橋を渡り、参道が左右に分かれています。前方を見ると松林の間に、三の鳥居・鉄鳥居が見えました。

では、右側の参道を進みましょう。

立札が見えます、近寄ってみましょう。

松の根の保護のために、この一帯だけ参道を左右にずらしてたのでした。

年間約200万人もの参拝客があるそうですから、松も大変でしょう。

参道右横からこの先の本殿がある裏山を眺めてみます。

・・・何故、8世紀の大和朝廷が、奈良から遠く離れたこの地を重要視しながらも、神話の世界として記録に残したのでしょう。これから創る天皇制のストーリーが主役であり、衰退期にあったこの地の歴史は、異文化のストーリーとして完結させたかったのでしょうか。

すぐ近くに、古事記の世界がありました。二つのモニュメントが並んでいます。

出雲大社の御祭神・大国主大神は神性を養われ「ムスビの大神」となられました。えんむすびの神と慕われるゆえん と

「ムスビの御神像」でこの様な説明がされています。

また参道を挟んで西隣には、因幡の白うさぎの神話から御慈愛の御神像が置かれています。

隣が手水舎です。

荒垣が並ぶ中央に、重厚感のある四の鳥居があります。

国の重要文化財、胴鳥居、1,666年に毛利綱広によって寄進された由来が刻み込まれているようです。

入って左側はこの様な風景です。

ここは天神さまではないのに、牛がいるようです。牛舎ではないです。

神馬神牛像のようです。神様の乗り物とされる動物で、神馬は子宝を授かり安産に、神牛はここでも学力向上にご利益があるそうです。

では、拝殿に向かいましょう。

鳥居の先右斜め前方に銅屋根の建物があります。この拝殿は戦後(昭和28年)焼失してしまい、昭和34年に現在の拝殿が完成しています。

高さは12.9mとあります。

大きなしめ縄の先で、伊勢神宮などとは違う古式といわれる参拝方法があるようです。

賽銭を入れ、「二礼四拍手一礼」がこの地の作法のようです。

参拝を終えて境内の右側に

この出雲大社の遷宮(セングウ)が完了したことが掲げられていました。

 

「平成の大遷宮」が二年前平成25年5月10日新本殿が修復され完了されたとのこと

右隣の写真が、古代文明の謎が解き明かされる・・・以前大きなニュースになった発掘の写真です。

イラストを拡大してみましょう。

新聞などで見られた方も多いと思います。・・・かつて古事記に書かれた天まで届く巨大な建物があったという。案内板には・・・平安時代(970年)の子供の教科書に東大寺の大仏殿(高さ45m)よりも大きく、48mと伝えられ、階段の長さを一町(約109m)と記しています。

当時の木造建築の技術では48mの高層建築は無理・・・木造は腐るし・・・否定的な意見が多かった所にこの境内から丸太の基礎部分が発掘されたのでした。

この後に発掘された場所を見てみましょう。

その前に、隣のテントに入ってみましょう。

龍蛇神 をどうぞご自由にご参拝くださいとあります。

神棚がありました。参拝しお神酒を頂き、その盃を頂いて・・・お札も必要数頂きました。

・・・大国主大神は因幡の白うさぎの話では、大きな袋を担いでいました。そこから後にだいこくさまと言われているようです。

さて、拝殿とテントの間を進むと、拝殿の裏に御本殿がありました。

拝殿でお参りしているので、その真裏の本殿にもお参りをしたことになります。

本殿は四方を垣(瑞垣ミズガキ)で囲まれています。この前を左(西)に進み、御守門の先を右(北)に曲がると一段高い本殿が見えます。

そして中ほどにこの様な案内板があります。

本殿は参道や鳥居のある南が正面となりますが、殿内の御神座は西向きとなっています。

昔より参拝は大神様に向かい合う正面(西側)より礼拝なさいます。

どうぞ御礼拝下さいませ。  出雲大社

「拝礼作法」二拝四拍手1拝・・・・・と書かれてありました。

南の正面に戻ろう。

正面の八足門から本殿に向かい礼拝します。この階段の手前の三つの円形が”祈りの神御柱”

岩根御柱(心御柱)と案内板に書かれていたもので、発掘跡にこの様な図が描かれていました。

直径140㎝の杉巨木を3本束ねて、巨大な1本の柱とされていました。ベンガラの塗着があり柱は赤く彩色されていたと思われますとありました。

・・・年が変わりそう、良い年となりますように!

