杜牧ー13
過華清宮絶句 其一 華清宮に過る 絶句 其の一
長安廻望繍成堆 長安より廻望(かいぼう)すれば 繍(しゅう) 堆(たい)を成す
山頂千門次第開 山頂の千門(せんもん) 次第に開く
一騎紅塵妃子笑 一騎の紅塵(こうじん) 妃子(ひし)笑う
無人知是荔枝来 人の 是(こ)れ荔枝(れいし)の来(きた)るを知る無し
⊂訳⊃
長安から東を見れば まるで錦の小山のようだ
宮殿はひしめき合って 山の頂まで並び立つ
砂塵を捲いて一騎の馬 楊貴妃はにっこり笑う
それが荔枝の到着とは 誰も御存知ないないだろう
⊂ものがたり⊃ 白居易の「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の物語を題材とした大作で、当時は人口に膾炙していました。「長恨歌」(22.9.8-23参照)は伝奇的詩作品で詠史詩ではありませんが、歴史に題材を求めた作品という意味では、杜牧にも楊貴妃を題材にした作品があります。
長安の東に驪山があり、華清宮が営まれていました。そこに砂塵を巻き上げて一騎の騎馬が到着し、楊貴妃を喜ばせます。それは嶺南(広東省地方)から運び込まれた荔枝(ライチー)で、楊貴妃の好物でした。この絶句は三首連作ですが、劇的ななかなかよい滑り出しです。
杜牧ー14
過華清宮絶句 其三 華清宮に過る 絶句 其の三
万国笙歌酔太平 万国(ばんこく)笙歌(しょうか)して 太平に酔い
倚天楼殿月分明 天に倚(よ)る楼殿 月(つき)分明(ぶんめい)なり
雲中乱拍禄山舞 雲中(うんちゅう)に拍(はく)を乱して 禄山(ろくざん)舞い
雲過重巒下笑声 雲は重巒(ちょうらん)を過ぎて 笑声(しょうせい)下る
⊂訳⊃
天下はどこも笛や歌 太平の世に酔いしれて
天までとどく高楼に 月は明るく射している
禄山が胡旋を舞えば 万殿に拍手は乱れ飛び
峰に吹く風 笑声は 麓の村まで下りてくる
⊂ものがたり⊃ 絶句三首の順序は、歴史としては其の一、三、二の順になりますので、其の三を先に出します。安禄山(あんろくざん)は巧みな世渡り術で平盧(へいろ)、范陽(はんよう)、河東(かとう)の節度使を兼ねる有力者になり、体重は三百三十斤(約197kg)とも三百五十斤(約209kg)ともいわれる肥満体でした。
ところが胡旋舞(こせんぶ)を舞えば、風のように速く旋回し、手拍子も追いつかないほどでした。安禄山は両親が西域人で、胡旋舞は彼の民族舞踊だったわけですが、兵力最大の節度使が芸人のようなことをしなくてもよかったでしょう。しかし、巨体で舞えば、玄宗や楊貴妃が面白がることも心得ていたのです。
杜牧ー15
過華清宮絶句 其二 華清宮に過る 絶句 其の二
新豊緑樹起黄埃 新豊(しんぽう)の緑樹に 黄埃(こうあい)起こり
数騎漁陽探使廻 数騎の漁陽(ぎょよう)の 探使(たんし)廻(かえ)る
霓裳一曲千峯上 霓裳(げいしょう)の一曲 千峰(せんぽう)の上
舞破中原始下来 中原を舞破(ぶは)して 始めて下(くだ)り来(きた)る
⊂訳⊃
新豊の緑の樹に 湧き起こる黄色い塵
駆けもどる騎馬は 漁陽探査の使者たちだ
霓裳羽衣の一曲は 峰から峰へ鳴りやまず
中原を撃破されて ようやく驪山を下りてきた
⊂ものがたり⊃ 安禄山叛すの報に、玄宗は何かの間違いではないかと思い、中使を漁陽(幽州:北京市)に派遣して様子を探らせます。「新豊」は華清宮の近くの街で、使者が砂埃を上げてもどってきますが、玄宗は宴をやめようとしません。十一月に挙兵した安禄山は、十二月には洛陽に入城する勢いでした。それを聞いて、玄宗はようやく驪山をおりるのです。
この三首の連作は巧みな構成(其の二と其の三が後先になっているのは後世の誤編でしょう)になっていて、場面場面を劇的にとらえています。酒宴の席などで朗詠され、喝采を浴びたことでしょう。
杜牧ー16
及第後寄長安故人 及第後 長安の故人に寄す
東都放榜未花開 東都(とうと)の放榜(ほうぼう) 未(いま)だ花開かず
