「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

実沢・林泉寺のみちしるべ

2015年03月31日 | 日記
実沢・寺内の林泉寺の入口に「みちしるべ」がある。



林泉寺は、中山道を根白石方面に向かって下り、早坂橋を過ぎたところを右折して300メートルほど行ったところの左側にある。
山の寺にある「洞雲寺」の末寺と言われ、天正元年(1466年)に、洞雲寺14世和尚によって開山されたと言われる曹洞宗の寺である。
※天正12年(1584)に根岸城主結城七郎との戦いに敗れ福岡川崎で自刃した山野内城主須藤刑部少輔藤原定信の墓がある寺



「みちしるべ」は高さが50から60センチ、一遍が25センチ位の四角の柱である。

正面に 「南無阿弥陀佛」とあり

右面の 右側に 「東ハ 仙臺市  西ハ 根白石町」

     左側に 「南ハ 大沢村  北ハ 七北田村」



左面には 「山形県東村山郡沼沢
      ノ出身奥山寅治菩提」と建立時期が記されている。



建立時期は 大正九年(注1920年)一月と比較的新しいものであった。



ここは、去田、森子田とともに七北田方面からの定義道のルート(~窪~萱場~西但木~杭城山~白木~定義)に組みまれていたと言われる。






雷神社(福岡字台)

2015年03月30日 | 日記
根白石バイパスの伸びた先、泉区福岡浄水場入口の脇に「雷(なりがみ)神社」がある。




鼻を擦るほど急な石段を上り切ると割と広い境内に社を中心に両側に大小様々な石碑が立っていた。 



天照皇太后、湯殿山、金華山、古峯神社峰、馬頭観世音、などなど・・・・



中には倒れている大きな石像もあった。おそらく大震災によるものと思われる。



市の史跡説明書きによると

この付近は昔から落雷が多く、さまざまの被害に対する恐怖と稲作に恵みを与える降雨祈願(日照り時の雨ごい)とが結びつき、この神社が建立されたと伝えられている。

「雷の多い年は豊作になる」と歓迎されたが「春雷(寒冷前線の通過などに伴って春になる雷)」については「鎌いらず(稲刈りの必要がなくなるという意味)」といって、その年の不作を知る手立てとされていたようだ。



造られた時期など明確なものはなかったが、石の手水鉢に刻まれた日付は文久4年(1864年)だった。


振り返ってみると、田園の真ん中を真っ直ぐ通るバイパスと遠く中山の観音様も一望できる所だった。




桜の美しい場所だというが、周りはまだ蕾の状態だった。。


根白石・銅谷のみちしるべ

2015年03月29日 | 日記
北環状線から泉パークタウンに向い、紫山の左の道を400~500メートル入った「銅谷」という所に「みちしるべ」がある。
今まで何回か探したが見つからず、今回、最後の挑戦の積もりで道端をくまなく探した結果ようやく探し当てることができたものだ。

建設中のベガルタ仙台の練習場から200メートルほど手前の左側に赤い鳥居が見える。



みちしるべは鳥居の奥にある祠の脇の竹藪の中に立っている4基ほどの石碑の中の一つに記されていた。



そこには「私有地につき立入禁止」の立札と縄が張られていて、道路から5~6メートル位入った所にあるため文字を判読することは難しかった。

望遠レンズで写真を写しているところに土地の所有者だという方が近づいてきたので「みちしるべ」のことを尋ねてみた。
「みちしるべがある筈だ」というので中に入る了解を得、間近に見ながら写真を撮ることが出来た。

