「狩集のみちしるべ」から左折して50メートルほどのところを再度左折して久保地区の狭い田圃道を300~400メートル進んだ曲がり角に「みちしるべ」があった。
30~40センチの丸い石で、ガードレールの脇で見落としそうになるような位置だった。お参りの後の幣束がヒラヒラと閃いていた。
文字は鮮明でよく読み取ることができた。
上部に 右ハ 定ギ
左ハ 川さき阿みた八丁
下には 新沼屋庄兵衛 佐々木屋今吉 佐々木屋栄吉
松木屋義兵衛 阿部金右衛門
願主 沼田節行 とあった。
願主は「狩集のしるべ」と同じ名前であった。
こちらも設置時期の表示はなかったが、狩集と同様それほど古いものではないだろうと思われる。
位置は田圃道の道端にあり、左方向の道は舗装されているが、右方向は杉林へと続いた農道で更に先は「けものみち」風であった。
鷲倉山の方向に向いており「みちしるべ」に従えば、長谷倉川沿いに進んで「酒屋前」に至る・・・・・・今、「定義道」の中に佇んでいるようなそんな気持ちにさせられた。
30~40センチの丸い石で、ガードレールの脇で見落としそうになるような位置だった。お参りの後の幣束がヒラヒラと閃いていた。
文字は鮮明でよく読み取ることができた。
上部に 右ハ 定ギ
左ハ 川さき阿みた八丁
下には 新沼屋庄兵衛 佐々木屋今吉 佐々木屋栄吉
松木屋義兵衛 阿部金右衛門
願主 沼田節行 とあった。
願主は「狩集のしるべ」と同じ名前であった。
こちらも設置時期の表示はなかったが、狩集と同様それほど古いものではないだろうと思われる。
位置は田圃道の道端にあり、左方向の道は舗装されているが、右方向は杉林へと続いた農道で更に先は「けものみち」風であった。
鷲倉山の方向に向いており「みちしるべ」に従えば、長谷倉川沿いに進んで「酒屋前」に至る・・・・・・今、「定義道」の中に佇んでいるようなそんな気持ちにさせられた。