 

 

 

 

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寄り道をして、出雲大社へ

2015-12-15 | 旅行記

木曜日の朝6時半、大阪の通勤ラッシュを避けようと朝早くホテルを出発。

ここは琵琶湖の湖畔、まもなく瀬田東から京滋バイパスに乗る。順調に走り、大山崎JCTで名神高速道路に乗り移り、吹田JCTを目指す。

多少渋滞したが30~40分で吹田JCT、ここで中国自動車道に移る。

大阪の郊外、流れが急激に悪くなり渋滞に突入してしまった・・・千里中央まで4km我慢か、・・・徐々に流れ出し大阪空港を過ぎたころから多少高速道路の雰囲気になって来た。

順調に宝塚、西宮北、神戸の北方を抜けて時間は8時半頃、赤松PAで遅い朝食休憩をとる。事故でもない限り、昼前には海が見られる予定ですが。

・・・中国自動車道は中国地方の兵庫・岡山県の北方の山間部を走るのだが、良くある風景が続きます。脇見もせずに?のんびりと走り、やがて眠くなるころ落合JCTが近づく。

ここまで西に約240km、ここで北に90度向きを変えて米子自動車道に乗り移る。ここから約110km位先の山陰の港町で昼食の予定。

30分程走ったころ、サービスエリアで休憩・・・蒜山高原(ヒルゼンコウゲン)です。右側に見える大きい山は大山(ダイセン)でしょう。

大山・・・この地方で有名なスキー場があります。また、このサービスエリアの少し先にも蒜山スキー場があるようです。 

・・・そうでした、翌日 この付近では小雪舞う、チューン規制となった高速道路でした。

しかし、そんな状況になるとは予想もできない天候が続いています。

この先少し下った所が大山高原、

そして8㎞先が米子ICです。ここから西へ75㎞走ると出雲大社になるのですが、・・・

米子インターの先で一般道に降りて・・・寄り道をします。

真っ直ぐ北へ、日本海目指して、この一般道は片側2車線、左右に曲がる車もがあるが信号も少なく、直線で見通しも良くスムーズに高速道路並みに流れて行く。

やがて道路は右側が美保湾の海岸線に近づき、防風林が見えてきた。

窓を開けると時折強風が吹いてきて・・・慌てて閉める。・・・

夏が過ぎてこの時期になると、群馬の空っ風・山からの木枯らしと、湿った重い海からの強風と、どちらが生活するのに大変かと考えたりしてしまう。

nnnn・・・目的地が近づいたら、何かあっさりしていて違和感があるのに気がついた、インパクトが弱いナァー

アレ、斜めからだと?

そう、信号機が気になって、

これが今までのLEDですが、Newタイプは、表示灯の周囲・丸い輪郭がメリハリに欠けるのが気になる。

バックの風景とコントラストの差が少ないので、雲に溶け込んで分かり難いのと軽いイメージが信号機にはふさわしくないなぁ、

岸壁に出た、左に曲がって入り江の奥の方に進む、

お目当ての食堂が、・・・臨時貸し切りで入店できず、ここは境港。そうです山陰地方有数の港町です。

この岸壁の向こうに見える丘(小山)の裏側が日本海、沖合数十キロ先に壱岐の島があり、港もあるので寄ろうと思っていたが、突然風が強くなり曇天の空からポツポツと・・・。

急きょ、商店街に・・・この地は(帰宅して最近訃報に接した)・・・あの水木先生の地元なのです。

記念館が近くにあり、この通りは、水木しげるロードです。

こんな妖怪や、

あんな妖怪

そんな妖怪

これも妖怪?、実はあまり詳しくないので・・・割愛

夕方になると雰囲気が出るでしょうネ、

・・・近くの魚市場に行き、・・・さてどうしようか思案する。

・・・そうだ!、全く別のジャンルの人気スポットを走って松江に向かいましょう。

天候が小雨模様に変わってきました。

視界が悪いのが残念、今運河の上、江島大橋の最高部を走っています。

そして下り坂、前方に見えるのは大きな中海です。

急な下り坂を下ると

工業団地が現れて、ここは中海に浮かぶ江島、埋立地でしょうか?

看板が、ここから島根県・松江市と表示しています。境港は鳥取県でした。

さて何が人気スポットなのでしょう?

信号の先、ガソリンスタンドに車を入れて・・・外は強風でした。先程の信号まで戻って、ベストアングルを探す余裕も無く・・・1枚

・・・下の画像をご覧になったことは? TVCMの1カットです。・・・「べた踏み坂」・・・車のアクセルを最大限に踏み込んだ状態で・・・車が必死で登るさまを現しています。

このアングルは、離れた位置から望遠で撮影するとこのような効果になります。CMの主人公は、ダイハツの軽自動車、画面左下で準備しています。

そして、この信号付近からのアングルでは、軽自動車が滑り落ちることなく登っていく様子が流れます。

 

