「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

作並街道(川崎・御櫃前)の道しるべ

2016年05月24日 | 日記
作並街道(国道48号線)の周辺に「道しるべ」を探してみた。
熊ヶ根を過ぎて作並方面へ進むと「ニッカウイスキー工場」入口の少し手前に「作並川崎」というバス停があるが、



その少し手前の48号線から分岐して並行して走る旧道と思われる道端に石碑群がある。



十基余りの石碑が横一列に並んで立っている。



この中の3つの碑に「道しるべ」が刻されている。

1つは、向って右から2番目の「有縁無縁供養塔」に記されている。
「文化七午年」(※1807年)「六月吉日」の碑である。



右脇に「右やくし道」とあり「村の長左エ門」という方が建立したもののようだ。



左脇には「左ハにつかわみち」とある。




二つ目は左から5番目の「子安観音」と思われる小さな碑に記されている。
「寛政八丙辰年」(※1796年)、「九月十七日」の風化が進んだ碑である。



右側に「右ハかのした もときゆもと みち」



左側には「左ハにつ川道」と刻してある。



三つ目は左から3番目の「南無阿弥陀佛」の供養碑に記されている。



右側に「延享四丁卯龍」(※1747年)の年号と「右さくなみ道」



左側には「孟冬下旬」(※陰暦十月下旬)の建立時季と「左につかわ道」の案内がある。




これらの「道しるべ」は左は「いずれも新川」を指しているが、右は「作並、湯本、薬師」など案内先が区々である。

「作並、湯本」は作並温泉のある方面、「薬師」は近くの「穴薬師」を指すとすれば、これらはともに北西側にあり、90度位以上左(東向き)に向いていなければ案内先と方向が一致しない。

大胆に推測すれば、これらの「道しるべ」はその後の開発・道路変更などに伴って周辺からここに移設されたと思われるが、その際、もとの方角とは関わりなくこの道路に沿って南向きに建て替えたのではないだろうか。








定義街道(下倉)の道しるべ

2016年05月20日 | 日記
定義街道(県道55号線)を赤坂から山道を通って大倉方向に向って進むと「下倉」というところで熊ヶ根からの県道263号線と合流する。


55号線は右にカーブして坂を上り大倉ダム、定義へと続くが


(右の木の蔭の広場の中に石碑が並んでいる)

その袂のところに小さなお堂と沢山の石碑が立っている。
礎石の状況から見て、おそらく周辺から移設したと思われるものが多いが、



前列向って右側の黒っぽい碑が「道しるべ」となっている。



中央に大きな文字で「右 ぢゃうぎ道」の案内文字が、右には「安政四年十月」(※1857年)の年号が刻されている。

左に「是ヨリ一り三十丁」(※約七キロ)と距離が表示してある。

※道の状況から見て、この「道しるべ」は交差点の角あたりに今とは逆向きに建てられていたと推測される。また、この「道しるべ」は設置時期(安政4年10月)、文字体などの体裁から「矢籠」及び「滝の上」①の「道しるべ」の一つと設置者、石工は同じだろうと推測される。

その右隣にある、上半分が欠落した柱状の碑も「道しるべ」と思われる。



「・義如来四十五丁」とあるのは「定義如来まで四十五丁」の道程標ではないかと思われる。

ただし、隣の碑は「1里三十丁」に対し、この碑は「四十五丁」と距離の表示が異なることから、この碑はもっと先にあったものと推測される。

もう一つ、後段中央あたりの「南無阿弥陀仏」碑の右脇に「右ハ上下」と読めなくはない文字が彫られている。



これも定義への「道しるべ」と思われる。



ダムなどなかったその昔、落合、赤坂方面からの定義詣の人々はここを右折して川沿いの道を北に向って歩を進めたことであろう。




定義街道(滝の上)の道しるべ②

2016年05月19日 | 日記
「滝の上」にはもう一つの石碑群がある。

坂の昇り口の石碑群から15メートル位しか離れていないが5基ほどの碑が並んでいて、その中の2つに「道しるべ」が刻まれている。



1つは、向って右端の「南無阿弥陀佛」の供養碑に彫られている。

蔦で年号が見えないが「天保十年七月三十日」(※1839年)の日付がある。



道案内は、日付の右側に薄く小さ目であるが「右ハ上下」と記されている。



「右方向が定義」と、他の道しるべとは逆方向の案内となっていることから、当時は道の向側にあったものではないかと想像する。


もう一つの道しるべは、右から二番目の「馬頭観音像」に彫られている。
「天明二寅年」(※1782年)の年号があり230年余り前の古い碑である。



右側に、微かに「右ハ志ろいし道」の案内文字があり、当時から「根白石が定義詣でのルートのひとつになっていた」ことを示しているのではないだろうか。
あるいは、定義詣りと並んで人気のあった根白石の「川崎阿弥陀」への道しるべとなっていたのではないだろうか。



