原の水神社を後に横須賀線の西大井駅まで来たところで、この近
くに伊藤博文の墓があるのを思い出し伺った。門は固く閉ざされて
いるが、呼び鈴を鳴らすと敷地内に住まわれている方が出て、戸を
開けていただいた。聞くと10時からの開門となるが、事情を説明
し1時間ほど早く墓参させてもらった。
伊藤博文(1841~1909)は、山口萩藩の下級武士で、吉田松
陰に師事し尊皇攘夷運動を展開する。ところが英国留学後、開国論
を唱えていく。明治維新後、ヨーロッパで学んだ憲法や政治制度を、
近代日本に取り入れ基礎を築く。
伊藤の旧邸がこの近くにあったことから国葬後、ここに葬られた。
高さ2mの円墳や鳥居は神式の墓所で、この一角は樹木が生い茂り
緑多く、凛とした雰囲気を漂わせていたのが印象的だった。
(品川区西大井6-10-18)
銅像 墓所
くに伊藤博文の墓があるのを思い出し伺った。門は固く閉ざされて
いるが、呼び鈴を鳴らすと敷地内に住まわれている方が出て、戸を
開けていただいた。聞くと10時からの開門となるが、事情を説明
し1時間ほど早く墓参させてもらった。
伊藤博文(1841~1909)は、山口萩藩の下級武士で、吉田松
陰に師事し尊皇攘夷運動を展開する。ところが英国留学後、開国論
を唱えていく。明治維新後、ヨーロッパで学んだ憲法や政治制度を、
近代日本に取り入れ基礎を築く。
伊藤の旧邸がこの近くにあったことから国葬後、ここに葬られた。
高さ2mの円墳や鳥居は神式の墓所で、この一角は樹木が生い茂り
緑多く、凛とした雰囲気を漂わせていたのが印象的だった。
(品川区西大井6-10-18)
銅像 墓所
鹿嶋神社から品川歴史館の前を通り、路地に入り光福寺を目指す。
こちらの寺の墓地内に、大井の地名の由来と伝えられる井戸がある。
境内から墓地に入り本堂の裏手奥に来ると「大井の井」があった。
この井戸は、親鸞の門下生で関東六老僧の一人、了海上人が誕生
した時に境内に忽然と泉が湧き出し、この水を産湯として使い、泉
の名を大井としたと伝わっている。
大井の井は横穴式の石組みの井戸で、中をのぞき込んでも水は湧
いていなかった。墓地の入口に設置されていた手押しポンプからは
勢いよく水がほとばしったのは幸いか。
境内には幹廻り640cm、樹高40m、樹齢800年と伝わる銀杏
があり、品川区の最大樹という。幹と大枝から乳根を幾つもたらし
ていた。この銀杏、麻布・善福寺の「逆さ銀杏」と兄弟樹といわれ
ている。
(品川区大井6-9-17)
井の石標 大銀杏
こちらの寺の墓地内に、大井の地名の由来と伝えられる井戸がある。
境内から墓地に入り本堂の裏手奥に来ると「大井の井」があった。
この井戸は、親鸞の門下生で関東六老僧の一人、了海上人が誕生
した時に境内に忽然と泉が湧き出し、この水を産湯として使い、泉
の名を大井としたと伝わっている。
大井の井は横穴式の石組みの井戸で、中をのぞき込んでも水は湧
いていなかった。墓地の入口に設置されていた手押しポンプからは
勢いよく水がほとばしったのは幸いか。
境内には幹廻り640cm、樹高40m、樹齢800年と伝わる銀杏
があり、品川区の最大樹という。幹と大枝から乳根を幾つもたらし
ていた。この銀杏、麻布・善福寺の「逆さ銀杏」と兄弟樹といわれ
ている。
(品川区大井6-9-17)
井の石標 大銀杏
水神社を後に、東海道本線の高架下をくぐり緩い登りの坂道を進
むと、来迎院のとい面に「来迎院石造念仏講供養塔」があった。品
川界隈を巡った時、この供養塔はよく目に止まった。
堂内の地蔵菩薩を彫った2基は、明暦2年(1656)と万治2年
(1659)の造立で、江戸時代に盛んに行われた念仏講が、この大
井村でも流行っていたことを示すものだ。
坂道を登りきり池上通りに出ると南側に「鹿嶋神社」がある。こ
の社は安和2年(969)に尊栄法師が常陸国の鹿嶋神宮よりご分霊
を勧請し祀られたのが始まりで、古い歴史がある。