こちら側が、島根県江島、向こう岸が鳥取県境港市で、全長1.4km、高さ44mの運河に架かる橋ですが、橋を横から見ると左右対称ではなく、こちら側が高いのです。

この付近や更に離れた中海の周回道路からも撮影スポットがあり、CMのべた踏み坂の撮影地点は、マニアの人気スポットでした。

・・・松江には、最近話題になった観光スポットがもう1か所あります。

そこに向かいましょう、40分位で到着の予定です。

中海から西に7~8㎞、宍道湖(シンジコ)が見える近くの平地に堀で囲まれた目的地がありました。この一帯は松江の官庁街、すぐ近くは島根県庁。

・・・観光バスが並んでいる駐車場の片隅に堀川遊覧船乗り場がありました。

名前の通り堀の川の遊覧船のようです。またこの駐車場には

この銅像がありました。堀尾吉晴(ホリオヨシハル)公・・・調べてみると、関ケ原の戦いの功績で、出雲・隠岐の両国を拝領したのが初代藩主の堀尾忠氏(タダウジ)で24万石、

この父が吉晴で、親子共に浜松から月山富田城に入ったが、松江の地に1607年新たにに築城を開始して5年後完成します。この松江開府の祖が、この銅像の方です。

 駐車場から城内に・・・松江城?・・・昔からの観光名所ですが・・・。

石碑が新しいようです、・・・国宝の文字が、

何が話題となったのでしょう。しゃちほこが木造?

・・・2015年7月8日、松江城は官報告示により正式に「国宝」に指定されたので・・・只今脚光を浴びている祝賀ムードの観光地でした

さて、1時近い、寄り道を終了して宍道湖に沿って西に走ります。

宍道湖は、周囲約45㎞の汽水湖、魚介の種類は80種以上と多く、中でも有名なのがシジミです。

夕日が湖面に輝く撮影スポットも多く、湖畔はドライブコースですが1周1時間かかります。

宍道湖の北側の湖畔を走っていると、レトロな電車が並走する・・・一畑電車で、湖畔を過ぎたころ江戸時代に栄えた木綿市場がの雰囲気が残る木綿街道を過ぎ、もうすぐです。

この坂道を登ると右側に・・・そして駐車場もその先右側にあるのですが、ここで道路右の建物に車を入れます。

まずは正面参道より参拝するために、ここから歩いていきます。

そして、間もなくこのような光景となります。

信号の左の坂を下ると一の鳥居があります。右が二の鳥居、ここから境内、正面の参道となります。

続きは、出雲大社編へ

 

 

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ちょっとした試練を体験して

2015-12-08 | 旅行記

11月27日 金曜日 早朝6時、窓の外はまだ暗い・・・明るくなった7時近く、散歩に出る。

小路を登ると、右前方に手水舎がありました。左下に本堂、右側の山裾に石段が続いている・・・自然に高い方に進んでしまう。

まだ紅葉が残っている静かな山間、雨に濡れた石段を登り、その先に有名な三重の塔がありました。

塔の横に受付のような小屋があります。二階、三階には土日のみ入場できる(大人200円)のですが、今日は平日の早朝でもちろん人影は無し。

案内によるとこの塔は1万人の浄財により、地元の大工が三世代、何と33年も要して1859年、江戸時代の後期に完成しています。1年に1m?、覚えやすいです・・・高さ33.3mとありました。

この塔の横から山頂に登るハイキングコースもありましたが、朝食は7時半にお願いをしていましたので・・・石段を下ります。

・・・本堂は、806年建立・・・この地方で最古の歴史あるお寺です。葬儀を行わない厄除け・祈祷のお寺ですが、案内板にありますように847年から天台宗となります。

ここは、東京から900㎞以上離れた島根県安来市(ヤスギシ)、安来節で有名なところです。

7時半近い・・・宿に戻るとすぐに食事になりました。おいしく頂いていると・・・窓の外・・・雨音が聞こえてきました・・・天気予報の通りかな・・・慌ただしく出立したのでした。

これから鳥取方面に行く予定を急きょ変更し、所々で通勤ラッシュの渋滞に合いながら、高速道路入口を目指します。

無事山陰道に入り、米子東から米子自動車道へ乗り移り・・・何事も無く1時間経過すれば・・・目指す中国自動車道に

車外の風景はこんな状態です。

・・・鳥取から中国横断している新設の鳥取自動車道が、午前9時から通行止めとのニュースを聞いて飛び出してきたのだった。

今週は日本海側の天候は大荒れで、特に北陸から北海道が大雪と予想されていた。昨夜松江では雪が舞い、さらに夜間の冷え込みで既に山間部は積雪となっている模様、今日も雪の予報だった。

