「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

竹駒神社の芭蕉句碑(岩沼)

2015年06月30日 | 日記
名取から国道4号線を南下して岩沼の竹駒神社にある芭蕉の句碑を訪ねた。
広大な境内のどのあたりに句碑があるのか皆目見当がつかないので、正面から入って探すことにした。
入口には「竹駒神社」の黒い社額を掲げた赤い大きな一の鳥居があり、直ぐに黒の二の鳥居が続き、奥に重厚な構えの山門が幾重にも重なって見えた。



目指す芭蕉の句碑は意外にも黒の鳥居を潜ったすぐ右手の一角にあった。
細長い石碑が二基並んでいて左側の「芭蕉翁」と書かれたのが目指す芭蕉の句碑である。



脇に立つ札に碑の説明書きがされているが、二つの碑は、寛政5年(1793)芭蕉の百年忌法要を記念して一緒に建立されたということである。



芭蕉の碑には、正面に
「佐くらより松盤二木を三月越し」
の句が彫られていた。

この句は、江戸を旅発つときに弟子の挙白から送られた餞別の句「武隈の松見せ申せ遅桜」にこたえて詠んだ句だといわれる。

碑の左側には「當社より二木の老松まで2丁餘」と、この句の題材にした「二木の松」への案内が記されていた。

右側の碑は、芭蕉の門人東龍斎渡辺謙阿の「名月塚」といわれる句碑で
「朧よ里松は二夜の月丹こ楚」
と刻されていた。



境内には拝殿までの間に、東北ゆかりの歌人達のの碑があった。

髄身門の前には岩手県出身の佐藤梧悦の
「あきざくら径に溢れて豊の秋」
という歌碑があった。



梧悦の句碑は、先(6月24日)に訪れた桜岡大神宮にもあった。

白唐門の脇には土井晩翠の
「竹駒の守のみやしろもうで来て綻びそめし初桜見る」
という歌碑があった。



竹駒神社で行われた文化講座に講師として来社した際の即興の歌で、真蹟を彫りこんだものだという。。




境内を出て、二丁程離れたところにある、この句の舞台の「二木の松(武隈の松)」まで足を運んだ。

通りに面した一角が「二木の松史跡公園」として管理されていて見事な枝振りの松が天高く伸びていた。



現在の松は7代目ということだが、既に樹齢150年を越えており、根元付近から二又に分かれている姿は代々変わりはないといわれている。



史跡公園の中にも「より松は二木を三月越し」の芭蕉の句碑があった。


二木の松は岩沼市の指定天然記念物になっていて、平成26年3月に「奥の細道の景勝地」として国の名勝(国指定文化財)に格上げされたと聞く。








道祖神路と芭蕉句碑(名取市植松)

2015年06月29日 | 日記
奥の細道の宮城入り最初の句「笠島は・・・」の句碑を訪ねて名取市植松地区周辺を探して歩いた。

先日(6月26日)「実方中将の墓」の一角に近年建てられた句碑は見てきたが、「館腰」の辺りにより古いものがあると聞き、是非この目で確かめたいと思い朝から出かけた。

おおよその目星は「旧道一ノ橋付近」ということで、旧国道4号線沿いの周辺一帯を小一時間かけて捜したが見つからなかった。
行きずりの方や郵便局でも訪ねたが確かな情報は得られず、最終的には畑仕事をしている方から具体的な場所を教えていただいた。

奥州街道(旧国道4号線)が愛島方面から伸びる直線道路(県道258号線)と交差する北側200メートルほどの橋の袂にある


民家の生垣に埋まるようにして立っていた。



高さ1メートルほどの石碑の正面には「道祖神路」、その右側にある小さな石柱には「笠嶋」と刻してあった。
いずれも笠島への「みちしるべ」として建立されたものと思われる。



