「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

我が家のペット(猫)

2015年01月31日 | 日記
我が家の猫は名前を「プリン」と言う。男の子で今年で19歳位になる。
(人間の年齢では100歳にはなるのではないかと思っている)
まだ小さかった娘たちが前々からペットを欲しがっていて、前に住んでいた一戸建を買って間もなく「たまたま捨て猫を見つけた」と言って飼い出したのが始まりである。
アメリカンショートヘアと雉猫の相の子のようで、小さくて本当に可愛かった。名前も子供たちがつけた。



初めは娘達が「かわいい、かわいい」と牛乳を買ってきては哺乳瓶で飲ませるなど一生懸命世話をしていた。
今でもミルクやクリームの匂いに敏感ですぐに寄ってくるのは母乳代わりの牛乳のせいなのてはないかと思っている。

その後、黒猫の「五右衛門」という猫と2匹になり仲良く育っていたが、



五右衛門は、外で車にはねられたらしく、尻から血を流しながら家まで帰って来たものの、たどり着いた途端に倒れ込み、内臓破裂ということで安楽死となってしまった。
気性の激しい猫だったが、瀕死の状態でよく家まで辿りついてくれものだと思うと、猫の気持ちが察せられるようで不憫なことをしたと今でも思っている。




プリンにも大きな出来事があった。
夜、外に出たがり、危ないので戸締りをしていたが、天窓の隙間から脱出して行方不明になってしまったことがある。
しばらく戻らなかったので、事故にでもあったかと半ば諦めていたところ、1週間位して突然戻ってきた。爪が擦り減ってすっかり痩せていたが、よくまあ戻ってきたとみんなで涙して喜んだことがある。
また、また、今の家に引っ越してきた直後は、環境の変化に馴染めず、すぐに押入れの奥に入り込み、何日も出てこないこともあった。これは猫の習性のようだ。


こんなプリンも子供達が大きくなるにつれて親が世話係になって今日に至っている。

プリンは痩せてヨタヨタするようになり、口も臭いので孫達からは時々敬遠されがちになってきた。



それでも、名前を呼ぶとその都度返事をするし、女房には何かの拍子に「抱っこしてほしい」と手を伸ばして来る。

小さい孫達が、時々母親にせがんでいるのと同じだな・・・・と思っている。


追 伸(2018.8.20)
 
昼過ぎにプリンが死んだ。23、4才で人間の年齢では推定120才位にあたる。
3日前から餌を食べなくなり、歩くことも難しい状態だった。
呼ぶと「はい・・・」と弱々しく応えていたが、後に「ハーッ」という息だけの反応になり、女房に撫でてもらいながら旅立った。

夕方、女房と孫娘と3人でペット斎場にお願いしてお別れをしてきた。
骨の引き取りをお願いしたが、個別の火葬は満杯で3日以降しか予約できないということでやむなくそこでお別れをしてきた。

さようなら「プリン」。 数えきれない思い出をありがとう。
先に逝った「五右衛門」や犬の「ジャッキー」「リュウ」達と仲良く遊んでほしいと祈るばかりである。








成田山と東京スカイツリー

2015年01月21日 | 日記
千葉にいる娘の招きで新築した家を見に行って来た。ついでに成田山の中にある「書道美術館」を案内して貰った。



妻の子供の頃の書の師匠の作品が掲示してあるかも知れないということで探したが見つからなかった。


寺院の敷地の広大さと歴史を感じる建物の多さに圧倒されたが、参道の人の賑わいやうなぎ料理の店と外国人の多さにも驚かされた。



帰りに、東京スカイツリーにも立ち寄ったが、間近で見上げても視野に入り切らず、遠くから見る姿の方がそれらしいと思いながら帰って来た。




「灯台元からも暗し」・・・・・・





弘安の碑・板碑のこと

2015年01月19日 | 日記
白石城跡と川を挟んで500メートルほど隔てた田圃の脇に「弘安の碑」がある。「上の宿」のバス停より100メートル位左手前の田圃の中にある。



