「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

館蔭の杜は白石城跡(根白石字館下)

2015年03月14日 | 日記
館蔭の杜は「白石城の城址」である。
町の北東約300~400メートルに位置して、南東部からは断崖、北西部からは杉林に囲まれた平地の、南北約150メートル東西約100メートルの矩形の城跡である。


根白石観光案内版


杜の中には、宇佐八幡神社・兎口神社、栽松院の墓、黒川十一世及び白石参河守宗頼の墓、三十三観音堂などがあり、構内は公園化されて春には枝垂れ桜が美しい所である。

左手前が宇佐八幡神社(弘治2年<1556年>に遷座、右奥が兎口神社


栽松院の墓(享保17年<1732年>伊達吉村が再建したもの)


白石三河守宗頼の墓(木の脇の墓石)

墓石の前の花立には「白津」の文字が書いてある。

また、白石三河守の墓標の前には「黒川十一世季氏の墓」の墓標が建てられている。
墓標には「黒川十一世季氏は室町から戦国時代にかけて黒川郡を領した黒川氏の末裔である。十世義康は伊達政宗の家臣となって千石を知行したが寛永三年(1626)に没し、子がないため知行は没収された。甥である季氏は白石城の白石氏と姻戚関係にあったことから根白石田中に母と隠棲しこの地で亡くなった。」と記されている。
どれが季氏の墓石か定かではないが、脇に一族のものと思われる墓石が数基ならんでいるのでその中の一つではないかと思われる。

  
三十三観音堂


場内広場公園



この城は、応永30年(1423年)に白石三河守宗頼という領主が築城した。
※白石氏は代々「白石三河守」を名乗ったが、伊達氏の家臣となってから白津氏と改姓し、野村小菅に移り400石を領したと言われる。


館蔭の杜には「城郭」など建物跡は見当たらないが、土塁や空堀など要塞化された部分から城跡であったことが容易に想像できる。
※ただし、石垣跡などはなく「砦」もしくは「館(やかた)」イメージのものであっただろう   と想像する。

1.町の作りから推察できるもの
◆街並、道路の作りが卍型の迷路風で城下町の特徴強い
  (地図参照)

2.立地場所、地形から推察できるもの
◆立地・地形・・・東、南面は絶壁

東面・・現在は神社の参道石段(高さ15m位)


南面・・現在は栽松院の墓の参道石段(高さ10m位)


北面・・川に接した緩やかな斜面


西面・・田圃(平地)に面しており、右側に土塁が見える


◆平地に面する西、北には内と外に土塁(高さ3m位)とその間に空堀(深さ5m幅10m位)を造作

構内西側の土塁(この裏は空堀となっている)


西側構外の土塁と空堀(前の写真の外側)


3.地名から像像するもの
◆杜の北西部の地名は「館蔭」、南東部は「館下」


※徳川幕府は「一国一城令」を制定し、1藩に一つの城しか認めなかったが、仙台藩は仙台城のほか(根)白石城も許されていたという