李白ー200
静夜思 静夜思
牀前看月光 牀前(しょうぜん) 月光を看(み)る
疑是地上霜 疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月 頭(こうべ)を挙げて山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷 頭を低(た)れて故郷を思う
⊂訳⊃
寝台の前に 月の光が射しこんで
霜かと思い 驚いて看る
仰げば月は おりしも山の端にあり
うなだれて 遠い故郷を想いやる
⊂ものがたり⊃ 岳州での李曄・賈至との交流のあと、李白は岳州から洞庭湖と湘水を235kmも南へ遡って南岳衡山へ行きます。そこからさらに西南へ165kmも湘水を遡って零陵(湖南省永州市)まで行きました。まるで豫章の妻のことは忘れたような遊歴の旅です。零陵は湖南最奥の地であり、九疑山に近いのです。
李白はその冬を零陵で過ごし、翌乾元三年(760)の春になってから洞庭湖、岳州を通り、再び江夏にもどってきました。乾元三年は閏四月に改元があり、上元元年となりますが、李白はこの年、六十歳になっています。洛陽の史思明軍と唐軍は一進一退をつづけ、洛陽は依然として賊軍の手中にありました。李白は夏の終わりまで江夏で過ごし、秋になると長江を下って尋陽に行き、廬山に隠棲して余生を「遊仙学道」で過ごそうかと考えます。
「静夜思」(せいやし)の詩は李白の作品の中でも有名な一首で、井伏鱒二のカナ訳漢詩があります。
ネマノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイシヨノコトガ気ニカカル
この訳詩は有名ですのでご覧になった方も多いと思いますが、私は「イイ月アカリ」とか「ザイシヨノコトガ気ニカカル」といった訳が明るすぎるように思います。李白が故郷を想うときは、もっと暗い心境のときであったはずです。実はこの詩は、いつどこで作られたものか全く不明です。詩の起句「牀前 月光を看る」の解釈についてもいろいろな論議があります。私は中国の「牀」(寝台・ねだい)の脚下に月光が射し込んでいるのを牀上から見たと考えて訳しています。見上げる「山月」が廬山の上に出ている月であれば、この詩のしみじみとした味わいは一層痛切に感ぜられるのではないかと考えて、この時期の尋陽での作としました。この編年は私の独断であって、上記の解釈以外に拠るべき根拠はありません。
李白ー201
対酒酔題屈突明府庁 酒に対して酔い 屈突明府の庁に題す
陶令八十日 陶令(とうれい) 八十日
長歌帰去来 長歌す 帰去来(ききょらい)
故人建昌宰 故人(こじん) 建昌(けんしょう)の宰(さい)
借問幾時迴 借問(しゃもん)す 幾時(いくとき)か迴(かえ)ると
風落呉江雪 風は呉江(ごこう)の雪を落とし
紛紛入酒杯 紛紛(ふんぷん)として酒杯(しゅはい)に入る
山翁今已酔 山翁(さんおう) 今 已(すで)に酔う
舞袖為君開 舞袖(ぶしゅう) 君が為に開かん
⊂訳⊃
陶淵明は 八十日で辞職し
声高らかに 帰去来の辞を歌った
建昌県の県令殿
君はいつ古里(くに)へ帰るのか
風は呉江の雪を吹き散らし
酒杯の中へと降りしきる
山簡の翁は すっかり酔っぱらい
君のために 舞でも披露いたそうか
⊂ものがたり⊃ 李白も故郷に帰りたいと思うことはあったと思います。しかし、そのためには出世という条件が必要でした。李白にとって人生の敗残者として帰郷することは絶対に採りたくない選択肢であったと思います。このことは妻の実家、宗氏に対しても同様です。
李白は冬のはじめまで尋陽にいて、尋陽から70kmほど南に下った建昌(江西省永修県の西北)に行き、そこで県令の屈突(くつとつ)の世話になります。詩は李白が酒に酔って建昌県庁の壁に書きつけたもので、起句の「陶令」は陶淵明のことです。陶淵明は彭沢県の県令を八十日余で辞め、「帰去来の辞」を作って故郷に帰りました。いまの世はその時と同じように乱れているのに、屈突県令よ、あなたはいつ職を辞して故郷に帰るのかと尋ねています。酔余のことですが、李白は屈突県令を「故人」(親友)と呼んでいますので親しい仲であったのです。
