「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

一迫・時雨塚の芭蕉句碑(栗原市一迫)

2015年08月14日 | 日記
お盆の帰省から帰る途中に、栗原市一迫の秋葉神社に芭蕉の句碑を訪ねてみた。
秋葉神社は、東北高速道の「築館」ICを下りて国道4号線を北上して国道398号線に入り、西に約20分程度の町中の一角にあった。



この神社は、防火、火伏の神として奉じられているが、勧請の経緯等は明らかではないとの説明札があった。



芭蕉の句碑は、鳥居から10メートル位入った参道の右側に建てられていた。
高さ1メートルくらいの自然石で、風化が進んでいるため刻字はよく見取ることが出来ない状況であった。

この碑は「時雨塚」と称し、脇の一迫町教育委員会の説明柱に句碑の概要が書かれていた。



元禄2年(西暦1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の旅を慕いて、地元の俳人午夕(ごせき)たちが寛政12年(西暦1800年)に建立した碑である。
芭蕉及びその弟子の許六それに地元の俳人午夕のそれぞれの句が刻んである。


碑の正面(参道側から見た面)に芭蕉の句と許六の句が彫られていて、次のように解することができた。



計不者加里      蕉翁
    人毛年与礼 初志具禮

  (けふばかり人も年よれ初しぐれ)

  野者仕付多留麦乃新土  許六
(野は仕つけたる麦のあら土)

出典 韻塞 (許六亭で開かれた歌仙の発句として芭蕉が発したもの)
句意 初時雨が降るこんな日には皆さんも老いの心境になって寂しい初時雨の情趣をとくと味わってください


右側には地元の俳人「午夕」の句が刻まれていた。



  春雨毛時仁    午夕
     登里亭也 志具礼塚

    (春雨も時にとりてやしくれ塚)

左側には、碑の設置時期等が



  寛政十二庚申
     三月十二日
     午夕 建立
     連中


裏側には、午夕の同人と思われる3名の名が刻されていた。



   世話人
      一 芳
      蒙 江
      紋 七




※碑文の刻字については、風化により不鮮明のところがあるため、句文をもとに、一部自分なりに推測したところがあり、正確性を欠くところがあるかもしれない。





九戸城跡を訪ねる(二戸市福岡)

2015年08月13日 | 日記
東北道一戸・二戸ICを下りて国道4号線を北上し、二戸市福岡にある「九戸城跡」を訪ねた。


入口に立っての印象は「頑強な城塞」のイメージとは違い、一見平坦で、兎に角広大な造りである。
しかも、今残っているのはその一部であるいうからスケールの大きさには驚かされる。

城跡の南西側に、城の全体を示す模型があった。



城の概要は次のとおりである。

九戸城は、国の史跡に指定されている中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸政実氏が居城した。
「九戸の乱」以後は、蒲生氏郷により改修され、南部宗家が三戸から盛岡に移るまでの間の本城となった。

三方を馬淵川と白鳥川と猫渕川によって囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって曲輪群を区画されており、本丸の一部には東北最古の石垣が残る東北地方では有数の規模の城といわれる。


・・「九戸の乱」・・

天正19年(1591)南部藩において、九戸政実は城主晴政亡き後、跡目相続争いを発端にして南部信直に対して兵を挙げた。

南部信直が前田利家を通じ豊臣秀吉から領地安堵をとりつけたことから、この戦は九戸政実の反乱(九戸の乱)とみなされ、豊臣秀次を総大将に討伐軍が派遣さた。

豊臣秀次は、浅野長政、蒲生氏郷、堀尾吉晴らの諸将を率い、関東・奥羽の諸将も討伐軍に従い、上方軍勢約6万が九戸城を包囲した。

しかし、6万対5千という圧倒的多数の兵を擁しながら難攻不落の城に苦戦を強いられた豊臣秀次は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を使者にたて、女、子供の助命を条件に九戸政実に開城を迫った。

政実は、これを受け入れて開城したが助命の約束は反故にされ、城内に居た者は、女、子供構わずすべて二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた。
その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。