左側には「八月吉日」の日付と不鮮明であるが何とか「左ハ上下道」と読み取れる案内文が彫られている。



下隣にある石碑群と合わせて多くの道しるべ」が「「定義道は左」と示しており、ここから北に伸びている道が当時は「定義への本道であった」のではないかと想像するに難くない。


これまで「定義街道」を中心に「道しるべ」を探してきたが、案内先に「定義」と「上下」の二つの表現がある。
どちらも「定義如来」の方向を指すとの前提で、何故二つの表記があるのか疑問に思いいろいろ考えてみた。


「定義如来」「大倉の上下という地区にある」ことから、お寺そのものを指すのか、場所を指すのかの違いで同じところを案内していることに変わりはないと納得することにした。








定義街道(滝の上)の道しるべ①

2016年05月18日 | 日記
県道55号線を「矢籠の道しるべ」の所から左折して坂を下り橋を渡ってS字の道を昇りきった所に2つの石碑群が隣接してある。



「滝ノ上」というバス停のところである。


(「滝ノ上」バス停から来た道の方向を見る)

昇り坂の直ぐのところには大小6基の石碑が並んでいる。



左から2つ目の碑と右端の碑に「道しるべ」が記されている。
左側の碑は供養碑などではなく、道案内のために建てられた「純粋な道しるべ碑」のようだ。



中央に「左 ぢやうぎ(※定義)道」、左側に「古(こ)(れ)ヨリ十六丁」とある。
※「古連」は変体仮名表示

年号は「安政四年十月」(※1857年)となっている。



右端の碑は「馬頭観世音」碑で風化が激しい。

左右に「弘化三午歳」(※1846年)「十月十七日」の日付が記されている。



道案内の文字は日付の左側に微かにではあるが「左上下道」と読み取ることができる。


二つの碑が案内する左方向には、北に向って山道風の細い道が伸びるているが、これが当時の「定義への道」だったのだろうか。



定義街道(矢籠)の道しるべ

2016年05月17日 | 日記
定義街道(荒沢口)の道しるべからほんの数百メートル定義方向へ進むと、道が左に分岐しているが、



その三叉路の袂に7基ほどの石碑が並んでいる。
どれも小さくて草に埋もれるようにして立っていて、相当風化が進んでいるようだ。


(手前に「ゴミだし小屋」がある)

一番左の石には「左ぢやうぎ道 是より二十丁」とあり、右側に「安政四年十月」(※1857年)と彫られている。



中程の碑には、太く力強い文字で「左定義」とある。
右に「昭和九年・・」と見えるが意外と新しいようだ。



右奥の小さな碑は「南無阿弥陀佛」の供養塔のようで、相当風化が進んでいて見にくいが、案内文は「右ハ山道 左ハ上下」と読めなくはない。
右側に「文化十二年・・・・」(※1815年)と書かれている。




これらの碑が当時からここにあったとすれば、県道55号線ができるまでは「定義」は左に分岐した道の先にあったということになる。



定義街道(荒沢口)の道しるべ

2016年05月10日 | 日記
大倉ダム脇の大倉小学校から県道55号線を定義方面に向って北上すると、3キロほどの「歓迎・定義如来」看板を過ぎたあたりの右側に石碑群が見える。



それは木立の中まで連なっており、山の信仰碑、念仏供養碑などさまざまで大小合わせて十数基はある。



その中の奥まったところにある比較的大きな「馬頭観音」碑に道しるべが記されている。

「明和元甲申歳」(※1764年)「十一月十七日」の日付がある。250年ほど前の碑である。



道しるべの案内文字は、向って右側に「左ハあら沢」とあり、



左側には「右ハ大倉」と刻まれている。



これまで見てきた道しるべは、ほとんど右側に右方向の案内が左側には左方向の案内が彫られているが、この碑は逆の位置に書かれているのが珍しく思われた。

現在の地図上「大倉」は定義如来の近辺にあたり、この道を直進した先にある。
したがって、碑に向って見たときに大倉は「右方向」だとすれば、この「道しるべ」は道路の反対側にないと辻褄が合わない。

ダムもなかった遠い昔の道路は今とは大きく迂回しながら続いていたのかも知れないが、それにしても 「考えさせられる道しるべ」ではある。




青葉区郷六(新落合橋)の道しるべ

2016年05月10日 | 日記
芋沢から国道457号線を仙台方向に進み、大竹新田の交差点を県道55号線(仙台定義線)に入ると1キロ位の所の右側に比較的大きい石碑が1基立っている。

(右上に赤く見えているのが「新落合橋」)