丸くて小さい碑が「馬頭観世音」で、右下に微かに文字が読み取れた。



右側に 南 仙 台
    東 吉 岡
  明治三三年(注1902年)旧九月十七日 

左側には、施主 熊谷 松五郎と読み取れた。 
※この土地の先祖は代々名前に五郎の文字を使っているとのお話だった。


銅谷は、根白石の愛宕下「山神」へ繋がり、定義道のルートとなっていたと言われる。


左の碑は 「鉄鋳七福神」と「寛政十二・・・(注1800年)」と読めた。



※この銅谷地区は、昔々は銅の産地で鉄も取れたのでそれを祀ったのではないかというお話や、団地開発の際のお話などいろいろと聞くことができた。


何とも充実した気分になることができた。





木の枝にとまる雉

2015年03月28日 | 日記
気象庁発表の「仙台のウグイスの初鳴き」は確か3日月23日だったが、館蔭の杜では1週間ほど早い17日だった。
観測地点の違いだろうが、市内より気温が低いとされる館蔭の杜の方がどうして早いのだろうか。
きっと、館蔭の杜で春を感じた雉たちが、中山峠を超えて仙台に出掛けて行ったのではないだろうか。

ウグイスの姿を写真に写そうと杜を眺めていたら、遠くの木の枝に大き目の鳥がとまっているのが目についた。
雉のオスだった。
雉のオスはとても毛並が美しく、真っ赤なトサカに特徴があるのですぐに分かった。



それにしても、雉が木に止まっているのは余り見たことがない。しばらく動かずにじっとしていた。
具合でも悪いのかと少し心配になったが、5~6分して左に向きを変えた。



近くでチッ、チッと鳴く声が聞こえた。メス雉は雛鳥を連れて歩く時、いつもチッ、チッと鳴く。

姿は見えないが、館蔭の雉たちに雛が誕生したのではないか。お父さん雉が木の上からそれを見守っていたのではないだろうか。

      ・・・・・・・・

少しして、田起こし前の見回りに来たおじいさんが畔道を歩いて近づくと、雉鳥は飛び降りて藪の中に姿を消した。


館蔭の杜の本格的な春はもう間近だ。







上の宿・馬頭観音みちしるべ

2015年03月27日 | 日記
白石城跡から馬橋を渡って直進し、最初の角を右に曲がって200メートル位の左角に7~8つの石碑群がある。
上の宿の「みちしるべ」の丁度裏側にあたる。



この中の前列左の「馬頭観音像」に「みちしるべ」が彫られている。上の宿のもうひとつの「みちしるべ」である。



右側には、  「右ハ 川さきあみだ 
       弘化五年 (注1849年)




左側には   五月廿三日
       「左ハ 定ぎ路
           施主 善 藏


と記されており、ここも「定義道のみちしるべ」の一つと言うことができると考える。




実沢・原田下のみちしるべ

2015年03月26日 | 日記
古内の「去田のみちしるべ」から500メートルほど根白石方向に進んだ所のY字路右側(天理教前)に「原田下」と表示された市の史跡めぐり案内版があり、傍に数基の石碑が並んでいる。



その中の一番大きな「廻国六十六部宿供養」碑に「みちしるべ」が刻まれていた。



右側に小さく、微かに 「左ハはやさかミち」

              「安永二葵巳年」※市の説明書きによる  



左側には   「三月二十二日」

    「右ハ志ろいしミち」  と彫られている。
              


方角と書かれている内容を照らして考えると、この碑はY字路の中に設置されていたのではないかと考える。


◇古内の去田方面から碑を右にして実沢・根白石の方向を見たもの

ただし、どちらを向いていたのか腑に落ちないところがある。

去田の方(Y次の足の方角)を向いていたとすれば、早坂道は左であることから案内の方向と合致するが、碑の面の右側に彫られていること、また、根白石は右方向で案内のとおりであるが碑の面の左側に彫られていることがよく理解できない。

また、Y字路の方を向いていたとすれば道と碑の表示位置は合致するが、去田の方から来た人には碑の案内面が裏側になってしまって、みちしるべの用をなさないような気もする。

それとも・・・・やっぱり今の位置にあったのかも知れないなとも思うようになった。






根白石・小角のみちしるべ

2015年03月25日 | 日記

中山から泉ケ岳方面に進んだ根白石バイパスの入口付近、「柏原」という所に「みちしるべ」がある。



ガソリンスタンド向の田圃の道端にぽつんと立っている。



高さは約70~80センチ位のもので比較的古いもののようだ。



文字の彫りが浅くて判読が難しいが右側に2行、左側に3行にわたって記されている。



右側には、 「右ハ根のしろいしむら
     川さき阿みだ  道」

  