ところで問題は、建昌は妻のいる豫章の北40kmのところだということです。それほど近くに来ていながら、李白はなぜ一気に妻のもとにもどらないのでしょうか。私は妻を預けっぱなしにしている宗氏の家に対して、精神的にも金銭的にも土産になるようなものがなかったからではないかと考えています。夜郎流謫から放免されて、すぐ妻のいる豫章にもどらなかったのは、なんとかして官への糸口でもつかみ、それを土産に妻のもとにもどろうと思って努力したけれども、なんの成果も得られなかったからだと思います。要するに、手ぶらでは帰りにくかったのです。
李白ー202
送内尋廬山女道士 内が廬山の女道士李騰空
李騰空二首 を尋ぬるを送る 二首
其一 其の一
君尋騰空子 君は尋ぬ 騰空子(とうくうし)
応到碧山家 応(まさ)に碧山(へきざん)の家に到るべし
水舂雲母碓 水は舂(うすつ)く 雲母(うんも)の碓(うす)
風掃石楠花 風は掃(はら)う 石楠(せきなん)の花
若恋幽居好 若(も)し幽居(ゆうきょ)の好(よ)さを恋わば
相邀弄紫霞 相邀(あいむか)えて紫霞(しか)を弄(ろう)せん
⊂訳⊃
そなたが 騰空子を尋ねてゆくなら
たぶん緑の山中の家に到るであろう
そこでは 水車の臼で雲母を搗き
風が石楠花の花を散らしている
静かで奥深い生活をしたいなら
彼女は迎えて共に霞と戯れるであろう
⊂ものがたり⊃ せめて将来の地位の約束でもあれば、それを土産に妻を迎えに行くのが夫の務めであることを知らないような李白ではありません。近くの建昌県まできて県令と酒を飲んで酔っぱらっている李白の心情は、思えば哀れでもあります。結局、冬の終わりになって李白はやっと妻のもとにもどり、その年の歳末を豫章で過ごしたようです。
翌上元二年(761)の春になると、李白は妻をともなって尋陽に出て、廬山の女道士(じょどうし)李騰空(りとうくう)を訪ねます。李騰空の屏風畳(びょうぶじょう)の仙居には安史の乱がはじまった翌年に妻といっしょに一時隠れ住んだことがありましたので、再訪したのです。妻の宗氏は李騰空の人柄に魅かれるところがあったのか、山を降りると、騰空子のもとに弟子入りしたいと言い出しました。
李白はこの年、六十一歳になっていましたが、妻の宗氏はまだ三十代の半ばであったろうと思われます。そんな若い妻が夫と別れて道士になるというので、李白も驚いたかもしれません。しかし、詩によると李白は妻の仙居に同意し、激励の詩を作っています。詩中の「水は舂く 雲母の碓」は廬山が雲母の産地で、雲母は仙薬の材料として貴重なものでしたので、水車を用いた臼で搗いて粉にしているのです。
李白ー203
送内尋廬山女道士 内が廬山の女道士李騰空
李騰空二首 を尋ぬるを送る 二首
其二 其の二
多君相門女 多とす 君が相門(しょうもん)の女(じょ)にして
学道愛神仙 道(みち)を学び神仙(しんせん)を愛するを
素手掬青靄 素手(そしゅ) 青靄(せいあい)を掬(きく)し
羅衣曳紫烟 羅衣(らい) 紫烟(しえん)を曳く
一往屏風畳 一(ひと)たび屏風畳(へいふうじょう)に往(ゆ)かば
乗鸞著玉鞭 鸞(らん)に乗って玉鞭(ぎょくべん)を著(つ)けん
⊂訳⊃
奇特にも 宰相の家の娘でありながら
道教を学んで 神仙を愛する
白い手で 青い靄を掬い取り
絹の衣裳には 霞がたなびく
ひとたび 屏風畳の仙居にゆけば
鸞鳥に乗って 玉の鞭を使うであろう
⊂ものがたり⊃ 内(妻)に対する其の二の詩では、「多とす 君が相門の女にして 道を学び神仙を愛するを」と、宗氏が宰相を出したような家の娘でありながら、道教を学んで神仙を愛するのは、奇特なことだと褒めています。李白は道士の資格を持っており、詩中ではしばしば神仙の世界への憧れを詠います。しかし、李白自身が道観(道教の寺院)に入って世を捨てる気持ちはなく、道士の資格を取ったのは官途に近づくための手段でした。