捕えられた政実も豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県栗原市)で重臣とともに処刑された。

この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとなった。



現在、城跡は全体が芝生で覆われて構築物はなく公園のようになっているが、随所に当時の城の特徴を見ることが出来る。

城跡の構成は、二の丸が本丸をL字形に囲む配置となっている。


(入口から二の丸<Lの縦側>・本丸虎口跡方向を見る)


(入口から本丸方向を見る)


(二の丸<Lの横側>と本丸の間の空堀)・・・北東方向


(二の丸<Lの横側>と本丸の間の空堀)・・・南西方向


(本丸虎口と本丸の間の空堀と石垣)


入口から直進したところにある「搦手門跡」近くに「九戸城戦没者供養塔」が建てられている。



九戸の乱の最終段階で、九戸政実は仕置軍の騙し討ちに合い、場内の兵はおろか、女、子供まで撫で切りにされてしまったといわれている。
この碑はその凄惨な戦いの犠牲者を供養する碑であろう。


すぐ隣に「九戸城懐古詩」というの碑があった。



二戸市出身のローマ字の先駆者、田中舘愛橘博士による九戸城の悲劇を悼む碑で、漢詩とローマ字の読み下し文が刻まれている。
 ※ 右側はローマ字文をもとに文章化したもの

  山河天険護狐城 山河の護る姿の九戸城
  支得豊家二萬兵 二万の兵を支え得て
  地接強藩揺為揺 遥か隣も手を伸ばし
  武凌上国足争勇 武勇争える甲斐もなく
  醜僧誤事生前恨   事を誤る醜法師!
  烈士殉君身後名   君もろともに散る花の
  今日英魂有誰弔   名のみ残せる益荒男を誰か弔う?
  故墟風雨老狐啼   城墟の夜半の嵐に古狐なく

  

また、土井晩翠の「荒城の月」の歌碑もあった。



昭和19年林檎狩りに訪れた晩翠が九戸城の悲劇を聞き「荒城の月」の書を残したといわれる。
この碑は、直筆の詩を刻んだもの。


古城跡に佇んで、しばし、遠い祖先も何か関わりを持ったのかも知れない歴史の移り替わりに思いを馳せながら、実家に向けて車を進めることにした。



二戸PAの石群(東北道二戸PA)

2015年08月13日 | 日記
東北道を一戸・二戸ICで下りることとし、その前に直前の二戸PAで休憩した。
ここまで来ると、それまでのSA・PCと違って車の数も多くなくゆっくりすることができた。
周囲を散策すると左側に石のオブジェがあるので近づいてみると、近くの二戸市にある「九戸城跡」を模したという石群だった。



一角の説明書きには次のように書かれていた。



二戸市には、天正19年(1591)豊臣秀吉による全国統一最後の戦いが行われた国史跡九戸城が、当時の面影をそのままに遺っています。
 この石組みは、九戸城の当時をイメージし、景石一つ一つを曲輪に見立てて配置したものです。
 なお、景石は高速道建設現場より発生したケンタレン岩を用いています


下に「九戸城跡の配置図」も示されていた。

すぐ脇に、使用されている「ケンタレン岩」について説明が書かれていた。



中生代末期に古生層にマグマが貫入し、冷却、固結して出来た岩石で、石材の中で最も美しいといわれる斑れい岩の一種で、過去にスコットランドのケンタレン地方で算出されていたので「ケンタレン岩」と呼ばれるが、現在は岩手県一戸町の鳥越地区にのみ算出される世界唯一の貴重な岩石だという。
黒地の中に金と青の斑点を持ち、優美な光を発することから「月光石」とも呼ばれるという。

最近、古い石碑に関わることに興味を覚えていろいろ訪ねているが「ケンタレン岩」について初めて知ることができた。


九戸城は、高橋克彦の小説「天を衝く」の舞台となっており以前から興味を持っていた。

時の城主「九戸政実」は、南部藩の異端児として、最期まて豊臣秀吉に抗った剛勇として語られており、抗戦の後、民を救わんがために騙し討ちにあったといわれる城主である。
大和朝廷に抗って、民を守るためにと処刑された蝦夷の長「阿弖流為」とも重なるものがあり、その生きざまに共感を覚えるものがある。

