塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 東京の名水_3 安養院の湧き水

2009-12-21 06:24:03 | 街巡り_09
 続いて東急目黒線の高架下を通り、品川と目黒の区境沿いにある
安養院へ伺った。寺の開創年度は不明である。その寺も一時荒廃す
るが、承応元年(1654)に木食唱岳長音が再興。
 境内の中にひっそりと湧き水の出ているところがあり、よく見な
いと見落としそうになる。岩の間から水滴が鉢の上に落ちていた。
 この寺は境内の至る所に石像が置いてあり、ひとつ一つ眺めるの
も楽しい。その中でも高さが360cmもある石像に目がいった。こ
石像は、同区内によく見られる石造念仏供養塔で笠塔婆型の姿
をしている。延宝3年(1675),木食唱鉄の発願で造立されている。
(品川区西五反田4-12-1)
石造念仏供養塔  狛犬

街を巡る 東京の名水_3 氷川の懸泉

2009-12-20 06:50:59 | 街巡り_09
 東京の名水、第3弾目は11月8日、品川と目黒を巡ってみた。
まずは西五反田の氷川神社へ。こちらの社は創立年がはっきりしな
いものの、江戸時代以前に鎮座していたと伝えられる。
 境内に続く階段横に、当時は“江戸七瀑布”の一つに数えられて
いた「氷川の滝(氷川の懸泉)」があり、現在はチョロチョロと水
がしたたり落ちる程度。境内の手水舎には、龍の口から豊富な水が
流れていた。
 毎年9月には立派な大御輿が繰り出す例大祭が行われている。早
朝の参道に趣があった。
(品川区西五反田5-6-3)
氷川神社参道  手水舎  氷川神社

街を巡る 東京の名水_2 伊藤博文の墓

2009-12-19 03:45:20 | 街巡り_09
 原の水神社を後に横須賀線の西大井駅まで来たところで、この近
くに伊藤博文の墓があるのを思い出し伺った。門は固く閉ざされて
いるが、呼び鈴を鳴らすと敷地内に住まわれている方が出て、戸を
開けていただいた。聞くと10時からの開門となるが、事情を説明
し1時間ほど早く墓参させてもらった。
 伊藤博文(1841~1909)は、山口萩藩の下級武士で、吉田松
陰に師事し尊皇攘夷運動を展開する。ところが英国留学後、開国論
を唱えていく。明治維新後、ヨーロッパで学んだ憲法や政治制度を、
近代日本に取り入れ基礎を築く。
 伊藤の旧邸がこの近くにあったことから国葬後、ここに葬られた。
高さ2mの円墳や鳥居は神式の墓所で、この一角は樹木が生い茂り
緑多く、凛とした雰囲気を漂わせていたのが印象的だった。
(品川区西大井6-10-18)
銅像  墓所

街を巡る 東京の名水_2 原の水神社

2009-12-18 06:22:26 | 街巡り_09
 再び池上通りに出て、交番の角の小道を西側に進んでいく。5分
ほど歩いたろうか、「大井・原の水神池」があった。
 この水神池は、昔から地元の農家が出荷する野菜を洗った洗い場
で、現在でもコンコンと水が湧き出ている。清く澄んだ池の水は、
眼病を治す効果があったといわれ、治癒するとそのお礼に鯉を放っ
たと伝わる。池の渕には金網が張られているものの、赤や赤道色の
鯉や鮒が元気よく泳ぎ回っていた。
 池の後ろが高台になり水神社の祠が安置され、池の崖面から水が
ほとばしっていた。
(品川区西大井3-1)
水神池石碑  水神池

街を巡る 東京の名水_2 大井の井

2009-12-17 06:24:07 | 街巡り_09
 鹿嶋神社から品川歴史館の前を通り、路地に入り光福寺を目指す。
こちらの寺の墓地内に、大井の地名の由来と伝えられる井戸がある。
境内から墓地に入り本堂の裏手奥に来ると「大井の井」があった。
 この井戸は、親鸞の門下生で関東六老僧の一人、了海上人が誕生
した時に境内に忽然と泉が湧き出し、この水を産湯として使い、泉
の名を大井としたと伝わっている。
 大井の井は横穴式の石組みの井戸で、中をのぞき込んでも水は湧
いていなかった。墓地の入口に設置されていた手押しポンプからは
勢いよく水がほとばしったのは幸いか。
 境内には幹廻り640cm、樹高40m、樹齢800年と伝わる銀杏
があり、品川区の最大樹という。幹と大枝から乳根を幾つもたらし
ていた。この銀杏、麻布・善福寺の「逆さ銀杏」と兄弟樹といわれ
ている。
(品川区大井6-9-17)
井の石標  大銀杏

