秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
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広島のあるじ

2016-12-14 08:08:50 | 歴史と文化
12月14日(旧暦11月15日 干支=己巳 九星=六白 六曜=先勝)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

12月も、あっという間に半ばまで来てしまいました。

師匠が走りまわる時候というのは、あながち眉唾でないように思えます。

調子に乗ってずっこけないように、注意したいと思います。


さて、先週はこちらへ行っていました。











安芸国、広島県です。

今年は広島東洋カープの優勝もあり、広島に注目が集まる年でした。

天気はあまりよくなく、滞在時間も短く感じましたが、また訪れたい魅力がありました。


初日に広島城に行ったのですが、広島は天然の川(太田川)を利用した平城の特徴をよく表しており、街の地割はそれに即した造りとなっていました。

残念ながら、アメリカの原子爆弾投下によって、街は焼け野原となってしまい、広島城も爆風で吹き飛ばされてしまいました。

しかし、戦後は草木も生えないとされたところから復興し、現在では中国地方第一の都市として存在していることを思うと、人間の持つ底力、広島市民の底力に敬意を感じます。

カープが愛されてきたのも、そうした底力の一つだろうなと、この地の空気を感じながら思いました。


広島城は「鯉城(りじょう)」とも呼ばれ、カープもこの別名にちなんでいます。

この地に鯉がたくさんいたから、という説もありますが、実際は「己斐浦(こいのうら)」という地名があり、その当て字に鯉が用いられたとのことです。

築城主は、戦国時代の西国の雄、毛利輝元。

祖父に毛利元就、父隆元と叔父の吉川元春・小早川隆景の三本の矢がおり、関ヶ原の戦いでは西軍総大将に就いた人物です。


しかし戦は敗れ、西軍の総大将としての責を取らされ、9カ国120万石を治めた大大名の地位から、周防・長門2国29万石の大名へと落とされてしまいました。

その260年後、徳川家の江戸時代を倒す中心となった長州藩は、この時の復讐劇を果たしたともいわれ、歴史の奥深さを感じるエピソードでもあります。


毛利家が広島を離れた後は、関ヶ原で東軍に付いた、太閤豊臣秀吉の恩顧の大名・猛将福島正則が広島を治めます。

1609年、正則は広島城を大規模に改修し、同時に城下町の整備を行います。

しかし、この大規模な改修は大御所の家康を怒らせ、さらに家康亡き後の1619年に水害による城の修理を幕府に無許可で行ったことで、福島氏は信州(長野県)への国替えの処分を受けてしまいます。


福島氏の次に広島を治めたのは、浅野長晟(あさのながあきら)です。

父は豊臣政権の5奉行筆頭の浅野長政であり、同僚に関ヶ原西軍の実質的なリーダー石田三成がいました。

浅野氏は関ヶ原では東軍につき、長晟は大坂の陣にも参陣し、夏の陣では塙直之(塙団右衛門)を討ち取るなどの功績がありました。


福島氏の改易後、浅野氏は紀州藩(和歌山県)から広島藩42万石の大名となり、明治維新まで広島の藩主として、この地を治めることになりました。

今日は本来は、この浅野氏つながりのネタを書くつもりでした。

しかし、それは次回に回したいと思います。

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