李白は宗氏を屏風畳に送ると、ひとりで金陵に向かいます。金陵、つまり江寧郡は李白が夜郎に旅立った乾元元年に昇州と改められていましたので、正しくは昇州へ向かったのです。
李白ー204
宿五松山下荀媼家 五松山の下の荀媼が家に宿す
我宿五松下 我 五松(ごしょ)の下(ふもと)に宿し
寂寥無所歓 寂寥(せきりょう) 歓(たの)しむ所無し
田家秋作苦 田家(でんか) 秋作(しゅうさく)苦しく
隣女夜舂寒 隣女(りんじょ) 夜舂(やしょう)寒し
跪進彫胡飯 跪(ひざまず)きて彫胡(ちょうこ)の飯(めし)を進むれば
月光明素盤 月光は素盤(そばん)に明るし
令人慚漂母 人をして 漂母(ひょうぼ)に慚(は)じしめ
三謝不能餐 三(み)たび謝して餐(さん)する能(あた)わず
⊂訳⊃
私は五松山の麓に泊めてもらい
侘びしい気持ちで 鬱ぎこんでいた
農家の秋は 穫り入れの仕事で忙しく
となりの女は 寒い夜更けに臼を搗いている
ひざまずいて 真菰ご飯を出してくれると
月のひかりは 素焼きの皿を明るく照らす
貧しい媼の もてなす心が身にしみて
幾度も礼を述べながら 食べることができなかった
⊂ものがたり⊃ 李白はそのころかなり生活に窮迫していたらしく、この旅では五松山の麓で貧しげな農家に泊まり、荀(じゅん)という老婆(媼:おうな)の世話になっています。五松山は池州(安徽省貴池県)から45kmほど長江を下った江岸、長江南岸の銅陵(安徽省銅陵県)の南にあった山ですが、五本の松が生えていたので李白が仮に五松山と呼んだもので、正式の山の名は不明です。
詩中の「彫胡」は真菰(まこも)の実で、穂につく実は米に似ており、脱穀して蒸すと彫胡飯(まこもめし)になります。彫胡飯は江南の農家では貴重なご馳走でした。李白は貧しい農家の荀媼(じゅんおう)の親切心が身にしみて、幾度も礼を述べながら、ご飯を食べることができなかったと詠っています。夕食に李白の好きな酒が出ていないことも、農家の貧しさを示しています。
静夜思 静夜思
牀前看月光 牀前(しょうぜん) 月光を看(み)る
疑是地上霜 疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月 頭(こうべ)を挙げて山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷 頭を低(た)れて故郷を思う
⊂訳⊃
寝台の前に 月の光が射しこんで
霜かと思い 驚いて看る
仰げば月は おりしも山の端にあり
うなだれて 遠い故郷を想いやる
⊂ものがたり⊃ 岳州での李曄・賈至との交流のあと、李白は岳州から洞庭湖と湘水を235kmも南へ遡って南岳衡山へ行きます。そこからさらに西南へ165kmも湘水を遡って零陵(湖南省永州市)まで行きました。まるで豫章の妻のことは忘れたような遊歴の旅です。零陵は湖南最奥の地であり、九疑山に近いのです。
李白はその冬を零陵で過ごし、翌乾元三年(760)の春になってから洞庭湖、岳州を通り、再び江夏にもどってきました。乾元三年は閏四月に改元があり、上元元年となりますが、李白はこの年、六十歳になっています。洛陽の史思明軍と唐軍は一進一退をつづけ、洛陽は依然として賊軍の手中にありました。李白は夏の終わりまで江夏で過ごし、秋になると長江を下って尋陽に行き、廬山に隠棲して余生を「遊仙学道」で過ごそうかと考えます。
「静夜思」(せいやし)の詩は李白の作品の中でも有名な一首で、井伏鱒二のカナ訳漢詩があります。
ネマノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイシヨノコトガ気ニカカル
この訳詩は有名ですのでご覧になった方も多いと思いますが、私は「イイ月アカリ」とか「ザイシヨノコトガ気ニカカル」といった訳が明るすぎるように思います。李白が故郷を想うときは、もっと暗い心境のときであったはずです。実はこの詩は、いつどこで作られたものか全く不明です。詩の起句「牀前 月光を看る」の解釈についてもいろいろな論議があります。私は中国の「牀」(寝台・ねだい)の脚下に月光が射し込んでいるのを牀上から見たと考えて訳しています。見上げる「山月」が廬山の上に出ている月であれば、この詩のしみじみとした味わいは一層痛切に感ぜられるのではないかと考えて、この時期の尋陽での作としました。この編年は私の独断であって、上記の解釈以外に拠るべき根拠はありません。
