お盆の帰省から帰る途中に、栗原市一迫の秋葉神社に芭蕉の句碑を訪ねてみた。
秋葉神社は、東北高速道の「築館」ICを下りて国道4号線を北上して国道398号線に入り、西に約20分程度の町中の一角にあった。
この神社は、防火、火伏の神として奉じられているが、勧請の経緯等は明らかではないとの説明札があった。
芭蕉の句碑は、鳥居から10メートル位入った参道の右側に建てられていた。
高さ1メートルくらいの自然石で、風化が進んでいるため刻字はよく見取ることが出来ない状況であった。
この碑は「時雨塚」と称し、脇の一迫町教育委員会の説明柱に句碑の概要が書かれていた。
元禄2年(西暦1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の旅を慕いて、地元の俳人午夕(ごせき)たちが寛政12年(西暦1800年)に建立した碑である。
芭蕉及びその弟子の許六それに地元の俳人午夕のそれぞれの句が刻んである。
碑の正面(参道側から見た面)に芭蕉の句と許六の句が彫られていて、次のように解することができた。
計不者加里 蕉翁
人毛年与礼 初志具禮
(けふばかり人も年よれ初しぐれ)
野者仕付多留麦乃新土 許六
(野は仕つけたる麦のあら土)
出典 韻塞 (許六亭で開かれた歌仙の発句として芭蕉が発したもの)
句意 初時雨が降るこんな日には皆さんも老いの心境になって寂しい初時雨の情趣をとくと味わってください
右側には地元の俳人「午夕」の句が刻まれていた。
春雨毛時仁 午夕
登里亭也 志具礼塚
(春雨も時にとりてやしくれ塚)
左側には、碑の設置時期等が
寛政十二庚申
三月十二日
午夕 建立
連中
裏側には、午夕の同人と思われる3名の名が刻されていた。
世話人
一 芳
蒙 江
紋 七
※碑文の刻字については、風化により不鮮明のところがあるため、句文をもとに、一部自分なりに推測したところがあり、正確性を欠くところがあるかもしれない。
秋葉神社は、東北高速道の「築館」ICを下りて国道4号線を北上して国道398号線に入り、西に約20分程度の町中の一角にあった。
この神社は、防火、火伏の神として奉じられているが、勧請の経緯等は明らかではないとの説明札があった。
芭蕉の句碑は、鳥居から10メートル位入った参道の右側に建てられていた。
高さ1メートルくらいの自然石で、風化が進んでいるため刻字はよく見取ることが出来ない状況であった。
この碑は「時雨塚」と称し、脇の一迫町教育委員会の説明柱に句碑の概要が書かれていた。
元禄2年(西暦1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の旅を慕いて、地元の俳人午夕(ごせき)たちが寛政12年(西暦1800年)に建立した碑である。
芭蕉及びその弟子の許六それに地元の俳人午夕のそれぞれの句が刻んである。
碑の正面(参道側から見た面)に芭蕉の句と許六の句が彫られていて、次のように解することができた。
計不者加里 蕉翁
人毛年与礼 初志具禮
(けふばかり人も年よれ初しぐれ)
野者仕付多留麦乃新土 許六
(野は仕つけたる麦のあら土)
出典 韻塞 (許六亭で開かれた歌仙の発句として芭蕉が発したもの)
句意 初時雨が降るこんな日には皆さんも老いの心境になって寂しい初時雨の情趣をとくと味わってください
右側には地元の俳人「午夕」の句が刻まれていた。
春雨毛時仁 午夕
登里亭也 志具礼塚
(春雨も時にとりてやしくれ塚)
左側には、碑の設置時期等が
寛政十二庚申
三月十二日
午夕 建立
連中
裏側には、午夕の同人と思われる3名の名が刻されていた。
世話人
一 芳
蒙 江
紋 七
※碑文の刻字については、風化により不鮮明のところがあるため、句文をもとに、一部自分なりに推測したところがあり、正確性を欠くところがあるかもしれない。