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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

夏の終わりに

2019-09-30 | 旅行記

夏の終わりに、出かけた先が・・・

Atami Ginza 花の金曜日・・・昔は、そう呼ばれていたが・・・もちろん浴衣の観光客は見かけない。

9月27日金曜日 PM6時過ぎ・・・、沖縄だったら、涼しくなるこの時間から深夜まで賑やかなのに。

メインストリートが、・・・半数以上シャッターが降りている。

・・・しかし、街路灯は明るく照らしているので、不安になる程ではないが・・・

人通りが無い・・・路地裏も、商店主の暗い気分がつたわって来るのが寂しい。

どこかに人だかりが・・・一回りしてみたが・・・無かった。

バス停の女子学生に、スーパーマーケットは近くにないですか?

・・・業務スーパーを教えて頂き、寄ってみるが、道の駅と違い、地場の物は少なかった。

PM7時、食事の時間だ・・・帰ることにしよう。

熱海港の夜景です。

さらに左の斜面にJRの熱海駅があり・・・ホテルが並び、海岸通りの光景です。

神戸の夜景に比べると・・・、こちらは街の広がりが無く、狭い湾なので、身近な生活感が感じられます。

・・・今年の夏は酷暑が続き、これからという9月の中旬、2週に渡り台風の接近で観光地は商売にならず、

最後の夏、この週末はもう少し元気かと思っていたが・・・残念

熱海では、花火が9/29日曜日に振替となっていたので、もうすぐ人通りが多くなるでしょう。

夜景を見ながら露店風呂で・・・癒しの時間

・・・・・

朝日を浴びましょう。

AM5:30 仕事に出かけよう

しかし、ベランダで、・・・今日もあまり期待できない予感

堤防が呼んでいるのか、いないのか・・・それが問題だ

アレコレ考えていると・・・すっかり明るくなってしまった。

今日も暑くなりそうだ・・・

太陽が昇ってきた、出かけよう・・・朝マズメ

・・・目指した堤防は、土曜の朝でラッシュ状態だった。

竿が簡単に出せる状況ではなさそう・・・。

・・・時間が無いので・・・隣の有料の海釣り公園(500円)に入ろうとすると・・・

係員が手を振って、着座完売で入場できません。

朝早くから、街外れのここは混んでいた。

・・・地元の釣り老人によれば、昨日も一昨日もダメだった、今年は駄目だな。(海水温が高いのでしょう)

伊東の漁港も熱海も、夏に釣れた記憶が無いが・・・宿泊ついでに竿を出すには便利な観光地です。

さて、餌を買ってきているので、手前が混んでいるから、籠釣りでイサキだな、

・・・籠にアミを詰め、付けエサも籠内に入れて・・・沖合いに投げ込む。

沖合に同業者の赤いウキが、岸壁に平行に7~8個浮かんでいる。

・・・これが一番・・・潮風が頬に当たる・・・

しかし、期待しているのに・・・風もなく凪の状態だった。

7~8回竿を振り下ろし、AM7時、食事に帰る。

・・・朝風呂に入って、・・・さて場所が変わって、ここは

熱海港から・・・30分後、初島をブラブラしている。

・・・港の堤防から、沖合に数回竿を投げてみたが全く反応は無い。

回遊魚は、群れが来ないことには・・・

・・・アジアンガーデンで昼寝、ここに入園するには港から東海岸に沿って歩いて来るとこの丘の下に到着します。

そこからの階段が結構急ですので、島の中ほどブラブラ登り、初島公園側から入園されると帰りは楽です。

ここが、東海岸を港に向かって下っている道です。

前方右手に、磯が見えてきました。

・・・

ググッと引込まれ、抜きあげると・・・岩場の陰にいました。

根魚、・・・カサゴです。

18㎝くらいでしょうか

唐揚げに、二度揚げしてもらったのですが、丸かじりは無理でした。

小骨も頭も骨が固くて大きくて、肉厚の白身だけ美味しくいただきました。

夕方4:40分、帰りの船です。

スキューバダイビングの人々も多く、首都圏から一番近い島、確かにそのようです。

地面の隆起で誕生した初島、民宿もありますが大半は日帰でしょうか。

熱海港、先端に造られた海釣り公園(有料堤防)、地元民は無料の岸壁で竿を出して、常連の人々の社交場でした。

魚が回ってきたゾー、釣れ始めた情報を耳にし・・・、集合!

バイクで駆けつける楽しい毎日、いつまでも元気で、・・・またお会いできますように。

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大好きな夏も 少し暑すぎた

2019-09-22 | 日記・エッセイ・コラム

湯島天神の夏越大祓は6月だった。

その後大好きな夏が来たのだが、不完全燃焼でストレスを抱えながら・・・長かった暑い夏が過ぎ去った。

ライフジャケットを新調しゴムボートも引っぱり出したが、テンションが上がらず行動力が少し低下した。

夏越大祓・・・物事は解釈次第で、プラスにもマイナスにも、・・・ここは、お陰様で大事にならずにと、プラスに考えよう。

なぜか今年流行の夏咳が続き、気が付くとゼィゼイ、ヒーヒー・・・ジョキングも少し控えてみる。

息切れは困るので・・・珍しく7月始め医者に行き、肺のレントゲンを撮る → 異常無し、

次にスパイロメータと思われる器具で肺機能測定をする。

肺活量は人並みだった、しかし1秒率(勢いよく吐き出す量)が70%位だったか。

・・・後でCTを撮って、吸引する薬は出しておきますから と言われ、・・・引き続きCTを撮り

・・・結果は、必要があれば連絡頂くことで・・・帰宅。

この日から服用するが、咳は治まったようだが、肺活量が減少し、胸に薄いガーゼが貼られた感じ、気分は良くない。

・・・今年の夏は、7月前半は週末が天候不順、下旬から・・・異常に暑かった。

皆様、元気でした? 

・・・熱中症? とはこんな症状かな・・・頭がボーとしてくる。

クーラーの下でビデオを見ながら、硬質ゴムの筋膜ローラを枕替わりに首筋に当てたまま・・・寝ていた。

・・・8月始め、1か月分頂いた吸引カプセルはあまり効果が無いので、病院で・・・相談する。

CTの結果を質問すると、特に異常は見られないとのこと。

胸に違和感がある現状を説明し、別の薬にしましょう となり、・・・今度はぜん息用かな?

器具内にカプセルが内蔵された別の吸引薬となった。

服用すると・・・息切れも少なくなり、昼休みのジョキングを再開した。

只、味覚が少し落ちた感じ、心拍数が7月から徐々に上がり、平常時でも平均10~20高く、ジョキングではMax170

・・・2週間で息切れも少なくなり、副作用を考え、薬を半分残して吸引を止めた・・・徐々に心拍数が下がってきた。

・・・しかし、頭がボーとしているのが続いていた。

旧盆に、後頭部を突然ズキーンと何かに刺された・・・重い鈍痛、衝撃が走った、続いて背中が・・・痛て~い!

多分、藪から飛び出してきたスズメ蜂に2か所、刺されたのでしょう。

・・・泡! 吹かなかった?・・・刺されて30分後、地元の経験者に 死ぬことは無い と言われ、ひと安心

患部を冷やし続け・・・生きている実感を味わった。

2時間、1日、2週間、状態が変化して刺された箇所が固くなり、最近やっと痕跡がなくなったが・・・

頭がボーとするのは、これも影響したのかな・・・と思っていた。

・・・しかし、筋膜ローラにより首筋を圧迫し続けたことが・・・血行障害となり、これが多分悪かったようです。

良し、・・・多少気力が充実してきた。

憂鬱になる毎日を、鬱にならずに過ごすには、規則正しい生活とよく言いますが、・・・毎日、朝日を浴びましょう。

朝日が差し込んでくる部屋に寝ているので、夏は5時前から明るくなってきます。

ベランダに毎日6時半ころから30分、ブルーベリーなど大小の鉢が約60、プランターが10個くらい、

生育状態をチェックします、生き物相手ですから。夏の猛暑、30度以上が続くとハイビスカスも疲れるようです。

サンシェードを掛けて、胡蝶蘭などは遮光ネット、風通しも良くして・・・光と水を適度に与えなければ。

さて、人間も、青白い朝の太陽光線、ベータ波を頭蓋骨から浴びる毎日が、体内時計を補正し、脳は活性化されます。

セロトニンを取り込む毎日を送ると、鬱な状態でも・・・何とか悪化はしないようですよ。

しかし、悩みはあるもので、トラブル発生から3週間以上・・・最大の問題にそろそろ結論を出そうと考えていた。

・・・パソコンのポータブルHD(ハードデイスク)が使えなくなっていた。

HDは他に数台あるが、容量の多い最新の機器に徐々に必要なデータを集約して使用している。

昨年11月に購入したWD Elements SE 2TB 2年保証で補償期間内だが、突然使えなくなった。

ここ1年の画像、イタリーの編集済の画像や、ブログのホルダー・・・これらのデータが100GB以上入っているのだが、もちろん開けない。

旧盆明けの8月中旬、富士通のデスクトップPCを立ち上げたら、マイクロソフトのWin.10の更新プログラムを勧めるメッセージが表示された。

・・・偽のメッセージは、ほぼ毎日流れてくるが、メールでは無いので、偽の可能性は少ないと判断しインストールを実行する。

完了までの進捗状況が表示されないまま、2時間・・・長すぎる、出かける時間、不審に思い・・・止むを得ず強制終了する。

帰って、PCを立ち上げると、間もなく・・・アップデートは無事終了しましたと言ったようなメッセージが出て、通常画面に進んだと思う。

その後、WDのHDは外したままで、別のHDの動画編集などを続け、数日経過。

後日、WD Elements SE をUSBで接続すると、ファイルが壊れています、定型文のエラーメッセージが表示された。

HDが開けない・・・後でチェックしよう、データに問題はなさそうだ。

しかし、結局この日からPCを変えてもWDは開けず、アレコレ試すが解決せず、WDに相談する。

・・・メーカのWDのHPからデータライフガードを読み込み、機器のチェックをすることになった。

このソフトは、不具合の箇所を発見するだけで、プログラムの修復機能は無いとのことだった。

一週間前の週末、10時過ぎからチェック開始、まずは、クイックテスト・・・結果、即、PASSの表示。

続いて拡張試験・・・これには、2~3時間位と覚悟していたら、何と延々5時間くらいだったでしょうか・・・結果は、PASS。

この結果を、夕方WDのサポートセンタにメールすると、機器本体は問題がありません。

データの保証はしていないので、取り出しも保証外、・・・ご希望でしたら機器の交換は可能ですとの見解。

この段階で、少し困った。

ポータブルタイプは、USB端子を抜き差しして、別のノートPCに接続したりと便利ですが、

PC使用中に抜く際は、安全に外せますの表示を出して取り外す必要があり、デリケートな発展途上のコネクタでしょう。

内臓の固定式HDだったら外して、別のPCに外部記憶装置として接続しデータのみ取り出すのは簡単なのだが。

翌日、PCの販売・修理の有名店に持ち込むと、・・・接続するとファイル破損のエラー表示、データ量 0を根拠に、サルベージが必要、

データ取り出しには、預かってから1か月くらい、作業が難しい場合、外部業者に委託する場合もあり、数万円くらいにはなりそうとのこと。

ファイルのエラーメッセージだけでの判断に、多少がっかりして、さらに取り出しに1か月以上・・・金額はさておき、2~3日でしょう・・・

論外なので、ここで交渉は無理と退散し、独自で何とかならないかと、

・・・WDのHDをPCに接続し、プロパティを詳細に調べ、トラブルの痕跡を探す。

イベント欄に、タイムスタンプ、日時と秒まで同じで、デバイスが移行されました、構成されました、開始されましたと、3行・・・書き換えの痕跡が、

情報欄には、存在:false と記載されていた。・・・なぜか偽のようです。

ドライバの欄には、MS 2006年 とあり、修復しようとドライバの最新版インストールをクリックすると、この機器は最新版ですと表示される。

・・・通常パソコンは、BIOSと呼ばれる電池を抱えた基本プログラムが時計を動かしながら、OSというソフトを中継してアプリと呼ばれるものを利用しています。

OSの代表的なものが、マイクロソフト社のWindows10、この更新プログラムと今回のトラブルは・・・関係は不明だが、

OSのプログラムに間違った書き込みが・・・あったようだ。

強制終了したことにより、何らかの障害が発生した可能性はあるのですが、回復は1%の可能性かもしれないが・・・。

利害関係にあるのは、OSの発売元、天下のマイクロソフトに・・・始めて相談してみよう。

そして今週末、AM10時過ぎ、マイクロソフトのカスタマーサポートに連絡し、チャットで状況説明し・・・小1時間でしょうか

その後別のセットアップ部門に移り、・・・これは進展がありそうだった。

・・・遠隔操作の提案を受けて承諾する。認識しないOSの問題点に対して、チェックして頂けそうだ。

早速当方のPC内部から数多くの他社のアプリを無効にして、MS製品の中身をチェック、2~3アンインストールして、Win.10をインストール

 Windows10が最新では無い様子です、これは長期戦になりそう・・・PCの前に座り続け・・・

・・・PM2時過ぎ、解決できそうですとコメントが流れて来たが、半信半疑だった。

やがて解決しました。チャット終了します。当方では確認していないのだが・・・。

その後、PCにWIN.10のインストールを再度行い、約1時間後、PM3:30頃完了、PCを再起動し、・・・やっとWDのHDを・・・開けた。

データを確認する、プロパティに 502GB使用 の表示が出てきた。信じられない・・・助かった。

WDとMSカスタマサービスにお礼のメールを送付し、夕暮れの街並みをグッタリして眺めていた。

・・・ブラックボックスと言われて久しいが、昨今セキュリティソフトが複雑に関係してくるので、全くお手上げ状態。

GAFA:Google,amazon,Facebook,Appleが世界中からビックデータを収集し、脅威となっています。

関心が無い方も、勝手に個人情報が吸い上げられ、羊としてグループ分けされ、色んな切り口でファイルされているのでしょう。

昔から卒業名簿が売買されていたりしました、しかし処理するのに労力が掛かること、情報はすぐに陳腐化するなど重要視されてませんでした。

昨今、ビッグデータが急激に集まるようになり、今まさに歴史の転換点にいる筈です。

極々少数の人々だけに、データが集中することになる仕組みを創れば、今日膨大なデータはAIが処理できます。

データは日々更新され鮮度が良く、履歴も傾向もつかめます、何を仕掛けましょうか、ドローンが無くても情報戦も楽しそう。

・・・ピンポーン! amazonから、3D VR ゴーグルが届いたようです。

神に選ばれた一部の民族が、世界を導く・・・、ボーと夏を過ごしていたら、そんな時代に入って来ていることを実感しました。

MSさんがGAFAに含まれないのは、少し時代が早かったからでしょうか。

 

 

 

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(涼を求めて)、続イタリア;ローマ ① 霧雨のヴァチカン

2019-07-21 | 旅行記

日曜日 F1、ドイツグランプリ、メルセデスの本拠地でレッドブル・HONDAの M.フェルスタッペン今季2度目の優勝

トロロッソ・HONDAの D.クビアトは2位と思われたが惜しくも3位入賞・・・、このレースもドラマチックなレースでした。

https://youtu.be/h0l4HJr-QHI

さて土曜日は、東京にも台風の余波が予想されましたが、予報では8時頃から雨でした。

・・・急きょ出かけることになり

風が強い、帽子を飛ばされないように・・・、

かつては、浅草付近のグランドでは自由にシートに横になれたのだが、

・・・予約制になった?、有料?、席は無い・・・、年々規制がうるさくなって自由な移動もできなくなってきた。

PM7時過ぎ、火の粉が降り注ぐ危険は全くない所で、シートで横になり隅田川花火鑑賞となりました。

南風の影響で煙が上流に流れ、スカイツリーも煙に包まれ、

ツリー上部は煙の中で、良く見えなくなった。

花火は最新式のネオンカラーがグラデーション調で変色したり、楽しい花火もありました。

海外からのツーリストも多く、花火と共にスカイツリーも人気が有るようです。

・・・8時10分、帰りの人混みで車が出せなくなりそう、・・・早めに車庫へと急ぎ・・・脱出、雨にも降られず、無事隅田川花火終了。

先週は梅雨明けせず、スッキリしない海の日、久しぶりに立ち寄ったら・・・水量が多いので思った以上に癒されました。

湯滝です。

展望台があり、お土産屋やなどもあります。駐車場は有料

こちらは滝の落ち口、立派な遊歩道が造られていますのでお勧めです。

そしてこちらが、湯ノ湖です。

ルアーフィッシングで人気の湖です。

この湖畔の右が道路、数台くらいの無料駐車場があり、この湖の向かい側が奥日光、湯元温泉

・・・下流の竜頭ノ滝から沢沿いの遊歩道を登ってくると・・・この湯元温泉まで結構良いハイキングコースです。

近くには男体山、奥白根山、・・・かつて鍛錬会で登った懐かしい場所でした。

・・・一方、こちらの並木は少し変わっています。

 日光の杉並木街道が自然に優しい日本文化なら・・・、ローマ街道と傘松・・・、

軍事車両の馬車がすれ違うことができる道幅約4mの石畳、道路断面は、礎石・砂利・敷石の多層構造、車道の中央部が高く路肩に排水される。

一直線に道路が敷かれ、坂道も急こう配を避け傾斜角は9度以下・・・橋やトンネルを多用し最短距離で都市を結ぶ、

これらの高速道路網は耐久製を考慮した自然を支配する設計施工、・・・何とざっと2000年前、日本では鉄のクワも無かったころです。

さらに、車道の両サイドに3mの歩道を設けるというる壮大な規模で・・・ローマ帝国内に造り続けた。

・・・しかし、すごいですね、技術と資材と労働力・・・そして統率力。

川や海、森からの恵みを必要最低限を頂いて、一日平安に過ごし、八百万の神に感謝する日本の人々の精神構造と大きく異なっている国に・・・またやってきました。

武力闘争で領土拡大、・・・あのローマ帝国の歴史は、拡大生産が管理の限度に近づいたのでしょう、奴隷も財産も食料も思うように増えなくなり・・・そして衰退と反乱、

為政者が領土民の統治に利用したキリスト教、・・・宗教を軽く考えたのか・・・多神教の容認を捨て、一神教をローマ帝国の国教にしてしまい・・・これが全土に浸透した。

・・・ローマ帝国の文化と、キリスト教以外は邪教とする宗教の布教・・・異国の出来事があまりに影響力が大きくて・・・、

他国に侵略して一神教を布教しなければ、自分たちの領土で勝手にすればいいのですが。

・・・現代では、ロケット砲搭載の無人機が他国の領空数千メートル上空を密かに飛来する、監視対象の地上の画像を盗撮し、

自国の安全な遠隔地で、無人機のライブ画面を見ながら、他国に空から一方的に武力行使が起こせる時代です。

現実に起こっていますが、宣戦布告も無く、密かな抹殺ですから、人権も国際法も霞んでしまいます・・・大変な時代になってしまいました。

・・・技術と軍需産業が進みすぎて、個人の力量では全体像が見えなくなってしまいました。

しかし、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも軍用品を開発していたのですが、早く争いの無い統一を願っていたのでしょう。

そんな時代の遺産を見たくて、・・・またローマをフラフラ歩くことになりました。

・・・下図は、周囲の城壁をみるとローマ帝国全盛の3~4世紀頃の様子でしょうか。

この絵は、コロッセオ内の展示資料を借用しています。

テヴェレ川が、下から右上に向かって流れ、中洲がある付近の両岸が湿地帯、この左上方に七つの丘があり

ロムルスがローマ建国をしたと言われるパラティーノの丘もあります。

テヴェレ川の上流から見て左岸に都市が集中しています。右岸は、レンガ工場でしょう。

城壁内には、オベリスクが沢山立ち並び、コロッセオが中央上部にそびえ立っています。

エジプトの公共事業、ピラミッドに影響されたのか、これだけの大きな建造物が描かれているという事は、

毎日どこかで石組みをする工事が行われていたのでしょうね。

争いが絶えない時代です、定期的なイベントでローマ市民の結束力を保つ必要があります。

農耕民族では収穫祭や村祭りでしょうが、ローマ帝国では戦勝記念のパレードや凱旋門建造、・・・捕獲した奴隷の格闘戦も組まれた事でしょう。

猛獣との格闘や、奴隷同士の格闘、血が流れる悲惨な光景を、心拍数を上げ興奮状態で見るのが・・・この人種の娯楽のようです。

ラテン系の国で行われる闘牛は簡易版でしょうか、入門編だった日本の闘犬(土佐犬)は・・・娯楽は昨今他に多くあるので衰退しました。

昔のローマ市内・・・城壁内の中央のやや下に、128年に再建されたパンテオンの神殿も見つけることができます。

2000年前、これが本当に建てられたのか? と思いたくなりますが、

その前から、ギリシアには多くの神殿がそびえ建っていたのですから、・・・この時点で既に何百年の技術の蓄積があるのです。

・・・ローマの都市をざっと振り返ると、・・・紀元前、王政時代にガリア人から侵略されています。

その後800年、19kmの城壁に囲まれたこの都市は外敵の攻撃は無かった。

約100万人が暮らしていたローマは、410年に西ゴート族に陥落させられ、市内では略奪が起きたと各種の歴史書に書かれています。

4万人の西ゴート軍にローマは包囲され食糧難から飢餓に苦しみ、その後三日間に渡って略奪されたそうです。

4万人から・・・想像ができないですが・・・無法地帯です・・・被害が少なかったのは教会関係の施設だけだったそうです。

・・・100万の老若男女・・・どうなったのか、・・・被害の少なかったキリスト教関連施設から、・・・少しづつ復興したようです。

時代が進み、キリスト教の聖職者達はやがて、ローマ教皇をトップに階級を設けます。

大司教は土地を寄進され領主の地位にあった。

同様に司教も教区という広い範囲を管理し多くの権限があった。

その下に司祭・助祭、最小単位の教会で管区内の人々を管理し、10分の一税を徴収できたとあります。

修道院長・修道士がその下で信者が最下層・・・。

階級ができ聖職者の生活が安定すれば、聖職売買、聖職者の腐敗、堕落、俗化もおこります。

ローマ教皇は8世頃から寄進により教皇領を持つようになったようですが、武力もなくてなぜ権力を持ったのでしょう。

・・・800年ヨーロッパ最大の勢力となったフランク王国のカール1世は、ローマのキリスト教を容認し、各地に教会・修道院・学校を建設させているようです。

そして、最大権力者のカール1世がローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)のミサに参列し、ペトロの墓前で頭を垂れた。

今日とは違い、建物は普通の教会程度だったでしょう。

この時、ローマ教皇レオ3世は、黄金の冠をカール国王の頭上に置いたそうです。

・・・カール1世は突然の行為を拒否せず、冠を受け入れたが、これが後に皇帝の戴冠式と呼ばれるようになったようです。

教皇が勝手に冠を授けたが、・・・これが神によって戴冠される儀式の始まりのようで、・・・授けるのは、ローマ教皇・・・

この演出は、フランス国王がローマ皇帝になりました、承認者の権限がローマ教皇にありますと宣言したように見えたでことでしょう。

カール1世は、戴冠の儀式と分かっていれば来なかっと伝えられているようですが、近年は知っていてローマ皇帝の冠を受けたとする説が有力のようです。

しかしカール1世は、神の代理人を自称する者(ローマ教皇)は武力も無く、自分より権力者であるとは・・・もちろん思ってもいないでしょう。

・・・802年、司教会議で「国家の首長は、聖俗両界の首長であり、司教の叙任権は国家の首長がもつ」と決議された。

叙任権は権力者のカール1世と思われていたのですが、・・・やがて時代が移り・・・ご承知の様に教皇は、皇帝を・・・破門すると宗教で脅したのでした。

・・・11世紀から13世紀、この時代がキリスト教の最盛期でしょうか

1092年 ピサ が司教座から大司教座に昇格しています。

1419年 フェレンツェ がピサに遅れること300年、大司教座になります。

・・・中世の雰囲気とは・・・あのローマのパンティオンの絵が、パンティオンと真実の口近くのレストランに飾ってありました。

社会が豊かになり、芸術家が育ってきました。

ローマの歴史、・・・中世の主役は、やはりローマ教皇でしょう。

ヴァチカン・ガイドを参照しながら調べてみたいと思います。

・・・1504年ダビデ像を完成させたミケランジェロは、ローマ教皇 ユリウス2世からローマに呼び戻され、教皇の霊廟を造れと命じられた。

(ウフィツィ美術館蔵、ラファエッロ作)