冬タイヤの取り換えはお早めに! 電光掲示板に文字が流れる・・・、どの区間からか不明だが、チェーン規制が出されているようだったが・・・

30分も走らない内に、道路上に係員が、旗を振って左車線へ・・・高速道路から下道に分岐する道に誘導されることになった。

家に帰れば昨年購入したスタッドレスタイヤもあるのだから・・・一度きりのタイヤチェーンは購入したくないし、・・・マァ成り行きか。

臨時チェーン脱着所の広場で、順番に検問を受ける行列ができていた。間もなく前のトラックは左に誘導された、戻るかチェーン取り付けかの選択になるでしょう・・・

こちらの順番になり・・・係員に、窓を開け、「ご苦労様、・・・四駆、四駆・・・タイヤも新品、視界は悪くないがフォグランプを点け、雪道慣れていますから・・・」係員、タイヤを覗き込み、そして車体後部のAWD表示を確認し、「気を付けて!・・・右にユータンして高速に戻って下さい。」ヨシ! サァ、ここに長居は無用・・・

坂道を登り本線に戻った。

しかし、これからが運次第、シャーベット状になると、わだちを外れないで走っている限り走れるが、新品タイヤでも、一般の二輪駆動ではわだちを外れるとスリップの危険があります。まして、坂道は、チェーン無しでは無理ですね。

そう、心配なのは、チェーン規制の前に山道に進んでいった車が、スリップして車線を塞ぎ、後続が塞いだ車を避けて先に進まないと、2~3台の雪道に不慣れな迷惑車で延々と行列になったら最悪です。

冬到来のこの時期は、まだまだ夏タイヤの車が多く、チェーンを装着したことのない車もあり、一番危ない。油断大敵とこちらも車間距離を開け、路面状況を見ながら進む。新雪が積もって白くなった所が時々出現する程度で、大半がまだシャーベット状態、しかし粉雪が舞っているのでできるだけ早くこの状態から脱出したい。

トンネルを何個か抜けて岡山県に入ったがまだみぞれが降っている。しかし、多少空が明るくなってきた。蒜山高原(ヒルゼンコウゲン)PAの表示が出てホッとする。ここから中国自動車道まで35㎞くらい、山脈の峠を越し、徐々に下り坂になると思う。

昨日は、ここで休憩しこんな山陰の山並みが見られたのだったが。

 

今回は休憩無しで先を急ごう。

30~40分順調に走り、中国自動車道に合流する落合JCT付近でやっと晴れてきた。

無事雪の山陰地方から脱出に成功! 瀬戸内海側は、多分快晴かな?

・・・振り返ってみよう

昨夜はライトアップされた三重の塔に天候の回復を祈願して、11時頃床に就いた。

その前は、7時半頃精進料理を頂いて、・・・

7時頃宿に到着、抹茶のおもてなしを受けて

・・・安木に来る前は、

そうだった、突然嵐が来たような感じ、平穏な日中から夕暮れが近づくと・・・

時間は5時13分

ここ出雲大社の西1km、稲佐の浜、風が突然強くなり、近くの駐車場に小走りに急ぐ、しかし1分後、突然雷が鳴り、雹(ヒョウ)が降り注いできた。駐車場横のトイレに飛び込み・・・1分くらい、静かになった、白くなった地面を走り、車に飛び込む。

神様が集まって来たのか、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神(オオクニヌシノカミ)と対面した時間だったのか

・・・奈良の都が最盛期に、かつて栄えた山陰地方の神話を、当時の為政者がどうして数多く古事記に採用したのでしょう。

神無月(カンナヅキ)全国から旧暦10月10日、この浜から出雲大社に八百万(ヤオヨロズ)の神々が上陸されるという。日本全国の神が出張して、そしてこの地は神有月(カミアリツキ)。

・・・この地の主人公「大国主神」が数多くの試練を与えられたように、この稲佐の浜と「沖御前」今では弁天島、この地は強烈な印象を与えてくれたのでした。

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金剛峰寺というお寺

2015-12-01 | 旅行記

奥の院を後にして、先程駐車場が満車だった金剛峰寺に車を走らせる。

観光バスが駐車場の入口に並んでいる。空いたスペースを探していると運良く、バスの裏側に1台分のスペースがあり枠内に駐車できた。

駐車場前の道路を渡り、ここからお寺への参道です。

世界遺産 金剛峰寺の案内板によると、

「1131年10月17日に覚鑁上人(カクバンショウニン)が、鳥羽上皇の許しを得て大伝法院を建立、その後豊臣秀吉が亡き母公の菩提を弔うため、木喰応其上人に命じて建立したことに始まります。

当時は、秀吉公の母公の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青巌寺(セイガンジ)と呼び、応其上人の住坊(ジュウボウ)となりました。

その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は1863年に再建されました。

1868年(明治元年)に行政官から青巌寺を金剛峰寺に改号するように指導され、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。

1869年(明治2年)この二つのお寺は合併され総本山金剛峰寺として現在に至っています。」

・・・正門(1593年の再建)の向こうに檜皮葺の大主殿が見えます。大きな塔婆も、

「昔はこの門を正面から出入りできるのは、天皇、皇族、当山の重職に限られていました。今でも一般の僧侶は、右の小さな入口をもっぱら利用しています。」とも記されています。