三十三人走馬廻 三十三人 馬を走らせて廻(かえ)る
秦地少年多辦酒 秦地(しんち)の少年 多く酒を弁(べん)ず
却将春色入関来 却(すなわ)ち春色を将(も)って 関(かん)に入り来(きた)らん
⊂訳⊃
春まだ浅い洛陽で 合格者の名前が発表された
新進士は三十三人 馬を飛ばして都へ向かう
長安の友人たちよ 酒の準備はできたであろう
浮き立つ心で関門を通り つぎの関試もひと飛びだ
⊂ものがたり⊃ 文宗の大和元年(827)、杜牧は二十五歳になっていました。その夏、杜牧は従兄の杜悰(とそう)を訪ねて江南に旅をしています。杜悰は伯父杜式方(としきほう)の三男で、杜牧が十二歳のときに憲宗の長公主岐陽公主(きようこうしゅ)を妻に迎え、銀青光禄大夫殿中駙馬都尉(ふばとい)を授けられました。皇帝の長女の婿になったわけですから、将来の出世は有望です。大和元年のころには澧州(れいしゅう:湖南省澧県)の刺史(しし:州知事)として江南に赴任中でした。
この旅の翌大和二年(828)の正月に杜牧は貢挙の進士科を受け、二月に「放榜」(合格者の発表)がありました。杜牧は三十三人の合格者中五番で及第したようです。尚書省礼部が行う貢挙は長安で行われるのが通常ですが、この年は東都の洛陽で行われ、放榜も洛陽であったのです。杜牧は長安の故人(親友)に歓びの詩を送ります。
結句の「関」は関中への入口である潼関(とうかん)と関試(かんし)をかけたもので、貢挙に及第した者は尚書省吏部が行う関試を受けて吏部の所管に移されます。この試験は形式的なもので落第者はいませんが、関試は長安で行われるので皆急いで都にもどるのです。杜牧は都の友人たちに、祝いの酒の準備はできているだろうなと喜び勇んで馬を走らせます。
杜牧ー17
長安秋望 長安の秋望
楼倚霜樹外 楼(ろう)は倚(よ)る 霜樹(そうじゅ)の外
鏡天無一毫 鏡天(きょうてん) 一毫(いちごう)も無し
南山与秋色 南山(なんざん)と秋色(しゅうしょく)と
気勢両相高 気勢(きせい) 両(ふた)つながら相(あい)高し
⊂訳⊃
楼閣はそびえて 紅葉の梢よりも高く
晴れた空に ひとすじの雲もない
終南山の山々と いちめんの秋の色
共に競って 意気軒昂
⊂ものがたり⊃ 新進士は関試によって吏部の所管に移されたあと、守選という期間があります。進士科の場合は、三年後でないと任官のための吏部試を受けられないのです。ところがこの年は、閏三月に制挙(せいきょ)があり、杜牧は賢良方正能直言極諌科を受験して及第しました。
制挙は天子が主宰して行う臨時の人材登用試験で、すでに任官している者でも受けることができます。守選の進士にとっては絶好の機会です。敬宗が乱行の末、近くに仕える宦官の個人的な怨みを買って殺されたあと、宦官たちに擁立された文宗は兄敬宗と違って政事の刷新に熱意がありました。即位三年目(実質は在位一年五か月)の文宗は、この年に制挙を実施してみずからの人材を登用しようと思ったのでしょう。
こときの制挙では十五人が及第しましたが、杜牧は第四等でした。ところで第四等というのは四番という意味ではありません。制挙の及第者は五等に分けられ、第一等と第二等は通常該当者なし、三等と四等が及第者で五等は落第を意味します。だから杜牧は及第二等の成績であり、特に優秀というわけではありませんでした。しかし、制挙は天子がみずからの名で行うものですので、吏部試よりも上の試験とみなされます。杜牧はもちろん喜んだでしょう。
「長安の秋望(しゅうぼう)」は制挙に及第したあと、大慈恩寺の仏塔(大雁塔)に上ったときの詩と思われます。進士及第者も大雁塔に上って壁に自分の名前を書き付ける習慣がありましたので、春につづいて再度「楼」に上ったのでしょう。詩からはそんな喜びが感ぜられます。杜牧の詩で、こんなに伸び伸びとして晴れやかなものは滅多にありません。杜牧は若くて張り切っていました。
過華清宮絶句 其一 華清宮に過る 絶句 其の一