このユリウス2世(本名、ローヴェレ)の肖像画は見る機会が多いですが、この前任者がアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)。

(肖像画:ウィキペディア アレクサンデル6世)

この二人の教皇争い(1492年)で、ボルジアは枢機卿を買収し圧勝、敗れたローヴェレはフランス王の下へ逃亡。

・・・ギリシャ神話の時代かと思うようなアレクサンダル6世の教皇時代、教皇だって元は人間だ・・・と自由です。

教皇に子供がいた・・・認めましょう・人間だから、その息子、チェ-ザレ・ボルジアも教皇の武闘派として有名です。

このチェザーレ・ボルジアが教皇領を支配した地に、レオナルド・ダ・ヴィンチが赴き、軍事顧問となっている・・・そんな時代でした。

そして、フィレンツエでサボォナローラが、1498年5月23日絞首刑を受け、火刑になったのもこの教皇との対立がありました。

・・・今回は、システィナ礼拝堂です。

ユリウス2世は、ミケランジェロが自分の霊廟建設で巨大な大理石を運び入れ・・モーゼを彫りだすと壮大な構想を聞いていた。

並行して進む大聖堂の建築家であるブラマンテが、作業中のミケランジェロに霊廟には何体彫るのだ?・・・40体 との答え、

続けて・・・ダビデを彫るのに何年かかった?・・・4年 とミケランジェロ、私は作業は早いです

霊廟に40体・・・、だったら完成に160年もかかるだろう・・・と言うような問答があったそうな・・・。

・・・さて、いつになったら完成するのか?・・・教皇は自分の霊廟に関心が薄くなり

歴代の教皇が手を付けなかった殺風景な礼拝堂に対して、あの馬小屋は20数年前に改築しているが(建て替えないで)・・・、

(出典は、昔の雑誌と思ったが?)システーナ礼拝堂の昔の天井

ミケランジェロに礼拝堂に12使徒の天井画を描かせる・・・、と言い渡した。(ブラマンテの陰謀説は、省略)

これが1508年のこと、

(ヴァチカン市国、スイスの衛兵、制服はミケランジェロのデザイン)

・・・礼拝堂:長さ40.23m、幅13.41m、高さ20.70m、後陣(アプス)は無い。

教皇宮殿を防御する役目と礼拝堂の二つの役目を持つため外壁ががっしりして、

内部は地下室、中二階(執務室もある)、礼拝堂、上部に広い屋根階、外側に警備用回廊もある。

・・・ケランジェロは、自分は彫刻家であり、絵描きではないと断り・・・ローマから失踪するが・・・、

捜索され、結局引き受けるためローマへと・・・フィレンツェからフレスコ画が描ける弟子達を連れて戻った。

・・・教皇に詫びを入れ、礼拝堂に足場を組み、希望通りの12使徒を描き始めたが、・・・二人目描画中に、

モチベーションが上がらず・・・作品を一部消去し・・・またも失踪、

しかしまたも捜索され、再度教皇に侘びを入れ、・・・天地創造を描かせてと、下絵のプランを提出・・・、工期は半年から1年と答えた。

一人で完成させるからと、教皇に12使徒の5倍の10000ダカットを要求するが、3倍の6000ダカットでと命じられ・・・作業にかかる。

(ヴァチカン美術館のスライド紹介画像より)こんな足場で、上を向いて描いていた

半年経ったが、Ⅰ/10も出来ていない、報酬は払われず、

・・・教皇-ミケランジェロに「いつ終わる?」、返事は「完成したら」と、度々やりあった・・・有名な話です。

教皇は戦争に出かけることも多く、何かと戦費も必要になる時代に、もう一人のスーパースター、ラファエロが1508年から宮殿で描き始めました。

時代はルネッサンス末期です。

・・・この絵も同じレストランにありましたが、サンタンジェロ城の 祝 修復記念なのでしょうか。

今日のテヴェレ川とサンタンジェロ城です。

ローマは彫刻だらけ・・・この橋の上にも素敵な天使像があるのですが、ローマを創った男は別途

サンタンジェロ城からヴァチカン市国への・・・この大通りは、ミケランジェロの時代はどうだったのでしょう。

このような大通りはありませんし、馬車道と建物が立ち並んでいたようで、現在の広場も無かった。

ヴァチカン美術館の入口へ向かいましょう。

このような城壁に沿って入口があります。

城壁のアーチは従来の出入口、これが現在は個人の出口専用になっていて、この城壁の左に沿って進むと張り出した部分に

新しく回転扉の入口が造られた。多分2000年頃完成

室内で荷物検査と、改札が設けられている。

エスカレータで上階に進み

館内でいろんな案内がありますが、このジオラマで先程の城壁が手前になります。

この城壁から手前に進むと最寄りの地下鉄の駅ですので、駅から徒歩でこれます。

さて館内は、省略、反対側のの宮殿から、礼拝堂に階段を降りて入ります。

システーナ礼拝堂です。室内は撮影禁止・・・昔の映像から

階段からドアの先に・・・祭壇近くの所に出ます。

高所に大きな窓が12ヵ所ありますので、明るいです。

多分私語禁止だったでしょうか(小さい声で)

窓から上部がミケランジェロ、彩色が結構鮮やか、右側が本来の出入口

そして、天井画は旧約聖書が題材

奥の祭壇画は、後年ミケランジェロが描かされたものです。最後の審判

天地創造、主役はこの部分でしょうか

ミケランジェロは、ローマを救った、・・・これから60代、70台になっても頼られることになります。

 

 

 

 

 

 

 

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イタリア チヴィタ(CIVITA)別名「死にゆく町」

2019-07-07 | 旅行記

これは修道院?・・・標高は高くはないが、確かに・・・天空の要塞かと思える・・・消滅寸前の町の様相です。

さてここは、

フィレンツェとローマの中間、いやローマ寄りの・・・標高はそんなに高くない420mくらいの高台の町

フィレンツェから南に160kmくらい走ります

途中、車窓から天空に虹が架かり何か良いことの兆候でしょうか・・・、

しばらく南下・・・やがて、オルヴィエート(ORVIETO)で降り、西側の小高い街に向かう

丘を登り、バニョレジョ(Bagnoregio)の駐車場に到着

駐車場横の・・・お土産屋さんが、迎えてくれた

ミニバスに乗り代えて、この上に広がるバニョレジョの街外れまで・・・5分位走ると、

道路沿いに長い塀と並木道が続いています。

・・・やがて大きな看板が現れた・・・街外れでしょう・・・目的地近し

 

Civita (チヴィタ)の大きな写真です。

この画像は、ミニバス後部の窓からの光景です。(向こうから・・・こちらに走ってきました)

公園内の駐車場?に到着したかな・・・減速して、右に曲がり・・・到着の雰囲気。

到着です。下車して、

上空からの写真を正面から見てみましょう。20~30棟の大きな建物があるようです。

振り返り、左前方に進むと・・・この高台の端から

・・・はるか彼方に・・・地平線にそびえ立つ孤島が見えました。

周囲をカットし、ズームイン

何故か、危ない雰囲気・・・

崖の断層が露出しているのを見る限り、岩山では無いし、隆起でもなさそう、

脆い地質で周囲が崩落し、孤島になった雰囲気です。

丘状の高台にあった城壁に囲まれた街が・・・やがて尾根状になり更に土砂が流れ、・・・歯止めが利かないのでしょうか。

建物は中世の時代でしょう、相当古そうで、地盤強化の杭などは打ち込んでいないでしょう。

・・・ここで、後日調べた地形図を見てみましょう。

・・・中央よりやや下側の左端に最初に降りた、バニョレージョ駐車場です。

左側の画面外に大きい湖がありますが、高速道路は画面の右側(画面の外)を南北に走っていますので

右側から画面の中央を左に横切り左端のバニョレージョにやってきました。

こから背骨状に見える街並みを右側に2/5くらい進むと市街地の端、公園内の駐車場です。

展望台があり、それから広場の手前側の崖を下り、右に進むと、そこから先は入場料が必要になります。

その先・・・橋が良く見えませんが尾根を右に進むと・・・チヴィタの文字が読める所が目的地です。

・・・では先に進みます。

このような崖の上から、下の車道まで下ってきました。展望台から降りるには近道です。

舗装された坂道を下っていくと(振り返った画像です、奥から来ました)

お地蔵様のような祭壇が・・・どんな悲しいことがあったのでしょう・・・地震かな? 花束が供えられていました。 

ここは行き止まりの広場、周囲を見ると反対側に・・・入場料を売っている小屋があります。

入場料は,イタリアは赤字国でインフレでしょうか、・・・結構高くなってきたようです。

 

 多分、2013年頃から入場料を徴収し、1.5€・・・値上げで、現在は、5€/人、

・・・ここで改札、係員のチェックを受けます。

 目の前には、・・・長い橋があります。

橋を再確認しましょう。先程の高台、展望台からの画像です。

画像の右側の下が入場券売り場、その先から全長300mの・・・結構高い高架橋を進んで行くことになります。

少し登り傾斜の橋を進む、結構高いが、・・・下を覗いてみましょう。

・・・気になったのが横の手摺、年季が入っています。

遠目からは、最近造られたのかと思っていたが、錆を落として塗り替えないと、ボロボロにすぐなりそうで危険です。

 

調べてみると、・・・橋は1965年に建てられたと地元の記事にあったと思いましたが、

橋が無ければ生活できない状態が・・・50年以上も昔から続いているのが・・・不思議です。

橋の反対側の下を覗くと・・・この太く黒いゴムパイプは何でしょう

ガス、石油、電気・通信ケーブル、それとも水道でしょうか。

・・・イタリア各地に、崖の上のような高台に小さな町ができていて、ケーブルカーで行き来する所が沢山あります。

このチヴィタは地震に何度も襲われ、周囲の崖から徐々に崩落し、住民は減少し続け、現在は数世帯しか住んでいないようです。

・・・橋が使用できなくなったら、崩落や倒壊の危険があるので観光地としても安全優先、永久保存は難しいでしょう。

橋を渡り終え、右に急な坂道を登ると曲がり角に、豪華な門扉

避暑地でもないでしょうが、豪邸?

・・・日本の山道とは違いますね、石が豊富なイタリアは、ここでも石畳みの道です。

左にカーブし更に登ると 

 城壁?の門、これは、サンタ・マリア門

昔は5つの門があったようですが、この反対側や周囲も現在は利用されていないでしょう。

城壁の左側に売店があります。

その先に進むと、・・・オッ!、ライティングされて・・・モダンな壁面、観光地でした。

・・・「死にゆく町」と紹介されて・・・今のうちに見に行こう・・・、物珍しさとこの光景に・・・訪れる人々が増え、

しかし、この町に金が落ちるわけでもなく、・・・覗かれるだけでは、生活も大変です。

・・・入場料を取りたくなります。

これでまたニュースになり、旅行会社もツアーを企画し、観光客が押し寄せ・・・

宿泊施設を整備して、レストランと土産物を用意して、

人手が足りない・・・バニョレージョの町から通勤して頂こう、・・・取り合えず・・・よかったですね。

・・・年間来村客は数十万人に近くなってきたようです。

メイン通りの左手に美術館、食事や売店もあります。

広場になっていて、・・・手前側には、カラフルな線香が、アロマでしょう

台上には、アクア、基礎化粧品のようなボトルが並んでいました。

綺麗な湧き水、山野草、ハーブ、農園、修道女、・・・そんなイメージ?

に近いような・・・商品を販売していました。

さて、ここでも町一番の大きな建物が中心にドーンと建っています。

(日曜日に、皆でブラブラと街外れの教会に行くのもありでしょうが、・・・競って一等地に豪華な教会を建てたいのでしょうね)

サン・ドナート教会と鐘楼です。左は宿泊ができる建物です。

中に入ってみましょう。

建築当時住民は結構多かったのでしょう、思ったより広く、椅子も多く並んでいました。

正面の祭壇も立派ですが、右側に気になる彫刻が黒装束の・・・

下の案内文を撮影してなくて、詳細は不明ですが。

聖母マリア?、聖ドナート?、ドナテッロ風の作品?

そして、この奥にも・・・主祭壇の右側、礼拝堂でしょうか

リアルな磔刑、その下にライトアップされているのが、聖ドナート?

これらの彫刻は、ルネッサンス以降、バロック時代頃の作品でしょうか。

横たわっているのが、ライティングで・・・見えるようで良く見えない、・・・近くに行けないのが残念です。

さらに右側に、聖母子像があり、ここでは優しい光を投げかけていました。

その右横に、赤い文字からすると・・・ 何かを訴えています

教会、鐘楼、2016年10月30日のイタリア中部地震で深刻な被害を受けました、・・・義援金募集

そうでした、まだ記憶に残っていますイタリア中部地震・・・TVで地震の被災地映像が流れました。

 イタリアも日本と同じく活火山が多く地震大国です。

調べてみると、このチヴィタは、何度も地震の被害を受けているようです。

1695年の大地震は、ローマ教皇らの教会復興で再建されるも、1764年の地震では周囲の道が崩落したようです。

想像では、高台の街並みは周辺部が崩落し、町は相当狭くなるしバニョレージョに行き来するのも難しい、物流も滞り、・・・

この時期あたりから・・・住民が町を捨て始めたようです。

・・・元々この地の祖先は、エトルリア人と聞いてビックリ・・・

古代より優秀な技術屋のイメージがあるエトルリア人が興した町?

エトルリア人の起源について良く分かってないようですが、イタリア半島では先住民とのことです。

ギリシア文明が先にありました、南部のシチリア島やナポリにギリシア人が移ってきますが、当時現在のローマなどに都市は無く、

中部以北にエトルリア人が住んでいて・・・歴史の教科書はそうでした。

何故かエトルリア人は、鉄鉱石などから精錬法も考え出し、鉄器の製造技術が・・・あったといいます。いつ頃?

ローマ建国の神話(紀元前753年)の頃には、・・・信じられないが、完成していた、・・・銅や銀、錫も精錬できて加工する技術も身に付けていた。

山岳地帯に住むのは、鉱山に関心があり、地震が多発しても断層などから各種の鉱物を発見できたからでしょうか。

後のローマ帝国では、橋やトンネルなどの技術がエトルリア人から受け継がれ、優秀な土建集団がヨーロッパ全土に広めることになります。。

古代エトルリアは12の都市国家があり、紀元前6世紀頃まで繁栄したようです。

・・・ローマ建国の神話では、テヴェレ川の上流に、エトルリア人は都市を築いていたとあります。

ではこの地、チヴィタでは橋の先・・・丘の向こう東に10kmくらい、標高70~80mの低地にテヴェレ川が流れています。

テヴェレ川は、その先北東に水源があり、ペルージャのアペニン山脈から流れ出て、河口まで405㎞の大河です。

この付近から北にエトルリア人は住んでいたのでしょう。

このテヴェレ川を下流に下れば、・・・ローマです。

建国したローマは、ロムルスが初代ローマ王(父母は、・・・神話ですので略)、2代はサビーニ族、3代目はラテン系王、4代目サビーニ族、

5代目がギリシャ人とエトルリア人のハーフ、6代目:エトルリア人

この6代目の王の頃からローマは発展するが、エトルリアはイタリア北部で衰退し、やがて5代目の王の一人息子が6代目の王殺しで・・・

未承認の7代目王に・・・エトルリア人の王です。

・・・紀元前509年頃、ローマはエトルリア人の7代目王一族を追放し共和制になります。

244年間、ローマ建国からの王政時代は、エトルリア人は活躍していましたが・・・末路は残念、

・・・その後、共和制の弱小ローマ国にエトルリア国が攻め込んでいますが、攻略できず

・・・必死に守るローマ国、・・・何度となく戦い、やがてエトルリアは衰退、敗戦、

紀元前264年ローマ軍にほぼ征服されてしまったようです。 

これらの建物の石は、柔らかそうです。日本の大谷石と同じ種類なのでしょう。

紀元前のエトルリア人の痕跡は感じられないですが、

ローマ帝国末期からのカトリック教の影響は今日まで続いています。

地震が無ければ平和な町です。

この橋を戻ります、丘の向こうがテヴェレ川です。

地元の記事に、こんな画像がありました。

 そして、ミニバスで終点の駐車場へ

こんな雲海に浮かぶ画像が流れていました。

地震の災害に遭われないことを、お祈り申し上げます。

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夏越之大祓、その夜・・・F-1、オーストリア・・・祝 HONDA

2019-07-06 | 日記・エッセイ・コラム

母の分 も一つくぐる 茅の輪かな  小林一茶

湯島天満宮の「夏越大祓」ナゴシオオハラエ のご案内に歌われていました。

・・・茅の輪・・・

・・・6月と12月の晦日に行われているようです。

梅雨の時期、神社の境内に突然大きな草の輪が出現して・・・隣に立て看板が・・・

大きな8の字が描かれ・・・このように通るのかと・・・最初に目にしたのは、・・・何歳だったかは忘れてしまったが、

今年は6月30日、日曜日、知人と天神様に車で出かけた。

あいにく夕方4時頃から霧雨、境内にはすでに多くの参列者が来られていて、準備も整っている様子です。

さて、頂いた形代という、身代わりに

「氏名・年齢」を書き、家族の分と、車やバイクの車両番号を記入して提出して、袋に入った切麻というお清めを頂く。

これで後程、自らに「左・右・左」と振り掛け身を清める。

・・・祭典は17時斎行、屋外で神主からお祓い受け、・・・大祓詞、その後、切麻で身を清め、最期に「茅の輪」をくぐる。

という次第ですが・・・。

外の様子は霧雨から・・・小雨になった様子、結局あまりないことらしいが、今回は屋外の祭典を中止し拝殿にて行うことになりました。

・・・形代はお祓いをし、焼納の後に7月2日東京湾にお流ししますとのこと。

その後、送られてきたのが夏越大祓御神札、

そして、

神代の昔、須佐之男命(スサノオノミコト)は、蘇民将来(ソミンショウライ)に一夜の宿を借り、厚いもてなしを受けたお礼に、

茅(カヤ)で作った「輪」をお授けになりました。

「茅の輪」には疫病を祓い除ける力があり、そのお陰で蘇民将来の家族は末永く栄えることができました。

以来、疫病が流行ると、人々は「蘇民将来の子孫なり」と口々に唱え、「茅の輪」を身につけるようになった、と言われます。

疫病の流行しやすい夏を前にした6月(夏越)の大祓には、心身の罪穢れを祓い清め、病魔に負けないお力を頂けるよう

「茅の輪」をくぐる神事が広く行われるようになりました。

・・・とありました。

茅の輪と共に・・・平安の時代の人形流し、が今日に伝わっているのでした。

さて、その夜、6月30日夜10時(日本時間)、オーストリア南部のレッドブルリンクでF1、第9戦オーストリアGPの決勝がスタート。

・・・かつてはフジTVで放映され、HONDA連戦連勝の時代があったのは、・・・バブルの時代。

あまり期待はできないが・・・PCの電源を入れ、YouTubeのLIVE放送を選局する。

ここまで8戦全てメルセデス勢の連勝、フェラーリが今回は勝てるかと言われながらも・・・失速、レッドブル・HONDAは3番手だった。

ご承知の方も多いかと思いますが、HONDAのエンジン・・・馬力がもう少し欲しい。(複雑になり過ぎて、パワーユニットと呼ばれる)

タイヤの劣化対策がメルセデス以外は苦労の連続で、レッドブルは車体の空力コントロールにも苦しみ、三位が最高だった。

今回はレッドブルの地元で開催、リスクを取ろう、パワーユニットの耐久性が落ちても勝負しよう・・・信頼性よりパワーに重点を置いた調整をするようでした。

決勝のグリッド(スタート位置)は今季ベストの2位、ドライバーのテクニックでひょっとしたら・・・と淡い期待が

フェラーリのルクレールがスタートグリッド、外側一番前の1番、

レッドブル・ホンダのMax.Vorstappen、マックス・フェルスタッペンが右側(内側)の少し下がったNo.2グリッド

いずれにしても最前列スタート、(画像は、参考まで 鈴鹿サーキット)

スタート・・・PCのライブはサーキットのコース上をリアルタイムで車体の識別マークが動くだけ・・・。

実写画像は中継されていないので、音声だけ・・・イマジネーションが要求される。

スタート・・・数秒後、レッドブル・ホンダ・・・フェルスタッペンまさかのスタート失敗、後続に両サイドから抜かれ

第一コーナー先では、7位、隣りは同僚のレッドブル・ホンダのフランス人ドライバー、ガスリー・・・。

しょうがない10分後、確認するとリタイアせず頑張っていた。

じゃあ、応援するか・・・、ライバルのメルセデスが21周でタイヤ交換、1位のフェラーリも続いてタイヤ交換、

フェルスタッペンは、31周まで最初のタイヤを使い続け、ここでハードタイプに交換、

後半の追い上げを期待していたら、オイオイ・・・調子が良さそう、前に追いつくとアット言う間に追い抜いているようで、

最近こんなレースはなかった。

予選の順位のまま、接触をしないように行儀よく全車ゴールイン、コースが狭く抜きにくいとはいえ、モナコも全て面白くなかった。

56周目にボッタス(メルセデス)を抜いて、2位に上がってからは、HONDAエンジン・イレブン、ポジション5と音声が流れ、

これはハイパワーモードで最後まで行ける、攻めろと・・・怒涛の追い上げ。

信じられない光景があった、1周ごとにトップのフェラーリにみるみる迫り・・・大興奮・・・69周目コーナで内側から並びそのまま並走、

フェラーリも抜かせるわけにはいかない、ここまで2時間トップだった、ドライバーのルクレールも勝てば初優勝。

抜かせるかとコーナーの外に押し出されそう・・・ここで接触しコース外に飛び出し・・・元に戻るが、抜かれてしまった。

接触が、審議対象のランプが点滅・・・良くある5秒ペナルティ加算されれば、優勝は無い・・・進行役、大丈夫でしょう。

・・・レッドブル・HONDA マックス・フェルスタッペン 21歳 カート時代からのライバルで同じ21歳のルクレールに負けるわけにはいかなかった。

残りの周回で、2位ルクレールに2分75秒もの差をつけて、1位でチェッカーフラッグを受けた。

地元ファンやフェルスタッペンのオランダ応援団は大興奮、気になるのが審議結果

この前のフランスGP,とカナダGPは共にペナルティで、チェッカーフラッグ後、順位が変更になってしまった。

レース中にペナルティが実施されれば、チェッカーフラッグの重みが増すのだが・・・

長い審議の結果・・・約3時間後に、今回はレーシングアクシデントとして、ペナルティは無かった。

決定に不満はあるが、2位のフェラーリも審議結果を受け入れた。

・・・その後、動画を何度も見たが、結果が分かって安心して見れるのは、心地良いものです。

7/6土曜、HONDAの車で、青山へ

国道246、青山通り、交差点の角にHONDA本社のビル

赤坂から神宮外苑に向かう途中、青山1丁目の交差点の先、左側

駐車場は・・・大丈夫かな・・・入れて頂く、裏側から地下へ

そして、1階の Hondaウエルカムプラザ青山に

エレベータ横、裏側の入口には、HondaJet Ellte でしょう、

このクラスで世界一の販売数の航空機です。

そして右側に

家族連れが多く見られた。

左側の壁際に

大きな文字が・・・そうだったでしょう。

・・・F-1、ヨーロッパの長い伝統があり、彼らの土俵で戦うのですから、

良くは解らないですが、レースビジネスに世界の大富豪が乗りだし、新規開催国が次々に名乗りを上げる。

・・・来年は、車の国内生産を始めたヴェトナムでも開催される。

この車体は、昨年のレッドブルのマシン『RB14』に今季のカラーリングを施した・・・とあったように思います。

とすると、今回優勝した車体は、この前方Red Bull とあるフロントウイングの翼端板や角度が微妙に変わっていると思います。

エンジンは、RA619H

このピレリタイヤは、・・・苦労が尽きないようです。

壁際の台上には、突然優勝の表彰台に上げられたHONDAテクニカルディレクター田辺さんの祝杯シャンペンのようです。

祝 HONDA の皆様 これで気楽にパワーアップして、常勝HONDAを再現して頂きたいものです

隣では、バイクやスーパーカーが展示され

壇上では、有名なASIMO(アシモ)が

ここは、HONDAの本社であり1階はショールーム、

屋外にも展示車があり、先般は大型ボートが展示されたりしますが、・・・

このスペース、もう少し祭事が目立つように演出されては、いかがでしょうか

アーケード状、あるいはカラフルなパラソルは、・・・美観、環境に配慮?