左側には、 左ハ田中むらより
      をうくらまで  道
      同定ぎ 
       

右脇には、 「宝暦十三年二月二十三日」とあり、約250年前に建立されたものと思われる。



また、左脇の下の方には、設置者と思われるものが彫られていた。
     
      「小角村川西中
        根白石村
          福沢西前若・・中」 

案内文と地図の方角が少し合わないので、元々は道路の反対側とか別角度に建てられていたのではないかと思われる。

   


春の雪

2015年03月24日 | 日記
上の孫娘が19日に小学校を卒業した。2番目は今日が終業式だ。

昨日、東京も桜の開花宣言をしたというのに、今朝は館蔭の杜は雪景色だった。
車の屋根には5センチほど積もっていてまだ降っている。


◇元日に杜の中程から顔を出した太陽が向こうの山(東)から登るようになった

折角咲いたチューリップも雪化粧して寒そうだった。



蕾が膨らんできた啓翁桜も、



海棠も綿帽子に包まれて固くなっていた。




考えてみるとまだ3月、この辺りでは昨日までの陽気が異常だったのかも知れない。




福岡・酒屋前のみちしるべ

2015年03月23日 | 日記
泉ケ岳への途中の「酒屋前」に定義街道のみちしるべがあると聞いて探しに出掛けてみた。
道沿いに石碑は沢山あったが、案内文字の書いたものは中々見つけることができなかった。
土地の人に聞いても「みちしるべ」そのものの存在を知っている人は余りいなかった。
車を走らせながら、先ず市の史跡案内の看板をさがしたが難しかった。
同じ道路を逆回りしてみてようやく案内板を見つけることができた。
路面と同じくらいの高さの田圃のあぜ道に立てられていた。車からは裏側を見る格好だったため目に入りにくかったようだ。



案内書に従って田圃のあぜ道を探しても俄かには探せず、20分以上も掛ってようやく探し求めることができた。



民家の敷地内と思われるような小屋の蔭に彼岸花が供えられて大小2つの碑が並んでいた。



大きい碑には、斜め左上に「左ハ 定ギ」、下には建立者名など5名ほどの名前が彫られていた。
時期の表示はなかったが刻字が鮮明で苗字まで彫られていることから比較的新しいものではないかと思われた。

小さな方は丸い馬頭尊像で、左側に「右ハくさ入 長四郎 立之」と読めた。 
建碑時期は安永四年(1775年)九月十五日で240年も前のものだった。


 

当時、この道は、朴沢方面から案内板のある方向に伸びていたものと思われるが、現在でも左前方は七北田ダムを通って「定義道」に繋がっており、右方向は泉ケ岳山麓の方向となっている。(「くさ入」は「鎖地区」を指すのだろうか?)

根白石・花輪のみちしるべ

2015年03月22日 | 日記
根白石花輪を経由する定義ルートの「みちしるべ」を訪ねて西田中(住吉神社)から花輪までやってきた。泉国際ゴルフ場と根白石バイパスに抜ける三叉路に「みちしるべ」を探し当てることができた。



ゴミ置場と隣接して一本の石柱と市の説明書きがたっていた。



まさに「道案内」専用の碑で、「南」の文字の下に縦3列に案内文が彫られていた。



 北  志ろ石まち

 南  せんだい 道
 
 西  上下阿みだ

建立は、安政4年(1857年)7月5日 で150年余り前のものだった。

方角的には、左前方は定義(泉国際ゴルフ倶楽部~七北田ダム、寿連原、白木を経由)の方向、後ろは仙台(住吉神社・中山経由)方面、右手が根白石町(上の宿)方向にあたり、



「上の宿のみちしるべ」が示している方向(左は定義)と合致するものであった。


当時の「道」は現在の根白石バイパスを横断する形で「上の宿」と「花輪」が繋がっていたのだろうと想像した。