長安廻望繍成堆 長安より廻望(かいぼう)すれば 繍(しゅう) 堆(たい)を成す
山頂千門次第開 山頂の千門(せんもん) 次第に開く
一騎紅塵妃子笑 一騎の紅塵(こうじん) 妃子(ひし)笑う
無人知是荔枝来 人の 是(こ)れ荔枝(れいし)の来(きた)るを知る無し
⊂訳⊃
長安から東を見れば まるで錦の小山のようだ
宮殿はひしめき合って 山の頂まで並び立つ
砂塵を捲いて一騎の馬 楊貴妃はにっこり笑う
それが荔枝の到着とは 誰も御存知ないないだろう
⊂ものがたり⊃ 白居易の「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の物語を題材とした大作で、当時は人口に膾炙していました。「長恨歌」(22.9.8-23参照)は伝奇的詩作品で詠史詩ではありませんが、歴史に題材を求めた作品という意味では、杜牧にも楊貴妃を題材にした作品があります。
長安の東に驪山があり、華清宮が営まれていました。そこに砂塵を巻き上げて一騎の騎馬が到着し、楊貴妃を喜ばせます。それは嶺南(広東省地方)から運び込まれた荔枝(ライチー)で、楊貴妃の好物でした。この絶句は三首連作ですが、劇的ななかなかよい滑り出しです。
杜牧ー14
過華清宮絶句 其三 華清宮に過る 絶句 其の三
万国笙歌酔太平 万国(ばんこく)笙歌(しょうか)して 太平に酔い
倚天楼殿月分明 天に倚(よ)る楼殿 月(つき)分明(ぶんめい)なり
雲中乱拍禄山舞 雲中(うんちゅう)に拍(はく)を乱して 禄山(ろくざん)舞い
雲過重巒下笑声 雲は重巒(ちょうらん)を過ぎて 笑声(しょうせい)下る
⊂訳⊃
天下はどこも笛や歌 太平の世に酔いしれて
天までとどく高楼に 月は明るく射している
禄山が胡旋を舞えば 万殿に拍手は乱れ飛び
峰に吹く風 笑声は 麓の村まで下りてくる
⊂ものがたり⊃ 絶句三首の順序は、歴史としては其の一、三、二の順になりますので、其の三を先に出します。安禄山(あんろくざん)は巧みな世渡り術で平盧(へいろ)、范陽(はんよう)、河東(かとう)の節度使を兼ねる有力者になり、体重は三百三十斤(約197kg)とも三百五十斤(約209kg)ともいわれる肥満体でした。
ところが胡旋舞(こせんぶ)を舞えば、風のように速く旋回し、手拍子も追いつかないほどでした。安禄山は両親が西域人で、胡旋舞は彼の民族舞踊だったわけですが、兵力最大の節度使が芸人のようなことをしなくてもよかったでしょう。しかし、巨体で舞えば、玄宗や楊貴妃が面白がることも心得ていたのです。
杜牧ー15
過華清宮絶句 其二 華清宮に過る 絶句 其の二
新豊緑樹起黄埃 新豊(しんぽう)の緑樹に 黄埃(こうあい)起こり
数騎漁陽探使廻 数騎の漁陽(ぎょよう)の 探使(たんし)廻(かえ)る
霓裳一曲千峯上 霓裳(げいしょう)の一曲 千峰(せんぽう)の上
舞破中原始下来 中原を舞破(ぶは)して 始めて下(くだ)り来(きた)る
⊂訳⊃
新豊の緑の樹に 湧き起こる黄色い塵
駆けもどる騎馬は 漁陽探査の使者たちだ
霓裳羽衣の一曲は 峰から峰へ鳴りやまず
中原を撃破されて ようやく驪山を下りてきた
⊂ものがたり⊃ 安禄山叛すの報に、玄宗は何かの間違いではないかと思い、中使を漁陽(幽州:北京市)に派遣して様子を探らせます。「新豊」は華清宮の近くの街で、使者が砂埃を上げてもどってきますが、玄宗は宴をやめようとしません。十一月に挙兵した安禄山は、十二月には洛陽に入城する勢いでした。それを聞いて、玄宗はようやく驪山をおりるのです。
この三首の連作は巧みな構成(其の二と其の三が後先になっているのは後世の誤編でしょう)になっていて、場面場面を劇的にとらえています。酒宴の席などで朗詠され、喝采を浴びたことでしょう。
杜牧ー16
及第後寄長安故人 及第後 長安の故人に寄す
東都放榜未花開 東都(とうと)の放榜(ほうぼう) 未(いま)だ花開かず
三十三人走馬廻 三十三人 馬を走らせて廻(かえ)る