正面入り口の先に、ありました

地球環境にやさしく・・・、製品に含有する化学物質を調査し、生態系や地球温暖化に悪影響のある物質を規制するのが流れです。

独創的な製品を常に目指す HONDA、高齢化社会が、話題の各種製品の早急な市場投下を待っています。

・・・F1 勝利・・・長かったですね・・・。

 祝 HONDA !

 

 

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トスカーナ州 Pisa、そしてSiena

2019-06-22 | 旅行記

トスカーナ州と言えば、ワイン、・・・キャンティ(Chianti)地区の名産品です。

伝統的な地域で生産されるキャンティ・クラシコもありますが、イタリア産では北部のピエモント州のワインも人気です。

廉価なワインは関税が有利なチリ産が販売を伸ばしましたが・・・今春からEUのワインも関税ゼロに、チリ産程廉価なタイプは少ないでしょうが、

・・・イタリアのワインは、生産量は世界一、イタリアでは、ワインは水より安いと言われます。

食事にワイン、ワインの席ではカンツォーネ、

突然歌手が登場し・・・こんな光景後、テーブルを回ってチップを頂く、長い伝統文化のようです。

さて、フィレンツエは、ミラノ、ヴェネツィアと争いながら、海路を支配したい、金融の街シエナも吸収したいと近隣ともゴタゴタが続いたルネッサンス時代でした。

グーグルの画像を拝借し、ピサとシエナの位置関係を確認し、・・・昔のピサとシエナの画像を探して・・・

フィレンツェからアルノ川に沿って下流、西の海に向かいます。

モノレールでは無く、ローマ帝国時代の水道橋が朝日に浮かび上がってきました。

わずかな傾斜を作り高低差を利用する、測量技術と土木工事の優秀さが有名ですが、

水源を探し、都市の人口を推定し、公共事業として長期計画を立てる・・・2000年も昔、このような壮大な発想に感心します。

車窓からアペニン山脈が見えてきました。雪が残っています。

情報では・・・標高1388mのアベトーネ(abetone)にスキー場があるようです。

フィレンツェから90km弱、中部イタリアの人々はバスが運行されるので冬はスキー、夏は避暑地で賑わうようです。

麓のルッカの街は標高19m、フィレンツェでも50m、これから行くピサは5m。

山があると季節が感じられていいですね。

・・・出発から1時間くらいでしょうか・・・高速道路を降りて海側から回り込んで、公共の駐車場へ。

そこから歩き、・・・オッ 売店が続いていた

このピサの隣の隣町 山麓にピノッキオの作者の縁でピノッキオ公園があるようです。

童話:嘘をつくと鼻が伸びる人形・・・その人形が、このピサでも多くの売店に置いてあります。

左の城壁の中が目的地

ゲートから内部に入ると・・・芝生が目に飛び込んできた。

ここは公園か?・・・綺麗な芝生に、整然と建物が配置された・・・ドゥオーモ広場のようです。

手前の洗礼堂、そして、ドゥオーモのファサードが見えて、・・・斜塔を探す・・・正面の奥に写真で見た建物が・・・あった。

鐘楼が、顔を出している。

こちら側が西側、太陽が東南から降り注いでいる。

一番奥の鐘楼は、建設途中で南に傾き、傾いたままその上部に石材を積み上げたら更に少し傾いた・・・そんな感じが出ています。

良く見ると、2階を積み上げる際に少し傾きが始まったようにも見えます。

斜塔の地面は、全てコンクリートで固められ、灰色の世界かと思っていたが、綺麗な広場だった。

さて敷地の東側に進み、振り返って鐘楼を・・・押し戻さなければ

支えるだけ?・・・そんな行為が流行りました。

右側の芝生の先の建物で斜塔の入場チケット購入、時間制限あり、・・・荷物を預ける所があり、そこに預けて鐘楼に登ります。

登り始めると・・・オット、南側(外側)に身体が持っていかれるので・・・階段の端を登ろう

半分周ると

徐々に・・・内側の壁に身体が寄って行く・・・結構身体が振られて、垂直に立てないので

気持ちが悪くなってくる記憶がよみがえってきた。

そして狭くなる階段を登って行くと展望台に出ます。

ここで眺望を楽しんでいると、更に上段に早く上がるように、女性係員にせかされ、事情が分からず・・・とにかく上に。

そして、最上階に上ると、リング状の展望通路が待っていました。

時間枠で入場者を入れ替えるので、一旦全員を最上部に挙げて、狭い階段を下り専用にして、順番に下ろす。

そんな交通整理をしている女性係員だったようです。

さて、展望台を一周したが、海が見えない。

かつては海洋王国だったはず、ジェノヴァ、アマルフィ、ヴェネツィア、そしてピサ、

海岸線は、西側・・・この方向・・・しかし直ぐ先から緑の森林地帯・・・湿地帯の先には・・・砂浜のようです。

その先が・・・海、・・・海岸線から相当離れているようです。

もう少し左側に向きましょう。

・・・左側をアルノ川が流れていて、下流が海・・・左前方が河口のようです。

ピサは、アルノ川の河口から少し上流に上った所に、街が発展していたのでした。

・・・以前の画像あれこれ・・・ピサの斜塔がこちら

さて、中世の時代に繁栄を迎えたピサには、ローマ建国のモニュメントがありました。

ドゥオーモ広場の芝生の上で、このように台座の上で目立っていました。

ロムルスとレムスの神話・・・「オオカミと双子」川に流され(捨てられ)た乳飲み子が、オオカミに育てられ・・・ローマを建国した双子です。

神話は別の機会として、このピサのドゥオーモ、そして斜塔にも、地元の名士 ガリレオ・ガリレイの有名な話が残っています。

落体の法則

身廊に並ばれた汗だくの信者達・・・遠路ご苦労様と頭上を振り子のように芳香剤の香炉が行き来する光景がありました。

振り子の等時性

1564年 ガリレオ・ガリレイが、ここ ピサ で生を受けています。

ガリレオは母校ピサ大学で3年間数学を教え、その後ヴェツィア領のパドヴァ大学(1222創立 ボローニャ大学に次いでイタリアで古い)で

数学教授の職を、ジョルダーノ・ブルーノという元ドミニコ会の優秀な修道士と争います。

1592年、28歳のガリレオが教授の職に就き、28歳でナポリを捨て各地を放浪していたジョルダーノが敗れた、44歳になっていた。

この年、コロンブス新大陸発見・・・そして8年後の1600年、日本では関ケ原の戦い、

・・・残念なことにローマでは、ドミニコ会の修道士が異端の罪で火刑にされています。

あのジョルダーノはガリレオに教授職で敗北し、間もなくヴェネツィアで官憲に訴えられ逮捕されてしまいます。

28歳で故郷のナポリを離れた理由が、・・・優秀な頭脳が貪欲に知識を吸収し・・・宇宙は無限と考え地動説を支持したから・・・異端の疑いを掛けられたのでした。

そして、・・・1593年、ローマの異端審問所に送られます。

地動説の本家コペルニクスも異端を指摘されたのでしょうか、そして異端審問で火刑にされたのでしょうか?

・・・1543年70歳で亡くなっているが異端審問どころか地動説をローマ教皇に説明したり、トラブルはなかったようで、逆にルターが反対したとか。

異端審問?とは、・・・聖書で何と書かれているのか、忖度しているのか?、教会の権威に何が傷付くのか?

・・・ユダヤ教の聖書はここから「初めに、神は天地を創造された」・・・この偉大なる言葉が全てなのでしょう。

コペルニクスは異端とされていない、・・・ジョルダーノは、ローマ教皇に自説の一部を撤回すればOKと思っていたようですが、拒絶されたそうです。

異端審問が開かれ、繰り返し全面撤回せよとの要求を拒絶し、四大河の噴水があるナボーナ広場のすぐ南、今日でも人気の カンポ・デ・フィオーリ広場で処刑されてしまいました。

・・・1979年、カトリック教会は「処刑判断は不当であった」と判決を取り消しました。

現在では、広場中央に彼の銅像が立っています。

ガリレオ:数学が得意で、実験をしデータを取る、検証・証明、力学の法則の発見、望遠鏡で天体を観測、「星界の報告」の発表・・・科学者です。

ローマカトリック教の信者、ガリレオは有名になり、出る杭は打たれた・・・「信じる者は救われる」一辺倒の人々達からでしょうか?・・・異端と訴えられ

1616年 最初の宗教裁判 コペルニクスの「天球の回転について」などが暫定閲覧中止、ガリレオに罰は無かったようですが、注意を周囲から促される。

1632年、ガリレオ「天文対話」発表、細心の気配りで天動説と地動説の対話スタイルとしたが・・・、

1633年、第2回異端審問所審査(宗教裁判)で異端の有罪判決、「天文対話」禁書となる。

火刑ではなく・・・70歳近いガリレオは、終身禁固刑から、地元のトスカーナ公国のローマ大使館での軟禁刑に減刑される。

判決を聞いてつぶやいたとされた「それでも地球は動く」は・・・彼にふさわしい言葉として、周辺から生まれたのでしょう。

1638年「新科学対話」を自国では、発行できずオランダで発行する。

1642年 78歳、永眠する。(1737年 教皇の許可が出て、フィレンツェ サンタ・クローチェ教会にやっと埋葬された)

・・・羊飼いの力は・・・想像以上です・・・いつも驚くことになります。

1992年、ガリレオ裁判の誤りをローマ教皇表明する。

ピサのドゥオーモ、フィレンツェでも見られた様式です。

ロマネスク建築、修道院から始まった、・・・当初は大きな建物は壁を厚くするしかなかった。窓は少ない。

天井は橋のアーチの実績がありますから半円形で上部の重量を受ける、室内は暗いので高所に採光窓を、

偶像崇拝は、十字軍から帰って・・・現地にはイエス・キリストの墓があった。人間だった。

具体的に崇拝する対象が見つかり、・・・アットいうまに威厳のある偶像が出現、この教会はファサードの最上部センターの位置です。

12世紀にはこのようなピサ様式と呼ばれるデザインがトスカーナを中心に広まったといわれます。

ではトスカーナのもう一つの古都、シエナに向かいます。

・・・・・

今年のカレンダーに・・・シエナがありました。

フィレンツェのヴェッキオ宮(かつてはフィレンツェ共和国の政庁)と雰囲気が似ています。

こちらは、プッブリコ宮(市庁舎)です。

13世紀から14世紀前半の建物ですから、ピサのロマネスク建築から約1世紀、技術も進みゴシック様式と呼ばれます。

シエナも、以前作成したこのような画像がありました。

旧市街の北西の駐車場から城壁を回り込み、左手はスタジアム、右手は崖・・・そんなミッレ通りから右前方の眺めです。

 

手前はサン・ドメニコ教会、ずっと奥にもクーポラと鐘楼が見えます、シエナ大聖堂でしょう。

この旧市街は3つの丘に囲まれた地形を利用しているようです・・・高台にはランドマーク・・・教会ですね。

200mも進むと右手に先ほど見えた縦長の大きな窓の教会がありました、すっきりしたデザインです。

この教会は、デザインがシンプルだが・・・入り口ファサードは?・・・この横から入るようです。

ということは、サン・ドミニコ会の修道院として、主に修道士達が使われていたのでしょうか。

・・・聖 カテリーナの礼拝堂があり、聖遺物として聖女カテリーナの頭部が納められていました。

1380年に亡くなったカテリーナは、1939年からイタリア全土の守護聖人として崇拝されているようです。

内部は窓が大きいので結構明るく、過剰な装飾もなく、安らぎの感じられる教会でした

この教会の前広場がサン・ドメニコ広場、鉄道のシエナ駅は遠いので、バスでこの広場で降り、ここから観光をスタートする方が多いようです。

さて、左側に進み坂道のサピエンツァ通りを下っていくと、賑やかなバンキ・ディ・ソプラ通りに突き当たります。

通路の向こうの広場が・・・建築様式を説明するのに便利な建物に3方向を囲まれた、サリンベーニ広場です。

広場奥で日向ぼっこの若者が座っている、正面の建物がサリンベーニ宮(14世紀のゴシック建築)

左側の日が当たっているのがタントッチ宮(16世紀)、一方右がスパンノッキ宮(15世紀後半)この壁面上部に有名人の頭部が並んでいる。

中央の銅像は、会計学者サルスティオ、正面の建物内部も素晴らしいようですが、当時は未公開でした。

・・・この広場を裏側に回り、先に見えるの丘の上に、修道院でドメニコのライバル、サン・フランチェスコ教会があります。

さて、メインストリートのバンキ・ディ・ソプラ通りを・・・中心部の南に進むと100mほどで左に

ここにも教会が、ガイドブックでは、サン・クリストフォーロ教会、12世紀頃建てられたとあります。

ギリシャ彫刻の流れでしょうか、両サイドの壁がん(ニッチ)に素敵な彫刻がありました。

12~13世紀には、これほどの彫刻作品は無いでしょう。

この教会は、ロマネスク様式ですが・・・何度も改造され・・・最終的に完成したのが1711年、

しかし、1798年に大地震が襲いファサード崩壊しています。

再建は、時代が変わりバロック・ロココの次・・・新古典主義と呼ばれる様式が流行っていました。

・・古きギリシャなど古典を見直す動きです。

作者は、Giuseppe Silini 1802年のようですが、詳細は・・・残念ながら、不明です。

BEATA NERA TOLOMEI  彼女も聖人と思われます。

この教会は修道女たちの修道院でしょうか。

 一方、どくろと本を持つ聖人は、法律を学んだ SAN BERNARDO TOLOMEI 

シエナ生まれの聖人です 聖ベルナルド・トロメイ ペストで1348年亡。

街の中心部に急ぎます、

ビルの間から、・・・見えてきます。こんな光景が

緩やかな下り坂になっています。

 ここが有名なカンポ広場、

プブリコ宮殿、マンジャの塔、ガイアの噴水・・・略

かつて、ガイドブックから、下記のような備忘録を作成していた。

続きが・・・チョッ見つからないが・・

さて、カンポ広場を左に見て、その先右手の丘の上に・・・回り込んで坂道を登ると・・・ドゥオモ広場に出てくる。

古代ローマ帝国の町があったカステルヴェッキオ山の頂上とのこと。

1260年。ライバル・敵国フィレンツェとのモンタペリティと言われる戦いに大勝利した頃に、このドゥオーモの建築は始まっていたようです。

当時の建築平均工期は、ロマネスク様式の時代は、凡そ着工から完成まで50年・・・携わったものが完成を見ることができるか微妙な工期です。

これがゴシック様式になると、既存の教会より威厳を求めさらに大きく高くステンドガラスに彫刻に、内装を華美に・・・

凡そ、着工から100年計画・・・国教である宗教団体ですから、誰の時代に着工したかが重要で・・・完成時期の責任も、保証もなし、目標は?

完成したら・・・新たに区割りを考え直そうということでしょうか。

この教会、1282年ファサードの建設が始まります・・・下側は13世紀末のデザイン、上部は14世紀後半のデザインといわれます

長期に渡るので、関わる人々も多くなり、デザインだけは、途中で調和を考え、上半分は最近のゴシック調で統一するぞ・・・などとなるのでしょう。

宗教は強い、・・・長年予算が無く建設が中座しても、後を引き継ぐ者がでてくる・・・地獄には落ちたくないでしょうから。

シエナは、ローマ帝国時代はローマの植民地であり、「オオカミと双子」は町のシンボルです。

このような彫刻以外にもいろんな所で、親しまれているようです。

ロムルスとレムス・・・ローマ建国の神話に登場しますが、神話ですから多少は無理があるでしょう、

双子の誕生までの前段がありますが割愛、テベレ川に流されオオカミの乳で大きくなり、羊飼いが登場・・・この後の進展も?

やがて兄弟の争い、弟レムスが殺され、一説ではそのレムスに二人の息子がいて・・・逃れた先で興した街がシエナ、

なるほど、・・・あちこちで良く見かけ、大事にされているわけです。

一方、テベレ川の川岸に近いパラティーノの丘にロムルスが建国し、都市として発展し、ローマと呼ばれるようになったといわれています。

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フィレンツェ あれこれ

2019-06-10 | 旅行記

フィレンツェ、アルノ川、河口からこの街の上流まで、船の往来ができた時代の地図のようです。

良く見るとジョットの鐘楼、花の聖母の大聖堂が中央に見えます。

右隣にシニョリーア広場のヴェッキオ宮も見えますが、現在、ウフィッツイ美術館として利用されている建物は建っていないようです。

ウフィッツイと呼ばれた建物、その回廊の上部2、3階が美術館となり、渡り廊下で隣の建物につながりイタリアで一番人気の美術館です。

 

今日のフィレンツェ旧市街の骨格は、16世紀に波乱のメディチ家・コジモ1世によって完成されたと言われます。

この建物ウフィッツィは、1580に完成したフィレンツエ共和国政府の政庁舎で、コジモ1世のお抱え芸術家が設計しています。

チマブーエからミケランジェロまで133人の「画家・彫刻家・建築家列伝」を1550年に出版した有名人、ジョルジョ・ヴァザーリです。

・・・さて、今日では個人での予約が取りにくいと言われるウフィッツイ美術館、回廊に入場ゲートらしきものができていた。

団体客が指定された範囲に順番に並び、・・・やっと・・・ゲートを抜け館内でセキュリティチェックを受け・・・3階に上がり、そこで改札

・・・フィレンツェのガイドの方は、この第一廊下で天井画のグロテスクについて説明、・・・そしてカメラ・ビデオは禁止、

・・・いや 撮影? できる?・・・。エーッ!・・・そうだった、忘れてた。

・・・確か数年前の秋から撮影可能に成ったはず、・・・ストロボは禁止とか・・・言っている。

慌ててカメラの設定を確認し、感度を上げて・・・ストロボOFF、

説明が終わったガイドさんに・・・独自で回りますのでと行動を伝えに・・・レンブラントやカラヴァッジョの展示室は変わっていない?

エッ!・・・展示されてない・・・2階に無い? 展示が変わった?、閉鎖中?・・・良く分からないが・・・

取り合えず、目の前の13世紀の作品・・・必ずガイドが最初に説明を始める作品・・・一応、節目の作品なので確認しに行こう。

・・・オッ、配置も変わっていた。

・・・チマブーエ から ミケランジェロ その チマブーエ です。

「マエスタ」:この主題で多くの宗教画が教会の祭壇などに掲げられています。

多くの信者たちが同時に見ることができ、神秘的な世界を信じられるような絵画が欲しい・・・聖母子とイエスが分り易く描かれ、背景は金色。

マエスタ:荘厳(ソウゴン・ショウゴン)などと日本語の訳が付けられ、さらに設置された教会名などが付記されて、作品の題名となっています。

チマブーエの作品、1280~90年頃の作・・・(サンタ・トリニタの)マエスタです。

大きな板絵に描かれています、425×243、板にテンペラ、昔の平面的な宗教画ですが・・・服地をグラデーションで彩色し立体感が表現され始めています。

・・・注目されている作品は、・・・ジョットの鐘楼の・・・そのジョットさんです。

チマブーエは、ジョットの師匠としての関連性もあって、比較できるように隣に展示されているのでしょう。

絵が描ける人は、多少基本を学べば、建築物の完成図も上手に描ける、完成予想図が描けなければ、大きな建物は心配で頼めません。芸術家は何でもできたのです。

 そのジョットさんの マエスタ(オンニッサンティの聖母):オンニッサンティ教会にあった信仰画。

「マリアの処女性と母性と威厳に対する賛歌が描かれる」とウフィッツイ美術館2011年の公認ガイドブックでは説明されています。

ガイドブックも含め評論は、作品に新たな発見が見つかったりしますと、当然大きく変わったりしますので、あくまで参考程度に。

 「玉座の聖母子」と紹介している本も多い

この作品は、左の天使が聖母に冠を差し出し、右の天使が、幼子イエスにキリスト受難のシンボル聖体器を差し出している

足元の天使は、マリアのシンボル、バラとユリの花瓶を捧げています。

これらの、いつしか伝えられた決まり事を重要視させ、型にはまった宗教画がこの時代も続いていました。

作品:1310年頃の作品 325×204 板にテンペラ

しかし、この作品は多くの著名人から(ダンテ、・・・ゴッホ)最高の画家だ!たくさん模写をしたい!イタリア絵画・西洋絵画の父などと絶賛されています。

・・・作品の技法が、立体感のある玉座に座った聖母の顔から表情が感じられ、左右の天使の配置も・・・前後に遠近法で描かれています。

この作品は、写実的で新しい時代の先駆けとして評判を呼び、この美術館で徐々に重要な展示位置を確保してきたいるようです。

大部屋の一角に展示されていましたが、今回の扱いで、ジョットはルネッサンス先駆者三人衆の主人公となって来たようです。

 ・・・三人衆のもう一人が、フィレンツエのライバルだった隣町シエナ、金融業務で競い合った街の画家の作品です。

チョット、優雅な雰囲気、この作品は凝っていて額縁に聖人など30人の半身像が描かれています。

 マエスタ:(ルチェッライの聖母)・・・画家:ドゥッチョ・ディ・ボンニセーニャ

1285年頃 450×293 板にテンペラ

ジョットの前の世代、フィレンツェのチマブーエと同世代の画家ですが、チマブーエより写実的でしょう。

これから注目されて人気が出てくると思います。

さて、撮影が可能となれば、展示室の雰囲気も重要です。

このような有名な絵画もあります。

ウルビーノ公爵夫妻の肖像、画家よりも肖像の主人公が有名です。1470年頃の作品、

ウルビーノ公国とは、ルネッサンス真っただ中1443年誕生した新興国で1631年まで存続した。

肖像画のフェデリーコ3世が統治したのは1444~1482年、フィレンツェから東に170~180km、アドリア海に面した小高い丘陵地に宮殿を持つ

小国の軍人でありミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長で無敗の名将、片目を失い横顔が多いとされるが、・・・鼻は合戦で折れた

