こんにちは

昨日、第一生命保険相互会社が株式上場を果たし
「第一生命保険株式会社」としてスタートしました。
私は生命保険業界にいますので
今日は、ここからインスパイアです。
◆勉強に出る『相互会社とは?』
相互会社とは何か?
というのが生命保険募集人資格取得の
一般課程試験では必ず出題されます。
生命保険会社に入社後1ヶ月はこの試験勉強の連続です。
『相互会社とは、保険事業だけに認められているもので、生命保険に加入した人々がお互いいに助け合うことを目的としており、一般の株式会社の利益金にあたる剰余金は、その一定割合を社員配当として返還することになっています。そして生命保険会社に加入した契約者は、原則として社員となり生命保険会社の運営に参加することになります。実際には、社員の中から総代を選び、総代会で会社運営上の重要なことがらを決めています』
(生命保険協会 一般課程テキストより)
相互会社がすべて株式会社化されていくと
将来この部分は勉強しなくて良くなるのでしょう。
世の中には
勉強しなくて良くなる部分もあれば
勉強しなければならないものもあります。
第一生命の歴史で勉強しなきゃ、という人物を紹介しますね。
◆財界総理の男の心意気~石坂泰三◆
石坂泰三(いしざか たいぞう)1886~1975
元経団連名誉会長として『財界総理』の異名をもつ経済人です。
詳しい経歴はWEBでお調べください。
彼と第一生命との関係のみ紹介します。
◆エリートから底辺へ
大正時代の彼は、東京帝国大学から高等官(現在のキャリア官僚)として逓信省へ入省。
トップ成績の彼はエリートコースを進んでいました。
逓信省入省後4年目。石坂に運命の転機が来ました。
大学時代の恩師から
「『第一生命』に行ってみないか?」という誘いがきました。
官尊民卑が激しいこの時代、民間会社は低く見られていました。
特に
生命保険会社はどのような感じかというと
『※と保険の外交員は入るべからず』という立て札があったほどです。
※は差別用語です。
夫人はこのように反対しました。
「私はあなたが国家の官吏だからお嫁にきたのです」
「よその人から、お宅のご主人はどこにお勤めですかときかれ」
「生命保険だなんていうのはきまりが悪い」
(伊藤肇「社長の決断」徳間文庫1987年より抜粋)
◆どの世界に入っても俺は頭角をあらわすのだ
石坂は、そんな状況にあっても大正4年、第一生命に入社を決めました。
以降昭和22年までの長期間、第一生命を見事に牽引していきました。
なぜエリートから潔く転進できたのでしょうか。
彼の中にある揺るぎない自信にあったと言われています。
「どの世界に入っても、俺は頭角をあらわすことができるのだ
」
脆弱(ぜいじゃく)なエリートよりも
自分を信じて、自信を貫いた男の決断だったのかもしれません。
◆多くの先輩たちに続いて
第一生命の石坂泰三が官僚からの転進で苦労したように
住友生命の元会長・新井正明も苦労のスタートでした。
新井が東京帝国大学を卒業した昭和12年、住友生命に入社して、
父の知人である作家の吉川英治に挨拶状を書きました。
住友生命保険株式会社
新井正明
(当時は株式会社)
と書いたのにもかかわらず吉川英治からの返信には
大阪市住友 生命保険部
新井正明
と書いてあったという逸話があります。
(「松下政経塾講和録」PHP文庫:新井正明から)
吉川英治からは
「生命保険」はまともな会社ではない
とする当時の差別的な社会認識があったのがわかります。
◆社会認識は変化する
今でこそ、第一生命は就職人気ランキングでは上位になっています。
歴史ある生命保険会社も、かっては相当に社会的差別の中にあって
大変な苦労を経て現在に至っています。
それを思うと、生命保険業界には実に多くの先輩たちの
努力の結晶があるのだなと思います。
ここから学ぶことは
未来に対してのチャレンジ精神でもありましょう。
今は脚光を浴びていなくても良い。
いつか頭角をあらわすことができるはずだ。
入社式を終えて、これからスタートする社会人生活に
消えることのないチャレンジ精神を!!
週末の新人は
お花見の座席確保が最初の仕事かも?
本当に自信があるのならなんの仕事でも
頭角をあらわせるはずだと信じましょう。
ではよい週末を