・・・堂々と正門から入ってしまいました。

大主殿(東西54m、南北63m)をはじめ、別殿、新別殿、奥殿、新書院、茶室、阿字観道場(瞑想を体験できます。1時間くらい、参加料¥1000-)、経蔵、

そして右側に鐘楼(1864年の再建)があります。

・・・伝燈国師廟、護摩堂など・・・境内は総坪数48,295坪の広さです。

金剛峰寺のHPより画像を拝借

正面の大玄関に龍の立派な彫刻が・・・

さて、「金剛峯寺(コンゴウブジ)」の名称は、空海さんがこの聖地、高野山一山の総称として、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(コンゴウブロウカク イッサイ ユガユギ キョウ)というお経より命名されたそうです。

高野山金剛峰寺の名称は、山号が高野山となります。

昔はこの地の寺全体が金剛峰寺でしたが、明治以降から現在では、各種行事、法要などは壇上伽藍の金堂(本堂)で行われ、この金剛峯寺は、高野山弘法大師御廟を信仰の中心とされる高野山真言宗の総本山として、1000万大師信徒の信仰の中心となっています。 

 

・・・下図のように建物の正面から右側に回り込んだ所が入口です、下足を脱ぎ入場します。

 座敷を次々に拝見していきますが、建物内部は撮影禁止なのでパンフレットの一部をご紹介します。

パンフレット中央の画像を、・・・別途HPより借用したの画像を再掲します。

ここ柳の間、悲しい事件が起こっています。1595年、秀吉から自刃を命じられた二代目関白豊臣秀次が、ここで自害しています。「秀次自刃の間(ジジンノマ)」です・・・秀吉 我が子可愛さで・・・晩年の老害でしょう、忠告者の声に、・・・聴く耳持たず 。

・・・渡り廊下で、左側の別殿に進みます。

上の画像が、別殿(ベツデン)、1934年(昭和9年)弘法大師御入定1100年に建てられました。

・・・さらに左下の新別殿に進みます。

この部屋に進む手前で、お茶のサービスを受けました。上の画像のようにお茶を頂き、この部屋でしばし休憩。この建物は、1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年建立、参詣者への接待所として建てられたコンクリート造りの入母屋式建物です。

新別殿を出て、ここから庭園や阿字観道場、書院、中庭、売店、台所などを通ります。

庭園は回廊のような廊下を進みます。・・・屋外だから撮影は大丈夫でしょう・・・歩きながらのスナップ写真です。

 

・・・イタリアやフランスの修道院にも建物の周囲の廻廊を歩けるような構造が多く見られます。修道僧が瞑想の時間に利用しているようです。

この白砂は、海原か雲海か・・・雄大な自然界を庭園という様式に凝縮して表現する日本独特の文化は、・・・大切にしたいですね。

 

この金剛峯寺で有名な庭園が、蟠龍庭(バンリュウテイ)です。一部改宗中でしたが。

ここも新別殿と同じく1984年に造園されました。2340㎡ 国内最大級の石庭とありました。

もう一つ、時間が無くて体験できなかったのが残念!

阿字観道場です。上部画像はHPより借用。この建物は1967年(昭和42年)建立とのことです。

・・・最後に大きな釜がある広い台所を通って・・・どこかで見たのと似ている・・・(永平寺の台所によく似ていました)

出口から斜め右方向を見ると 、程好い大きさの落ち着いた建物が木々の緑と実に良く調和していました。

経堂のようです。

・・・突然、鈴鹿の家族から夕食を一緒にとTELがあり、6時頃までに寄れないか?と

他にも周りたい所が有るのと高野山からの夕日が見たい・・・ウーン、朝靄の高野山も体験していないのだから、・・・しょうがない、また来よう

3時半高野山を後にする

ここ高野山は、空海さんが日本の国の形ができたころ、原生林を切り開かれ、真言宗(密教)の曼荼羅の世界を体験し修行できるように努力され、晩年自ら即身成仏も示されさらに入定され、伝説が生まれた。

・・・「有難(アリガタ)や、高野(タカノ)の山の岩陰に 大師はいまだ 在(オワ)しますなる」・・・弘法大師 第一番 御詠歌「金剛(コンゴウ)」

高野山は、空海さんが見守ってくださる聖地でした。

 

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奥の院 三の橋から

2015-11-11 | 旅行記

クリスマスが近づくこの時期に、パリで自爆テロのニュースが流れて来ました。テロは許せない、無差別殺人・・・TVから定型の文言が流れてきます。

犯行はイスラム教スンニ派過激組織(イスラム国)とフランス政府が発表・・・繰り返し放送され多くの人々が悲惨な状況をインプットされました。

イスラム教はコーランで自殺を禁止しています。しかし、欧米を敵と教える一部の過激組織は、聖戦に参加し自分の命を捨てる(自爆)行為は自殺とはみなされず、最高の栄誉と煽っているようです。