この作品は、夫妻の絵が向かい合うように2枚の板絵に描かれ、本のように連結されていた、裏側には地元の風景と馬車に乗っている絵があります。

ラファエッロの生家もあり、宮殿は美術館となっている、・・・坂道の街のようだが訪れたい都市です。

この作品は有名になり過ぎました。1465年頃

聖母子と二天使:フィリッポ・リッピ、修道士画家がよその修道女に恋し、モデル・・・そして結婚、娘は後に画家に

この柔らかな輪郭・・・特徴があります。ボッティチェッリも相当影響を受けたのでしょう。

これも有名?ですね 題材が

・・・そして、この美術館の目玉の部屋に進みます、レイアウト、展示変わりました。

プリマヴェーラ(春)1482年頃 板に油性テンペラ

壁面一杯の大作です。203×314 

そしてこちらに ヴィーナスの誕生 1484年頃 リンネル布 テンペラ(キャンヴァス画)

172.5×278.5

あれ、この作品もありましたが

・・・最近日本で公開された際、ポスターに使用されていましたのが

奥に見える作品です

パラスとケンタウロス  1482年頃 リンネル布にテンペラ 207×148

ロレンツォ・・メディチが所有していたなどで、多くの作品が焼失せずここに展示してありますが・・・

サンドロ・ボッティチェッリは、サヴォナローラに心酔していたようです。

メディチ家のような贅沢が批判され、ボッティチェッリは自分の作品も人々を堕落させていると考えたのでしょう

・・・多くの作品をシニューリア広場で焼き払いました。

こちらの多角形の一室には、メディチコレクションが展示されています。

彫刻、そして16世紀絵画が壁面に密集して、当時のスタイルで並べられています。

・・・美術館の南端、・・・廊下の窓からアルノ川が見えます。

天気が良くなってきました。下流まで・・・架かる橋が良く見えます。

遠くに・・・ピサの斜塔が・・・その先に海・・・共に遠すぎてもちろん見えません。

今日は穏やかなアルノ川です、ボート部の生徒でしょう舟艇が良く見かけられましたが・・・。

さて部屋が変わって、この絵も有名です。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のクーポラが完成し、その上に八角形のランターン(採光など)が造られ

更に最上部に球体のシンボルをヴェロッキオ工房がクレーンで吊り上げ据え付けていました。

そのェロッキオさんの、キリスト洗礼 180×152 製作年代は諸説:1473-1478年頃

左端のかわいい天使

弟子のレオナルドが10代で、工房の作品に参加し描いています・・・師匠もビックリ、こんなに技能が優れていたとは。

そして、レオナルド・ダ・ヴィンチによる 受胎告知 がこのようなスタイルでライトアップされていました。

受胎告知のイメージがこの絵で完成してしまったようです。

依頼主があっての宗教画ですから、あちこちで描かれているうちに、・・・人気のイメージに収束されていくのでしょう。

背景の描写も注目されていまして、結構描き込まれています。

右側の建物の3階から・・・渡り廊下です。

北側に・・・フェレンツェのシンボル、クーポラが見えています。

展示作品は・・ルネッサンス時代に限れば、レオナルドの作品を数多く模写したこの人

聖母像を描かしたらNo.1

ヒワの聖母 1505.6年頃 板にテンペラ 107×77.2

ローマで工房を持ち大活躍しています。

教皇レオ10世 など有名な作品も多いですが モナリザに雰囲気が似ている

 

マッダレーナ・ドーニの肖像 RAFFAELLO SANZIO と額に刻まれています。

そして、チマブーエ から ミケランジェロ 

ミケランジェロの作品が、こちら

「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」 1506-1508年頃 板にテンペラ 絵画φ120、額外径φ170

壁画以外の作品は・・・多分確認されているのは、この作品のみ、

この作品にも何故か5人の裸体の男性が登場しています。

額にも登場人物が5人・・・フィレンツエの商人ドーニのために描かれたとありますが・・・。

・・・ルネッサンスがフィレンツエからローマ、そしてヴェネツェアへと移り

そのヴェネツェアの有名画家 テッツアーノやティントレット、北欧のレンブラント

 そして、ルネッサンス後の個性派画家、イタリア出身カラヴァッジョ(Caravaggio)の作品も人気が有ります。

美術館はこれくらいにして、街中で有名になりたいと多くの芸術家を見かけます。

一方、これらの人々も有名人ですが、近づいてきたら関わらず、急いで離れなさい・・・と言われます。

イタリアでは、取られる人が悪い・・・親しそうに話しかけてくる人に関わらないこと・・・昔から言われ続けています。

このデザイン、機能美、インダストリアルデザインは歴史があります。

マネキンも近未来でしょうか、

人気のブランドショップが数多くあります

ミケランジェロが購入し一時は住居として使用し、その後一族、ブオナッローティの家もあります。

市内にも街路樹が欲しいが、鉢植えでした。

少し歩くと、またこの一角に出て来ます・・・クーポラの裏側です。

何度も見てくると、この教会は幾何学模様のデザイン、素材と強調されたラインのコントラストで重厚感、威圧感が強い

色大理石で多少マイルドになってはいるが、目的とする巨大な建物を建てたい・・・は達成されていました。

周囲は全て石造り

石畳の上をマッピングされたバスが通り、

石造りの建物から暖かい光が目に飛び込んでくるとホッとする。

ブランド品の並ぶ通りに、・・・ここにも古い教会が

活気のある、元気な所に行きましょう。

こちらは、裏側になるかも・・・入口です

ここは中央市場、中に入ります。

1階は食肉や鮮魚、チーズ、ワイン、オリーブオイル、2階は青果市場

テーブルがある片隅で食事もできる、地元の市場です。

閉店の時間が近く、急ぎ足でアチコチと、試食ももちろんできます。

地元のワインもありました。

ワインや乾燥ポルチーニ茸など購入し、市場を後にします。

そして、近くを散策

画材にひかれ店内へ、こちらでカレンダー類を購入

この倉庫のような建物、壇上で演奏会です。

この建物の左側に回り込んだ面が正面(ファサード)です、・・・ミケランジェロに制作を依頼してあったが

未着工のまま、何もない石積みの壁面のまま・・・今日へ。

この大きな側壁の祭壇に近い右端にも入口があります、・・・上部の紋章はメディチ家です。

ここは、サン・ロレンツォ教会、メディチ家の菩提寺です

そしてこの右側に、大きなクーポラのあるメディチ家礼拝堂が連なります、内部はメディチ家の墓所

ミケランジェロやドナテッロの聖具室など・・・多くの彫刻があります・・・有料となり公開されています。

さて、こちらも白、緑、ピンクの色大理石で積み上げられたゴシック建築の教会です。

ファサードの前は、目に易しい緑の芝生がありました。

1246年と着工は古いドメニコ派の聖堂です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

しかし、この教会のファサードも、周辺も最近このように綺麗になってきました。

フィレンツェ中央駅が教会のすぐ裏で、この近くに宿泊したこともあるのですが、今回はジックリ探してみましょう。

この教会よりも有名な、・・・1612年に認可され、一般に販売し始めた、現存する世界最古の薬局です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局

 一度入ってみようとしたのですが、中々入り口が見つからず、教会前のスカラ通りを中央駅の方へ進んだ右側でした。

内部で喫茶室の手前に、薬草を栽培し、薬剤を調合した釜なども展示されていました。

オーデコロン、石鹸、など人気の商品を販売しています。

近くの中央駅に寄ってみましょう。

 かつてはイタリア国鉄が運営する Treni Eurostar エウロスターETR500、現在は民営会社トレニタリアが運行

ローマ、ナポリへ・・・快適な旅となります。

日も暮れて、夜の教会、これはサン・カルロ教会でしょうか

何故かピンクの光に吸い寄せられて、

建物の壁面や角々に窪みが設けられ、聖人などの彫刻が収まっているのが良くみられます。

これらの彫刻を持つビルが教会だったりして、ここにも教会という感じで・・・カトリック教の街でした。


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しまなみ街道から 高知へ

2019-05-22 | 旅行記

以前、瀬戸中央自動車道で瀬戸大橋から金毘羅さん、高松自動車道経由で徳島、鳴門海峡、淡路島と四国の一部を訪れたことがあった。

しかし、愛媛と高知は訪れたことが無かった。何か縁があればと思っていたら・・・

突然有効期限が残り少ないので2万マイルを使ってと勧められ、・・・手持ちのマイルも利用して、・・・、どこにしようか。

湯布院は空港からかなり遠いらしい、で、レンタカーは渋滞を考慮すると・・・断念。

未踏の道府県が3か所、青森、愛媛、高知・・・では四国の2県に行こうと。

10連休が始まる4月末、JALで早朝の松山空港に・・・降り立ったのでした。

翌日からは、レンタカーで計画も無くあちこちと・・・、まずは、地方に行けば必ず立ち寄るこんな場所へ

地元の松山の漁港、そして早朝の市場、どんな魚が上がっているのか・・・興味があります。

刺身用の鯛が・・・結構大きいが・・・何と800円です。

右奥に見えるのが・・・500円 鮮度が若干落ちたのでしょう、沢山揚がっていました。

こちらでは、・・・金目鯛、これも安いですね。羨ましいかぎりです。

この先、高知県にも回る予定なので、函買いもできず、日持ちのするものを購入。

連休に入ったので、市場は祭事が行われ、色んなコーナーに行列ができていました。

テッポー、ホシザメと書かれた場所で、歓声が聞こえてきました。

ちびっ子にサメを触れさせる人気のコーナのようです。

地場の魚市場や農協の即売会、道の駅は、その土地の特産品が売られていて、楽しみな場所です。

・・・では、レンタカーに、持参してきたドラレコを仮止めし、四国のドライブを記録しましょう。

早速トラブル、レンタカーのナビ操作、目的地入力できず・・・イライラ、・・・適当に海岸線付近をアレコレ走って・・・

・・・土地勘が無く、道路標識の地名も役に立たず・・・、ナビ画面の現在地を追いかけながら・・・しまなみ海道、今治ICを目指します。

今治から先は、瀬戸内海の島々をこんな鉄橋7本で本州と結んでいます。

最初に3連吊橋、正確には全長4,105m、世界初とありました。

来島海峡(クルシマ)は日本三大急流の一つと言われる程潮流が速い。

では、今治ICから、西瀬戸自動車道に入って・・・

この橋が、来島海峡大橋です。3連の最初の長い橋です。

平成11年5月から供用、桁下高46~65mと結構高いので景観が素晴らしいです。

この橋はサイクリングロードが併設されています。

サービスエリアにレンタサイクルもあるようです。

3連ですから、今治側から来島海峡第三大橋、来島海峡第二大橋、そして大島側が来島海峡第一大橋と名前が付いています。

・・・本州側から見て、第一・第二・第三と名前を付けたということですか。

そして、3連目の橋を通過すると隣りの大島へ

・・・大島では、今治側からは大島南ICで降りられるが、次の大島北ICでは降りられないようです。

二つ目の伯方島へ架かる橋が、伯方・大島大橋、

これは長い吊橋で海を渡り、続いて桁橋で伯方島の砂浜を渡っています。

吊橋の大島側が桁下高:32m、そして伯方側は、桁下高:26m、

共に昭和63年1月から供用とあります。・・・この間は先に運用されています。

そして、その隣の大三島までが愛媛県今治市の管轄で、その向こうは広島県尾道市のようです。

 この大三島橋は、昭和54年5月供用開始ですから相当古いです。

では、・・・伯方の塩(ハカタノシオ)有名ですね・・・伯方(ハカタ)島ICで一般道に降り、

道の駅、伯方S・Cパークの「マリンオアシスはかた」に立ち寄りましょう。

伊予柑は終わったのか、不知火(デコポン)、清美(キヨミ))オレンジや瓶ジュース、

伯方の塩など購入、食堂の塩ラーメンも人気のようです。

ここには公園、テニスコート、体育館もあり、 隣では・・・砂浜も

 

良い所ですね・・・海水浴シーズンは込み合うでしょう。

砂浜の向こうに・・・桁橋が架かり、その先、隣の大島との間に吊橋が見えます。

・・・この先、広島に行くと帰りが遅くなるので、ここでUターン、

隣りの大島の大島北ICで降りて、展望台に行きます。

・・・ナビが入力を受け付けないのは、運転中は操作ができない・・・成る程、そうでしたか

多分20数年前のSONY製品からPanasonicそしてPioneerと、使い勝手を良くして使用していたので、このナビは上手く使えない。

適当に走ろう・・・一般道を大島南IC近くまで進み、左折して山道へ、途中右折し狭い道を上った先に、展望台の駐車場。

そこから丘の上に徒歩で進む、売店横に大きな亀が

ここは、亀老山(キロウサン)展望公園、標高約308m

この階段を上り、その先の不思議なコンクリートの構造物に入り、階段の先が左右に分かれている・・・

2ヵ所の展望台が設けられていました。

ユニークなこの設計は、隈 研吾さんのようです。

・・・新国立競技場コンペで決定したザハさんの斬新なデザイン、審査員には安藤 忠雄さん、

しかし日本スポーツ振興センター事務局と政治家が大甘で、壮大な施設をコンペで要求していました。

結果、造ってみたら想像以上に高くなりましたが、何とかヨロシクと従来の手法で進めようとしたが、

この手法が非難され、施工主、政府・・・2015年夏に、耐え切れずコンペ採用案を没にしました。

再募集、・・・ありましたね。

大成建設が隈(クマ)さん設計案で現在建設中、突貫工事で問題なく本年11月頃完成しそうです。

 ここの展望台は、人気が高いようです。

この大島には、北の伯方島側に、標高232mカレイ山展望公園もありますが、

この四国に架かる来島海峡3連吊橋の景観、そして瀬戸内海の島々・・・行きかう船舶

船を追っても、ライトアップを狙っても・・・素晴らしい被写体です。

もちろん360度の展望台です

日の出も夕焼けも・・・四季折々の表情が・・・

これは、またの機会に

他にも、この瀬戸内海で戦国時代に有名になりましたが、海賊、村上水軍の博物館などもあります。

もう一か所、来島海峡SAに寄って行きましょう。

ここでも水道からジュースが飲めます。

正確には、・・・蛇口に口を付けないで、コップで飲みます。

そして、流れの速い来島海峡を航行する船・・・

このSAに、しまなみ海道の七つの橋の案内板があります。

四国側の三つの橋以外は・・・

広島側から、尾道大橋、因島大橋

そして、生口橋、その先の愛媛県との県境にある多々羅大橋は、世界一の長大斜張橋のようです。

この四つの橋と合わせて計七つの橋で本州、広島県と四国愛媛県が結ばれています。

西瀬戸自動車道の全線、向島ICからの総距離は約60km

普通車で、しまなみ海道全線の通行料金は、平日¥2,890-休日割引で¥2,260-です。

・・・暇になったら、今回行けなかった宇和島と愛南町に行こう、マイカーで、・・・スマが食べられなかった。

携帯用の釣り竿を持参したが、朝まずめ、夕まずめ・・・この時間帯、何かと忙しかった。

・・・さて、今治に帰って来て、今治と言えばタオル、タオル美術館が丘の上にあります。

・・・・・中断、

5/25週末から30度を超える真夏日、

遮を掛けて、取り合えず高温が嫌いな植物対策もしなければ・・・、

これから毎週末、神田、三社、湯島天宮と夏祭りが賑やかに続きます

そして、この時期学校では運動会、・・・今年は30度越え、・・・厳しかった

水分補給を十分して下さいとの放送が流れ・・・、

クーラーが利いている体育館などもご使用下さいと・・・、熱中症で倒れることのないように

グランドでは、大歓声の中、・・・頑張る生徒たちの姿が

初夏の異常な暑さにも負けず、熱戦が続きました・・・

・・・自宅に帰り、引き続き水分を補給するが・・・喉の渇きは治まらず、・・・多分軽い夏バテだったのでしょう。

・・・マズイ、未整理の画像が増える一方で、動画の編集は手付かず、名案が無く

整理とは、不必要なものを捨てること・・・画像は評価して残す方法があるが・・・

季節が変わってしまう、・・・

高速で、いよ西条ICで降り、石鎚登山ロープウェイ前まで山道を登り、ロープウェイに乗り、西日本最高峰の1982mの山。

日本百名山の天狗岳、その頂からは瀬戸内海を一望できる霊峰に上る計画を検討したが、半日コースとなり・・・断念。

高知自動車道で、県境のトンネルを何ヵ所か抜けて高知県へ

このパノラマ画像は、桂浜から東の方向です。

約10kmくらい東に高知空港(高知龍馬空港)南国市になります。

東の半島の先が、室戸岬、約80㎞くらいでしょうか。高速道路は無いようです。

桂浜東の岩礁地帯から西の海岸線を・・・こちらが桂浜、高台の円柱の建物は、国民宿舎

砂浜の右奥の建物が、桂浜水族館 

この一帯は、桂浜公園です。

前方の高台に移動します。

高知といえば、坂本龍馬、坂本龍馬記念館です。

現在地の案内板が

高台からの太平洋・・・東、室戸岬方向です

そして西側、太平洋に面した、高知の浜です。

一転して、翌朝、中心部の、はりまや橋商店街

これは早朝、AM8:00頃、まだ大半がこれから開店準備でしょう。

昨夜は夜8時頃には、この通り・・・飲食店が数件だけの営業でした。 

・・・松山市もこの高知市も・・・立派なアーケードが何本も走っています。

雨の日や真夏の日差しが避けられるので、アーケードは有難い存在です。

維持管理が大変でしょうが、

こちら、はりまや橋駅でも、維持管理しながら懐かしい日本の路面電車が走っていました。

欧州では、石造りのビルと石畳の風景に、トラム(路面電車)が地面を滑るように走って・・・妙にマッチしている。

目に易しい緑の雑草?と重量感のある台車が目立つレトロな電車は、・・・ローカル色豊かで親しみがあります。

 さて、朝の散歩を兼ねて、アーケードを西に進んで、一本右の道路に出ると・・・ 

日曜朝市です。相当歴史があるようです。

お城に向かう片側2車線の一方を通行止めにし、露天商が並んでいました。

野菜、果物、乾物、薬草、色んなものが並んでいました。

この先の左側の建物に入ります。

ここも有名な観光名所、

テーブルが沢山並び、市場の食材を買って、食事ができます。

ホテルで朝食を済ませてきているので、残念ながら購入せず、下見をしたので帰ります。

四国と言えば、弘法大師空海、四国八十八ヶ所霊場の内、高知県内に十六あります。

土佐市の有名なところが、第36番、青竜寺(ショウリュウジ)

高知県土佐市の浪半島突端にあります。

昭和48年に「宇佐の大橋」が湾口に架けられた。

その大橋を渡ってこの寺まで車で来ることができる。

しかし、かつては弘法大師も浦の内湾を船で渡ってこられ、この地に石造りの不動明王を安置された。

四国八十八ヶ所霊場会HPから抜粋

宗派:真言宗豊山派、本尊:波切不動明王

開基:弘法大師、創建:815年(弘仁6年)

第36番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺(トッコウザン イシャナイン セイリュウジ)

この手作り感のある石段が、歴史を感じさせてくれます。

先の山門を抜けて、左手の手水場から本格的な石段が続きます。

 

海風が感じられない、斜面を削り取ったのか、両側に木立が並んで・・・新緑の季節、清々しい。

最後の急な石段です。

そして、不動明王が・・・

階段を上って、境内の右側からの画像が

ブログ、急ぎ足で・・・

高知で、この場所を追記しなければ・・・高知城近くの県営駐車場に車を入れ

大河ドラマで・・・有名な女性です。

・・・信長が上洛した頃、馬の市があり、信長家臣名馬に出会うが、高値に誰も手が出せない

・・・これで買いなさいと一豊の妻・千代、持参金10両へそくりを一豊に・・・、

関ヶ原の合戦後、功成りて、この地の浦戸城(現、坂本龍馬記念館横)城主となったのが山之内一豊、

その後、高知城を築城し1603年一豊入城、1611年には三ノ丸も完成しています。

1727年、城下町の大火で城郭の大半が焼失、1749年天守閣などが再建され、何度か修理を受けながら今日に至る。

そんな高知城、一豊よりも有名人の・・・千代と名馬が迎えてくれました。

・・・城の東側から進むと、右の櫓門が追手門、高台には天守閣が見えています。

分り易い道順で右側の石段を登る

 

と、間もなく広場のある二ノ丸へ

ここで左側に、屋根付き通路状の建物に進んで行く

ここは土足で進みます。ここは2階建ての2階、この下に1階部分がある。

この向こう側が本丸で、こちらの二ノ丸側と掘割状に分断されていて、このような橋廊下で防御効果も。

標高44.4m、本丸に到着

同じ江戸時代の築城ですが、旧敵陣の中で建立した迷路状の姫路城に比べると、遥かに穏やかなお城です

ここで入場券を購入し、下駄箱に土足を収納し、天守閣へ。

階段が見える向こう側から、ジオラマの城内に入ってきました。

このような展示室もあります。

右が本丸、左の二ノ丸との間に渡り廊下(詰門)が見えます。

この天守の構造は、外観からは4重に見えるが、内部は3層6階建て

安土城や大阪城の天守に近い形式とあります。

天守閣の5階部分には、全国各地の天守閣の写真が掲示されていました。

中央にあるのが最後の階段・・・、上の天守閣の入場制限をしているのか・・・長い行列が出来ていました。

そして、天守閣から東側、日曜市が開かれている方角、左、高知駅から、右に、はりまや橋

 南側は、浦戸城の向こう側に太平洋、桂浜があります。

西側は、坂本龍馬の生誕地がすぐ近く、その先は・・・土佐市方面

そして北側、眼下に二の丸、・・・遠方に高知自動車道が走っています。

本場のカツオのたたき、それとフルーツトマトを食しに高知城を退城。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平成最後のフライト

2019-05-18 | 旅行記

早朝、羽田は小雨模様だった。

フライト時間は、1時間でこんな景色

さらに高度を下げ、・・・海から着陸態勢へ

サァ、リムジンバスで市内へ

この柑橘王国にやってきました。

先ずは、このミュージアムへ

このすぐ近くに生家がある秋山好古、秋山真之の兄弟、そして真之の友人正岡子規の三人が中心、

1968年~1972年、約4年間 産経新聞の夕刊に連載されたこの小説が

映像化は難しいとされていましたが、NHKでドラマ化され話題になりました、3年越しの3部作。

第一部が2009年年末、翌年も年末に第二部が放映され、

完結編が2011年年末、世界が驚愕 東郷艦隊 ロシア バルチック艦隊に大勝利!・・・スペシャルドラマでした。

・・・この建物は、安藤忠雄氏の設計で、コンクリート打ち放し モノトーン 独特の世界がありました。

ミュージアムとして、入場者の導線を一方向に導きながら、・・・このようなアクセントも設けてあります。

吊り橋構造です・・・少し横から見てみましょう。

3Fに、正岡子規の世界がありました、・・・今日TVで大ブームとなっているのを喜んでいることでしょう。

毒舌ながら的確な添削で人気の 夏井いつき 先生、正岡子規を再び有名にし、さらに・・・この街を元気にされたようです。

・・・近くの小高い山麓に・・・ポストが置かれていました。

その横には

この地出身の有名人が・・・並んでいました。

では、標高480mにある歴史遺産に向かって坂道を上って行きましょう。 

丘の中腹までケーブルカーやリフトもあるようですが・・・。

そしてケーブルカーの終点近くに、先程のポストが置かれていました。

坂道の先に・・・江戸時代の石垣が・・・

そして天守閣が見えてきた。

右に回り込んで、太鼓門を入ると・・・

広場を進み、八重桜の先に

茶屋のような・・・

ここで、天守閣に入場する観覧券¥510-/人を購入する。

一ノ門、二ノ門などいくつか通り・・・

この案内板、

下足を預け廊下を・・・天守に上がる前に、

小天守などに上がり

そこからの天守閣です。

このような武具の展示もあります。

そして、天守閣からの眺望は、・・・解説付きの展示パネルがこちら

画面左サイドが・・・瀬戸内海です。

もう少し左に松山空港が

東は、左の上方山裾に 道後温泉があります

そして、南に移り・・・右の斜め上に松山駅が・・・

西の解説付きの画像が・・・見つからないので、説明無しの画像です。

小高い丘の向こう側は、平地の先に・・・松山空港があり・・・瀬戸内海に面しています。

 

・・・こちらの城の案内板は沢山ありましたが、割愛・・・。

そうでした、・・・ここは愛媛県松山市、松山城

松山といえば、坊っちゃん・・・そして、この樹が

ナンジャモンジャ(モクセイ科のヒトツバタゴという珍樹)初夏にふさわしい白花、

なぜ、ナンジャモンジャと呼ばれるのでしょう?