脇に立っている名取市の標柱には、正面に「道祖神路(芭蕉の句碑)道標」と、右側面に「笠島はいづこ皐月のぬかり道 はせを」の道標に刻まれている句の内容が、左側面には「笠島塚または芭蕉塚とよばれ安政3年(1856)仙台城下河原町の小西利兵衛と地元の人々によって・・」と表示されていた。

道祖神路(芭蕉の句碑)道標の左側面を見ると、流れるような書体で

「笠島はいづこ皐月のぬかり道 はせを」

と彫られているのを確認できたが、その大半が生垣の中に埋もれていて全体を写真に撮ることはできなかった。



ここから道祖神社(佐倍乃神社)や実方中将の墓のある山際までは5~6キロはあると思われる。
周囲は平坦な田圃で五月雨の中とはいえ、先の山裾まての見通しは利いたのではないだろうか。
だからこそ泥濘の中を日暮れまでに行くことはできないと断念したのではないかと想像する。

紀行文の「・・・・藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見の薄、今にあり」と教ゆ。・・・・」「是より遥に見ゆる山際の里」のくだりは「左」の違いではないかといわれているが、この碑の前に立って見ると道祖神社や実方中将の墓は遥か右手方向にあることから、私には余り違和感は感じられなかった。

碑に刻まれた句の全体像を写すことはできなかったが、目で確かめられたことに満足感を覚えた。

次は、岩沼の竹駒神社にある歌碑と二木の松を見ることにしたい。





笠島に芭蕉の句碑を訪ねて

2015年06月26日 | 日記
芭蕉の句碑を訪ねて名取市愛島の笠松地区に行ってきた。

この辺りは、ゴルフの折りに何度となく通っているが、その目で辺りを見たことはなかった。
笠島の「道祖神社」にも芭蕉の句碑があると聞いたので、まずそこを目指した。

県道39号線を岩沼方向に進むとJAの学園から1キロほどの右側に「道祖神社」の案内柱がある。
右折して小路に入ると50メートルほどの曲がり角に鳥居が見えたので、狭いスペースに車を止めて境内を散策した。

意外と規模が大きく重厚な佇まいの神社だった。
道路を跨いで急に落ち込んだ先から続いている参道は、今は人が歩く形跡はないが竹林を通って遥か県道39号線に至るようだ。

古い石階段の下から見上げると真っ赤な鳥居に「正一位道祖神」と書かれた社額が掲げられている。
格式の高い神社だ。



その先に重厚な造りの長床のような神門があり、



片方の間は舞台風の広い空間があった。



神門を潜ると広場を挟んで一段高い所に屋根に伊達の紋所を配した拝殿が構えていた。



社殿正面には「正一位道祖神」と金文字で彫られた立派な扁額が掲げられている。



一角に、この神社の由緒・縁起が書かれた案内板がある。



佐倍乃神社は、元禄二年五月俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」行脚の時に「笠島はいずこ五月のぬかり道」とよんだ句にある名取市愛島笠島に鎮座している神社で、旧社号を「笠島道祖神社」と称しました。

祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、景行天皇四十年(西暦110)の日本武尊御東征の時から毎年四月二十日を祭日としています。
慶長七年(1602)野火に遇い、社殿及び古来の宝物、文書等一切焼失しましたが、後柏原天皇の時大永二年(1522)十月二十三日本殿造営されました。

文禄元年(1593)二月十五日伊達政宗公社殿の修繕、又元禄十三(1700)年十月十九日綱村公拝殿を修造し祭田二貫文を寄進する等歴代の藩主公厚く尊崇されました。

祭神の猿田彦大神は、天孫降臨の際道をお開きご案内した事から道の神と、又御夫婦の神である天鈿女命と共に人間生活の道を守るところから縁結び夫婦和合の神と祀られており、例祭日には宮城県無形文化財に指定されている出雲流の「道祖神神楽」が奉納されます。

