「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

5月が往く

2015年05月31日 | 日記
今日で5月が終わる。
ついこの間まで、春の訪れを喜び花々の咲き盛る姿に心も癒される思いがしていたが、気が付くと季節はアッと言う間に移り替わっていく。

「館蔭の杜」に眼をやると、もう稲苗の列がしっかりと並んで見えるようになってきた。



田起こしが始まったなと眺めていたのは、確か今月の初め頃だったと思う。




庭の小さな菜園も、植えたばかりと思っていたキウリやトマトが、例年より気温が高いせいか支柱が要るほど伸びて、実を付け始めているものもある。



待望のミニ耕運機を手に入れて、喜んで土起こしをしてからそれほど経ってはいない気がする。




3年位前に、ホームセンターから買ってきた果樹も、花を楽しんでいるうちに実が大きく膨らんできた。

1本の幹を間違って切ってしまった南高梅が10個位実が生って少し黄味がかってきた。



去年、10個も生らなかった李(スモモ)も、ポンポンで交配を促したら実がいっぱいに生りすぎて、そろそろ選りをしないといけなくなってきた。



2本しかないブルーベリーも実が青く膨らんでいる。



山桜桃(ユスラ)梅は実の数が去年より少ないが、実の大きさを期待できそうだ。



姫リンゴも実の数は去年より少ない。1年おきの周期ということだろうか。



特徴的なのは「啓翁桜」だ。
春にあんなに花をつけて楽しませてくれたのに、今度は真っ赤な実を付けてくれている。



まるで「さくらんぼ」といった形をしている。
5年前、正月の花が終わった後に挿し木したのがこうして実を付けるまで育ったのが不思議なくらいである。


 ◆満開の啓翁桜

その点では「花海棠」も意外に沢山の実をつける。



「花海棠」の名は植木屋さんから聞いたものだが、去年に続いて今年も一杯実をつけてくれたので、「海棠」の方がふさわしいと思っている。


 ◆咲き乱れる花海棠


5月になって咲き始めた花は多いが、既に散ってしまったものも沢山ある。

今日も咲いてくれている花は

杜若(かきつばた)?



芍薬(シャクヤク)



薔薇(バラ)



クレマチス



ジャーマンアイリス



撫子(なでしこ)、松葉菊 などなど・・・・・・


庭の芝生の中の雑草が目立って長くのびてきた。




鶴ケ峯八幡宮(大和町)

2015年05月30日 | 日記
国道457号線を宮床から吉岡方面に進むと「大和町運動公園」入口の手前400メートル位の左側に「鶴ケ峯八幡神社」がある。



鳥居の右に出羽三山など4基の石碑があり、その脇に神社の説明書き、さらに奥には社務所が建っている。



説明書きは、名称が「鶴ケ峯八幡」となっていて、宮の沿革が詳細に書かれていた。



古来八幡宮があった。
長徳元年(995)に宮内少輔が 京都の賀茂明神の御幣を申し下して鶴ケ峯に勧請して、宮中 大明神として祀った。
鴇田淡路実清が斯波宮内大輔氏直(黒川氏)の家臣となり、 信州より諏訪明神を勧請して、宮中八幡に祀った。
諏訪明神に神剣の怒撃丸(正和四年<1315>備前景光作) を鴇田氏が奉納した。
元和七年(1621)二月、伊達政宗が社参した。
宝永元年(1704)八月、五代藩主の吉村が社参した。
同年十月、社領三十石の地を伊達吉村が寄付した。
享保十五年(1730)藩主吉村が八幡宮を造営した。その後たびたび吉村の社参があった。
延享元年(1744)六月、六代藩主の伊達宗村が社参
安永三年(1774)七月


<宮城神社庁の解説>
宝永元年に藩主伊達吉村(獅山公、宮床領主田手氏の出)社参の節、「一ノ宮」の社号が、鹽竈大社と紛らわしいというので「宮中」と改めた。
享保15年八幡宮を新造した際、「賀茂神」をはじめ鴇田伊豆国種(宇和多手城主)の建てたという「諏訪」と「稲荷」「愛宕」「白山社」を末社とした。