・・・そんな造花のようなフワフワした白い花の・・・街路樹が続いていました。

昼食タイム・・・

ホテルチェックイン後・・・夕刻に、道後温泉へ

移動手段は、市電や坊っちゃん列車、バスなどがあります

そして道後温泉 到着!

 道後温泉駅前ロータリーの先に、立派なアーケードがあり、その右側には、有名なからくり時計も

アーケードを進み、途中で右に曲がると、この商店街の正面が目的地です。

途中、ユニークな人々が出迎えてくれていた。

その横に、 再会の 子らと道後の 初湯かな 入選作でしょう 掲示されていました。

で、こちらが道後温泉本館です。

1994年、国の重要文化財に指定されましたが現役の公衆浴場として営業しています。

1894年(明治27年)改築した木造3階建て、その後3回程改築があったようです。

 

 正面の右側、窓口に進むと、小さな衝立に「入口は左に進み・・・」と横の入口へ進むように・・・

そうでした、この本館はWebで調べたら・・・保存工事が始まったと 案内がありました。

霊の湯(男女)、新殿、ここの2階、3階休憩室は、残念ながら使えないとのことでした。

・・・左側に進むと、・・・人力舎が客待ち中です。

その先を、左に回り込むと

奥で工事関係者が仕事中、・・・その手前に入口があるようです。

見上げれば、立派な3階建て・・・火の鳥が目立っています。

この内部は撮影禁止、道後温泉本館HPより抜粋します。

 入口の番台で入浴料¥410-を支払い、(上の写真は、本来の正面からの入口のようです・・・通路が長い)

右が神の湯(女性)左が男性

浴室の画像には、下記のような案内文がありました。

「 石造りの浴室に砥部焼の陶板画が飾られ、大きな円柱形の「湯釜」と呼ばれる湯口が鎮座する浴槽は、

道後温泉本館の独特な雰囲気を作り出しています。」

何故か、湯釜を見ていると・・・夏目漱石もこの浴槽で泳いだような気がしてきます。

入り口横には、工事の案内看板がありました。

連休明けから・・・屋根にもシートが掛けられたでしょうか。

・・・翌日はレンタカーでドライブです。


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サンタ・マリア・デル・フィオーレ 花の聖母教会(クーポラを架ける)

2019-04-20 | 旅行記

ミラノのドゥオーモは、威風堂々 美しい容姿を誇っています。

広大な広場、その周囲に屏風のように建物が並び、東側の視線の焦点にどっしりと・・・ピンク&グレー色大理石の優美な教会です。

こちらのフィレンツェのドゥオーモは、・・・見上げるだけ・・・全景が収まるだけの周囲に広場が無いのが残念。

一番の撮影スポットが、・・・ドゥオーモ正面ファサードから鐘楼と洗礼堂の間を100m強西側に離れます。

ジョットの鐘楼が主役になっていますが・・・ここが最善のポイントでしょう。

正面入り口(ファサード)は、手前のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の真向かい(向こう側)となっている。

先に完成していたのが洗礼堂ですから、やむをえません。

では、ドゥオーモの南側は・・・細長い広場はあるのですが

(昔の画像)本堂に沿って、このような撮影はできますが、全景は、・・・南側には建物が建ち並び後ろには下がれない

南西のファサード側に進みクーポラを入れて全景が入らないかと・・・・右後ろに鐘楼があり・・・これも無理。

・・・昔、整理したものがありましたので参考に。

・・・洗礼堂の向こう側から、見上げる感じのドゥオーモの正面を画像編集して・・・全景がこんな感じ。

(これは以前の画像)

・・・まずは、教会隣のジョットの鐘楼・・・建物は、高さ:84.7m、階段414段、・・・ではこちらに登りましょう。

これも以前の画像から、チケットは鐘楼に入ってすぐの窓口で、・・・後は階段を一気に上がりましょう。

隣りのドゥオーモに比べ登る人が少ないので、空いています。

外観から想像できるように・・・四角柱の中に階段ですから、確か何もない狭い所を・・・ひたすら・・・単調な連続動作です。

 右の瓦屋根の間の所から、左の通路にでてきました。

隣のクーポラを見るために上がってきたが・・・

半球では無く、八角形をベースに補強用でしょうリブが頂上部に延びています。

8本骨の雨傘を引き延ばしたような縦長形状です。

よく見ると1辺に横3か所、穴のような跡が3段あります。

・・・これは二重クーポラの間の部分に採光と風の通風対策のようです。

採光の主力は、ドラムと呼ばれる部分に設けられた8か所の大きな朝顔状円形部です。

ここにステンドグラスが施工されていると思います。

・・・このクーポラは、フィレンツェの毛織物業界の威厳をかけて完成させなければと、・・・頑張っていたのですが・・・

1347年秋、インドから香料とクマネズミをジェノヴァ船が運んできて、・・・ペスト菌が拡散。・・・大打撃

その後1年間でフィレンツェ住民の80%が命を落としたといわれます

・・・10年後、他国から労働者も受け入れ・・・経済も少しは上向き、やっとクーポラを何とかしなければという雰囲気に・・・

歴史小説家:ロス・キング氏の ”ブルネレスキ” を参照して当時の様子を調べてみました。

・・・1418年8月19日、布告「目下、大聖堂造営局が建設中の大聖堂に主クーポラを架けるための模型ないし設計図・・・

または建材の引き上げ装置を製作しようと思う者は、9月末までに提出を、採用された者には、200金フィオリーノを与える」

この200金は、熟練工の2年分の収入を上回る大金(作者推定1500万円)です。

 この当時のフィレンツェは、どんな状況だったでしょう。

高さ約6m、外周8kmの城壁を50年かけて1340年に完成していますし、市庁舎(ヴェッキオ宮)と付属の90mの塔も完成していた。

1359年には、上っているこの鐘楼が20年かけてこちらも完成していた。

日常の様子は・・・建設現場にはレンガ工や鉛職人、鳥の巣のような足場によじ登る人々、炉から黒い煙が立ち上り、鍛冶屋が槌を叩く音、

牛が荷車を引く音、料理人や、職人にワインを売る者たち、そして指図(サシズ)の怒声が響き渡っていた。

まだこの時期には城壁の内側に麦畑や野菜畑、羊の群れが追われていたりと・・・農村の面影は残っていたそうです。

市内には砂岩の石切り場があり、アルノ川の砂はモルタルの原料であり、川底の砂利も利用でき、森は建材の確保に丸ごと接収され、

近隣の街から巨大な大理石が運べる状況にあった。

・・・この教会の礎石が据えられたのが1296年、設計者は石工頭のカンビオ。

彼は、ヴェッキオ宮と城壁を手がけた実績があった、しかしこの教会の着工直後に死去。

・・・石工達が数十年かけてこの地にあった二つの教会の撤去を行い、敷地の解体や整地も着々と・・・

当時、完成すればこんな教会と・・・建設中の南側廊に幅9mの縮小模型が注目され鎮座していた。

さて問題なのは、この縮小模型に巨大クーポラが架けられていたことだった。

カンビオも・・・それ以降の誰も・・・巨大クーポラを架けたいが・・・完成までの道筋を示すことができなかった。

建設が決定してから50年間、建造方法はいつか神が答えを与えて下さり、最新の知識を持つ建築家が現れることを祈っていたのだ。

・・・では、鐘楼の屋上部を一周して・・・降りましょう。

上部の階段は・・・こんなすれ違いが大変な幅の狭い所で、

・・・上がってくる方を待って、すれ違いです。

・・・フィレンツェ・・・日が沈み、照明は必要な所に最小限

夜のドゥオーモ広場です。

ドゥオーモ周辺は人通りも少なく・・・照明の少ない所に行くと・・・大理石に囲まれた非日常の空間は、

・・・ひんやりとした空気が流れ・・・一瞬、中世の人が飛び出して来た? 事件か? そんな気がして振り返ったが何もなかった。

フィレンツェの街中は、この後、道路・広場・中庭、平地を全て大理石などで覆っています。

・・・緑が必要?・・・郊外の邸宅にはブドウ園など保有している裕福で自己主張の強い人々が支配する・・・共和制の都市です。

さて今日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のシンボルといえば、大きなクーポラ。

1418年の布告後、どうなったのでしょう?

・・・ローマで古代ローマ人の遺跡やパンテオン(悪魔の家と呼ばれた)などを10年以上調査した二人連れがいました。

その内の一人、時計職人・金細工師フィリッポ・ブルネレスキがコンペに参加し、最終2案に入った。

競合相手は、ロレンツォ・ギベルティ(金細工師)で、・・・宿敵だった。

・・・十数年以上も前の1401年に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側の扉の新設コンクールが行われた。

7名の応募者があり、34Kgのブロンズ板を支給され、ブロンズ彫刻作品(43cm×33cm)を1年後に提出することとなる。

作品の主題は、創世記の22章の「イサクの犠牲」で、結果は、ブルネレスキと無名だったギベルティが今回と同じく最終2案に残った。

一説では優勝は両者、共同での制作案に対して、ブルネレスキは単独制作を主張、・・・審査員に拒否され・・・コンペから辞退している。

その護、残ったギベルディによって完成した扉がこちら

天国の門と言われ、主題の「イサクの犠牲」は右列の上から2番目、その左はノアの箱舟、聖書の各場面が描かれている。

・・・今回のクーポラのコンペは、またも羊毛組合の審査委員達、両者の模型を比較しても結論がでず・・・

(建築の素人審査員ですから無理もない、斬新な案には提案者から具体的に丁寧な説明がないと理解ができないでしょう)

従来の経験の延長線で大規模な保持型枠を沢山作れば可能という案と、型枠など無しに造れるという斬新な案のブルネルスキ

無難なギベルディを押す審査員にアイディアだけが盗まれるのを恐れたか、工法を公開しないで単独受注にこだわるブルネレスキ

・・・結局1420年春になり、優勝賞金の無きまま、審査会が38歳の石工頭を総監督に指名した。(設計はできない現場監督だった)

さらに、審査会は二人を総監督に追加する・・・(そうです、最終案に残った二人の提案者です)

他にも、60歳の知名人哲学者が建築経験の無いギベルティの補佐として総監督になります。

結局総監督は4人でスタートとなった。・・・(多くの船頭の一員の立場だったが、ブルネレスキは辞退しなかった。)

3か月後の1420年夏、ブルネレスキも建築経験は少ないが、ローマでの調査や透視画法の実力者として知られ、彼の模型を基に仕様書が採用された。

12項目の覚書には、しかし具体的な作業手順・施工方法は書かれていなかった。

ブルネレスキに賞金は支払われていない。・・・(不満は大いにあったが、調査した古代ローマの知識を生かすことに生涯をかけたのでしょう。)

・・・(クーポラ内部に上り、別途工法は考えてみましょう)

時は流れ、その後クーポラの頭頂部、ランターンと呼ばれる八角形の小屋(採光・通風の役目など)は1461年に完成します。

さらに、その最上部に取付けた球体はヴェロッキオ工房が製作しています。

1466年にレオナルドが14歳でこのヴェロッキオの工房に弟子入りしています

” 球体の作り方を見た ” という レオナルドの話が伝わっていますが、巨大な建築物より歯車仕掛けの装置に関心が強かったようです。

これでクーポラの外観は今日のような姿、完成形になりましたが、この時点では、クーポラ内部には、・・・天井画は描かれていません。

入口のファサードも・・・強度に問題があり、建設途中で中断、1587年取り壊されて・・・未完成、仮設の状態と思われます。

レオナルドがフィレンツェ在住当時、目にしていた教会はクーポラ内部は仕上げられていないが、教会としては利用されていました。

(・・・今日のような正面ファサードの完成は、後年・・・1887年頃となります。

フィレンツェは1443年からメディチ家の統治となり、ギリシャ・古代ローマ時代の文化を積極的に発掘し、学ぼうとしています。

・・・高い建物の上部に銅製の球体が乗り、さらに突起部が伸びている(避雷針の知識はなかった)・・・雷も落ちたようです。

サヴォナローラの時代、このドゥオーモで日曜日には2万人もの信者に説教をしています。

・・・そんな中、1492年4月5日に落雷が起きたとあります。

落雷で頭頂部から何トン分もの大理石が落下し、その落ちた方角から人々は不吉な予感を感じた。

その時、芸術家のパトロン、豪華王と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチは熱病で別荘の病床だった。

石材が落ちた方角を聞かされたロレンツォは「私はもうおしまいだ」と叫んだ。落雷から3日目、亡くなった。

・・・ルネッサンス真っただ中のフィレンツェは・・・リーダーを失い・・・またもや紛争勃発の危機。 

当時レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ王国、ミケランジェロは教皇に呼ばれローマで仕事とフィレンツェにはいなかった。

・・・( 完成したクーポラに上ってみましょう )・・・

ドゥオーモの南西にある入口から、・・・階段は、合計463段のようです。

まずはクーポラが架かるドラム部までが地上43mです。

建設工事時、階段は本堂の周囲壁面に4か所設けられ、上りと下りは専用だった。

見学者はこの当時の階段を利用して上ることになるようです。(職人は40階建てに相当する階段を毎日上っていた)

扉の内部階段スペースは、四方が壁で薄暗い・・・数段くらい上り、右に90度曲がり若干上がり、また右に折れ数段と・・・

天井が高い2階分くらいに到達、明り取りの窓から、ドゥオーモ南の建物が見えた、

さらに1階分上がる度に明り取りの窓があり、

屋根が見えるので3階くらいの高さでしょう。

さらに明り取りの窓を3か所過ぎたころにようやく、変化が・・・広い所にでてきた。

この部分は多分 身廊部の屋根が架かる付近の高さで、クーポラとの接続部あたり・・・

このような儀式中の人々が出迎えてくれて、・・・

 この階で工事が長い間中断していて、石材や道具類の小屋などがあったのではと想像するが・・・

この位スペースがあれば、ブルネレスキが労働者向けに食堂を設置することも可能だったでしょう。

左に進むと、"禁止 壁に落書きしないで” と警告が掲げられていた。

内部に入ります・・・多分この先からクーポラの架けられる円筒部の建物になるのでしょう。

この先、右側に螺旋階段部が、

・・・これは時計と反対回りに上る・・・150段あるようです。

こちらは、ぐるぐると狭い範囲を上って行く。

(下りの螺旋階段は別の所にあり、時計回りに下りてきます)

 明かり窓が大きくなり、格子が入っている、下界の様子は・・・

目の前に右下がりのレンガの屋根が・・・これは翼廊と呼ばれる部分の屋根のようです。

 屋根より上まで上がってきました。もうすぐ・・・でした。

翼廊と円筒部の接合部あたりにいるのでしょう、らせん階段が終わり、右に進む通路が見えます。

この通路の先、左側に明り取りの窓があり、そこで直角に右に曲がります。

数メートル進むと・・・ゲートがありました。

今立っているのは内殻と外殻の隙間、・・・いや、二重構造の内側(内殻)の壁に開けた通路でしょう。

 

ゲートから内部に入ります。

右には進めず、左に一方通行

日本語も見えます、・・・「立ち止ま ず」

八角形のクーポラ内部を、約半周するのかな・・・内側には透明樹脂のフェンスが設けられています。

この高さから上部には・・・壁面に明り取りの丸窓があり、ステンドグラスが施されている・・・ドラム部が周囲にあります。

クーポラの基礎部として、円筒形のまま高さをかさ上げするために約9mも積み上げた部分がドラムと呼ばれている。

クーポラは難しくて架けられないが、当時の石工ができるところまで造ろうとしたのでしょうか、

1410年にドラムを完成させ、ガイドブックではドラム最上部では高さが55mとか

・・・参考にしたロス・キング著「ブルネレスキ」では、

1420年8月7日朝、地上43mの高さで大聖堂造営局が現場で働く石切工、石工ら労働者に朝食を振る舞い工事開始の祝宴を行っている。

ドラムの上部に上がらず、この階で祝宴を行ったとすれば大体話は合いそうですが・・・。

(・・・展望台からの下りでは、この位置より高い、このドラム部の上側の通路を周回します。)

この位置から天井のランターンを見上げると、採光効果が必要なのがよくわかります。

 

(これらの天井画:最後の審判の制作は、1572年~1579年 ヴァザーリとズッカリ作と言われています。)

1541年にヴァチカンのシスティナ礼拝堂の有名な「最後の審判」を仕上げたミケランジェロは、

1564年亡くなっていますので、故郷フィレンツェのこの天井画を目にし、批評することはなかった。

クーポラに進むため、周遊通路からまた二重クーポラの隙間に進みます。

 1426年には大聖堂造営局が作業を怠ける物がでないよう、石工が日中ドームから降りることを禁じています。

ブルネレスキは外殻と内殻の間に食堂を設けて、火も使えたといいますから、すごい状態ですね。

約800Kgもある砂岩の切石を何百個も、・・・地上からドラム上部にどうして引き上げるのか・・・

1418年のコンペで装置も募集したが、模型は1件も提案されなかった。

ブルネレスキは何か考案しなければ、作業が進まない・・・時計職人の知識もあり、このような巻き上げ機を開発した。

ピサで作ったロープの長さは・・・、何と180m、重さ450kg以上、・・・そして、この装置は1421年夏に完成しています。

性能は、牛1~2頭の動力で、一日平均50回、およそ10分に1回の割合で荷揚げを行ったとあります。

1421年秋ブルネレスキは賞金を要求した・・・結果、これまで使用していた者より有効として100フィオリーノを得ている。

しかし、まだ問題はあったようです。・・・この高所での、石材の微妙な水平移動が難しかった。

(完成するか保証も無く、完成目標も無く、良く予算をつけ、材料を入手し、大聖堂造営局は担当者を次々と引き継ぎ継続したものです。)

・・・クーポラには結構登る人が多いので、前の人と間隔を取り、あおらずユックリと・・・。

ドラムを上がります、右側に内殻があり、左の外殻との間は結構広い、・・・手すり付きの階段を上る

 今度は、内殻側に階段が付いているが幅が狭くなってきたようだ。

内殻は当初は漆喰が塗ってあったようだが、剥がれてレンガの表面が見えている。

こちらは・・・通風と採光の枠が大きくなったような気がしますが・・・。

やがて内殻と外殻の隙間が、上部で急激に狭くなるような場所にやってきた。

左右で階段があり右は上り専用、左が下り専用で、内外殻の隙間が広い場所だ。

ドラムから高さ17m位までは、多分過去の経験でクーポラの内側に石材を保持する木枠を組まなくても、

くさび形の石材を内側にズラシながら30度くらいの角度までならモルタルが生乾きでも摩擦力で石積みは崩れない。

ドラム上部で・・・架けようとするクーポラの内殻の厚みは2mもあった、頂部で1.5m弱。

外殻は基部で0.6mの厚み、天窓部分で0.3m強です。

・・・従来のクレーン(起重機)では役に立たず、またも大聖堂造営局より、アームが長く、重い物を操作できる装置のコンペを行った。

1423年4月、今回はライバルを差し置き、本命のブルネレスキの設計が選ばれた。

早速資材が調達され、3か月未満で完成・・・7月から稼働している。

後年、ヴェロッキオもクーポラ上部に高さ2.4mのブロンズ製の球体をランターンの上に設置する際にも使用していました。

これは、その時印象に強く残ったのを、レオナルド・ダ・ヴィンチがスケッチで残しています。

クーポラの比較も ”ブルネレスキ” の本より拝借

半球状の物体を伏せた状態で、上部に荷重をかけ更に自重も加えると垂直荷重で、・・・受ける石材はつぶれる事は無いようです。

垂直以外に外側に半球が広がろうとする力が非常に大きくなり、結果、クーポラ部が崩落する危険があります。

その解決策が、クーポラ(内殻)を囲む形で輪を作り広がらないようにしなければならない。

考えた結果、特注の石材を数多く使用して、連結することにした。

長い石材が長さ2.3m、幅0.43m、短い石材は0.6mくらいか・・・各々100個以上

輪といっても実際は八角形、角の部分は鉄の金具を作り繋いだ。長い石材は、レゴブロックのように凹凸の加工で接続している。

この抗張力環は、10m高くなる毎に必要とされ、徐々に複雑な形状となっていった。

・・・さて内外殻の隙間が狭くなったクーポラ上部を手摺につかまりながら、長い階段を上ります。

ここでは、湾曲した階段を踏みしめているうちに、丸屋根に上っているという実感がわいてくる。

上り終えると、外の光が差し込む踊り場に到着します。

降りる人とすれ違うのでここで待機。

振り返ると上ってきた階段が見えます。

そして右側に見えるのが・・・外の光を浴びた階段です。・・・10段弱でしょうか。

では右側の階段を登り、展望台にでましょう。

下の画像は・・・なにやら不可解ですが・・・

右は、テラスから階段を降りてくる人、左は地上から見たランターンとその周囲のテラス・・・この場所に出ます。

出て、横に移動し・・・この眺望です。

鐘楼が街色に溶け込みながらも存在感はあります。・・・洗礼堂は・・・隠れています。

・右(北)にメディチ家礼拝堂が見えます。

振り返れば・・・ランターンの巨大な大理石、

・・・これだけでも大変な作業です。

採光部は網入り?(模様?かな)ガラスのようです、・・・通風対策に角度が変えられるようです。

では、クーポラの真下を覗いてみましょう。

身廊の屋根との接続部まで見えます。

 

結構真下に近い所まで見えるので驚きます。 

若干汗をかき、心地良い風に当たりながらですが、ガラス窓越しの展望台では無く、高所恐怖症の方には厳しいかも・・・

南側に・・・アルノ川、ヴェッキオ宮殿、シニューリア広場

・・・その向こうに目に良い緑がたくさん見えます。

画面上部(西側)には、フィレンツェ駅、その手前左に、薬局が有名なサンタ・マリア・ノヴェッラ教会

こちらパノラマ画像では、更に西側に・・・サン・マルコ修道院(美術館)が見えます。

もう一方のサンタ・クローチェ教会が遠く左端に白くファサードが見えます。

その向こう、丘の上にミケランジェロ広場があります。

先程の鐘楼を見てみましょう。

上部に瓦の屋根が見えます。

隣りの教会の屋根も同色の瓦です。

・・・とにかく巨大なクーポラは完成しました、木材を使用した部分は経年劣化し、補修や交換が必要ですが

石材の建築物はそのまま・・・有り続けます、それが良いか悪いは別として

便利さや、使い勝手、改造、建て増しを要求しないで、歴史観光の街として保全しながら使用する。

既にある物を何故と思わず、有難く受け入れる・・・疑問に思わず、まず信ずることから全てが始まる、この国の宗教の街でした。

 ・・・では、先程上ってきた・・・この階段から降ります。

この階段部は、屋根が無いので頑丈な蓋で閉じ、雨水を侵入防止する構造になっているようです。

階段部を上から覗くとこの様に・・・床面のレンガはクーポラの頂上部でしょうか。

右側の少し見える階段から上って来てました。

レンガの床面の高さで、内殻を半径約3m開けクーポラの架け工事は完成でしょう。

半径3m部の孔はランターンが取付けられる採光の開口部です。

下りは、多分この階段を降りて左に進み、屋根の内側は違う階段を降りたと思いました。

壁にどうして落書きがしたいのか、・・・

そして帰りのクーポラ内部の周回通路

こちらは目前に天井画が迫ってきます。この位置はドラムの上部に設けられた周回コースです。

・・・壁面が内側に傾斜している様子が良くわかります。

 

天井画を見上げると

等間隔で黒い丸は、天井画製作用の足場に利用した 鉄のリングか 差し込んだ跡と思ったが・・・

クーポラに描かれた人物達、下から3段目くらいになると多分内側に50~60度くらいの角度でレンガを並べることになる。

アーチ状に加工した木材で石材を支える迫枠(セリワク)が無くてどうするのか・・・。

・・・正確なことは不明のようですが、結局大聖堂造営局は膨大な木材の確保に数年以上も必要で難しくなってきた、

さらにこの高さまで木枠をくみ上げるのは不可能と思い、ブルネレスキに工法は任せたようです。

多分抗張力環で弾けるのを押さえながら、クーポラ中心点の垂直方向を基準にしたいので、木組みで細長い塔は建てたでしょう。

中心から紐を水平に回転させ内側にせり出す位置を確定、レンガを並べモルタルが乾いてから上の段へと・・・

そうでした、河原の砂地で原寸大のリブの図面を描き、松の木で木型(長さ2.6m、幅0.6m裏を鉄板で補強)を8本作った。

この木型をクープラの内殻の外側に設置し、内殻と外殻が一定の角度で立ち上がるように調整し、

リブのレンガを何段か積んでから、あいだの壁を積み上げていった。

・・・ここで下の段に上の段に連結する特注の長いレンガが用意され、頂部に向かって0.9m間隔でらせん状に組み込まれた。

上の段にレンガを並べる際には、下から伸びた特大レンガを一緒にモルタルで固定し、・・・レンガで縦方向に4~5層も連結しました。

内殻と外殻は同時進行し、八つの壁面全てでモルタルが固まり、レンガ積みが環状につながって十分な強度が得られてから、次の水平分を積む

1週間で1層弱、1か月で約0.3mの慎重なペースで進められた。

さらに、円に比べ八角形は難しいので、内殻が2mも厚みがあるので、壁内部に0.75m幅くらいで水平にレンガを積んで円形な輪になるように固定した。

外殻は厚みがあまり無いので、すぐ内側に円形の水平のアーチを埋め込んでいった。

幅0.9m、高さ0.6mのアーチは、上下の間隔を2.4m開けて、9本設けている。

これらは、1426年のブルネレスキの修正案の中で外殻の内側にレンガで水平アーチを設けるよう指示されていた。

このような工法の組み合わせで無事クーポラは閉じられ、取り合えず・・・ほぼ完成しました。

・・・(最期の階段を降りて、地上に到着)

ブルネレスキが途中から当然のごとく建築責任者となり・・・着工から、ここまで何と15年。

1436年3月25日献堂式が行われていますが、頭頂部はデザインはあるが、施工図はできていないなかった。

・・・アレコレ調べていたら、長くなってしまった・・・。

さて、教会内部に入りましょう。

内部は17世紀、正面ファサードは19世紀と完成までには、この教会も長い年月を必要としたようです。

この中央部では無くて、

案内があったようです。

では、内部に・・・

入ってきた入口上部に、有名な時計があります。

パオロ・ウッチェッロの時計と呼ばれ、ミサが行われる日没までの時間を示すようです。

文字盤はⅠ~ⅡⅣ、針は反時計回り(逆回り)とありますが、利用方法は?