高さ1メートル位の石碑で周りに稲縄が回されていた。
表面に微かに梵字でお釈迦様を表す「バク」という文字が見え丸い石碑と並んでいた。         

これは、弘安時代(1285年)に建てられた「板碑」(いたび)といわれるもので、全国各地にあるというが、「弘安の碑」はこの地域では最古の石碑だということである。



亡くなった方の追善供養とか病気回復・生活安寧などを願ったものとの市の説明書きがあった。


西田中の住吉神社から泉国際ゴルブ場に向って300メートルほど進んだ所の右側にも板碑がある。
「柿屋敷の板碑」と呼ばれている。




この板碑は、庚申供養塔や獣魂碑などと並んで泉ケ岳を背にして建てられているが、土地の整備によって移設されたものらしい。

この碑は、梵字で「ア」と書かれており、古来「眠りの神様」として子供の夜泣き封じを祈り、不眠症の人は碑面を上から下に撫で下ろして願をかけ、寝てばかりの人は撫で上げて祈願したと言われている。

設置時期は不明であるが、隣にある庚申供養塔は正徳3年(1713年)に建てられたものでした。





古内・去田のみちしるべ

2015年01月18日 | 日記
根白石から実沢を経て加茂神社方面に向かう途中の谷沢川方面との交差点角に7~8基の石碑群がある。



中央の大きな観音像にみちしるべが彫られている。
以前、中山に住んでいた時に一度見たことがあるが「頼朝ここを通る」と書いてあると記憶していたので、改めてじっくり見てみた。



相当古い碑で文字の判別がなかなか難しいものがあったが、右下に 「右ハ くろ川」と読めた。



左下には 「左ハ ・・・」とあるが風化が激しく判読は難しかった。
記憶の中にある「頼朝ここを通る」の文字などは他の像を含めて探してもどこにも見当たらなかった。  



脇にある市の「史跡めぐり」の解説書きを読むと「右ハくろ川、左ハ志ろ石」と「宝暦8年(1758年)10月吉日」の設置時期の表示の解説、「文治元年(1189年)頼朝が奥州に向う折、陣を張り立ち去った所・・・・」と地名の由来が記されていた。



設置場所は移されたというが、像に向って左方向は根白石方面へ、右方向には昔は「奥州街道」が通っていて、街道を北に向うと黒川、大衡方面へと続いていたのだろう。


「頼朝ここを通る」のことは、自分が説明書きの内容と「みちしるべ」の表示を混同して記憶していたせいかも知れない。



太桂山・満興寺(根白石字西上)

2015年01月17日 | 日記
根白石城から橋を渡ったすぐのところ「旧門前町」に「太桂山満興寺」がある。



永徳2年(1382年)に開山された古刹の一つと言われているが、現在の建物は明治時代に民家を移設して建替えられたものといわれている。



入口に掲げられている「太桂山満興寺」の扁額



ここには栽松院の位牌が夫、晴宗、伊達政宗の位牌とともに祀られている。


伊達政宗の位牌と伊達晴宗(夫)の位牌(右)


栽松院の位牌

山門は、平成25年に建て替えられ新しいが、脇にある山門の由来書に「もともとは青葉城の辰ノ口にあったものを5代藩主伊達吉村が宝永6年(1709年)に福岡地区の永安寺に移設した」が明治になってこの寺に移されたと記されている。




山門の説明書きと古い山門の写真




ここには「満興寺の七不思議」といわれるものがある。諸説あるが・・・・・・・・

  ○ 境内の桂の木が一夜で成長した
  ○ 境内で蛙の鳴き声がしない
  ○ 軒端の雨だれの音がしない
  ○ 境内に棲む白狐が村の変事を前もって告げる
  ○ 寒中でも蝮が出る
  ○ 住職が亡くなると池から無縫塔が現れる
  ○ 清水がほしい時どこを掘っても湧き出す


との内容で地元の民謡などにも唄われている。

なお、本堂には開基600年を記念して掲げられた「七不思議」の額があった。



もうひとつ、山門前に「不容葷酒入山門」と書かれた碑がある。



故郷の菩提寺の入口にも同じようなものが立っていて、墓参りの度に戦時中の戒めではないかと長年、不思議に思っていた。

これは「葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」と読み、「ニンニク、ニラなどの匂いの強いものや酒を寺の中に持ち込んではいけない」という修行者に対する戒めという。



