TAZUKO多鶴子

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『わしの眼は十年先が見える』大原孫三郎の生涯の本をご紹介

2007-07-07 | TAZUKO多鶴子からの伝言
以前ブログでご紹介した
『わしは十年先が見える…大原孫三郎の生涯』
 著:城山三郎
の本を
ご注文パステル画制作の休憩時間に
少しづつ読んでいます。
この本は
倉敷中央画廊期間中に
『児島虎次郎館』を訪れた時に館内で買ったものです。
とても良さそうな本なので
今日は皆様にご紹介します。

    <紹介文>
『 下駄と靴を片足ずつ履いて…
 その男は二筋の道を同時に歩んだ。
 地方の一紡績会社を有数の大企業に伸長させた経営者の道と、
 社会から得た財はすべて社会に返す、
 という信念の道。
 あの治安維持法の時世に社会思想の研究機関を設立、
 倉敷に東洋一を目指す総合病院、
 世界に誇る美の殿堂を建て…。
 ひるむことを知らず夢を見続けた男の、
 人間形成の跡を辿り反抗の生涯を描き出す雄編。  』

    <本文一部>
『 「みんなに勉強させてやろうと思うたのに、
             今日も誰も来んなあ」
  …
 孫三郎は昭和十八年はじめに亡くなるが、
 死に先立ってもらしていたのは、
「わしのはじめた事業でいちばん重荷になるのは、美術館じゃ」
 更に、孫三郎の口癖のひとつは、
 「わしの眼は十年先が見える」
 であった。
 その予言通り、
 十年後も美術館には客もまばらな日々が続くことになる。
 日本の社会全体がまだ美術に向ける余裕のない状態であったからである。
 美術館は息も絶え絶え続いていたが、
 しかし、そうした美術館が実は倉敷の町を救っていた。
 昭和七年、満州事変調査のため
 来日したリットン調査団の一部員が大原美術館を訪れ、
 そこにエル・グレコをはじめとする
 名画の数々が並んでいるのに仰天する。
 このことから、
 日本の地方都市クラシキの名が知られるようになり、
 太平洋戦争下も、世界的な美術品を焼いてはならぬと、
 倉敷は爆撃目標から外された、といわれる。
 さらに、これも大原孫三郎がらみで一説。
 明治四十年、岡山に師団が設置され、
 倉敷へも一個連隊が配置されることになった。
 町では、金が落ちることにもなるからと、
 受け入れ派が大勢を占めた。
 これに対し孫三郎は、まだ三十にもならなかったが、
 若い女子工員を大勢預かる身として、
 「町の風紀をみだすおそれがある」と、はげしく反対した。
 当時のことである。「非国民」とか「国賊」呼ばわりされたが、
 ひるまなかった。
 孫三郎は祖父の壮平譲りといわれる大きな耳をしていた。
 その壮平は、紛争があって反対派に右の耳を斬り落されたが、
 「耳のひとつぐらいは平気じゃ。
         まだ左の耳がある」
 そう言って、なお争い続けた男であった。
 父老四郎は温厚な学者肌であり、養子というせいもあって、
 孫三郎誕生のとき、父である自分よりも祖父にあやかる孫として育て、
 との祈りをこめて、「孫三郎」と命名、その思いで育てられてきた。
 孫三郎は、
  ひるむことを知らぬ男であった。
 … 』