街を巡る 東京の名水_2 鹿嶋神社

2009-12-16 06:25:43 | 街巡り_09
 水神社を後に、東海道本線の高架下をくぐり緩い登りの坂道を進
むと、来迎院のとい面に「来迎院石造念仏講供養塔」があった。品
川界隈を巡った時、この供養塔はよく目に止まった。
 堂内の地蔵菩薩を彫った2基は、明暦2年(1656)と万治2年
(1659)の造立で、江戸時代に盛んに行われた念仏講が、この大
井村でも流行っていたことを示すものだ。
 坂道を登りきり池上通りに出ると南側に「鹿嶋神社」がある。こ
の社は安和2年(969)に尊栄法師が常陸国の鹿嶋神宮よりご分霊
を勧請し祀られたのが始まりで、古い歴史がある。
 境内に大きなクスノキ科のタブノキが2本目にとまった。1本は
本殿前の境内中央にあり、幹廻り320cm、樹高13m、樹齢200
年。もう1本は本殿脇に、幹廻り250cm、樹高18m、やはり樹
齢200年になるという。
(品川区大井6-18-36)
石造念仏供養塔  タブノキ

街を巡る 東京の名水_2 柳の水

2009-12-15 06:29:59 | 街巡り_09
 鈴ヶ森刑場跡から西側へ東海道本線を目指す。線路脇の住宅地に
こんもりとした一角がある。ここが大井の「水神社」。
 昔ここからコンコンと湧き出た水は、農民が飲み水や農業用に利
用しており、それを願って貞享2年(1685)に九頭龍権現を祀っ
たのが始まり。この湧き水は「柳の水」と呼ばれ雨乞いをしたり、
社では歯痛を止める霊験もあるという。
 小さな祠脇の岩の間から水が湧き出ていた。
(品川区南大井5-14-9)
水神社  手水舎

街を巡る 東京の名水_2 鈴ヶ森刑場跡

2009-12-14 06:26:44 | 街巡り_09
 日が変わって11月15日、東京の名水_2で廻りきれなかった
品川の大井辺りを巡った。京急の立会川駅から少し歩き「鈴ヶ森
刑場跡」へ廻ってみた。
 江戸時代、北の入口・日光街道に設置された小塚原刑場、西の入
口・甲州街道沿いに置かれた大和田刑場(中仙道の板橋刑場説もあ
る)とともに江戸三大刑場と呼ばれた鈴ヶ森刑場。
 慶安4年(1651)に開設され明治4年(1871)までの220年
間に約20万人もの罪人が処刑されていると伝わる。最初の処刑者
は倒幕の陰謀に加担した丸橋忠弥(慶安事件)。
 旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地にあり、磔柱の柱
穴や火炙り刑用の柱穴の礎石が残されていた。隣接する大経寺の境
内でもある。
(品川区南大井2-5)
磔台と火炙台礎石

街を巡る 東京の名水_2 本光寺の井

2009-12-13 06:43:26 | 街巡り_09
 東海寺大山墓地を後に、目黒川まで出る。川沿いを少し下ってい
くと「本光寺」に到着。
 この寺は、南朝・弘和2年(1382)に日什上人が法華堂を開い
て創建。住持は山門、中門、塔頭三ヶ院、鬼子母神を擁し信徒を集
め、品川郷に偉容を誇っていた。しかし、安政の大震災や第一京浜
国道の拡張、目黒川の湾曲改修などで境内が縮小。現在は三重之塔
や宝塔が残されている。
 山門と本堂の間に手押しポンプの井戸があり、ポンプを押すと生
きよいよく水がはじき出てきた。
(品川区南品川4-2-8)
本光寺の三門  本光寺_2

街を巡る 東京の名水_2 井上勝の墓

2009-12-12 03:38:59 | 街巡り_09
 東海道新幹線と東海道本線の大動脈が平行に走っている大山墓地
の最も東側に「井上勝の墓」がある。井上(1843~1910)は、
長州藩士から明治には官僚となり、国内鉄道の発展に寄与し日本の
“鉄道の父”と呼ばれている大人物だ。井上の墓石は数分おきに電
車が通る、まさに鉄道の父にふさわしい場所にあった。
 1868年にロンドンへ留学、鉄道や鉱山技術を学び、帰国後は新
橋~横浜間の鉄道や東海道線、日本鉄道会社など鉄道庁長官として
事業の発展に尽力した方である。
(品川区北品川4-11-8)
鉄道の父