栽松院(伊達政宗の祖母)の墓

2015年01月16日 | 日記
館蔭の杜の中、白石城の城跡に伊達政宗の祖母栽松院の墓がある。
城跡の南東側に「消えかけた文字で「栽松院の墓」と書かれた小さな立札が立っている。



その先は急な古い石の階段となっている。



上ると正面に大きな丸い石塔と右に白い説明板が見える。



高さ5尺ほどの卵型の墓石には戒名「栽松院殿月盛妙秋禅尼大姉」と行年(文禄3年・1594.6.9)がが書かれている。

墓石には今でも時々花が供えられたりしている。



また、墓石の後ろ側には、建立の経過など碑文が刻まれている。





説明書きを元に要約すると次のとおりである。

「栽松院の姓は平氏、幼名は久保姫、晴宗の妻となり輝宗を生んだ。後年、根白石に住んだが、没後遺言して福島(杉の目)にある夫の菩提寺と同じ名の「宝積寺」を建てさせた。
近くの五輪の墓に祀られていたが、荒廃して字が読みとれないので、享保17年(1732年)に子孫の伊達吉村が良質の石を磨かせて法号を刻みこの墓を再建した。」
・・・・という。

隣には三十三観音堂がある。19世紀の初めごろ村人たちが栽松院の安寧を願って安置したと言われている。





ここから見下ろす南側一帯の住所は「宝積寺前」となっており、また、中間の道路脇に円形の小さな田圃があり、これは寺の山門跡だと言われている。



因みに、町内にある「太桂山満興寺」には栽松院の位牌が晴宗、政宗の位牌と並んで納められている
・・・・・と言う。









根白石村名起因の石

2015年01月16日 | 日記
根白石の町の「判在家」というバス停脇に「根白石村名起因の石」という大きな石がある。


 ◇根白石から中山方面を見る



昔「源頼朝が奥州に向う途中、七ツ森で巻狩をした際、家臣が白い大きな鹿を追い詰めて見事射止めたが、これが鹿ではなく足元の白い大きな石であったという。頼朝は珍しい石に大いに喜び、ここを「根白石村」と呼ばせることとしたという。



これを見ていた住民が感激してこの辺りを「判在家」と呼び石神として祀るようになったという。現在の石は、村発祥8世紀の記念として村民有志がここに建てたものという。




銘の末尾にある「発祥地」を探した結果、左奥の田圃の角にそれと思われる碑を発見した。

1.5メートル四方位の台座に30センチ位の小さな石碑があった。


石碑には「※梵字?石神」とあり、その両側に享保十・・・と読める小さい文字が見えた。


約290年位前のもになる。










今年も胡蝶蘭が咲きました

2015年01月15日 | 日記
窓辺に置いてある胡蝶蘭が今年も咲いた。


12年目の胡蝶蘭

上の孫の誕生祝いに戴いたものだが、たまに水をやるだけなのに毎年咲いてくれる。
その孫娘が春には中学生になる。
少々、手数はかかるが優しく大きく咲いてほしいと願っている。




館蔭の杜のどんと祭

2015年01月14日 | 日記
館蔭の杜に「宇佐八幡神社」と「兎口神社」という二つの氏神様が祭られている。


 兎口・熊野神社

今日はどんと祭の日、暗くなるにつれて、杜の木立を通して火の明かりが揺れて見え出したので、妻と表参道から長い階段を登って神社にお参りし、境内で燃え盛る火の中に正月飾りを投げ入れてお送りした。


 根白石どんと祭

こじんまりとして静かなどんと祭であるがいつもの年より有難味を感じるものがありました。

2015年01月13日 | 日記
館蔭の里にはいろんな鳥がいます。

雉はここに住み着いているようで、時には家の庭にも訪問したりします。
また、地震にとても敏感で震度1以下の時も大きな声で知らせてくれます。


 庭に雉が訪問

田植えの終わった田圃には、ゴイサギやコサギが来て餌を啄ばんでいます。


 ゴイサギ

コサギはペアで訪れることが多いんです。




2月になると、白鳥たちが目の前まで集団でやってくる。
近づくと、揃って”しずしず”と距離を保って後ずさりするのが面白い。