尚平安朝時代の長徳四年(998)陸奥守に任ぜられた藤原実方中将朝臣が、赴任途中当社の前を通過した途端落馬し、一命を落した事は歴史的に有名であり、その墳墓は当社より北方約七〇〇米の塩手字北野にあります。



境内の左脇に塩手から合祀された「佐具睿(さえぐ)神社」が神輿庫と並んで建っていた。



その正面には「佐具睿神社」の古めかしい扁額が掲げられていた。



更に奥にも合祀された「正一位田村社」といわれる小さな祠があった。




肝心の芭蕉の句碑はいくら探しても見当たらなかった。

丁度、脇を通りかかった老夫婦に所在をお聞きすると「800メートルほど北の「実方中将の墓」の前にある。駐車場もあるから行って見るといい。」と親切に教えてくれた。

道祖神と実方中将、実方中将と西行や芭蕉など、相互に深い関わりもあるようだ。

39号線を仙台方面に向かって進めた。




笠島に芭蕉の句碑を訪ねて(続)

2015年06月26日 | 日記
県道39号線を仙台方面に戻ると1キロ足らずの左側に「中将藤原実方朝臣の墓」と書かれた大きな案内板があった。



用水路に架かる「実方橋」を越えると



実方中将の墓と芭蕉の句碑を案内する札があり、直ぐのところに待望の芭蕉の句碑があった。



これは芭蕉の紀行300年を記念して平成元年に名取市が設置したもので、句碑の右に「芭蕉紀行 於くのほそ道」と表記した趣意書碑があった。

元禄2年(1689)漂泊の俳人松尾芭蕉は門人曽良とともにみちのくへ旅し 悲運の歌人藤原中将朝臣の塚を訪れようと名取の郡に入る 折あしく日没と五月雨の悪路に阻まれ目的を果たせぬままこの地に無念の一句を残し通り過ぎる ・・・・

句碑には 「笠島ハ 移こ 皐月乃 ぬかり 道」 と彫られていた。



この句は「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」と表されて
笠松は「実方中将の塚」や「道祖神社」「かたみの薄」のある里で ぜひとも訪ねたい所なのだが、五月雨にぬかる悪路のため、どの辺かなと見やるだけで通り過ぎねばならぬことがとても残念だ
のように解されている。

今日は東北南部地方に20日ばかり遅い梅雨入りが発表された。芭蕉が笠島あたりに臨んだのは新暦で6月20頃、丁度今頃の時季だったのだろう。


芭蕉の句碑の右の道を進むと50メートルほどのところに実方中将の墓があった。



木の柵に囲まれた中央の土饅頭に竹の棒が建てられているだけの質素なものである。



脇に「中将實方朝臣之墳」と刻した石碑がある。



墓の左に「実方中将」の人物像を詳細に紹介する板があった。
藤原実方は光源氏のモデルのひとりとされ、清少納言の恋人ともいわれる。



藤原実方朝臣は中世三十大歌仙の一人で一條天皇に仕え、左近衛中将であったが、藤原行成卿(書道の大家,三蹟の一人)との争いがもとで長徳元年(995)陸奥守に左遷され、はるばるとみちのくに下った。
長徳4年(998)笠島道祖神社の前を乗り打ちして奇禍にあい、それがもとでこの地に葬られその命日は里人によって「国司祭」とよばれたという。
実方は,能因、西行に先駆けて、いわばみちのくの歌枕散歩に先鞭をつけた人というべきであろう。
星移り変わって、西行がみちのくを訪れた時、野の中にある由緒ありげな塚を見て、これが実方の墓と知った彼は、折りから霜枯れの薄に心を寄せ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる」の一首を残した。
実方・西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩情と遊心をかきたてる憧憬の地であったに違いないと思われる。
芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。
「笠島はいずこさ月のぬかり道」の一句は彼の万斛の想いを込めた絶唱である。
芭蕉の門人天野桃隣は先師の思いを汲んでか元禄9年(1696)はるばるとこの地に杖を引いたが実方の墓はさらに風雪にあって様子を変え「五輪塔崩れて名のみばかり」であったとその荒廃ぶりを紀行文「陸奥鵆(ちどり)」に書きとどめた。
今はその五輪塔さえ失われ、わずか墳丘をとどめるばかりで墓の畔りには、西行の歌を刻んだ標石のほか、実方朝臣の「桜狩り」の歌碑があり、また、西行の歌にゆかりのある一叢の薄のなかに「松洞馬年」の句碑がある。