景気拡大の時期に欧米に移住したイスラム教の方達も、今では2世、3世が社会で活躍する時代になりました。成長が鈍化すると多くの人は貴重な労働力から、一転選別される側の労働力になり格差社会を実感します。

血気はやる若者の中には、中東に行き過激組織に生きがいを求める人が出てきます。受け皿として、テロの訓練と経済援助が用意されています。

そして同じ頃、シリアおよび自称イスラム国周辺では空爆の雨が降り、生活が成り立たなくなった普通の人々が難民となる悲惨な状況が続いています。

想像力を働かしても戦争体験の無い平和ボケの身には、肉片が飛び散る状況に現実感が無く、情報量が圧倒的に多い欧米のマスコミ論調を物差しに、いつしか反イスラムに刷り込まれていきます。

欧米のマスコミ業界、ベルギーの金・ダイヤ取引業界、金融、政治・・・これらを操る際立つ人種は・・・神に選ばれたユダヤ人。旧約聖書に登場するこの神は、キリスト教もイスラム教も同じ神なのです。

・・・確かに世界を動かしているのは、ユダヤ財閥であり、結果的に神に選ばれたと自称するこれらの人々は優秀なんでしょう? 幸せな人々かは別にして。

・・・宗教は難しい、宗教団体は向く方向が同じなので、他の意見を聞く耳持たず、パワーが強大になり影響力は大きい。元ブッシュ大統領の支持母体の中で、キリスト教原理主義者の団体は有名です。

戦闘を取り敢えず停止するには・・・方法が無いのでしょうか?

・・・・・この聖地と言われた高野山も、ある時期に殺戮があったようです。そして戦争状態に突入かと危ぶまれた時期がありました。

僧侶が武器を持ち政争に参入してきたことに対し、信長は比叡山延暦寺を焼き打ちにしました。宗教を敵にまわしたのか、武装坊主を敵にしたのか・・・?

一向一揆の武装信者も武力で押さえ、浄土真宗総本山・石山本願寺も11年に及ぶ戦争状態から、1580年4月顕如が本願寺を去ります。

残されたここ高尾山では、・・・荒木の部下5人が保護を求めて高野山に逃げ込みます。高野山の対応は、・・・この山から退去したと、・・・しかし信用できないと信長の家来が探しに入りました。

・・・乱暴狼藉が過ぎたとして、信長の家来32名に酒を飲ませて酔わせると、何と・・・皆殺しにしたそうです。僧侶が?信じられない話ですが、戦国時代では有りえたのでしょうか。

信長は高野山を弾圧するが・・・高野山は屈せず、ついに・・・1581年10月、総大将 織田信孝(三男)、13万7000人の兵で高野山攻めを開始します。

当時は並行して、武田軍の攻略、中国地方の平定もあり、比叡山を攻めたような急戦は無理で、持久戦の構えでにらみ合いが続く・・・、この時、高野山は僧兵と合わせ3万人以上が各所の守りについたと言われています。

ところが、翌1582年6月本能寺の変、・・・高野山は呪術の力で敵を倒した。聖地は救われたとするが、・・・そして、3年後、1585年、後継者秀吉が10万人以上の大軍で討伐に来ます・・・周辺の根来寺も焼き尽くされ、急な展開に驚き・・・高野山は使者を立て交渉の結果、秀吉の3か条の要求を・・・戦わず受け入れ降伏します。

・・・敵対から、友好へ。

秀吉はこの高野山奥の院に、1587年から1592年にかけて豊臣家の墓地を建立しています。

では、秀吉の墓を見に行きましょう。

一の橋から車で371号線を800m位走ると、中の橋駐車場や案内所、食事処などがあります。

案内図のように、一の橋から弘法大師御廟へと続く2㎞のルートの東側、世界遺産に含まれない公園墓地をしばらく通り、左折して合流します。

駐車場側からの景観です。この公園墓地ルートは、一部の観光客に人気のルートでもあるようです。

右側が案内所、車椅子でも通れるように整備されています。

道幅1m位の凸凹道を想像していましたが、道幅が広い。墓石や供養塔などの設置や保守に、大木の撤去などに大型クレーン車も出入りが必要で公園墓地の道幅は広くとられていました。

さて樹木の先、いきなり右側にそれなりに大きいロケーットが、3段式か?、ビックリし、ここは墓苑だろう?・・・この供養塔が新明和工業、高波に対応する救難艇は昨今海外で有名になっている製品も作っている会社だが。