また、この地域は、我が一族の歴史を辿ると先祖の故郷だとも聞いていたところでもある。
お盆の帰省で一戸PAに偶々立寄ったのも、何かのご縁ではないかと思いながら「九戸城跡」を訪ねてみることにした。



東北道の芭蕉句碑(前沢SA下り)

2015年08月13日 | 日記
お盆帰省の際に東北高速道前沢サービスエリア(下り線)に芭蕉の句碑を訪ねてみた。

それは、駐車スペース内の左側・ガソリンスタンドの前の一角にあった。



「鷹狩りの松」と称する松の木と同じ緑地に建てられていた。
この松の木はもともとこの地にあったもので、高速道の工事の際にそのまま残すようにしたものだという。
この付近は、慶応2年(1649)に仙台藩2代藩主伊達忠宗が鷹狩をしたところと伝えられており、残した松の木の愛称を「鷹狩りの松」としたとの説明札が建っている。



芭蕉の句碑は松の脇に立っている。



 夏草や
    兵どもが夢の跡  
             芭蕉


奥の細道紀行「平泉」の中の一句で、藤原三代の栄華や義経を忍んで詠んだ句である。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
まず、高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅、夷をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし
はべりぬ。
   夏草や 兵どもが 夢の跡


この句碑は、奥の細道紀行300年を記念として、昭和63年(1988)10月25日に建立されたもので、当時の前沢村長の筆によるものということである。


すぐ隣に、句碑の建立の経緯などについて解説する碑も立っている。



その中に「毛越寺や高舘、光堂に芭蕉の句碑がある」との説明があったが、今日は寄らずに実家に向って高速道を北上することとした。






根白石のミニ七夕

2015年08月08日 | 日記
今年も七夕祭りの季節がやってきた。
仙台七夕は豪華な飾りで全国的に有名であるが、根白石には昔ながらの伝統の七夕がある。
「根白石民俗ミニ七夕」と称するもので、仙台と同じ8月6日から8日まで、大きな植木鉢の竹に飾り付けをして門前に飾る。

今年は、この時期に根白石を離れていて、8日の夕方に戻ったときには、撤収されていて七夕飾りを見ることが出来なかったが、この地に引っ越して以来写してきた写真があるので見てみることにした。



町の中心部「高長商店」脇に祭りの本部が設けられて、趣向を凝らしたイベントも繰り広げられる。



地元の「源遊太鼓」で賑やかにスタートするのが習わしとなっている。


町の全体像を見てみると、通りの両側に静かに七夕飾りが揺れており、仙台のような派手さはない。


 ◇ メイン会場から町の入口の方向を見る


 ◇ 通りの中程からメイン会場の方向を見る

飾りは、町内の店や通りの家々は勿論、小学校や幼稚園、老人ホームなどから幅広く出展される。
祭の期間中には、七夕飾りのコンテストや、各飾りに隠された標語を当てるスタンプラリー、民放テレビの実況中継による紹介も恒例となっている。

通りの店や家の門前に飾られた七夕飾りにはそれぞれ風情がある。


 ◇ 造り酒屋の塀の前の飾りは城下町の雰囲気を醸し出す。


 ◇ 蔵の前の飾りも風情がある。


 ◇ 石垣と生垣に映る飾りも涼しげに・・・・


 ◇ 物置小屋の脇にそれとなくおかれた飾りが黒塀に映える


 ◇ 城下の旧藩校跡といわれる門前の飾りは歴史を感じさせる。


七夕飾りには七つ道具があるらしい。
いつの年だったか、仙台七夕の七つ飾りの解説が立てられているのを見た。
それぞれの飾りの意味が分かりやすく示されていた。



根白石の七夕飾りには、仙台の七つ道具にはないものも飾られている。


 ◇ 藁草履は旅の無事を祈るものだろうか。


 ◇ 藁で造った馬は「馬頭観世音」の石碑の心に通ずるものであろう。

竹の鉢に飾り付けるのも、ここ根白石七夕独特のものかもしれない。
この祭のために1年間丹精込めて育てられた鉢が、白壁の蔵の前に並べられていると、それだけで七夕の季節を思い起こさせる。


  

今年の根白石民俗ミニ七夕は、例年にない暑さの中、アッという間に過ぎてしまった。

すぐお盆になる。