柵の後ろに、藤原行成との確執の元となった実方朝臣の「桜狩り」の歌碑がある。



万葉仮名で読みにくいが
「斜く良か里 雨者降りき奴 於那しくハ 奴るとも花乃 蔭尓かく礼無」
「桜がり雨は降りきぬ同じくは濡るとも花のかげにかくれん」
とある。



墓の前には「かたみの薄」と題する西行の歌碑があった。



朽毛世奴 其名はかりを 留置天 可礼野のすゝき か多み尓所見流
「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて
           枯野のすすき形見にぞみる」


※明治40年(1907)11月の建立、侯爵久我通久(女優久我美子の曽祖父とか)書によるものであった。


帰りがけ、芭蕉の句碑の後ろの薄の叢の中に「かたみのすすき」と書かれた札が微かに見えた。



「笠島は あすの草鞋の ぬぎ処」という地元の歌人「松洞馬年の句碑」は叢の中に埋もれてしまって見えなかった。





櫻岡大神宮の芭蕉句碑(仙台市青葉区)

2015年06月24日 | 日記
今日は仙台市内で夕方から懇親会があった。
1時間以上も早く着いたので近くの「桜岡大神宮」に芭蕉句碑を訪ねた。

桜の節は賑わうこの一角も、低く差し込む西陽を受けて閑散としていた。

鳥居を潜った左手に歌碑があり、これかと1枚写真を撮ったが、どうも違うようだった。



萩の花 こぼれつぎつつ 水澄めり 梧逸

※遠藤梧逸・・岩手県前沢町生まれ。仙台二高、東大卒
 ホトトギス主宰の俳人高浜虚子に師事



目指す芭蕉句碑は中々見つからなかった。

手前にある茶屋に入って、茶も頼まずに句碑の所在を尋ねると、わざわざ外まで出て近くまで案内してくれた。

それは神社の北側裏手にあった。
丈が1.5メートルほどの割と大きい碑であった。



逆光で中々見えにくかったが、流れるような変体仮名入りの文字で

風流のはしめや奥の田植うた 者世越(はせを)

と刻まれていた。

傍らの石柱に、芭蕉の200回忌にあたる「明治26年(1893年)5月に、甫山 烟岳など「総俳士連」によって建てられた」ことが記されていた。
「田植塚」といわれているらしい。


※奥の細道(元禄2年1689)須賀川での句  

「風流の初やおくの田植うた」
 句意
「みちのくの名所旧跡を巡る本格的な風流の旅が、ひなびた田植唄を聞くことから始まった」





父の日の思い

2015年06月21日 | 日記
今日は父の日だった。
遠方に住る娘からネット便が届いて「そうか」と気付いたのだがとても嬉しかった。
素振りも見せなかった同居の娘や孫たちも、いつの間にか好物揃いの「つまみ」を作ってくれていて満たされた夕食の時間を過ごすことができた。
贔屓の野球チームが同一カード3連勝してくれたのもお祝いのような気がして満足だった。

ネット便を開けて驚いた。

父の日用にアレンジされた缶ビールの詰め合わせだったが、味もデザインも独特のものがあって、美味しくついつい飲みすぎてしまった。



メーカーではないところでも、工夫を凝らした製品を開発し、ネットを利用して販売の拡大を図っている最近の流通の動向に気付かされた。


先日、会合の席に配布された「電報」のパンフレットを見て同じことを思い知らされた。

電報は「冠婚葬祭」しか縁がないものと思っていたが、そこには全く新しい世界がPRされていた。



「シンデレラのガラスの靴」添えたもの、「お掃除券」をギフトにしたもの、「芸術家の作品を添えた」寄付金付きのものなど、
これまでの電報とは異質の世界が広がっていることに驚かされた。