鳥居から真っ直ぐの道を進むと右側に神社の登り口があり、3段階にわたる急な石畳みの階段が続いていた。



階段の石は、神社の古さを覚えるほど擦り減って不規則に並べられたものであった。



階段を登りきると狛犬の先に拝殿が迫って見えた。



拝殿の正面には「八幡宮」の社額が掲げられ、



その奥に高床式の本殿が連なっていた。



八幡宮の左に朱塗りの小さな祠が並ぶように建っていた。



この祠は、伊達氏の前の領主であった鴇田国種(黒川氏の家臣)が祀った「諏訪神社」で、後に八幡神社に合祀されたとの説明書きがあった。



その奥に梵字を彫り込んだ5基の古い仏像が並んでいたが、



その一つに「黒川郡宮床村 原添聖観音菩薩 (享保2年1717>9月15日)と彫られていた。



また、左奥には、陶製の小さな祠がいくつも並んでいた。




明治9年に社殿は消失し再建されたとのことであるが、この神社の杜には歴史を感じさせるものがあった。







中野地蔵堂(宮床・久保田)

2015年05月29日 | 日記
国道457号線を大和町方面から仙台方面に進み、コンビニ前の信号を左折して宮床町内に向い100メートル位の右側に「中野地蔵堂」がある。


 ◆道路側から見たお堂入口と全景


 ◆正面から見たお堂

入口右側に、「山神」や「湯殿山」などの石碑の後ろにこの地蔵についての説明書きがある。


 ◆石碑は嘉永2年(1849),安政4年(1857)のもの

また、左側には大和町の文化財指定の木柱もあり、地蔵堂についての概略説明が書かれている。



この地蔵堂は、享保7年(1722)仙台藩五代藩主伊達吉村の生母である宮床伊達初代宗房夫人の貞樹院松子が建立したものである。

地蔵は、国見の巌を仙台の石工に彫らせたという178センチもある大きな座像で、子育て地蔵として近隣の信仰を集めている。



地蔵が完成して、この地に運ばれる時「中野の土橋を地蔵が渡り終えた途端、土橋がどっと水中に崩れ落ちた」の逸話なども書かれている。
※「中野橋」はこの先100メートル余りのところにある。

広いお堂の中には、座像のほか両側に子安観音像と思われる石碑や小さな石像もあった。



地蔵は赤い帽子と袈裟をまとって両手を膝の上で重ねた姿をしており、仏壇には供えものや真新しい花も飾られていて現在も信仰の厚いことが感じられた。



境内の周囲には小さな地蔵や数多くの石像が建てられていた。




鎮座して以来、宮床伊達家が宵祭りから大祭まで施行していたが、明治になって競売に付され、地元の方が落札したという。





飯石明神社(小角・館)

2015年05月28日 | 日記
根白石消防暑の右脇の道路を入って200メートルほどの突当り左側に「飯石明神社」がある。
ここは「小角城」の跡地内で、城主と言われる古内鉄右衛門の別荘地跡といわれるところである。



コンクリートの細い参道の奥に鳥居があり「飯石明神社」の社額が掲げられ、



その先の階段を上った小高いところに拝殿がある。



拝殿の中には石造りの本殿が納められ、前の箱の中に「奥州宮城郡国分小角村、飯石明神幣帛・・」の木札が立てられ、箱の中に沢山の小石が入れられていた。
※ 幣帛(へいはく)= 神様へのお供え物の総称



鳥居の脇、山茶花の生垣に隠れるようにしてこの神社の由緒沿革の説明書きがあった。



それによると、安永元年(1772)の封内風土記の小角村の項に「古内鉄右衛門真永の別荘地に飯石明神社があり、そこに父母石があって、小石が年々増え続けて、今では128個にもなっている」との記録がある。
「今では花輪川の脇の土塁の上に立っている祠の周りに数百個は下らない数になっている。」と書かれている。

この神社は、子どもの夜泣きに霊験あらたかとされ、祈願するものは祭られている小石を1個借りていって病児の枕元に置き、願いが叶うとお礼に子石を2個にして返したといわれている。
このため、小石を生む神社とも言われるようになったと伝えられている。