さらに、左側から、何! というような文字が飛び込んできました。

害虫駆除で利益を上げて・・・シロアリさんがここまで豪華に祀られて・・・普通しないでしょう・・・この業界、相当利益率が高くて・・・懺悔でもしたいのでしょうか。

ロケットの横には、このような企業の慰霊碑が、これから法事のようです

上部のマスコットが目立ちますね、戦後の復興期にでも建てられたのでしょうか

左に曲がる所に、写真業界に貢献された人々の陶板写真が

正面の丸筒はフィルムのパトローネでしょうか、

昭和31年の文字が碑文にあります。この地、標高約900mの聖地に敵味方の分け隔てなく、宗派も問わず皇族も武士も庶民(平民・市民)も静かに眠って土に帰る。

風化しないような肖像をいつまでも立てておかれては、土に帰れないでしょう、かわいそうに。

建立した方の自由だ!・・・確かに、そうでしょう、・・・現実は貴方もこの聖地で墓が持てるようです。この一帯にある寺が各々区画を持っておられ、寺の檀家になり空き地が利用できるようです。

一の橋からの道に合流し、ここは世界遺産の道です。

・・・靖国神社以外に、この地にも近衛兵の文字がありました。

樹齢数百年の杉木立と苔生した石碑が立ち並びます。奥の院の参道には墓石が20万基を超すともいわれています。

この左奥には、浄土宗の開祖法然上人の慰霊塔があります。

浄土真宗の開祖親鸞聖人の供養塔は過ぎてしまいましたが、多くの方が空海さんを慕ってこの地に供養塔を建立されています。

左側に大きな石段があり、左の石柱に豊臣家墓所とあります。

立派な階段です。では階段を上がると、広い・・・右側に案内板があります。

玉砂利が敷かれ、玉垣をめぐらした300㎡位の広い墓地です。五輪塔が数基、一列に並んでいます。秀吉、母上、弟秀長、その妻など豊臣家の墓です。

案内文を合成で表示してみました。中央が秀吉の墓です。

・・・高野山攻めを行い無条件降伏させたのが、1585年です。秀吉は、1594年、この高野山に登っています。・・・母の3回忌の法事を高野山で盛大に行ったそうです。

この間に何があったのでしょう・・・。秀吉の大軍に高野山が和平交渉の使者にと立てた人が、50歳の客僧、木食応其(モクジキオウゴ):木食とは(穀物などを断ち、草や木の皮などを食べる木食行をした僧のこと。)

応其は元は武士で、厳しい修行をした高僧です。先に攻撃され炎上した根来寺の交渉も行い、秀吉に信頼されていました。高野山攻めは交渉の結果、条件を受け入れ中止されます。その後、応其も秀吉の政策を支える良好な関係になり、1586年大阪城で秀吉に謁見しています。

まもなく秀吉は金堂再建に、米1万石、寺領(ジリョウ)3000石を寄進、金堂は1587年完成、弟秀長が秀吉の名代として落成式に出席しています。

さて、全国に高野山の寺領がありましたが、・・・1591年に検知で1万1000石の所領を認められ、さらに1万石を秀吉から与えられ、2万1000石になります。

信長の時代から、寺領はどのくらい変化したのでしょう。

・・・正面に建物が見え、奥の院の参道もそろそろ御廟の橋になるのでしょう。

この位置で、通路横に真新しい案内板が見えました。・・・左への矢印・・・案内板に有名な武士の名前を見つけました。

案内板の指示通りに左の脇道に入ります。狭い登り道を進むと、道の左側5mくらい先にこの方の供養塔がありました。

織田信長公・・・思ったより狭いスペースに、その供養塔はありました。

信長公の時代、高野山の寺領は、今の静岡県や四国、福岡など広範囲にあり、何と17万石の寺領と3万人の僧兵という規模だったようです。

信長に敵対した石山本願寺は、財力では高野山以上と思われます。イエズス会(カトリック教)の宣教師が「国中の富の大部分は顕如が所有している」と本国に報告したように、門徒からの上納金は莫大な額にのぼり、一向一揆の武力を利用し、政治力で戦国大名と同盟・敵対を繰り返し、武装をして信長と11年もの間戦争を繰り返しました。

・・・高野山の焼き討ちを木食応其(後に、寺の名前から興山上人(コウザンショウニン)と呼ばれる)の説得で取り止め、以後高野山の復興に力を尽くした秀吉の墓所は広い場所でした。

一方、信長公は、・・・この地に、供養塔が確かにあったことが驚きでした。

・・・さて、清流の流れる玉川に着きました。この川の手前に数多くの仏像が並んでいます。

地蔵、不動明王、観音菩薩、参拝者は、ご先祖の冥福を祈ります。ここは水向け地蔵と呼ばれています。

川の中に卒塔婆が立てられています。この世を水難事故などで亡くなった方の霊を水で清める追善供養をされています。

案内板がありますので見てみましょう。

奥の院、一番奥に弘法大師の御廟があり、その手前に燈籠堂(トウロウドウ)があり、そこでお参りをします。

この玉川に架かる橋、御廟の橋:36枚の板石で敷き詰められています。これらの石の裏側に各々梵字が刻まれていて、この石が36尊を表し、さらにこの橋全体で1尊を表し、この橋は、金剛界の37尊を表しているとのことです。