教会内部から見上げると・・・こんな天井画、天地創造です。

1446年4月15日ランターンが工事に入るころ、ブルネレスキは69歳で急死します。

葬儀はこの教会で行われ、遺体は議論の結果、5/15日大聖堂の内部に埋葬される栄誉が与えられた。

場所は、南側の側廊の地下、・・・かつて模型が置かれていた場所だった。

記念碑など一切ないようで、「偉大なる発明の才を持つフィレンツェのフィリッポ・ブルネレスキ、ここに眠る」

墓石にこのように・・・発明の才を持つ・・・と書かれているようです。

 

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フィレンツェ、光と影

2019-04-06 | 旅行記

ダビデの顔にハートが隠れてる・・・昔そんな情報で、アップの画像を撮っていました。

・・・瞳の中のハイライト、・・・確かにハートがありました、・・・この作品はレプリカですが。

ここは観光の定番コース・・・、1875年に完成した、丘の上にあるミケランジェロ広場です。

・・・フィレンツェ・・・今年のカレンダーに掲載された建築物は、・・・花のドゥオーモでした。

フィレンツェのドゥオーモと言えば・・・

1296年、この頃には最後の十字軍も完敗して、パレスチナから最後の兵も撤退しています。

フィレンツェの街はヴェネツィア同様商売繁盛、最盛期を迎えつつあります。

北ヨーロッパから羊毛を買い付け、染色・加工の毛織物で財を成し、その財が貸金業・金融業で発展し・・・人口は5~6万人。

・・・14世紀には10万となりヨーロッパでは、ヴェネツィア、パリ、ジェノバと並ぶ大都市となります。

景気の良いフェレンツェでは・・・威厳のある教会を建てよう、石組で、見たことも無いような巨大な建物が良い・・・

やがて、外観ができてきました、・・・祭壇の周囲まで組み上がった、・・・が、なぜか空が見える。

・・・ポッカリと上部は穴が開いたまま、・・・雨、風が吹き込む・・・しかし、屋根が架けられない。

この巨大な石材では重すぎて、円形に橋を架けるようにはできない・・・延々と中断が続き、

諦めていたが、何とかしなければと・・・1418年、有志が設計コンペを行い・・・

・・・難産の末に、金細工師の二重ドーム案で完成したドゥオーモです。・・・やはり、印象的な作品、これが主役でしょう。

広場の展望台から旧市街のパノラマを見てみましょう。

 手摺の手前に、洒落た案内板があります。

 アルノ川は右が上流ですから左に流れています、下流にポンテ・ヴェッキオ、

もう少しアップにすると・・・

フィレンツェのランドマーク、目立ちます。

枢機卿の帽子のような、王冠のようなユニークな形状です。

四角錘の鐘楼も重厚感があります。ドーム(クーポラ)は・・・落ち着いた赤茶のレンガ色です。

の色調が統一されているので、青や緑の屋根はありません。電線や、パラボラアンテナ、空調設備も目立ちません。

トスカーナ地方は、街の景観を厳しく規制しています、例えば、窓枠の色は緑色か茶色・・・アースカラーです。

縦長のラグビーボールの上に、人が見えますが・・・展望台です。

もちろん、エレベータはありませんが、内側を階段で登れます。

・・・川向こう、目前に見える茶褐色の大きな建物は、サンタ・クローチェ聖堂、手前側に修道院

橋を渡って、この大きな建物の向こう側の通りを左側に歩いて行くと・・・教会前の広場に出る。

その先、目指すは、この時計台がある市庁舎:ヴェッキオ宮

 

 それから・・・シニョリーア広場を抜けて、その先を左に曲がるとやがて・・・ポンテ・ヴェッキオ・・・が。

ヴェッキオ橋の上、2階建てになっているヴァザーリの回廊が・・・ここから良く見えます。

・・・、前方から・・・この広場の横をジョギング、・・・羨ましい、・・・走って旧市街に行きたい・・・。

1km7分弱のジョギングペースで、広場まで2kmくらいですから14分・・・ ここは石畳では無いので、走りやすそう。

FitBitで脈拍を管理しながら、GPS機能でジョギング跡がスマホに表示できる機能もあり、最近のジョギングは楽しいですよ。

・・・ついて行くのは諦めて、バスで旧市街の城壁まで移動です。

さて、教会の横の通りから・・・サンタ・クローチ広場に出てきました。

中世の時代、贅沢三昧なキリスト教の聖職者達、・・・世の中は階級社会、しかし聖書の教えは少し違うのではと、

・・・アッシジの27歳普通の男性が、聖書の清貧の教えを聖職者のラテン語では無く、市民のイタリア語で説明すると、

評判になり・・・聖フランチェスコとして修道会を創設し、異端と指摘されることなく、法皇の認可も受け・・・新風が吹き始めます。

(同時期に同じように清貧を重んじたドメニコ修道会も結成されています、が・・・こちらは神学に重きが・・・。

ドメニコ派のサン・マルコ修道院は、コジモ・デ・メディチにより1443年頃再建されていて、この街では有名になる。

フランチェスコ派と同じように修道会として行動しているので、ライバル視されていたようです。)

フランチェスコ達は急激に信徒が増え、アッシジからこのフレンツェのアルノ川中州に移り・・・13世紀にフィレンツェ市民が費用を負担し、

この湿地帯に教会と修道院を建立します・・・15世紀頃にはこの教会・修道院などが完成しているようです。

サンタ・クローチェ聖堂、・・・色大理石のファサード、清楚な、華美でない、端正なゴシック建築です。

ガリエロ、ミケランジェロ、ロッシーニ、マキャヴェッリ・・・、非常に多くの有名人が埋葬されている教会です。

多分ここは入場が有料になったと思います。

・・・広場の端から北西に路地を進みます。

路肩の窪みに・・・水たまりが、結構気になります。

石畳みの表面の色も・・・黒ずんでいるようで、補修予算が少ないのかな・・・

四つ角に出ました、・・・右側にサン・フィレンツェ広場が見える

これは裁判所、・・・向こうの塔・・・

右に鐘が見えるのがバルジェッロ宮、塔は54m、13世紀の建物で現在は、バルジェッロ国立博物館

ここはルネッサンス時代は、警察署に使われていて、・・・悲鳴・うめき声も聞こえてきた、拷問によって。

その先の左、建物の向こうに、さらに高い70mの鐘楼が・・・ここはフェレンツェ最古の教会です。

10世紀ベネディクト会の修道院が建ち、清貧・貞潔・服従を説き、祈り・働け がモット-ですから厳しい修行です。

1071年には病院が併設されていますので、すごいですね。13世紀に建て直されその姿が・・・今日に。

・・・では、この角で左に折れ、次を右に曲がり

右の市庁舎と左の美術館を繋ぐ、渡り廊下が見えてきました。

アーチの渡り廊下の向こうにも、アーチの回廊のある建物があります・・・彫刻が沢山あるようです。

渡り廊下の下・・・こちらもアーチが続いています。

ウフィッツィ美術館です。

こちらの展示作品は、・・・今日でも光が当たり続けています。

以前の画像です。

ニョリーア広場に進みましょう。

設置場所で屋内だ、外が良い・・・ミケランジェロがこの位置、市庁舎前にこだわったという「ダビデ像」がこちらです。

これも劣化が進むのでレプリカですが(本物は、すぐ近くのアカデミア美術館)

シニュール広場は、観光地です。

警備も重要です。

ショルダーバッグ・・・厚みがありますね・・・違反切符の綴りでしょうか・・・

制服が無いと親子のようですね。

こちらでは、記念写真。・・・突然、ビックリしました? 動いた? 嘘・・・彫刻でしょう、ロボット?

最初に訪れた昔の画像がこちら

 花の都、でも色々なことがありました・・・

気になっていたことが・・・

男性二人が地面を見つめています。

 何やら視線の先には、マンホールのような物が

 これは、・・・1498/5/23、不正なる判決によって、修道士ジローラモ・サボナローラ・・・ 略。

あの ボッティチェルリの絵画も、・・・堕落させるという贅沢品が市民から集められ・・・焼き払われた。

貴重な品々もあり、ヴェネツィアの商人が〇〇で買い取らせてください。しかし、受け入れられず・・・焼かれた。

翌年もまた焼き払われた、その場所でしょうか?

・・・この街でイベントとなる歴史行列、5月23日の歴史行列では、この場所に花が置かれる。

当時の様子を描いたものが、・・・ここから北に約1kmのサン・マルコ美術館に作者不詳で掲げられています。

 1498年5月23日のニョリーア広場

市庁舎の左横、遠方にサンタ・クローチェ聖堂が、・・・左の角型の鐘楼はバルジェッロ宮、その隣にベネディクト会の修道院

花の大聖堂のドォーモも見えます。

気になるのが・・・市庁舎から花道のような・・・舞台が伸びた先で、焼かれているのは・・・贅沢品?

3人が火刑にされています。ショッキングな史実を描いた絵です。

火刑にされたのが、サン・マルコ修道院院長サヴォナローラ、そして他修道士2名、・・・

塩野七生女史:「神の代理人」では、サヴォナローラと法王の書簡、フレンツェの商店店主、法皇の秘書官の日記で構成されたドラマが描かれています。

当時の様子がリアルに描かれていますので、抜粋させていただきます。

まず、この火刑から・・・さかのぼること50日、

1498年4月7日、やっと真実が証明される日がやってきた。法王から破門された預言者をフィレンツェの人々は信じ続けていた。

フィレンツェの人々が、朝からこの広場に続々と集まってきた。

ビッキオ橋の方面から進んできた人々は、角を右に曲がると時計台が見えてきた。

日記の薬種香料商人(近くのお店の主人)は、もう1本裏の通りからこの広場にやってきた。

ドォーモの鐘楼の方からの人々は、カルツァイウォーリ通りを進むと、

 

正面にランツィのロッジア(回廊)が見えきた。ここに本日の主役が並びます。

東地区方面から集まってきた人々は、市庁舎の横から入ってきたのでしょう。

4月7日、仕事などする人は誰もいない、広場の入口は閉鎖され、3か所だけの入口は武装兵士が警備している。

女・子供は入れない。さて何が始まるのでしょう。

政庁が昨日実行と決定し、準備が進んでいた。・・・政庁から斜めに、広場中央に舞台がせり出していた。

レンガを積み重ねた土台は、高さ1.5m、その上に幅6m、高さ2.4mの廊下は両端に大量の薪の束が並び、中程1.2mが通れる通路だった。

(火刑の絵画にあった木製の通路と違い、耐火れんが造りで重厚な造りのようです)

この廊下が30m続き、木材と薪の間には所々に火薬が置かれ、油も振りかけられた。

広場は立錐の余地もないほどの人だ。正午の時刻が迫ってきた。

・・・サンタ・クローチェ教会(広場の東側 0.5km)の方角から、フランチェスコ派の修道士たちが入場してきた。

静かな人々で・・・こげ茶色の修道衣に縄の帯、ロッジ(回廊)の政庁側の席に着いた。

・・・サン・マルコ寺院の(広場の北側から 1km、ドゥオーモの方向)方角からドメニコ派の修道士たちが入場してきた。

二列縦隊で聖歌を合唱しながら・・・黒の僧衣の修道士250人位の中に火のような色のビロードの長衣を付けた修道士ドメニコ、

大きな十字架を捧げ持ち、その後ろにキリスト像をかかげた修道士サヴォナローラの姿が見える。

修道士たちの列に続いて多くの人々がたいまつやろうそくを手に持ちそれに続く。

サヴォナローラ崇拝者たちは広場を半周してロッジの反対側に着いた。

・・・準備がすべて整った、早朝から待っている群衆は、今にも火が点けられるかと、かたずをのんで見守る。

昨日、政府委員会が ”火の試練” をサン・マルコ修道院に伝えたのだった。

・・・ご存知の方も多いでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチと同じ1452年生まれ

 

ジローラモ・サヴォナローラ:ドメニコ派修道士です。・・・これも、サン・マルコ美術館

・・・フィレンツェといえばメディチ家、当主のロレンツォ・イル・マニフィコが知人からサヴォナローラを推薦され、サン・マルコ修道院に呼んでくれた。

1491年、39歳でサン・マルコ修道院院長に就任、

1492年、メディチ当主のロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなる。

サヴォナローラは花の大聖堂ドゥーモなどで、メディチ家のような贅沢を批判し、質素な生活を説きます。・・・さもなければ敵の手に堕ちると。

同年、ローマ法王の選出(コンクラーベ)は、枢機卿の買収合戦の末、アレクサンデル6世が誕生した。

この法王は、キリスト教会史上最も悪名高い法王といわれる。聖職売買、親族登用が盛んに開始され始めた。

1494年 フランス王国のシャルル8世が9万の軍勢でナポリに向かう途中、領国内通行の自由と必要物資の提供を要求してきた。

サヴォナローラは、民衆に説教した”私の預言は的中した。神自らあの軍勢をひきいておられる。神の怒りの試練、鞭がふりおろされる。・・・”

メディチ家の当主を継いだピエロがフランス軍勢に弱腰の対応をした結果、民衆が暴動、メディチ家一族は追放される。

・・・フィレンツェでは共和制が復活した。

・・・サヴォナローラは、敵の手に堕ちると予言した救国の預言者として、政治にも影響力を持つことになる。厳しい禁欲生活を強要して・・・。

1496/2/7 商店店主:頭巾をかぶった少年少女たち、路という路を走り回り、少しでも贅沢品を身に付けていれば人々からそれを取り上げ、子供たちの玩具まで奪う事件が起きた。

修道士の少年たちが近づくと逃げる者もいたが、それでも堕落した習慣を追放する、この行為をほめたたえていた。私も新しい時代に生きる幸せに恵まれたものである。

・・・法王からサヴォナローラに書簡が届く”・・・預言は自分が言うのではなく、また人間的な知識から得たものでも無く、神の啓示によるものだ”と言ったという。

これは、私の羊飼いとしての義務に属することなので、じかに会って、神が選んだというおまえの口から神の啓示を聞きたいと思う。訪ねてくるように。

・・・聖職者としての法王を批判し、再々の呼び出しを書簡で断り続け、・・・サヴォナローラは法王から説教の中止、さらには・・・破門にされる。

1498/2/18 日曜日、花のドゥオーモで説教を再開し、その後も毎週のように説教が続いた・・・神の預言者としての振る舞いで。

・・・法王は、目に余るサヴォナローラを異端者として処刑する、と・・・殉教者となられては困るのである。

聖職者としての法王は多分失格者だが、俗界の人間としては知識は優秀、家康のように我慢強かった。

法王は、フィレンツェの大使から再々の赦免願いに・・・サヴォナローラの教理は間違っていないが、説き方が問題という。

説教師の立場の重要性を考えると、多数の民衆と同時に接する唯一の立場なのだ。

ざんげが 1 対 1 であるのに比べ、その重要性は計り知れない。

説教師の責任が問われ、教理の根本が正しいだけでは不十分だ。

根本を把握し理解できる人は少数で、素朴で単純な人々は説き方次第でどんな方向にも動いてしまうものだ。

根本などは忘れてしまい、説くのに使われた材料の方が、大きく印象づけられてしまうのだ。

説教師は、どう説くかにも責任を持たねばならない。

サヴォナローラの説き方が、扇動的でその責任を感じていないことを・・・フレンツェの大使に伝えた。

・・・3/27、サンタ・クローチェ寺院で説教したライバルとされるフランチェスカ派の修道士が、

サヴォナローラが、真の預言者であることは神が奇跡によって示される と言う・・・では、実証しよう”火の試練”で挑戦する。

・・・フランチェスコの挑戦は、彼とサヴォナローラが、相前後して燃え盛る火の中を歩いて通り抜ける。

サヴォナローラが焼かれなかったら、預言者として認め、彼に従うと言う。

3/28、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花のドゥオーモ)で説教した修道士ドメニコが、昨日の挑戦を受けると発表した。

その足で政庁に行き、”火の試練”の署名をした。

3/30 フランチェスコ派の修道士ロンディネッリも署名した。相手にサヴォナローラを指名したが・・・受けなかった。

4/5 フィレンツェ大使がローマ法王を訪問し、

「本国政府は、”火の試練”について、猊下(ゲイカ)はどのようなお考えなのかを知りたいと申しております」

・・・「私は不賛成である。それどころか、非常に不愉快な気持ちで、この知らせを受けた。

なぜならばこれは、神を試すことである。キリスト者にはあるまじき不遜な行為だ」

4/6 ローマ、ヴァティカンでは、誰一人、修道士が無傷で出てくると信じている者はいない。

焼死の可能性の方が強いくらいだ。予言者も気の毒だ、民衆を満足させるため、奇跡を行ってやらねばならないとは。

だが、自ら始めたこと、後始末は、やはり自分自身でするしかない。

・・・話を戻そう ”火の試練” ・当日 ・・ところが、催し物はなかなか始まらない。

朝から何も食べていないのに、正午から3時を過ぎても、両派の修道士の対決が始まらず・・・不穏な空気が流れたが、兵士に制止された。

・・・ドメニコ派がキリスト像を持って火に入ると言う・・・それは神への冒涜だとフランチェスコ派、ドメニコ派が譲らず・・・政府と協議が、何度も・・・

夕方5時頃、突然 パラパラと雨、・・・すぐに豪雨になった。

その時、屋根のあるロッジにいたドメニカーノの何人かが立ち上がり「奇跡だ!奇跡だ!神が”火の試練”を望んでおられないという証拠だ!」と叫んだ。

われわれは怒った。何時間も待たされ、雨まで浴び、怒声が飛び交う・・・ドメニコ派はやる気がなかったんだ。

・・・結局、政府が中止を決定、・・・群衆は叫んでいた。「われわれは欺かされたのだ。あの偽預言者のために欺かされたのだ」

・・・

結果は、両派とも引き上げ、市民の外出禁止、預言者サヴォナローラを増悪する群衆が彼を殺そうとしていると噂が広まる。

( 夜のシニョーリア広場 )

4/8 民衆の怒りが爆発し、花のドゥオーモではドミニコ派の修道士を引きずり降ろし、”サン・マルコ”へ・・・

修道院襲撃、関連先の襲撃・略奪も続き、・・・政府代表はサヴォナローラと配下の二人をやっと深夜2時逮捕、・・・

警察署で拷問・・・「自分は預言者ではない、説教は神の啓示ではないと」自筆で書いたものが、後の裁判で読み上げられた。

4/9 4年間に渡ってフィレンツェを支配したサヴォナローラ、一夜にして崩れ去ったと法王の秘書官は書き残している。

・・・

5/20(日曜日) 政庁内で公開裁判、人々はミサにも行かず、それを見に行った。

司教は、サヴォナローラに「神の言葉を聞いたこと、預言者であることは、嘘でしたと言ったことを認めるか?」

・・・「認めない!、自分は預言者だ!」

サヴォナローラは、結びつけられた縄で高々と吊り上げられ・・・

・・・「認める!私は罪人だ!神の声は聞かなかった!」

裁判はこれで終わった。

5/22 商店店主:サヴォナローラ、修道士ドメニコ、修道士シルヴェストロの3人に死刑の判決が下った。

罪名は、異端の罪、分派運動を行った罪、聖ローマ教会に対する反逆の罪である。

処刑は、まず絞首刑、その後に火刑、日時は・・・翌朝と決められた。

----気になる処刑の絵について、こんな状況であったかも---

商店店主:5/22 夕刻に広場を通った時、準備は完了していた。

見ていた人から”修道士たちは十字架に掛けられるのだ”というだ声がした。そうだ、そうだの声

・・・役人が出てきて、横木の上に出ていた柱の先が削られた、T字形にして十字架に見えないようにするためだろう。

5/23 政庁前桟敷席、法王特使、政府高官、地区高位聖職者、そしてあらゆる会派の僧たち、

広場の群衆は、”火の試練”の日よりも多いほどだ。

三修道士が連れだされ、最後にサヴォナローラがつるされ、彼を信じていた者は、軌跡でなくても、何か言ってくれるに違いない・・・。

・・・だが、彼は何も言わなかった。多くの人をがっかりさせ、彼への信仰を失わせた。

火が点けられ、火は高い柱を駆け上がり、・・・四肢が下に落ちてきた。残った胴体を落とそうと群衆は石を投げた。

落ちた胴体も徹底的に焼きつくされた。信者の手に、何も渡らないようにするためである。

手押し車が運ばれ、焼きつくせなかった骨片と灰が積み込まれた。

武装兵に囲まれて、ポンテ・ヴェッキオへ向かった。

昔の画像です。

100m先は橋

肉屋街が立ち退かされて、金・銀・宝飾店が多くなり

ウインドウ・・・商品が気になるが・・・良く見えない?