作並街道を通った場合は「新落合橋」を渡った(徒歩通行)対岸にあたる場所である。



石碑は「南無阿弭陀佛」の碑で「元文参稔戌午」(※1738年)「弐旾二十七日」の元号があり約280年位前の古いものである。


(文字は旧漢字が使われていて表示できないものもある)

この碑の両側に「道しるべ」が彫られている。

右側には「右ハ大くら道



左下には「左ハあやし道」とある。



この道は、現在も「大倉・定義」へ続いており、「右ハ大くら道」の案内は違和感がないが、「愛子」は川を越えてむしろ右方向の先にあることから「左ハあやし道」の案内は少し不自然に思われる。

「ここの橋を渡って道が右方向に道がのびていたのだろうか、この碑はもっと手前の「大竹新田の交差点」あたりにあったのではないか」などといろいろと想いを巡らしてみた。




泉区野村(向八木沢)の道しるべ

2016年05月08日 | 日記
泉パークタウンの中央を南北に走る「県道264号線」を北進し、「泉パークタウン入口」の次の信号を右折して300メートル位進んだ左角に小さなお堂があり、その前に10基余りの石碑が立っている。



ここは以前(平成15年4月23日)に「実沢~古内近隣の石碑」の一つとして紹介したことがあるが、この中に「道しるべ」があることが分かった。

それは向って左から4番目の「馬頭観世音」碑に刻まれている。

年号は「嘉永元年」(※1848年)「十月十七日」となっており170年ほど前に設置されたものである。



道案内文は、向って右側に「右ハ石倉」とあり、右方向の道は今も県道264号線沿いにある「大和町小野・石倉」方面に続いていたものと思われる。



左側には「左ハ白石道」とあり「根白石」方向への案内文が刻されている。



この方向には現在「県道35号線」(泉ケ岳通り)が通っているが、この沿線上には、既に紹介したとおり「実沢去田」「実沢天理」「実沢林泉寺」などの道しるべがあり、いずれの道しるべも「根白石」を案内したものとなっている。

「根白石」は「川崎阿弥陀」の本拠地でもあり、また、「定義薬師如来」詣りの中継地としても位置づけられていたようで、根白石から「定義」へ続くいくつかのルート上に多くの「道しるべ」が残されている。








市道熊ヶ根青下線(大倉新田)の道しるべ

2016年05月07日 | 日記
熊ヶ根から県道263号線を大倉方面に進み、途中、左折して市道(熊ヶ根青下線)を1キロ位進むと右側に「水道記念館」がある。



そこから更に1キロ程度進むと三叉路の左に2基の石像が立っている。



右側の「馬頭観音像」「道しるべ」が記されている。



向かって右側面に「明和四年五月八日」(※1767年)の日付と、「右ハ大くら道」の案内がある。



左側には「左ハあを志た道」とある。



「あを志た道」とは「青下」を指すと思われるが「青下」地区はこの道を直進した先にあり、道しるべの案内とは逆方向にあたる。

このことから、この像は、もとは道路向側の三叉路角にあったのではないかと思われる。

また、三叉路には現在「この先行き止まり」の表示があるが、当時は「定義」へと通じていたのではないかなどと想像してみた。




定義街道(大倉小学校前)道しるべ

2016年05月06日 | 日記
根白石、福岡から七北田ダムを通って県道263号線を西に進むと、大倉ダムの東側畔で県道55号線と交差する。
その角地(大倉小学校前)に十数基の石碑群がある

(直進する先が県道55号線定義方面、右方向が県道263号線根白石方面)



その中に2つの石碑に道しるべが画かれている。

一つは、上段中央の「馬頭観音像」に刻まれている。

上部の 右に「明和四丁亥年」(※1767年)、左に「三月十三日」の日付がある。
約250年前に建てられたものである。



向って左側の案内文字は、小さいが「左ハ同村内のやこめ 上下までの道」と読むことができる。



来た道を右折してダム湖沿いに進むと「矢籠」地区、そして「定義山西芳寺」がある。


右側の案内は「右ハ志やぶのま道 ふくおか道」となっている。



「ふくおか道」「根白石・福岡」を、「志やぶのま道」は来る途中にあった「菖蒲沼」を指すものと思われる。

すなわち「右ハ」は現在の県道263号線を指すものと思われる。


もう一つの道しるべは最前列右から3番目の「南無阿弥陀仏」碑に刻まれている。



「弘化五申年」(※1848年)「正月十一日」の日付があり、約170年ほど前の碑である。

案内文は、向って右側に「右ハ白石エ二り」



左側に「左ハ上下エ一り」となっている。




この角に建つ多くの石碑は周辺にあったものを後にここに移設したものと思われるが、二つの道しるべは、案内の内容から推測して、ともに当初からこの位置にあったものと考える。