なお、島根県飯石郡三刀屋町に「飯石神社」の本社があり、そこにも小石を生む伝説があるということも書かれている。



若宮八幡宮(小角・宮)

2015年05月27日 | 日記
「国道457号線を愛子方面から進んで根白石バイパスに入るところ、西田中川に架かる「いしだばし」の東南側袂の田圃の中に「若宮八幡宮」がある。

道路面よりかなり低いところにあるため、通常は車から見ることは難しい位置にある。



鳥居からお堂、周りの柵まですべて御影石造りで、建立後余り経っていない印象であった。



鳥居には「若宮八幡宮」の石造りの社額が掛っていて周囲の下草はきれいに刈り込まれていた。



お堂には小さな鈴が一つぶら下っているのみであった。



この社は、別称「田の中八幡」と呼ばれていて、近くにあった古城「小角館」の主である古内家の氏神だったといわれる。
近年の国道457号線(根白石バイパス)の拡幅整備により近接地から現在の場所に移転新築されたものである。
鳥居の下のところに寄進者名とともに「平成14年7月建立」と彫られていた。

若宮八幡は全国各地にあり,祭神を八幡神である応神天皇の子の「仁徳天皇」(大鷦鷯尊 おおささぎのみこと )としており、この神社も同じと考えられる。

なお、若宮は荒れ宮で気性の激しい神様とされている。




神明社(根白石・年川)

2015年05月26日 | 日記
根白石駐在所前から泉パークタウン寺岡方面へ200メートル位のところに七北田川に架かる「年川橋」があるが、そこから60メートル位先を左に入って直ぐのところに「神明社」がある。


 ◆神明社への入口側から根白石駐在所方向を見たもの

「年川集会所」の直ぐ横に真っ赤な鳥居が立ち、その正面に古い覆屋に抱かれた祠と右隣には真新しい赤い覆屋の中に馬頭神像と思われる石像が立っている。



鳥居に「新明社」の社額が掲げられ、周囲に沢山の石碑も並んでいる。



「神明造」様式の祠は相当古く、中に寄進の板札が1枚建てられていた。



板札には、天保十二年(1841)九月十有九日の日付と「奉建立神明宮本地供家内安全祈処」の建立趣旨、地主「権太良」、導師「日従法卯盛牛」と書かれていた。



「神明神社」は「天照皇大神」を祭神とし、祈願成就・安全祈願などを諏とするのが一般的であることから、ここもそうであろうと思われる。


隣の馬頭観世音像は、弘化3年(1846)のものであるが、上部に「小牛田」と刻まれているのが興味深かった。



小牛田の方が寄進したと思われるが、ここに設置した訳を知りたい気もした。

周囲の石碑は「山神」のほかはほとんどが「馬頭観世音」碑であったが、そのひとつに「武州上岡」と刻まれているものがあった。
関東三大観音の一つ「武州上岡」の妙安寺で祈祷して貰いこちらに設置したものだろうと思われる。




もうひとつ、鳥居と祠の間にストーンサークルのように円形に石が敷かれていたのが気になった。



何か建物があった跡か、儀式などのための石なのか、神社全体の縁起などについてももう少し掘り下げてみたい気がした。



根白石の町並

2015年05月25日 | 日記
仙台から中山道路を下って国道457号線を右に進む(根白石バイパスではなく)と根白石の町に入る。

町内の道路は、城下町の名残りだろうか幾重にも鍵形になっている。


町並みも、白石城が造られた15世紀初め(1423)頃から基本的には変わっていないのではないだろうか。

朝早く、あらためて町の通りの様子を見てみることにした。


◎根白石下町(しもまち)
国道457号線が寺岡方面からの道と合流する所から振り返って仙台中山方面を見る


 ◇直ぐ右に根白石駐在所、左先に「JA根白石」がある


◎町に入る最初の曲がり角(直角に左折) 


 ◇右側に「新堰」の案内板が見える



◎町のメインストリート


 ◇直ぐ右側に郵便局、中程に根白石小学校入口がある


 ◇同じ側に作り酒屋(’11震災で今は製造していないようだ)


◎根白石・町の中心


 ◇正面の老舗商店は「何でもあるよ」のキャッチフレーズで町のスーパー的存在


 ◇白壁の蔵、ポンプ式の井戸
 ◇穴の開いた「馬つなぎの石」は店で一休みする時に馬を繋いだものといわれる



◎直角に右折


 ◇左側に「太桂山満興寺」
 
 
◎直角に左折


 ◇突き当りは丁字路、昔、旧藩校・小学校があった
  

 ◇バス停「町頭」は、城から下りて「町の入口」の意味か?