李白ー201
対酒酔題屈突明府庁 酒に対して酔い 屈突明府の庁に題す
陶令八十日 陶令(とうれい) 八十日
長歌帰去来 長歌す 帰去来(ききょらい)
故人建昌宰 故人(こじん) 建昌(けんしょう)の宰(さい)
借問幾時迴 借問(しゃもん)す 幾時(いくとき)か迴(かえ)ると
風落呉江雪 風は呉江(ごこう)の雪を落とし
紛紛入酒杯 紛紛(ふんぷん)として酒杯(しゅはい)に入る
山翁今已酔 山翁(さんおう) 今 已(すで)に酔う
舞袖為君開 舞袖(ぶしゅう) 君が為に開かん
⊂訳⊃
陶淵明は 八十日で辞職し
声高らかに 帰去来の辞を歌った
建昌県の県令殿
君はいつ古里(くに)へ帰るのか
風は呉江の雪を吹き散らし
酒杯の中へと降りしきる
山簡の翁は すっかり酔っぱらい
君のために 舞でも披露いたそうか
⊂ものがたり⊃ 李白も故郷に帰りたいと思うことはあったと思います。しかし、そのためには出世という条件が必要でした。李白にとって人生の敗残者として帰郷することは絶対に採りたくない選択肢であったと思います。このことは妻の実家、宗氏に対しても同様です。
李白は冬のはじめまで尋陽にいて、尋陽から70kmほど南に下った建昌(江西省永修県の西北)に行き、そこで県令の屈突(くつとつ)の世話になります。詩は李白が酒に酔って建昌県庁の壁に書きつけたもので、起句の「陶令」は陶淵明のことです。陶淵明は彭沢県の県令を八十日余で辞め、「帰去来の辞」を作って故郷に帰りました。いまの世はその時と同じように乱れているのに、屈突県令よ、あなたはいつ職を辞して故郷に帰るのかと尋ねています。酔余のことですが、李白は屈突県令を「故人」(親友)と呼んでいますので親しい仲であったのです。
ところで問題は、建昌は妻のいる豫章の北40kmのところだということです。それほど近くに来ていながら、李白はなぜ一気に妻のもとにもどらないのでしょうか。私は妻を預けっぱなしにしている宗氏の家に対して、精神的にも金銭的にも土産になるようなものがなかったからではないかと考えています。夜郎流謫から放免されて、すぐ妻のいる豫章にもどらなかったのは、なんとかして官への糸口でもつかみ、それを土産に妻のもとにもどろうと思って努力したけれども、なんの成果も得られなかったからだと思います。要するに、手ぶらでは帰りにくかったのです。
李白ー202
送内尋廬山女道士 内が廬山の女道士李騰空
李騰空二首 を尋ぬるを送る 二首
其一 其の一
君尋騰空子 君は尋ぬ 騰空子(とうくうし)
応到碧山家 応(まさ)に碧山(へきざん)の家に到るべし
水舂雲母碓 水は舂(うすつ)く 雲母(うんも)の碓(うす)
風掃石楠花 風は掃(はら)う 石楠(せきなん)の花
若恋幽居好 若(も)し幽居(ゆうきょ)の好(よ)さを恋わば
相邀弄紫霞 相邀(あいむか)えて紫霞(しか)を弄(ろう)せん
⊂訳⊃
そなたが 騰空子を尋ねてゆくなら
たぶん緑の山中の家に到るであろう
そこでは 水車の臼で雲母を搗き
風が石楠花の花を散らしている
静かで奥深い生活をしたいなら
彼女は迎えて共に霞と戯れるであろう
⊂ものがたり⊃ せめて将来の地位の約束でもあれば、それを土産に妻を迎えに行くのが夫の務めであることを知らないような李白ではありません。近くの建昌県まできて県令と酒を飲んで酔っぱらっている李白の心情は、思えば哀れでもあります。結局、冬の終わりになって李白はやっと妻のもとにもどり、その年の歳末を豫章で過ごしたようです。