秦地少年多辦酒 秦地(しんち)の少年 多く酒を弁(べん)ず
却将春色入関来 却(すなわ)ち春色を将(も)って 関(かん)に入り来(きた)らん
⊂訳⊃
春まだ浅い洛陽で 合格者の名前が発表された
新進士は三十三人 馬を飛ばして都へ向かう
長安の友人たちよ 酒の準備はできたであろう
浮き立つ心で関門を通り つぎの関試もひと飛びだ
⊂ものがたり⊃ 文宗の大和元年(827)、杜牧は二十五歳になっていました。その夏、杜牧は従兄の杜悰(とそう)を訪ねて江南に旅をしています。杜悰は伯父杜式方(としきほう)の三男で、杜牧が十二歳のときに憲宗の長公主岐陽公主(きようこうしゅ)を妻に迎え、銀青光禄大夫殿中駙馬都尉(ふばとい)を授けられました。皇帝の長女の婿になったわけですから、将来の出世は有望です。大和元年のころには澧州(れいしゅう:湖南省澧県)の刺史(しし:州知事)として江南に赴任中でした。
この旅の翌大和二年(828)の正月に杜牧は貢挙の進士科を受け、二月に「放榜」(合格者の発表)がありました。杜牧は三十三人の合格者中五番で及第したようです。尚書省礼部が行う貢挙は長安で行われるのが通常ですが、この年は東都の洛陽で行われ、放榜も洛陽であったのです。杜牧は長安の故人(親友)に歓びの詩を送ります。
結句の「関」は関中への入口である潼関(とうかん)と関試(かんし)をかけたもので、貢挙に及第した者は尚書省吏部が行う関試を受けて吏部の所管に移されます。この試験は形式的なもので落第者はいませんが、関試は長安で行われるので皆急いで都にもどるのです。杜牧は都の友人たちに、祝いの酒の準備はできているだろうなと喜び勇んで馬を走らせます。
杜牧ー17
長安秋望 長安の秋望
楼倚霜樹外 楼(ろう)は倚(よ)る 霜樹(そうじゅ)の外
鏡天無一毫 鏡天(きょうてん) 一毫(いちごう)も無し
南山与秋色 南山(なんざん)と秋色(しゅうしょく)と
気勢両相高 気勢(きせい) 両(ふた)つながら相(あい)高し
⊂訳⊃
楼閣はそびえて 紅葉の梢よりも高く
晴れた空に ひとすじの雲もない
終南山の山々と いちめんの秋の色
共に競って 意気軒昂
⊂ものがたり⊃ 新進士は関試によって吏部の所管に移されたあと、守選という期間があります。進士科の場合は、三年後でないと任官のための吏部試を受けられないのです。ところがこの年は、閏三月に制挙(せいきょ)があり、杜牧は賢良方正能直言極諌科を受験して及第しました。
制挙は天子が主宰して行う臨時の人材登用試験で、すでに任官している者でも受けることができます。守選の進士にとっては絶好の機会です。敬宗が乱行の末、近くに仕える宦官の個人的な怨みを買って殺されたあと、宦官たちに擁立された文宗は兄敬宗と違って政事の刷新に熱意がありました。即位三年目(実質は在位一年五か月)の文宗は、この年に制挙を実施してみずからの人材を登用しようと思ったのでしょう。
こときの制挙では十五人が及第しましたが、杜牧は第四等でした。ところで第四等というのは四番という意味ではありません。制挙の及第者は五等に分けられ、第一等と第二等は通常該当者なし、三等と四等が及第者で五等は落第を意味します。だから杜牧は及第二等の成績であり、特に優秀というわけではありませんでした。しかし、制挙は天子がみずからの名で行うものですので、吏部試よりも上の試験とみなされます。杜牧はもちろん喜んだでしょう。
「長安の秋望(しゅうぼう)」は制挙に及第したあと、大慈恩寺の仏塔(大雁塔)に上ったときの詩と思われます。進士及第者も大雁塔に上って壁に自分の名前を書き付ける習慣がありましたので、春につづいて再度「楼」に上ったのでしょう。詩からはそんな喜びが感ぜられます。杜牧の詩で、こんなに伸び伸びとして晴れやかなものは滅多にありません。杜牧は若くて張り切っていました。
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