値段が?

サヴォナローラは、今日の教育を受ければ、宝飾品販売や販売促進行為、贅沢をすることは悪とは言わないでしょう

格差社会と貧富の差に対して、どのように発言するでしょうか、・・・羊飼いは、世の中の羊が多くなって大変でしょうが。

・・・この中央部あたりから、・・・手押し車の骨片と灰が撒かれたのでしょう。

橋の中央から振り返えると、下流側には銅像と回りの手摺に南京錠が・・・思ったより少ないが・・・

 

銅像は16世紀、金細工の父として近くの宝飾店たちが建てたようですが・・・

アルノ川に遺灰ではなく、・・・ここで南京錠に鍵を掛け、二人で小さなカギを川に投げ捨てると・・・この南京錠が永遠の愛の鍵とか?

昔は山のように付いていましたが、・・・160€ 罰金となったようです。

結構な金額です・・・昔はOKだったのですが、知らなかったでは済まないでしょう。

・・・そうです・・・昔は良くても・・・川に物を投げ込むのはやめましょう。

 

 

 

 

 

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ガレー船の時代までは、真珠だった

2019-03-12 | 旅行記

カモメが飛んでいる。

広場の北側、サンマルコ時計塔の下を通って、ブランド品が並ぶ狭い繁華街を直進すると、ここはイタリア

Ferrari、フェラーリ、跳ね馬のショールームが突き当りに、

・・・右折し、その先を左折しながら・・・気になっていた、ヴェネツィアの人は運転が下手らしい、・・・

それはそうと、ショールームだった?・・・車?・・・走れないだろう

・・・オット・・・迷子に・・・なった?

確か数回ジグザクに北を目指せば目的地・・・人の流れの多い道を選択して

・・・この広場で、・・・ラッキー、

左の先に・・・、階段がある

リアルト橋が見えてきた。

・・・海運王国だった時代、この付近は商業の中心地

確か昔は、木製の跳ね橋だったようです。ルネッサンス時代まで

・・・サン・マルコ広場から、ここまで10数分くらいか、・・・思ったより早かった。

残り数段、・・・青い洋服の女性が立つ位置が橋の最上部。

大理石が敷かれた石組みの橋は、1561年に完成している。

中央部で橋の両側に向けアーチが掛かり、十字路の角にもお店があり、橋の幅は22mもある。

では右側に折れ、橋の欄干から・・・

密集した14世紀~16世紀のビル街が並ぶ光景は、かつての繁栄ぶりが想像できます。

大商人は運河横にビルを建て、船を横付けにできた、・・・仕事場の上は住居で、この運河沿いは一等地

1527年、ローマの悲劇があり・・・ここから逃れた建築家は、このベネツィアでも活躍しています。

・・・島に逃げてきた民族がここまで大都市を造るとは・・・

裕福な時代の歴史的遺産ですが・・・住民の減少は続き、今後老朽化する建物を維持していくのは大変です。

橋の反対側の光景です

市街地をS字形に走るカナル・グランデ(大運河)、今日でも物流の大動脈です

橋の横から階段を下り、川面に目をやると、・・・飛んできた・・・脚 細いねー

街の主役は・・・ゴンドラです、昔からの黒がイイ。

橋の西側、さらに移動すると

フェリー乗場、Rialto、リアルトのチケット売場

この右側には電光掲示板で、行き先や発着の時刻表があります。

サン・マルコ広場へは、この先運河の左右に次々と乗り場があり、結構時間がかかりそう。

・・・これも、ホテルに飾られていた絵画ですが、

建物のデザインがアッサリとしていて、14世紀頃?・・・いや、風景画は、15世紀以降の題材でしょうか。

しかし、すごいですね。船で物を運ぶのが商売の民族とはいえ、丸太を運び、石材を運び、ロープと滑車で建てたのでしょう。

・・・この14~17世紀ヴェネツィアの発展が気になります。

各種ガイドブックや歴史書には・・・10世紀頃から交易で繁栄し、11世紀にはアドリア海の東沿岸部も制圧し豊かな島になっていきます。

北ヨーロッパから人気の人材として奴隷や、木材などを、北アフリカ沿岸のイスラム教徒に売り、金・銀を手にして、・・・買付です。

シリア、トルコ、コンスタンティノーブルなどで東南アジア原産の香辛料などが、シバの女王やメッカで有名なアラビア半島を通り運ばれてきていた。

金銀の工芸品、宝石、香辛料などを買い付けて、ヴェネツィアに戻ると・・・文化の遅れたヨーロッパの王侯貴族に高値で売れたそうです。

・・・やがてお宝の輸送船は、海賊やライバルのジェノバ共和国に襲われる、・・・航路の安全確保には、海軍の増強が急務でしょう。

地中海東では1300年頃・・・遊牧民からトルコが誕生・拡大し、やがてビザンティン帝国を侵略し、100年後・・・首都コンスタンティノープルも包囲される状況。

イタリア半島では、教皇領、君主国、公国、共和国、自治都市・・・これらが乱立し領土争いが常態化。

・・・商売で生きるヴェネツィア共和国は、アドリア海はもちろん、北の大陸側も販路として重要でした。

隣国との争いには、金の力、外交以外に武力も必要になります。

商業都市フィレンツェやローマ教皇は自前の軍隊を持ちませんが、金で傭兵を雇いました。

ヴェネツィアも陸軍はありましたが、隊長を含め全て傭兵です。資金をつぎ込み軍事力を強化します。

・・・重宝されたのが、国内に仕事が少なく出稼ぎが多いスイス国民、・・・外貨獲得に外国で傭兵に。

ジェノバ、ピサ、ミラノ、ヴェローナ、バドヴァ、・・・これらの都市とヴェネツィアは、同盟を結んだり、裏で資金援助したり・・・

14世紀の勢力図がこちら、ヴェネツィアは、大陸側は海岸線から少しの範囲とアドリア海の東沿岸部の都市を半数程度制圧しています。

突然吉報が・・・1402年、トルコのスルタン(君主)自ら率いた大軍が、何とモンゴル軍との戦いで完敗します。

トルコのスルタンは捕虜になり・・・軍は四方八方へ・・・そして消滅。

一方1405年、イタリア半島北部ではヴェローナなどが、敵対していたミラノから圧力を受け、ミラノの支配下になるよりは、自由のあるヴェネツィアの属国を選びます。

属国となった土地は広大で農業が盛ん、これで食料も確保でき、・・・15万人の人口が・・・属国含めると約10倍の145万人の大国に。

運を味方に・・・15世紀前半、ヴェネツィアは最盛期を迎えます。

しかし、アルプスの北西にフランク王国、北に神聖ローマ帝国と強国が・・・面倒なのが宗教で脅す教皇と教皇領、

・・・一方、地中海の東方では、・・・滅亡から20年、トルコが復活し、徐々に勢力を拡大してきます。

1453年5月29日、トルコに攻撃され、首都コンスタンティノープル陥落、・・・900年続いた東ローマ帝国が滅亡。3日間略奪が続き・・・

異教徒の脅威! イタリア半島では5大国が緊急協議、ローマ教皇領、ナポリ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェが争いを中止。

翌年1454年に協定を結び、イタリア半島はこの後、40年間つかの間の平和、そして後に言われる ルネッサンス の時代です

・・・中世の時代は各国の王もキリスト教徒です、教徒よりも教皇の力が強く、破門されると、誰にも相手にされなくなって悲惨。

この権力者・教皇の選出(コンクラーベ)に投票権があるのが枢機卿。

枢機卿の推薦に教皇が関わるので、親族を枢機卿にし多数派工作、・・・何と10代の枢機卿も誕生と教皇のやり放題。

宗教を商売にする教皇と、交易で富を目指すヴェネツィア人民、懇願する相手に首は切らないと約束し、胴を切る乱暴者のスルタン

このような中で個性を発揮したのが、・・・何故?、人間は自由だろうと考えた・・・意志の強い人々

天才が次々に創作作品を発表する・・・この時代に興味を持ち始めると・・・宗教とは、教団とは、・・・考えてしまう。

・・・16世紀のヴェネツィア、豪華な宴会のシーンを想像できる絵画があります。

「カナの婚礼」 1562~63年頃の作、 縦6.77m、横:9.94m、作者:ヴェロネーゼ(正式名:パオロ・カリアーリ)

総勢130人、左端のテーブルに手前から新郎新婦が並び、横には当時の著名人、フランソワⅠ世、スレイマン1世、君主カール5世など

中央手前の楽団員には画家仲間が、左からヴェロネーゼ、パッサーノ、ティントレット、ティッツアーノ。

 

2013年5月 当ブログにて。・・・ルーブル美術館で鑑賞できる作品です。

・・・サン・マルコ広場に帰ろう・・・適当に近道だろうと進んで、いくつか橋を渡ったら、狭い四つ角で・・・迷子になった。

スマホのGPS位置情報が・・・反応が遅い、・・・急ぎ足の通行人に・・・広場は?・・・左? 

・・・広場に向かう途中のブランド街で、蛍光グリーンの女性が目立っていました

この都市でもカラフルなユニフォームの女性が仕事中、宅急便ではなく・・・ゴミの回収中でした。

Keep 〇〇〇 clean、隠れている文字が Venezia(ヴェネツィア) と思ったら、Venice?・・・EUの民間業者?

・・・ヴェネツィア 興味が持たれたら・・・塩野 七生(ななみ)女史の作品。「海の都の物語」をお勧めします。

30数年前に書かれた作品ですが、なぜかベクトルが合うので・・・(後半しか読んで無いのですが・・・)

このヴェネツィア共和国の歴史が、共和政体、信教の自由、言論の自由(出版)など、各種記録をベースに詳しく描かれています。

この中から、1480年ヴェネツィアにやってきたキリスト教徒の旅行記がありますので、ご紹介しましょう。

・・・何故生死をかけてまで、行くのか? 参考に地中海の地図を

実はこの時代、北ヨーロッパの庶民が・・・死後の世界を脅かされ・・・免罪を求めて、聖地巡礼に参加したのです。

ミラノの公務員、サント・ブラスカさん、35歳、独身、聖地巡礼パック旅行に申込み、半年間休業して・・・、

1480/4/29 ミラノを出発し、ヴェネツィア共和国にやってきました。

・・・なかなか巡礼船が決まらないが、紹介され毎日あちこち観光していました、・・・ヴェネツィアの観光政策によって。

教皇が12世紀の末に、ローマ以外ではこのヴェネツィアだけに与えた特権を営利事情に利用していました。

それが、・・・キリスト昇天祭に、ヴェネツィアの聖遺物に参拝すると「完全免罪」を得ることができるというものです。

1480年の昇天祭は、5月11日、・・・サント・ブラスカさん聖遺物に参拝し「完全免罪」と日記に書き残しました。

・・・ヴェネツィアは200年間「巡礼事業法」で、旅行の安全とサービスがセールスポイントです、徹底していました。

フランスなどに比べ1割くらい割高な旅行費用ですが、ヨーロッパ中に人気がありました。

3種の証明書、①「パスポート」:教区の司祭が発行する聖地巡礼専用の身分証明書・・・(これは本人が入手できました)

②「聖地巡礼認可証」:ローマ法王が発行します。

これが無いと、あちこちの聖跡に参拝して得られる「免罪」が無効になってしまうので巡礼には必要な書類。

③「ビザ」:現地王朝のイスラム教徒から通行許可証がでる。

この取得に面倒な②と③をヴェネツィア側で代行してくれたのです。

もし、巡礼者が旅の途中で死んだら、遺体の処置、遺物は遺族へ、残りの日数に応じて旅行費の返還も行われた。

やがて・・・6月1日のキリスト聖体祭が済むと、6日出港と決まった。

・・・6/6 早朝6時、ヴェネツィアの港からやっと船に乗り・・(略)・・・

途中赤丸印などの寄港地で風を待ち・・・右端の港ヤッファ(現在のテルアビブ)に到着、・・・風次第とはいえ・・・長かった。

しかし、ここでも手続きに日数が掛かり、7/27 ガイドが案内する聖地巡礼団体ツアー・・・ロバに乗りサァ出発。

途中アラブ人に通行許可証の提示を求められたり、ここの通過は難癖をつけられないように静かにとか・・・緊張、そして1泊、

翌日、エルサレムに入場する。アラブ人の信仰についてこんな感想を述べています。

・・・イエス誕生の洞窟の中に、イスラム教徒が靴を脱いで入り礼拝するのを見る。

イスラム教徒は、イエスを聖者にして立派な正義の人と言う。

だが、彼らにとってはイエスは予言者ではあっても、神の子ではない。

聖者の由来、十字架に付けられたゴルゴダの丘のことは、・・・笑って信じない。

予言者はそんな苦悩に満ちたことなどやるはずがないと言う。

・・・ところで、聖跡参拝は免罪が 、完全免罪 7年と40のどちらかになるという。

聖スティファノの門から、イエスが十字架を背負わされて引き立てられていったヴィア・クルチスを行く。

しばらくして、シモンがイエスに代わって十字架を背負った・・・ガイドが言う。

・・・ピラトの宮廷跡、白い大理石の上で、何も理由の無い死をイエスに言い渡したと言う。

聖母マリアが少女の頃、字を習いに行ったマリアの学校も聖跡(感心するくらいアチコチ行きますが・・・割愛)

・・・ピラトの屋敷跡も見る。連れてこられたイエスが鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ白い布を着せられたのだ。

免罪、7年と40、祈りを捧げる。

ユダヤ教の要所、ダヴィデが天使を見た場所も見学する。

・・・聖母の生まれた家、聖アンナの墓所参拝、聖母の母である製アンナの遺体は、

コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが、コンスタンティノープルヘもっていったので、今ここには無い。

しかし、免罪は、完全免罪

オリーブ山のふもとの、聖母マリアに捧げられた教会に参拝。ここも完全免罪

左手に下っていくと、聖母マリアの昇天の場に出る。7年と40日の免罪

・・・最期の晩餐の家・・・、完全免罪

・・・聖墳墓教会では、アラブ人の監視役から、家畜でもあるかのように一列に並ばされ、・・・参拝料を徴収され、

巡礼者が中に入ると外から鍵が閉められ、翌朝まで開けないことになっている。

異教徒もこの聖地の重要性を知っていて、参拝料も最も高い。

・・・さらにキリスト誕生のベツレヘムに行き、その後ヨルダン河へも・・・

アラブ人に襲撃されるかもしれない危険があり、48人の一行の内、参加者は半数以下になった。

エルサレムに帰って三度目の聖墳墓教会に行き、祈りで夜を明かす。

エルサレムでの12日間が過ぎ、明日の 8/8 夜明け前ここを出発する。

・・・ヤッファーに着いたのは、翌々日の夜だった。

8/11夕方、出港。風は順風、8/15キプロス島着、シロッコ(南西の逆風のこと)が止むまで停泊、・・・略・・・

10/14 レジーナの港に入る。アドリア海の半ばを残すだけになった。

10/17 パレンツォ到着、風がシロッコとなり、しばらく停泊が続きそう。

急ぐ巡礼者には、小舟(数人)で沿岸部を迂回する便もはかってくれたので乗り換える。

・・・波の上に見え始めたこの都がどれほど美しく見え・・・略(やっと戻れた)(亡くなる方もいました)

10/22、ヴェネツィア着、三日間死んだように眠り続けた。

ミラノに帰ったのは、115日だった。(彼はこの後、旅行記として出版しています)

・・・巡礼は、行きの船旅だけで45日、ヤッファから上陸、聖地を巡礼しヤッファに戻り、船で発つまで22日、

帰りの船旅が 72日間、これに故郷からヴェネツィアまでの往復日数とヴェネツィア滞在日数がありました。

・・・ドイツやフランスからの巡礼者は、さらに2か月は必要となり、人生をかけて申し込む聖地巡礼パック旅行でした。

これもホテルに飾られていた画像です。

今日の風景と比較しても、ドゥカーレ宮殿は変わっていません。

16世紀には、この街はほぼ完成形となり現在に・・・。

ヴェネツィア土産は、時代と共に変わって来たのでしょうか・・・。

変わってきたのは、戦争の仕方?

地上戦はオスマントルコが陸伝いに数万人規模の大軍を動かすので、圧倒的な勢力と対抗するには連合軍。

海戦は、(ヴェネツィアの海軍は、ガレー船という帆船に人力エンジンとして漕ぎ手を100人位は乗せていました。)

訓練されたヴェネツィアやギリシャの海軍は戦闘力が高く、船の性能も地中海一番で強国でした。

 

「海の都の物語」によれば、ヴェネツィア 絶頂期の記録があります。

・・・1423年、ガレー船:45隻と11,000人の船員、120トン級以上の大型帆船:300隻には8,000人の船員、

小型帆船:3000隻に17000人が船員として従事していた。

造船工は6,000人、絹や綿布の織物工は、帆布を織る者も含めて16,000人・・・経済大国だった。

・・・1499年はガレー船60隻・・・この年、2度目のオスマントルコ軍との戦いがありました。優勢な状態で和議

1538年はガレー船82隻・・・トルコと3度目の対戦、(ヴェネツィア単独では戦力不足で対抗できない)

連合を結び、法王庁が36隻の約束で27隻、スペインが82隻のところ49隻、結局200隻の約束が158隻のガレー船。

対するオスマントルコは約200隻、これでも乗組員の技能が高く戦力では勝てたでしょうが、

・・・スペインは北アフリカ対策が重要で参加が目的か・・・結果、敗戦・・・これ以降、地中海はオスマントルコが制圧。

1571年、レバントの戦い、ヴェネツィア:104隻のガレー船、更に大型のガレアッツァ6隻と110隻の軍船を用意

法王庁とその他連合国:98隻、何とか208隻の軍船が揃った、(ガレー船以外の帆船を合わせると大艦隊)・・・始めてトルコ軍に大勝した。

・・・以後スペインの海軍は戦う相手が無く無敵艦隊と呼ばれたが・・・後にイギリスと戦い完敗(英国の大砲:性能が格段に進化)

・・・トルコ軍は2~3年後復活したが、支配地はピークを過ぎていた。

ヴェネツィアは、陸軍は傭兵だったが、海軍は給料を支払う自由民でした、・・・船は増やせるが・・船員を無条件に増員ができない。

トルコのように漕ぎ手を奴隷や支配地から強制労働力として集めることができなかった。

フランス:1600万、スペイン:800万、ドイツ:1000万、イタリア(ヴェネツィア除く):1100万、

トルコ(エジプト、北アフリカ除く):1600万・・・・・総人口の数字です。

ベネツィアは属領を含んで:145万(本土は1/10)と圧倒的に資源不足で・・・継続は困難だった。

どこかの国と同じような話です。

勝負には、ルールがあるので・・・決着しなければならない、勝てる方法はあるでしょう

戦争は継続できなくなったら、終了です。

・・・たくましく、世界有数の観光都市に・・・商売人ですから。

・・・ヴェネツィア、日はまた昇る

ヴェネツィア島を後にして・・・向こうに見えるは、・・・本土から流れ込む河口があります。

旅人はこの河口まで船で下って、この付近に小屋でもたくさんあったでしょう。

ここから島へは・・・帆を上げて、風任せ・・・水路を気長に・・・  気長な旅をしてみたい。 

 

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ヴェネツィア共和国 新しい守護聖人

2019-03-04 | 旅行記

サン・マルコ広場の一角に鐘楼が・・・、高さは、ガイドブックによれば96.8m、素晴らしいランドマークです。

エレベータで、60mまで一気に登ります、・・・展望台から・・・これは前回の動画からの画像です。

東側の眺望。奥に見えるのは・・・大陸と続いている細長い半島のような低地で、砂州の親分でしょうか。

この島の周囲にも多くの島が点在し、どこまでが潟でしょう、・・・右側の隣の隣?が外海です。

・・・眼下の寺院でした。

気になるサン・マルコ寺院は、

屋根の上に、ネギ坊主がモコモコトと。

・・・なぜ 聖マルコがこの地に? 寺院の正面に絵解きがありますので・・・後程。

この寺院の建立は11世紀、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(現イスタンブル)の聖堂がお手本といわれています。

ヴェネツィアは早くから東方と交易があるので、半球状のドーム(伊:クーポラ)を屋根に載せる工法も確立していたようです。

十字の中央部が一番高いドーム、手前の主身廊と奥の内陣にも各々ドームが載り、更に左右にと・・・何と五つも載せています。

だから内部で天井を見上げると窪みが連続して続き・・・側廊から進んで斜から見上げる結果、さらに複雑な凹凸に戸惑います。

ビザンチン様式に、西ヨーロッパの様式を16世紀頃まで次々と加飾して、完成に至ったようです。

ところで・・・西ヨーロッパ社会が1096年に第1回十字軍を送り、イスラム圏の進んだ文明に驚いたようですが、

ヴェネツィアは、長い間の取引先です・・・参加はしていません。

ローマ法王の熱弁が有名です・・・「ヨーロッパは貧しくみじめだが聖地エルサレムは乳と蜜が流れるところ」

「この地で不幸な者は、彼の地で幸せを得るだろう」

「聖地奪還は神の御業であり、神の御業に参加する者には、罪が許されて、贖(あがな)いは免除される」と

・・・得意の手法で信者を脅し、1000年も昔の聖地は他国の土地だが、

聖地エルサレムが異教徒に圧迫されている、殺人は免罪される奪還しようと。

・・・次男・三男や農業に従事する若者が・・・未来に希望が持てるなら正義の騎士として、異国の地へ戦いに。

11世紀、ヴェネツィアは、海軍を要しアドリア海を支配下におき、繁栄していました。

1202年イスラム教徒に取り返されていた聖地獲得に第4回十字軍を編成し、ヴェネツィアに輸送船を提供してと

ヴェネツィアは、遠征軍リーダーに・・・乗船料はこれくらいと、・・・エーッ、金の集まりが悪く・・・船賃が無い

・・・では、アドリア海の都市ザーラを奪い返してと条件を出し・・・遠征軍は奪還してくれました。

では、船と船員も提供し十字軍に参加しましょう・・・ヴェネツィアは法王の威厳、エルサレムの聖地奪還より

地中海交易でライバルの東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを占領し実益を得ようとします。

難攻不落の要塞が陥落し、首都を占領しました、参加国で占領地を分配し・・・ついでに財宝類を持ち帰りましょう。

1204年のことです。

・・・サン・マルコ寺院にはアレやこれも、沢山残っています。

・・・展望台で、もう少し南に向いてみると、・・・この光景が見たかった。

この港から外海に出て行く船道は、左前方に進みS字形に島の間を抜けていきます。

ヴェネツィアは、12世紀に巨大な国営造船所を建造し、大航海時代までヨーロッパで最強の海軍がありました。

本島の東端にありましたが、現在は立入禁止区域のようです。

素敵なコバルトブルー、いや若干エメラルドグリーンにも・・・濁流が流れ込むことが無く、海の色が綺麗です。

・・・更に少し右に・・・見えている部分は潟に点在する小島です。

球体の海面に光が反射し真珠のようです。平和な光景です。

海に突き出た所に建つ教会が デル・サルーテ教会です。

右側に柱があるので・・・移動します。

サンマルコ広場、寺院の真向かいです。

広場正面には、共和国時代この場所に教会が建ち繁栄を見守っていたそうです。

・・・オーストリア軍を追いヴェネツィアの領土、ヴェローナにやってきたフランス軍のナポレオン

中立宣言のヴェネツィアに味方に付くよう脅迫し、・・・物資の提供を受けながら戦う意志のない相手に宣戦布告、

そしてヴェネツィア共和国は1000年の歴史が終わってしまう屈辱の白旗・・・

フランス軍とオーストリア軍は1797年10月講和条約を結び、ヴェネツィアはオーストリア領に。

・・・ナポレオン様ご一行が来島されるので宿泊施設を、真向かいに左右の建物と調和させ建てたようです。

ナポレオンがこの地に立ち、「世界で最も美しい広場」といったのは、有名な話とのこと。

このような時代だったでしょうか、かつて宿泊したホテルに飾ってありました。

こちらは、北側、大陸と結ぶ鉄道・道路が走っています。

もう少し北東に向きを変えると、共和国時代の商業の中心地、リアルト橋があります。

・・・

ヴェネツィアは、5世紀に戦闘民族から逃げて、湿地帯にある無数の小島の一角(現在より東)に移住したとされます。

・・・ヴェローナで見かけた・・・ローマ帝国が建てたアリーナや公共施設が無いのは、・・・港にも使えないこの地は重要視されなかった。

ナポレオンがオーストリア軍を追ってきた時点で、下図は全てヴェネツィアの領土でしたが、陸路はパドバまで、

赤〇がヴェローナ、青〇はパドバという都市、本島へは・・・

ここから河川を舟で約35㎞くらい下り、渡ったようです。

川の両岸には別荘や住宅が建ち、農業が行われていました。

ヴェネツィアは、地理的に東西ローマ帝国の中間に位置し、戦闘民族では無いがアドリア海を利用して

交易で生きるには、まずは物流の安全には海軍の強化(造船能力と乗組員)、交易相手との友好には外交力

情報の収集には各国に大使館を置き諜報活動も優れていたようです。

国の統治は、かつてのローマ帝国のような共和制、元老院(貴族院)、元首の監視に二人の護民官を置き、

法の支配は貴族といえども厳格に、信教は自由と先進的でした。

しかし、21世紀、改めて問題になっているのが宗教、

今日の信者数:一説には、ユダヤ教:約1700万人、キリスト教:24億人、イスラム教:18億人、ヒンドウー教:約18億人、仏教:約5億人・・・)