境内に大きなクスノキ科のタブノキが2本目にとまった。1本は
本殿前の境内中央にあり、幹廻り320cm、樹高13m、樹齢200
年。もう1本は本殿脇に、幹廻り250cm、樹高18m、やはり樹
齢200年になるという。
(品川区大井6-18-36)
石造念仏供養塔 タブノキ
むと、来迎院のとい面に「来迎院石造念仏講供養塔」があった。品
川界隈を巡った時、この供養塔はよく目に止まった。
堂内の地蔵菩薩を彫った2基は、明暦2年(1656)と万治2年
(1659)の造立で、江戸時代に盛んに行われた念仏講が、この大
井村でも流行っていたことを示すものだ。
坂道を登りきり池上通りに出ると南側に「鹿嶋神社」がある。こ
の社は安和2年(969)に尊栄法師が常陸国の鹿嶋神宮よりご分霊
を勧請し祀られたのが始まりで、古い歴史がある。
境内に大きなクスノキ科のタブノキが2本目にとまった。1本は
本殿前の境内中央にあり、幹廻り320cm、樹高13m、樹齢200
年。もう1本は本殿脇に、幹廻り250cm、樹高18m、やはり樹
齢200年になるという。
(品川区大井6-18-36)
石造念仏供養塔 タブノキ
日が変わって11月15日、東京の名水_2で廻りきれなかった
品川の大井辺りを巡った。京急の立会川駅から少し歩き「鈴ヶ森
刑場跡」へ廻ってみた。
江戸時代、北の入口・日光街道に設置された小塚原刑場、西の入
口・甲州街道沿いに置かれた大和田刑場(中仙道の板橋刑場説もあ
る)とともに江戸三大刑場と呼ばれた鈴ヶ森刑場。
慶安4年(1651)に開設され明治4年(1871)までの220年
間に約20万人もの罪人が処刑されていると伝わる。最初の処刑者
は倒幕の陰謀に加担した丸橋忠弥(慶安事件)。
旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地にあり、磔柱の柱
穴や火炙り刑用の柱穴の礎石が残されていた。隣接する大経寺の境
内でもある。
(品川区南大井2-5)
磔台と火炙台礎石
品川の大井辺りを巡った。京急の立会川駅から少し歩き「鈴ヶ森
刑場跡」へ廻ってみた。
江戸時代、北の入口・日光街道に設置された小塚原刑場、西の入
口・甲州街道沿いに置かれた大和田刑場(中仙道の板橋刑場説もあ
る)とともに江戸三大刑場と呼ばれた鈴ヶ森刑場。
慶安4年(1651)に開設され明治4年(1871)までの220年
間に約20万人もの罪人が処刑されていると伝わる。最初の処刑者
は倒幕の陰謀に加担した丸橋忠弥(慶安事件)。
旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地にあり、磔柱の柱
穴や火炙り刑用の柱穴の礎石が残されていた。隣接する大経寺の境
内でもある。
(品川区南大井2-5)
磔台と火炙台礎石
東海道新幹線と東海道本線の大動脈が平行に走っている大山墓地
の最も東側に「井上勝の墓」がある。井上(1843~1910)は、
長州藩士から明治には官僚となり、国内鉄道の発展に寄与し日本の
“鉄道の父”と呼ばれている大人物だ。井上の墓石は数分おきに電
車が通る、まさに鉄道の父にふさわしい場所にあった。
1868年にロンドンへ留学、鉄道や鉱山技術を学び、帰国後は新
橋~横浜間の鉄道や東海道線、日本鉄道会社など鉄道庁長官として
事業の発展に尽力した方である。
(品川区北品川4-11-8)
鉄道の父
の最も東側に「井上勝の墓」がある。井上(1843~1910)は、
長州藩士から明治には官僚となり、国内鉄道の発展に寄与し日本の
“鉄道の父”と呼ばれている大人物だ。井上の墓石は数分おきに電
車が通る、まさに鉄道の父にふさわしい場所にあった。
1868年にロンドンへ留学、鉄道や鉱山技術を学び、帰国後は新
橋~横浜間の鉄道や東海道線、日本鉄道会社など鉄道庁長官として
事業の発展に尽力した方である。
(品川区北品川4-11-8)
鉄道の父