 ◇周囲に「ここは旧門前町」の看板
 

◎丁字路を直角に右折


 ◇先に白石城跡の杜、根白石中学校・その奥は泉パークタウン
 ◇昼過ぎ「中学校の奥に熊出没」のアナウンスが流れた。


 ◇直ぐに馬橋(幅が狭く車は交互通行)
 

◎馬橋を超えてすぐ左折


 ◇川沿いに桜並木(春は花が見事)


◎町の端で457号線が分岐
このあたりが根白石町の端にあたる、457号線は川向バス停のところで223号線(左)と分岐


 ◇457号線は次第に細くなり、山道を経て再びバイパス道路と合流し朴沢・宮床方面へ


城下町であり、宿場町の名残を残す「根白石」として、以前、河北新報に紹介された記事が印象的だ。

根白石は、仙台城下に存在した14の宿場町には含まれないが、町の出入り口と中程で直角に曲がる道路と両側に家が建ち並ぶ様は、宿場町そのもの。
記録に宿場町とは現れないが、かつては仙台から宮床に通じる街道があったという伝承も残っている。
また、幕府の法令を掲げる高札場が、仙台藩では宿場町以外にも例外的に根白石に存在した。

根白石はある時期に、おそらく江戸時代のごく初期に宿場町であった可能性が高い。

仙台城下以北の奥州街道は、富谷や七北田の宿場町が形成された元和期(1620年前後)に完成するが、それ以前の経緯ははっきりしない。
そこで、奥州街道が根白石を通って宮床へ抜けていた可能性が考えられる。

宿場町は、旅人を宿泊させるだけではなく、重要な機能として物資の輸送がある。
すなわち江戸時代は宿場町ごとに荷物を積み替えるのが原則で、通過する物資の量を勘案して宿場町には輸送に携わる人が集住していた。

直線道路の全長が600メートルに及ぶ根白石の町の規模は、七北田(推定500メートル弱)を上回る。
おそらく、根白石が宿場町として機能したのは十数年程度の短期間だったのだろう





新堰[取水口](根白石下町)

2015年05月24日 | 日記
根白石の街の郵便局裏手を流れている七北田川に「新堰」という用水の取水口がある。
仙台方面から根白石の街に入る最初の直角の曲がり角にこの「新堰」への案内版がある。



カーブミラーから右折して狭い砂利道を50メートルほど進むと眼前に幅広い堰が見えるが、ここが「新堰」である。



すく脇に、この堰に関する仙台市の説明書きが立っている。



堰の幅が約50メートルもあり、水の多いときの流れは壮観だという。

水路の総延長は延20数キロにも及び、七北田の将監団地付近の将監堤まで続く泉区最大の水路となっている。


この堰は、元は200メートルほど上流にあり、根白石、小角、実沢の三カ村の共同用水堤として利用されていたといわれる。


 ◆ 堰の上流を見たもの(遠く泉ケ岳が見える)

その後、下流にある野村、上谷刈、七北田、市名坂の農民の要請によりさらに延長されたものだといわれる。

延長にあたり、途中に根白石銅谷・村崎の両奥地から流れる八沢川があるため、実沢から野村方面には地上水路では通水が難かしいことから、八沢川西側から東側へ水を通すために、深く潜穴(くぐりあな)を掘って噴上通水(サイフォン)することを考えたものだという。