昨日、第一生命保険相互会社が株式上場を果たし
「第一生命保険株式会社」としてスタートしました。
私は生命保険業界にいますので
今日は、ここからインスパイアです。
◆勉強に出る『相互会社とは?』
相互会社とは何か?
というのが生命保険募集人資格取得の
一般課程試験では必ず出題されます。
生命保険会社に入社後1ヶ月はこの試験勉強の連続です。
『相互会社とは、保険事業だけに認められているもので、生命保険に加入した人々がお互いいに助け合うことを目的としており、一般の株式会社の利益金にあたる剰余金は、その一定割合を社員配当として返還することになっています。そして生命保険会社に加入した契約者は、原則として社員となり生命保険会社の運営に参加することになります。実際には、社員の中から総代を選び、総代会で会社運営上の重要なことがらを決めています』
(生命保険協会 一般課程テキストより)
相互会社がすべて株式会社化されていくと
将来この部分は勉強しなくて良くなるのでしょう。
世の中には
勉強しなくて良くなる部分もあれば
勉強しなければならないものもあります。
第一生命の歴史で勉強しなきゃ、という人物を紹介しますね。
◆財界総理の男の心意気~石坂泰三◆
石坂泰三(いしざか たいぞう)1886~1975
元経団連名誉会長として『財界総理』の異名をもつ経済人です。
詳しい経歴はWEBでお調べください。
彼と第一生命との関係のみ紹介します。
◆エリートから底辺へ
大正時代の彼は、東京帝国大学から高等官(現在のキャリア官僚)として逓信省へ入省。
トップ成績の彼はエリートコースを進んでいました。
逓信省入省後4年目。石坂に運命の転機が来ました。
大学時代の恩師から
「『第一生命』に行ってみないか?」という誘いがきました。
官尊民卑が激しいこの時代、民間会社は低く見られていました。
特に
生命保険会社はどのような感じかというと
『※と保険の外交員は入るべからず』という立て札があったほどです。
※は差別用語です。
夫人はこのように反対しました。
「私はあなたが国家の官吏だからお嫁にきたのです」
「よその人から、お宅のご主人はどこにお勤めですかときかれ」
「生命保険だなんていうのはきまりが悪い」
(伊藤肇「社長の決断」徳間文庫1987年より抜粋)
◆どの世界に入っても俺は頭角をあらわすのだ
石坂は、そんな状況にあっても大正4年、第一生命に入社を決めました。
以降昭和22年までの長期間、第一生命を見事に牽引していきました。
なぜエリートから潔く転進できたのでしょうか。
彼の中にある揺るぎない自信にあったと言われています。
「どの世界に入っても、俺は頭角をあらわすことができるのだ

脆弱(ぜいじゃく)なエリートよりも
自分を信じて、自信を貫いた男の決断だったのかもしれません。
◆多くの先輩たちに続いて
第一生命の石坂泰三が官僚からの転進で苦労したように
住友生命の元会長・新井正明も苦労のスタートでした。
新井が東京帝国大学を卒業した昭和12年、住友生命に入社して、
父の知人である作家の吉川英治に挨拶状を書きました。
住友生命保険株式会社

(当時は株式会社)
と書いたのにもかかわらず吉川英治からの返信には
大阪市住友 生命保険部

と書いてあったという逸話があります。
(「松下政経塾講和録」PHP文庫:新井正明から)
吉川英治からは
「生命保険」はまともな会社ではない
とする当時の差別的な社会認識があったのがわかります。
◆社会認識は変化する
今でこそ、第一生命は就職人気ランキングでは上位になっています。
歴史ある生命保険会社も、かっては相当に社会的差別の中にあって
大変な苦労を経て現在に至っています。
それを思うと、生命保険業界には実に多くの先輩たちの
努力の結晶があるのだなと思います。
ここから学ぶことは
未来に対してのチャレンジ精神でもありましょう。
今は脚光を浴びていなくても良い。
いつか頭角をあらわすことができるはずだ。
入社式を終えて、これからスタートする社会人生活に
消えることのないチャレンジ精神を!!
週末の新人は
お花見の座席確保が最初の仕事かも?
本当に自信があるのならなんの仕事でも
頭角をあらわせるはずだと信じましょう。
ではよい週末を