これらの宗教の中で、一神教の与える恐るべきマインドコントロールパワーに驚くと共に、なぜこうも信者が多いのか

この疑問が少しでも解けるように、またイタリア各地でアレコレすることになったのです。

サン・マルコ広場(以前の画像・寺院の北側 修理中)

右側の建物の回廊

シャンデリアのような、光の滝が・・・

中央部右側に、・・・ガイドブックで必ず紹介されているお店です。

フローリアン、1720年創業、現存するカフェでは世界一古く、ゲーテなどの来店は有名

フローリアンの前の広場には、11時頃から椅子が並べられます。

広場の向かい側には、1775年創業のカフェ・クアードリがあり、こちら側にも椅子が並び始めます。

サン・マルコ寺院

一部では、サン・マルコ大聖堂とも呼ばれるが、共和国時代はカトリックの司教座は、島の端にある別の教会に置かれていた。

この地でも、若きナポレオンがミラノのドォーモと同様、教会のありように強引に介入してきたようです。

島の端の教会から、この広場の有名なサン・マルコ寺院をカトリック教の司教座に代えたので、

一部の関係者は大聖堂と呼んでいます。しかし信教の自由な土地ですから、昔からの寺院と呼ぶ人が多いとのこと。

さて、寺院の正面、ドームが半球ではなく縦長のプラネタリウムか天文台のように立派な造りです。

正面ファサードの頂上にシンボル、このヴェネツィアの2代目守護聖人です。

手に持つのは福音書でしょう。

キリスト教では4人の著者の福音書が採用されていますが、最も古い紀元50年頃に書かれたとされる著者です。

聖マルコの像が建つ、サン・マルコ寺院です。

少し目線を下げると、羽のあるライオン:マルコのシンボルでもあり、ヴェネツィアのシンボルがここにもあります。

日本語で、有翼の獅子と説明しているガイドブックも見かけます。

・・・中央入口の上部、半円形の部分に鮮やかな色彩で描かれているのが、・・・

あまり話題にならないが、キリスト教でも禁止していた偶像崇拝に逆らって、正面中央は無難にイエスと十字架。

この建立時期は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立し、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と争い、

その後、帝国と教皇を和解に導き、教皇から感謝され・・・共和国はキリスト教に重心が移っていったようです。

それから、何故かアーチの上に4頭の精巧な馬がいます。

これは、コンスタンティノープルからの略奪品(銅製のレプリカ)です。

中央の入口以外に、・・・左右に各々2場面、計4か所で描かれているのが、この寺院ができた由来です。

右端:ターバンの人々が何をしているのか・・・

ヴェネツィアの交易相手は、東ローマ帝国やイスラム国、アラブの国々と西ヨーロッパの国々です。

大昔、アレクサンドリアで布教していた聖マルコ が捕らえられ・・・その墓が発見されたとの情報が・・・

キリスト教会でブームになっていた聖遺物、ガラクタでもなんでも物語があれば高く売れた時代です。

ヴェネツィアでは守護聖人をギリシャ出身のテオドーロよりは、聖マルコの方が格が上、

その遺骨が手に入れば正真正銘の聖遺物、異教徒のエジプトの墓から盗み出す・・・作戦が練られ

828年、イスラム教徒が嫌う豚肉で覆って・・・そんなシーンらしいです。

隣りは、自国の船でヴェネツィアに何とか到着

左の3番目のシーンが

 結構、力を入れて描かれています。

ドージェ(元首・総統・軍団長)による遺体の引き取り場面です。

遺体を祀る寺院の建設が始まるのは・・・すぐです。

2年くらいで最初のサン・マルコ寺院が完成し、ヴェネツィア共和国は守護聖人を聖マルコに改めました。

一番左が、聖堂に聖遺物(聖マルコの遺体)を運ぶ行進の図です。

このモザイク画は13世紀の完成で、4つの中で一番古いようですから、この新しい寺院ができてから200年後です。

時代は、・・・ライバルだったジェノバ共和国と戦い・・・勝利して、

貿易・商業で他国が嫉妬する程するほど富を集め、地中海交易は前途洋々、そろそろ自国自慢が解禁されたようです。

・・・本堂に入ります。

金色がベースですが・・・ガイドブックはモザイクとありますが、モザイクとしては繊細、画素は・・・?。

画像からでは不明です

1000年もの長い間、蝋燭の煙や香炉で若干くすんだような、沈んだ感じになったのでしょう。

完成当時は、これ以上に豪華、光り輝き・・・。 

これは、採光もよく、雰囲気は出ているが

汗だくでこられた巡礼者も多かったでしょう。振り香炉も活躍しています。

こちらの画像では、中央と内陣のドームでしょうか

画像が傾き判り難いが・・・多分中央のドーム、ガイドブックでは12世紀後半の傑作

ルカによる福音書「昇天」聖母マリアと12人の使途がキリストを見上げ・・・以下略

こちらも画像がブレていて・・・そうでした、ここは撮影禁止のようでした

以前は今回と同じく11:30頃、照明が点いた時間帯に多分撮影が可能で

探し出した画像です。

このように主身廊から正面の祭壇を見ると、天井のドームの状態が多少理解できます。

モザイクの主要テーマは、キリストの生涯と受難、そして復活とあります。

制作時期が12世紀から14世紀中までとあり、有名な画家ティツィアーノの下絵をモザイクにした作品もあるとのこと。

こちらの内部も含め16世紀頃まで、コツコツと手を加えられていたようです。

・・・前回は、照明が暗い中、内陣の後ろに別料金で入れるコースがあり、但し宝物の撮影は禁止

「パラ・ドーロ」と呼ばれるサン・マルコ寺院の最大の宝物が据え付けられていました。

これはヴェネツィアの依頼で、コンスタンチノーブルで制作された「黄金の聖壇の飾り」

黄金と数々の大きな七宝が嵌め込まれた大きな衝立状の工芸品でした。

・・・今回は、別料金でテラスに上り広場を見ます。

右側の狭い急な階段を5mほどでしょうか、結構上ります。

そして右側にテラスがあります

 

何これ! 掠奪してきた4頭の馬、競馬場に置かれていたものらしいですが、素晴らしい作品です。

テラスからの北側広場です。

回廊と上部の窓のアーチが整然と並び重厚な建築物です。

鐘が鳴っていました、あちこちから・・・昼12時のようです。

天気が悪く、広場には両側のお店から4か所テーブルが並べられましたが、閑散としています。

では内部に戻り、テラス内側からの豪華な本堂の様子が鑑賞できます。

階段を降り出口に向かいますが・・・

下の画像の様子は、前々回・・・床上に海水が上がって・・・でもこの位は慣れたもので

このような仮設廊下が造られ、落ちないように進んでいるところです。

では、リアルト橋に行きます。 

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ヴェネツィア共和国だった頃

2019-03-01 | 旅行記

Venezia(ヴェネツィア)、英護ではVenice(ベニス)、ローマと並んで観光資源に溢れた歴史の重みが感じられる街です。

「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」「水の都」

かつて始めてのこの街に宿泊し、夜半ホテルの部屋から街中を眺めていて、治安が良さそう・・・、

一人で地図も持たずにカメラ片手にサンマルコ広場に行ってみようと・・・無謀にも出かけた記憶が鮮明によみがえってきました。

ホテルは、サンタ・ルチーア駅から歩いて5分位

 上の画像の左手前側に、サンタ・ルチーア駅(鉄道)があります。

数段の階段を上がった上に駅舎があるのですが、この街にタクシーは走っていませんので駅前ロータリも無く、

上部に横長のひさしが通っただけの機能優先の建物だったと思う。

駅前は、フェリー乗り場です。(上の画像の右側)

駅舎の東横にサン・ジェレミア教会(11世紀の設立)があり、運河との間の道を進みます。

この先、ホテルは左に進むのですが、カナル・グランデ(大運河)に架かる数少ない橋が右にあります。

橋を渡って、反対側から振り返ると

11世紀の教会にしては、ギリシャ風モダンなデザインです。

そして、数か所フェリー乗り場が見えます。

・・・近くの通りに面した、ここが宿泊先の4つ星ホテル

そして、部屋から眼下の通りを眺めていたら

結構治安が良さそう、女性の一人歩きも見えます・・・

屋台のお店は片付けられているが、若干飲食店の灯りが見える。

・・・カメラ片手に出かけたのが、PM9:00だったようです。

方向感覚は良い方だが、・・・・見通しがすぐ悪くなる道に困りながら進むと、・・・狭い運河に架かった橋が現れた

確かヴェネツィアは100、いや120以上だったかの島が集まり、運河も100数拾以上、橋も数百はあるようでした。

運河に架かる橋が多いのは当たり前と、どんどん進む。

・・・橋の先は違う区域、区画整理いや、開拓された年代が違うのか・・・道幅が急に狭くなったり

四つ角の小さい広場に出てくると、さてどちらに進もうか・・・

街角で、覚えやすい目印が見つからず、通行人についていくと・・・狭い路地に入り・・・後に続く

路地の先は、・・・開けていた。

近道だったようだ・・・、この先密集した商店街で・・・この辺は?、多分リアルト橋

付近の商店街はシャッターが降りていて、先に進んで迷子になっても、店が閉まっていては聞くこともできない。

路地は迷路のようで、来た道は覚えられそうになく・・・引き返すことに 

15分位で・・・このような光景に戻れて、ホッとした。

ウインドウショッピングがしたかったのだが、ホテルの中にも多少ありました

ヴェネチアングラス、クリスタルか否か分からないが、今日では鉛の使用制限があり

かつてのような製品は製造できないでしょう。

そしてホテルからの翌朝、眼下に、旧市街らしい屋根と壁

通勤客で活気が出てきたようです

サンタ・ルチーア駅前のフェリー乗り場に出発です。

ショーウインドウに温かい光が点きました。ここは世界有数の観光地です。

・・・

今回は、この日も霧雨模様、・・・左がイタリア本土で、右がヴェネツィア本島。

ヴェネツィアの境界線は本土側にも土地はあって、例えば左の海岸に沿って数キロ北東にマルコ・ポーロ空港もあります。

今日では、河口から約10㎞くらいまでが行政区域でしょうか。

3850mのリベルタ橋によって鉄道と道路が走り、本島側と結れています。

鉄道はこの先、画面右に直進してサンタ・ルチーア駅が終着駅、途中で右に分岐して隣の島に進むと貨物駅

道路もこの先本島で右に曲がり、終点のTRONCHETTO(トロンケット)の駐車場に進みます。

近くにあるトロンケット島からの地名でしょうか。

黄色のラインで駐車場に到着。フェリー乗り場に進み・・・

青の航路でボートによりサン・マルコ広場の東側のフェリー乗り場から再上陸です。

右側のジュデッカ島との間を進むと、やがて鐘楼が目立つ、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が離れ島に

ルネッサンス後期に着工され、17世紀に完成し、チィントレット、カルバッチオ等の絵画で有名

この教会の対岸では、本島市街地をS字形にカナル・グランデが走り、この位置で合流します・・・こんな風景です。

サン・マルコ寺院の鐘楼が見えきて、ドゥカーレ宮殿が視界に入ったら、・・・

中世の船乗り達は、12世紀に建てられた二本の柱頭に感謝の祈りを捧げたのでしょう

聖テオドール(最初の守護聖人)が左側に、槍と盾を持ち・・・聖マルコでは無いようです。

有翼のライオン像、

これはヴェネツィア共和国の紋章です。

・・・そして、フェリー乗場から・・・歩いて・・・この2本の円柱が建つ小広場に到着

この2本の円柱の真下から、サン・マルコ広場を見てみましょう(これは昔の画像です)

さて、観光の目玉が サン・マルコ寺院やゴンドラでしょうか

下の写真も昔の画像ですが、・・・多少気になる所があるのですが・・・、船体の色が黒のみ?・・・習慣です。

この時は、潮位が90~110cmくらいだったのでしょうか?・・・海面が高いでしょう・・・

ヴェネツィアを悩ます、アクア(水)・アルタ(高い):満潮ということですが、通常は異常潮位現象を指します。

内海(潟)の海水面が満潮時(大潮)の大きさと、季節風(海風)の強さ、気圧などの条件により100~160cmにも達する現象。

通常 潮の満ち引きはピークが30分くらいですから、上の写真は満潮からどのくらい経過した状態かは不明です。

・・・昨年11月上旬は、150cmに達し大変だったようです。警報のサイレンが100cm以上で鳴るようですが・・・。

ゴンドラは、1隻6人乗り40分80€が相場との話、乗り場やコース、もちろん時間で異なるのは当然ですが・・・。

ホテル・バウアーの横の運河から乗船、・・・薄曇りになってきましたがゴンドラは30分位で十分、路地から・・・

自由の女神や交通信号もあり、・・・やがて大運河にでます。

ゴンドラの船団、いい風景です。

・・・この観光用客舟、左右非対称・・・右側面は直線で、こちら側にオールを入れる。

左側面は大きな曲線を採り、傾きを補正しているようです。

右前方にサンタ・マリア・テッラ・サルーテ教会のドームが見えてきました。

こちらの運河側が確か、ファサードのようでした。

ラテン十字ではなく、中央部にドーム、奥に内陣、その内陣にもドームが載り、鐘楼が建つ。

サン・マルコ小広場からの見た目を美しく、その様な設計で計画され

(これも昔の画像)正面からはドームが重なり、左右対称のデザインです。

この教会、1919年 今年のイタリア版カレンダーを購入した中に、採用されていました。

 この教会は、17世紀のヨーロッパを襲ったペストの終息を祝い、1631年着工、1687年完成。

教会の土台には、〇〇〇本の杭が打ち込まれているとか

このようなボーダシャツ、似合いますね (昔の画像でした)

市の免許と約100万円と言われる営業ライセンスが必要で、ゴンドリエーレ:船頭さんになるのは大変

・・・〇〇〇は?、10万でした。

さて、この建物をつなぐ渡り廊下のような構造物・・・下を小運河が、・・・ゴンドラも通るコースですが・・・

主役が・・・分かり難い、

この画像ですが、何とこの画像もカレンダーの2月に採用されていました。

なぜそんなに有名なのでしょう。

名称は、「ため息橋」、左の建物がドゥカーレ宮殿の裏側、右側の建物が牢獄

この橋を渡ると二度と生きては帰れず、囚人がため息をつきながら渡ったという「ため息の橋」

しかし、イタリアの建築物カレンダーに選ばれた理由については、デザインでしょうが・・・?。

サン・マルコ寺院もありました。

2019年4月のカレンダー

この寺院も、イタリア全土で良くみられるラテン十字ではなく、・・・いや十字形ではあるので、縦横同じのギリシャ十字か?

・・・漠然と内部に入るとあまりの凹凸の多さに目移りがして、全体像すら把握できない、更に前回は暗かった。

前回、鐘楼に登った時の動画から、パノラマを切り出して見ると、十字の中央部と四方にドームが載せられているのが良くわかる。

前々回の照明が点いた本堂内の画像を整理中。

 

 

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ヴェローナ

2019-02-15 | 旅行記

ミラノから東方のヴェネツィアに移動します。距離は約270km、東京から浜名湖くらいでしょうか。

この途中、東に160kmくらいの所で南北に走る(ローマとドイツを結ぶ)街道と交差する交通の要として、中世から栄えたヴェローナの街があります。

・・・紀元前1世紀にローマ帝国の支配地となり、得意の土建業でローマ同様、円型闘技場や水道施設などインフラが整備されました。

今日観光地として有名なのは、皇帝派と教皇派の紛争をベースに「ロミオとジュリエット」のロケ地?生誕地?

いや、シェイクスピアの作品の舞台となった地ですが・・・名所なのです。

今回は2000年に世界遺産となった旧市街地に、川を渡って古き遺跡から入ります。

アディジェ川が右側(上流)から左に流れ、川向うの旧市街をU字形に取り囲み、蛇行しながらヴェネツィアへと下っていきます。

橋の麓にはこの様な彫刻もありました。

剣を持っている天使、ミカエル?でしょうか、動作が良く理解できませんが・・・

橋を渡り道路が右に大きくカーブする所の左側に、このような遺跡がありました。

この門は始めて見ます。古代ローマ時代の門です。

資料によれば、ボルサーリ門、ベローナの正面入り口、(中世以前は、ユーピテル門と呼ばれていた)

門から中に進み商店街を少し直進し、やがて右折、そしてまた右折すると広場にでます。

円形闘技場、アレーナ・ディ・ヴェローナ 収容人員:2万2000人、長径:152m、短径:128m 高さ:30m

大きく破壊されていないので、この遺跡はイベントに使用されています。

マリア・カラスのここでの野外オペラ、イタリア初演は有名な話のようです。

他にも、U字形の最深部の川向うに半円状の野外劇場があります。

裏の丘の上に登り、旧市街を見たかったが・・・時間が無いようです。

足元に昔の旧市街の地図が埋められています。

着色と表示は作者が追記してますが、今日ではもう少し細分化され、広場も変わっているようです。。

左端のヴィットーリア橋を徒歩で渡り、ボルサーリ門から図では一ブロック上に進み右に1~2ブロック進み

下側のアリーナに出て来ました。

 

アリーナからまた地図上、上方に商店街をしばらく進み、

左に広場が見えてきた十字路を、右に曲がります。

・・・この通りをしばらく進むと、2ブロック先くらいの所にもこんな遺跡があります。

2000年前、ローマ帝国時代の土木工事が風化しないで残っています。(過去に撮影した画像)

古代ローマ時代の井戸跡、

旧市街、逆のコースで、こちら側から奥に塔が見える広場に向かって進むコースが、分りやすいでしょう。

このように遺跡を利用して景観を作っているのはさすが。

・・・では、元の位置に戻って、2~3軒先ではこのような景観ですが、これは雨の日で人通りが少なく特別です。

直ぐ先で、傘の女性が左を見ています。カッペロ通りのこの付近、通常はごった返しているようですが

この左のレンガのアーチ前は、

 

ジュリエッタの館、看板があります。

アーチの壁面は、メッセージが重ね合って貼られています。

中に入って、・・・撮影スポットがこちら、左奥の一角

ジュリエットの銅像です

後から市によって増設されたバルコニーもあります。

そして、このような風景が・・・人気を呼び・・・金ピカになっています。

シェークスピアのモデルとされている貴族のカプレティ家(13世紀とされる)、この館でも同様の悲劇があったのでしょうか。

館の向こう側上部に見えるV字あるいはM字のシンボルが目立ちます。

このベローナでは結構多いようで、神聖ローマ帝国皇帝派のマークで、ロミオの家は皇帝派。

ベローナは都市としては当初は皇帝派支持、やがて教皇派支持、その後また皇帝派が有利になったようです。

ジュリエットのモデルの家はローマ教皇派で、シンボルは上部の切り込みがなく平らの四角のようです。

この先斜め奥に、ロミオのモデルとされる館もありますが、入口に看板がある程度で内部には入れません。

都市や貴族を巻き込んだ神聖ローマ帝国の皇帝争いが続いた時代、・・・悲劇の物語のモデル地区が観光名所となっています。

通りに出て元の方向に戻り、十字路を直進するとエルベ広場にでます。

さらに進むと

広場中央、処刑もあったようです。中央の4本の柱は

歴史を感じさせる・・・水道がありました。

このベローナで一番高い建物が、広場横のランベルティの塔、

霧雨状態だが登ろうか・・・とにかく窓口へ・・・階段、エレベータ・・・8€ と言われて

確か自由時間は10から15分、視界が悪いので・・・コスパが悪すぎる、断念

ここでも画像が少ないので、以前の画像を

隣りの紳士たちの「シニョーリ広場」です。昔はアリーナの古地図にあったように今のエルベと続いていたようです。

1405年にヴェネツィアの支配下になり、教皇派と皇帝派の抗争も終止符が打たれたようですが・・・。

隣のフィレンツェでは、ダンテがジョットーが、宗教界ではアッシジの聖フランチェスコが聖書の解釈をめぐり

後に言われるルネッサンスの先駆け状況が生まれていました。

広場中央にはこの地を訪問したダンテの像、そしてパッラディアーナ聖堂、彫刻も色々あります。

羽根のある天使のようなライオン像はヴェネツィアの象徴です。(サンマルコの有翼の獅子像)

後年、ナポレオンのイタリア侵攻でヴェネツィア共和国が敗戦し、フランスの支配下になりますが

自由都市ヴェネツィアの近郊で、魔女狩りも少なかったのではと思います。 

このような

ゲートの投影画法や破断面などよく見ると、街中にはいろんな情報が掲示されています。

一方、こちらは元の広場をさらに進むと

噴水のある広場の向こう側に、壁面にフラスコ画?

モザイク画はヴェネツィアに多いのですが、教会には高価で贅沢と聖フランチェスコはフラスコ画を・・・

ルネッサンス以降の作品でしょう

色彩が淡く、画像処理をするとこのような見事な作品が見えてきましたが、この建築物には丁度良い雰囲気です。

濃い緑の格子が開き、シクラメンが窓辺に見えています。

落ち着いた、洒落たベローナ、エルベ広場から最初に入ってきた門に・・・何通りでしょう一直線、

前方に見えてきました。

裏側は、シンプルなデザインでした。ボルサーリ門の話です。

・・・アディジェ川に戻って来ました。

橋から上流にもこんな光景が、

こちらの橋の上、洒落たバスが走っていきますが、路面はローマと同じ四角錐の石を打ち込んでいる?

あちこち若干陥没状態も見られるが、・・・石は大変でしょう、用意するのも、修理も、

・・・浸透性のカラーアスファルトに何故しないのでしょうか・・・、

石の文化 先進国ですが・・・何故石畳か・・・雨の日は滑るし、騒音も多いし・・・。

歩けば・・・膝、腰に良くないし、霧雨のせいかスッキリしなかった。

 

 

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