陽気に促されて今日は近くを散策することにした。
家から2キロほど、車で5~6分の泉ケ岳よりの小高い山の上にあるという「鷲倉神社」を目指して車を走らせた。
案内標識に従って走ると道は狭くなり、少し心細くなりかけたところに鳥居が見えホットした。
既に参拝の方のものと思われる車が駐めてあった。
6~7世紀来の山岳信仰の神社という市の説明書きを横目で見ながら行く先に目を向けると、鬱蒼としてなおかつ相当な急勾配である。
しかも、足元は杉の枝葉が落ちていて絨毯のように弾力があるが極めて歩きにくい。
足が少し不自由な身にはいささか苦痛を伴うかもしれないと思いながらも、ここまで来たからには最後まで頑張ろうと思い直して昇り始めた。
すぐ左側に、丸い石群が目についた。
ここには昔二つの寺があったらしいが廃寺となって亘理の寺に統合されたといわれ、これは関係僧などの墓石ではないかと言われる。
100メートルほど進むと長く急な石段になり、更に延々と続いた。
赤い鉄の手すりが設けてあるが、ところどころ朽ちていて、掴まりながら10段も昇ると足がしびれ息が苦しくなって自分にはとても耐えられないなと弱気になる程であった。
登って来た段数とこれからの道のりを見比べながら気合を入れ直し、ようやく平場に辿りついた。15回以上は息を入れ直したと思う。
振り返って見ると自分でも関心するほどの道程だった。
階段はほぼ直角に折れて、もう一つ同じ位の長さがあった。
登った所には大きな梵鐘があった。割と新しいなと感じてよく見ると昭和28年製だった。
あえぐ気持ちを静めようと軽く一突きしてみたら、ゴオーンと柔らかく余韻の残る響きが周囲に木魂して足の痛みも少し和らいだ気がした。
更に7~8段の石段を上ると大きな杉の木の向こうに社が見えた。
杉の木はトテツもなく太くて大きい。根の周囲は11メートル余り、高さは30メートルを越え、樹齢は500年という説明書きがあった。
社は二層構えで奥の本殿は豪華な作りであった。
もともと、ここより更に高い隣の屏風岳の山頂に建てられていたものだが、伊達政宗が1604年にこの場所に建て替えをしたと伝えられている。
現在のお堂は明治時代に作り替えられたものという。
屏風岳は砕石場としてすっかり削り取られて今は山の体をなくしてしまっていた。
参道の狛犬や石灯篭は相当な年月を経ていると思われるものもあり、どのようにしてこんな難所に建造したものかと思いつつ、信仰心の強さというものを思い知らされるような気がした。
参道左側に大きな岩が据えられていた。「鞍掛の石」と言われ、屏風岳の山頂にあったものを移設したものだという。
屏風岳は蝦夷の反乱に備えた大和朝廷の陣地の一つでもあったということで、鞍掛の石は、睨みを利かすために山頂に据えたものだという。
・・・蝦夷の抵抗と大和朝廷との攻防、阿弖流為やら坂上田村麻呂、多賀城の柵のことなど、今、古代の歴史の舞台に立っているような臨場感を覚えた。・・・・
帰りは、急な階段を避けて裏手に出来た真新しい迂回道路を足を庇いながらゆっくりゆっくり歩いて下りた。
出口近くのところで来た道に合流した。
体には堪えたが、近くにこんな素晴らしいスポットがあることを目の当りにして、久々に満足感を味わうことができた。
ただ、だんだん足が攣って痛くなりだした。チョット無理をしてしまったかも知れない・・・・・
家から2キロほど、車で5~6分の泉ケ岳よりの小高い山の上にあるという「鷲倉神社」を目指して車を走らせた。
案内標識に従って走ると道は狭くなり、少し心細くなりかけたところに鳥居が見えホットした。
既に参拝の方のものと思われる車が駐めてあった。
6~7世紀来の山岳信仰の神社という市の説明書きを横目で見ながら行く先に目を向けると、鬱蒼としてなおかつ相当な急勾配である。
しかも、足元は杉の枝葉が落ちていて絨毯のように弾力があるが極めて歩きにくい。
足が少し不自由な身にはいささか苦痛を伴うかもしれないと思いながらも、ここまで来たからには最後まで頑張ろうと思い直して昇り始めた。
すぐ左側に、丸い石群が目についた。
ここには昔二つの寺があったらしいが廃寺となって亘理の寺に統合されたといわれ、これは関係僧などの墓石ではないかと言われる。
100メートルほど進むと長く急な石段になり、更に延々と続いた。
赤い鉄の手すりが設けてあるが、ところどころ朽ちていて、掴まりながら10段も昇ると足がしびれ息が苦しくなって自分にはとても耐えられないなと弱気になる程であった。
登って来た段数とこれからの道のりを見比べながら気合を入れ直し、ようやく平場に辿りついた。15回以上は息を入れ直したと思う。
振り返って見ると自分でも関心するほどの道程だった。
階段はほぼ直角に折れて、もう一つ同じ位の長さがあった。
登った所には大きな梵鐘があった。割と新しいなと感じてよく見ると昭和28年製だった。
あえぐ気持ちを静めようと軽く一突きしてみたら、ゴオーンと柔らかく余韻の残る響きが周囲に木魂して足の痛みも少し和らいだ気がした。
更に7~8段の石段を上ると大きな杉の木の向こうに社が見えた。
杉の木はトテツもなく太くて大きい。根の周囲は11メートル余り、高さは30メートルを越え、樹齢は500年という説明書きがあった。
社は二層構えで奥の本殿は豪華な作りであった。
もともと、ここより更に高い隣の屏風岳の山頂に建てられていたものだが、伊達政宗が1604年にこの場所に建て替えをしたと伝えられている。
現在のお堂は明治時代に作り替えられたものという。
屏風岳は砕石場としてすっかり削り取られて今は山の体をなくしてしまっていた。
参道の狛犬や石灯篭は相当な年月を経ていると思われるものもあり、どのようにしてこんな難所に建造したものかと思いつつ、信仰心の強さというものを思い知らされるような気がした。
参道左側に大きな岩が据えられていた。「鞍掛の石」と言われ、屏風岳の山頂にあったものを移設したものだという。
屏風岳は蝦夷の反乱に備えた大和朝廷の陣地の一つでもあったということで、鞍掛の石は、睨みを利かすために山頂に据えたものだという。
・・・蝦夷の抵抗と大和朝廷との攻防、阿弖流為やら坂上田村麻呂、多賀城の柵のことなど、今、古代の歴史の舞台に立っているような臨場感を覚えた。・・・・
帰りは、急な階段を避けて裏手に出来た真新しい迂回道路を足を庇いながらゆっくりゆっくり歩いて下りた。
出口近くのところで来た道に合流した。
体には堪えたが、近くにこんな素晴らしいスポットがあることを目の当りにして、久々に満足感を味わうことができた。
ただ、だんだん足が攣って痛くなりだした。チョット無理をしてしまったかも知れない・・・・・