さて、この玉川が結界になります。ここから先は写真撮影禁止です。

下記の画像は、南海りんかいバスの観光案内より拝借、

正面奥の建物が燈籠堂です。帽子を脱ぎ、一礼してから橋を渡ると、すぐ左に迂回する小道があります。その先に小さい祠があります。

弥勒石として、パンフレットにも掲載されています。画像は和歌山県観光情報より拝借

小窓から片手を差し入れ幅20㎝位の石を持ち上げ、一段高い後ろの場所に移動させると願いが叶うという所です。

そして先に進み、石段を上がり燈籠堂に入ります。下記は燈籠堂の内部です。旅行会社のFindTavelの画像を拝借。

空海の甥、真然大徳(シンゼンダイトク)が創建、昭和に改築されています。天井に無数の燈籠が灯されています。信者から2万基以上が奉納されているそうです。

正面で、この奥にある御廟に向かって参拝します。

左側のカウンターで奥の院の文字が目に入りました。

紋が二つあります。高野山真言宗の寺紋が「右に巴、左は桐」、巴は我が家も同じですが神社に多く、ここでは地主神の天野社、桐は豊臣家の家紋で、秀吉に対する配慮が見られます。

燈籠堂の左側から一旦外に出て、順路を裏手にまわります。空海さんが眠っておられる御廟がありました。その前に祭壇があり、蝋燭が灯り、お経を唱える参拝者のグループ。その方たちの中に入り一緒にお参りをしました。

背中に「南無大師遍照金剛」(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)と書かれた白衣のお遍路さん達でした。

空海さんが唐で真言密教を極められて、師の恵果(ケイカ)さんから灌頂(カンジョウ)という儀式を受けられたそうです。

空海さんが、花を曼荼羅の上に投げると・・・花は2度とも大日如来さまの上に落ちたそうです。そこで恵果和尚から大日如来の別名「遍照金剛」の名前を灌頂名として頂いたといわれています。

「遍照」とは、仏さまの慈悲の光明で照らされているの意。「金剛」はダイヤモンド、堅固で輝きを失わない。

真言宗では、この遍照金剛に南無 大師をつけて「南無大師遍照金剛」と唱えるお経は、御宝号といわれるそうです。

大師さまを拝み、また大師さまに守られて精進しますと・・・真言宗豊山派の家系の者として・・・良く知りませんで申し訳なく思っております。

御廟から、更に半周し燈籠堂に再び入り、地下に階段で降りることができます。

一方通行の順路になります。地下の天井は同じく燈籠が無数に灯り、通路横の壁には手の平大の大師様の像がびっしりと並んでいました。5万体といわれています。御廟の地下で眠られる空海さんの近くまで進むと、祭壇がありました。

正面は紗が掛かったような感じになっています。この正面の目線の先に、御廟で空海さんが眠られていると思うと不思議な感じになります。手前に大きな数珠と法具が置かれ触ることができます。

・・・虚空(コクウ)尽(ツ)き、衆生(シュウジョウ)尽き、涅槃(ネハン)尽きなば、我が願いも尽きん。(この宇宙が尽き果て、人々が尽き果て、さとりの境地が尽き果てることがあるならば、私の願いも尽き果てよう。)

832年8月に「高野山萬燈会の願文」のこの様な言葉を残されています。これは尽き果てるまで、・・・空海は自分を生かしてくれているすべての物に感謝する心から、人々を救いたいと永遠に願っています。・・・

鎮護国家のために大いに働かれ、59歳で心境の変化があったのでしょう。

834年5月弟子達に来年3月この世を去ろうと思うと伝えられ、835年3月21日教えの通り、生きたまま大日如来と一体になる永遠の瞑想・即身成仏に入られた。

高僧が無くなると入滅(ニュウメツ)、しかし空海さんは入定(ニュウジョウ)と呼ばれます。

1200年という長きに渡り、このように多くの信者に参拝されていたことを目の当たりにすると、後年数々の伝説が生まれるのは、当然と思えてきました。

異次元の体験ができた燈籠堂を出て、結界を越えて参道に戻って来ました。

・・・何故か、お地蔵さんが目につきました。

参道を左に曲がり、来た道を引き返す途中で、現実に引き戻されました。

東日本物故者慰霊碑・・・で法要が営まれていました。

自然の力の大きさを思い知らされたと同時に、制御できない傲慢な未完成の技術で、危ない物質を抱えて宇宙に戦いを挑む一部の人間に、空海さんはどんな言葉を掛けるでしょうか。

 

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