9月7日(旧暦8月7日 干支=壬辰 九星=二黒 六曜=友引)
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
9月に入ってから、夏が本格的になったような日中の暑さが続いています。
朝晩は涼しいとはいっても、寝苦しい夜であることは間違いなく、少し体調も崩しがちとなっています。
今日から季節は二十四節気の「白露」となります。
この次は「秋分」となり、ちょうど彼岸の中日に当たります。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは言いますが、果たしてどうなるのでしょうか。
秋の花に、「リンドウ」があります。
フデリンドウなど春に咲く種類もありますが、一般には秋の花とされています。
リンドウは「竜胆」と書き、中国でその根が「竜の胆(肝)」のように苦いといわれたことからその名がつけられ、日本に伝わってそのまま根付いたとされています。
源氏の家紋に「笹竜胆紋」がありますが、可憐な花と武骨な名前に加えて、花言葉にも「勝利」「誠実」があるように、武士にとっても印象深い花であったことでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/01/dab30dc0522b8b0009dfbf0cfafdf0a0.jpg)
武士に好まれただけでなく、リンドウを愛した作家もいます。
今日は、その作家、吉川英治の命日にあたります。
吉川英治は、昭和を代表する作家の一人で、戦前から戦後にかけて、主に大衆向けの小説で人気を博しました。
『宮本武蔵』『三国志』をはじめとして、歴史をテーマにした時代小説を多く発表し、私を含めてその世界に引き込まれた方は数多くいると思います。
吉川英治は横浜に生まれ、幼少より様々な仕事に携わっていきました。
新聞記者を経たのち、関東大震災を境にして執筆活動へ入りました。
1925年の雑誌『キング』の連載からは『神州天馬侠』などのヒット作を生み出し、1935年から朝日新聞で連載が始まった『宮本武蔵』は、新聞小説では類を見ないほどの人気となり、足掛け4年続く大作となりました。
1939年7月に宮本武蔵の連載が終わると、翌8月からは『三国志』の連載が始まり、これも1943年まで4年にわたって掲載され、戦争終結後に単行本となって刊行されました。
三国志の執筆については、1937年7月からの支那事変(日中戦争)が大きく影響しています。
戦争勃発の翌月から、吉川は東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として中国大陸を訪れ、一度帰国したのちに再び、今度は軍の従軍記者として中国へ渡ります。
各地を歴訪し、中国の長い歴史と長大な自然に深い感動を覚えたのが、三国志での描写に生かされたとされています。
三国志の話をすれば、おそらく1か月はその話題になってしまいますので割愛いたしますが、吉川版三国志は『三国志演義』をベースにしたもので、三国のうち「蜀(蜀漢)」を中心に描かれています。
劉備を前半の主人公、後半は諸葛亮を主人公にして、幾多の争いを描いたその物語は、創作が多くありながらも、古代中国の人々の生きざまを思い起こさせます。
歴史で言えば、中国史上3人の皇帝が鼎立した三国時代の「魏・蜀・呉」は全て滅び、魏から国を受け継いだ「晋(西晋)」が三国を統一することになっています。
小説は「三国は、晋一国となった。」という一言で結ばれますが、これを目にするたびに幾多の名場面を思い出し、胸が熱くなります。
吉川英治の小説は、リズミカルな文章に講談を聞いているような面白さがあり、時間を忘れて没頭してしまいますが、様々な名言に心を打たれます。
「楽しまずして、何の人生ぞや(『親鸞』)」
「我事において、後悔せず(『宮本武蔵』)」
また、「会う人、出会うもの、すべて我が師なり」という言葉も、吉川がたびたび口にしたものとされています。
これを書いているうちに、また小説を読みたくなりました。
本棚を開いて、手に取ってみたいと思います。
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
9月に入ってから、夏が本格的になったような日中の暑さが続いています。
朝晩は涼しいとはいっても、寝苦しい夜であることは間違いなく、少し体調も崩しがちとなっています。
今日から季節は二十四節気の「白露」となります。
この次は「秋分」となり、ちょうど彼岸の中日に当たります。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは言いますが、果たしてどうなるのでしょうか。
秋の花に、「リンドウ」があります。
フデリンドウなど春に咲く種類もありますが、一般には秋の花とされています。
リンドウは「竜胆」と書き、中国でその根が「竜の胆(肝)」のように苦いといわれたことからその名がつけられ、日本に伝わってそのまま根付いたとされています。
源氏の家紋に「笹竜胆紋」がありますが、可憐な花と武骨な名前に加えて、花言葉にも「勝利」「誠実」があるように、武士にとっても印象深い花であったことでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/01/dab30dc0522b8b0009dfbf0cfafdf0a0.jpg)
武士に好まれただけでなく、リンドウを愛した作家もいます。
今日は、その作家、吉川英治の命日にあたります。
吉川英治は、昭和を代表する作家の一人で、戦前から戦後にかけて、主に大衆向けの小説で人気を博しました。
『宮本武蔵』『三国志』をはじめとして、歴史をテーマにした時代小説を多く発表し、私を含めてその世界に引き込まれた方は数多くいると思います。
吉川英治は横浜に生まれ、幼少より様々な仕事に携わっていきました。
新聞記者を経たのち、関東大震災を境にして執筆活動へ入りました。
1925年の雑誌『キング』の連載からは『神州天馬侠』などのヒット作を生み出し、1935年から朝日新聞で連載が始まった『宮本武蔵』は、新聞小説では類を見ないほどの人気となり、足掛け4年続く大作となりました。
1939年7月に宮本武蔵の連載が終わると、翌8月からは『三国志』の連載が始まり、これも1943年まで4年にわたって掲載され、戦争終結後に単行本となって刊行されました。
三国志の執筆については、1937年7月からの支那事変(日中戦争)が大きく影響しています。
戦争勃発の翌月から、吉川は東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として中国大陸を訪れ、一度帰国したのちに再び、今度は軍の従軍記者として中国へ渡ります。
各地を歴訪し、中国の長い歴史と長大な自然に深い感動を覚えたのが、三国志での描写に生かされたとされています。
三国志の話をすれば、おそらく1か月はその話題になってしまいますので割愛いたしますが、吉川版三国志は『三国志演義』をベースにしたもので、三国のうち「蜀(蜀漢)」を中心に描かれています。
劉備を前半の主人公、後半は諸葛亮を主人公にして、幾多の争いを描いたその物語は、創作が多くありながらも、古代中国の人々の生きざまを思い起こさせます。
歴史で言えば、中国史上3人の皇帝が鼎立した三国時代の「魏・蜀・呉」は全て滅び、魏から国を受け継いだ「晋(西晋)」が三国を統一することになっています。
小説は「三国は、晋一国となった。」という一言で結ばれますが、これを目にするたびに幾多の名場面を思い出し、胸が熱くなります。
吉川英治の小説は、リズミカルな文章に講談を聞いているような面白さがあり、時間を忘れて没頭してしまいますが、様々な名言に心を打たれます。
「楽しまずして、何の人生ぞや(『親鸞』)」
「我事において、後悔せず(『宮本武蔵』)」
また、「会う人、出会うもの、すべて我が師なり」という言葉も、吉川がたびたび口にしたものとされています。
これを書いているうちに、また小説を読みたくなりました。
本棚を開いて、手に取ってみたいと思います。
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有限会社 千葉建築
〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4
電話 0182-45-2325 FAX 0182-45-2304
携帯 080-1837-5342
mail kchiba@poem.ocn.ne.jp
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