この噴上通水を可能にした隧道堀削法は、元禄年間に品井沼(松島町)の干拓工事を行った大越喜右衛門が設計した、稀れにみる巧みな工法だといわれている。


この新堰は以前は石積みでできていたが、災害に遭うたびに修復されて、現在の姿は平成16年に竣工したものだといわれる。


 ◆ 左岸奥に取水門があり遠く先にも門が見える。

取水口の対岸川下に回ってみると、取り込まれた水は幅1.5メートルほどの用水路を勢いよく流れていた。


 ◆ 200メートルほどの川下から取水口方向を見たもの
   水は満々と流れ、その奥には泉ケ岳が見えた。


 ◆ 川下を見ると水は淀みなく実沢方向へと流れていた。

※先般「八木沢神社」を見に行った時、神社の下に凄い勢いで水が噴出している所があったが、もしかするとこの「噴上通水」口ではないかと思われる。

なお、根白石周辺には、この潜り穴方式の堰が数か所あると言われる。



小学校の運動会

2015年05月23日 | 日記
今日は、孫たちの小学校の運動会の日である。
朝6時に「実施」の合図の狼煙が里中に響き渡り、孫たちは7時判頃から出掛けて行った。

親たちは昨日から昼の用意に追われ、年寄りには育成会を兼ねる町内会の声がかりで出場やら応援の要請もあり町を挙げての行事となった。

築85年の木造校舎に「大運動会」の大きな看板が掲げられ、8時半から開会式が始まった。



60数年前の小学校当時に戻ったような光景・雰囲気に感じられた。



生徒は全校で80数人というが、駆け付けた親たちは200人~300人はいたのではないかと思われる。



種目は生徒の競技のほかに父兄、幼児の競技、子供と父兄の混合のものあり、また、地区対抗の点数制で一段と雰囲気を盛り上げていた。

また、進行は学校、生徒が中心であったが老人連が司会する場面もあったりで、まさに町を挙げてのイベントになった。



プログラムは午前と午後の2部制となっている。

昼食を挟んでの運動会は最近の珍しくなっている思うが、これも街にはない良さなのかなと感じた一日であった。




家に戻った孫たちは「集会所で地区の育成会の交流会がある」と勇んでて出掛けて行った。





笈分阿彌陀如来(福岡・川崎)

2015年05月22日 | 日記
国道457号線と223号線(泉ケ岳通り)の交差する十字路の西側角に「笈分阿彌陀如来地蔵堂」がある。
この阿弥陀如来像は、これまで見てきた「みちしるべ」の中に「川さきあみだ」として「定義」と並んで数多く案内されているものであり、当時は人気スポットであったのではないかと想像される。



公園風のスペースの中に御影石の鳥居があり「笈分阿弥陀如来」と彫られた大きな社額が設置されている。



直ぐに拝殿があるが、地蔵は奥のコンクリート造りの収蔵堂に納められており見ることはできない。



右側にこの如来の由来についての説明書きがある。



『宮城県指定有形文化財 木造阿弥陀如来像

像の高さ98.8cm桧材寄木造(ひのきさいよせきづくり)、玉眼(ぎょくがん)、漆箱の阿弥陀如来像で鎌倉時代の作といわれている。
山形県寒河江市慈恩院の僧覚長がかねて快慶に頼んでおいた阿弥陀像が出来あがったので持ち帰った。
快慶はあまりの出来ばえに別れを惜しみ、覚長の後を追いもう一度拝もうと笈(おい)を開いて見ると像は二体になっていた。快慶と覚長は一体ずつせおって別れたという伝説があり、そこから笈分阿弥陀如来ともいわれている。
この像を安置する阿弥陀堂は貞享5年(1688)伊達綱村の寄進により建てられたが昭和28年に焼失し、その再建が図られ地元有志が寄進と宮城県および泉市の援助により、昭和46年収蔵庫が建設された。
                         福岡川崎笈分阿弥陀如来像保存会』



周囲に多くの地蔵や石塔が建っているが、風化していて文字の判別できないものが多かった。
享保3年(1718)の「南無阿弥陀仏」や弘化2年(1845)と記した石造などもあった。



ここの像と同形の仏像が京都五条下寺町の「蓮光寺」にあり、蓮光寺では「負分如来」と呼ばれ、ほとんど同じような伝説をもっているといわれる。