翌上元二年(761)の春になると、李白は妻をともなって尋陽に出て、廬山の女道士(じょどうし)李騰空(りとうくう)を訪ねます。李騰空の屏風畳(びょうぶじょう)の仙居には安史の乱がはじまった翌年に妻といっしょに一時隠れ住んだことがありましたので、再訪したのです。妻の宗氏は李騰空の人柄に魅かれるところがあったのか、山を降りると、騰空子のもとに弟子入りしたいと言い出しました。
李白はこの年、六十一歳になっていましたが、妻の宗氏はまだ三十代の半ばであったろうと思われます。そんな若い妻が夫と別れて道士になるというので、李白も驚いたかもしれません。しかし、詩によると李白は妻の仙居に同意し、激励の詩を作っています。詩中の「水は舂く 雲母の碓」は廬山が雲母の産地で、雲母は仙薬の材料として貴重なものでしたので、水車を用いた臼で搗いて粉にしているのです。
李白ー203
送内尋廬山女道士 内が廬山の女道士李騰空
李騰空二首 を尋ぬるを送る 二首
其二 其の二
多君相門女 多とす 君が相門(しょうもん)の女(じょ)にして
学道愛神仙 道(みち)を学び神仙(しんせん)を愛するを
素手掬青靄 素手(そしゅ) 青靄(せいあい)を掬(きく)し
羅衣曳紫烟 羅衣(らい) 紫烟(しえん)を曳く
一往屏風畳 一(ひと)たび屏風畳(へいふうじょう)に往(ゆ)かば
乗鸞著玉鞭 鸞(らん)に乗って玉鞭(ぎょくべん)を著(つ)けん
⊂訳⊃
奇特にも 宰相の家の娘でありながら
道教を学んで 神仙を愛する
白い手で 青い靄を掬い取り
絹の衣裳には 霞がたなびく
ひとたび 屏風畳の仙居にゆけば
鸞鳥に乗って 玉の鞭を使うであろう
⊂ものがたり⊃ 内(妻)に対する其の二の詩では、「多とす 君が相門の女にして 道を学び神仙を愛するを」と、宗氏が宰相を出したような家の娘でありながら、道教を学んで神仙を愛するのは、奇特なことだと褒めています。李白は道士の資格を持っており、詩中ではしばしば神仙の世界への憧れを詠います。しかし、李白自身が道観(道教の寺院)に入って世を捨てる気持ちはなく、道士の資格を取ったのは官途に近づくための手段でした。
李白は宗氏を屏風畳に送ると、ひとりで金陵に向かいます。金陵、つまり江寧郡は李白が夜郎に旅立った乾元元年に昇州と改められていましたので、正しくは昇州へ向かったのです。
李白ー204
宿五松山下荀媼家 五松山の下の荀媼が家に宿す
我宿五松下 我 五松(ごしょ)の下(ふもと)に宿し
寂寥無所歓 寂寥(せきりょう) 歓(たの)しむ所無し
田家秋作苦 田家(でんか) 秋作(しゅうさく)苦しく
隣女夜舂寒 隣女(りんじょ) 夜舂(やしょう)寒し
跪進彫胡飯 跪(ひざまず)きて彫胡(ちょうこ)の飯(めし)を進むれば
月光明素盤 月光は素盤(そばん)に明るし
令人慚漂母 人をして 漂母(ひょうぼ)に慚(は)じしめ
三謝不能餐 三(み)たび謝して餐(さん)する能(あた)わず
⊂訳⊃
私は五松山の麓に泊めてもらい
侘びしい気持ちで 鬱ぎこんでいた
農家の秋は 穫り入れの仕事で忙しく
となりの女は 寒い夜更けに臼を搗いている
ひざまずいて 真菰ご飯を出してくれると
月のひかりは 素焼きの皿を明るく照らす
貧しい媼の もてなす心が身にしみて
幾度も礼を述べながら 食べることができなかった
⊂ものがたり⊃ 李白はそのころかなり生活に窮迫していたらしく、この旅では五松山の麓で貧しげな農家に泊まり、荀(じゅん)という老婆(媼:おうな)の世話になっています。五松山は池州(安徽省貴池県)から45kmほど長江を下った江岸、長江南岸の銅陵(安徽省銅陵県)の南にあった山ですが、五本の松が生えていたので李白が仮に五松山と呼んだもので、正式の山の名は不明です。
詩中の「彫胡」は真菰(まこも)の実で、穂につく実は米に似ており、脱穀して蒸すと彫胡飯(まこもめし)になります。彫胡飯は江南の農家では貴重なご馳走でした。李白は貧しい農家の荀媼(じゅんおう)の親切心が身にしみて、幾度も礼を述べながら、ご飯を食べることができなかったと詠っています。夕食に李白の好きな酒が出ていないことも、農家の貧しさを示しています。
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