家族に感謝するとともに「世の中の動きに置いて行かれないようにしなければ」とも思う父の日であった。




龍門山洞雲寺(泉区山の寺)

2015年06月17日 | 日記
泉区の山の寺にある「洞雲寺」を訪ねた。
泉中央駅から国道4号線に出て、上り方向に500メートルほどのところを左折し、300メートル位進むと、団地に囲まれた一角とは思われない、周りを緑に囲まれた広い空間が待っていた。
左側入口に「古跡山之寺洞雲寺」と書かれた大きな門碑が立っている。



そのすぐ後ろに、この寺の縁起・沿革などを紹介する板があった。



それによると、
慶雲年中(704~708)釈定慧法師(藤原鎌足の子供)が「蓮葉山円通寺」として開山。慈覚大師(794~864)が中興し「山の寺」と称した。
その後荒廃したが南北朝時代に加賀の大乗寺3世明峰素哲禅師によって曹洞宗の寺として再興し現在の寺号となった。
後に再び荒廃したが、応永7年(1400)梅国祥三禅師が時の領主国分盛行に請いて再興し、七堂伽藍及び25院の塔中を擁する大道場となった。
しかし、明応・文禄に二度の大火で焼失し三度荒廃した。
享保17年(1732)輪王寺牷たつ和尚が藩主伊達吉村公に請い再びの再興に着手し、以後第三世天厳和尚の天明初年に至るまでの40余年にわたり諸堂を造営,再び奥州の一大禅宗道場となった。
仏殿・開山堂・仁王門・山門・方丈庫裡など大伽藍を有する荘厳な寺院であった。
しかし,これらの諸堂も昭和18年(1943)当時近くを運行していた仙台鉄道の火の粉による山火事で全て焼失し、現本堂は昭和35年(1960)再建された
 
とあった。
日本三山寺の一つ(山形市の立石寺、滋賀県大津市の石山寺)とされているが、平成11年の東日本大震災の地震により本堂が壊れ、現在全面改築している段階にあった。


入口からすぐの左側に2つの洞窟があり、石仏や祠が祀られている。
「岩谷観音洞」という。
脇に、説明板が立てられていて、洞窟にまつわる古事記にも似た伝説風の解説が綴られていた。



「釈定慧法師が開山した「蓮葉山円通寺」の近くに住む長者の妻と寺にいた童が道ならぬ恋におち、世を儚んで淵に身投げしたところ、2人は大蛇になり、湖が出来て寺はその中に沈んだ。
2匹の大蛇は湖に棲んで近づく人々を威嚇して困らせるようになったという。
市名坂村の佐藤藤佐衛門が白髪の老人の引き合わせにより、この地を訪れた加賀国の明峯素哲禅師に頼んで、法力で大蛇を飛散させ、湖の水を干してみると昔の寺跡が出現した。
禅師はここに寺を建てて「龍門山洞雲寺」とした。」


その際、定慧の観音像が納められたのが手前の岩窟だという。



禅師と藤佐衛門を引き合わせた白髪の老人は、洞雲寺の狐が化けたもので、奥の洞がその狐の祠だという。



「岩谷観音洞」には、さらに遡るもう一つの伝説が伝わっている。
この地に住む「大菅山・佐賀野という夫婦」が定彗を一晩泊めた際「この地は霊地に適しているので寺を建てたいこの土地を貸してくれないか」と頼まれた。夫婦は断ったが「錫杖の及ぶところだけ」との再度の依頼を受け入れた。
建立された寺は「佐賀野寺」といったが、後に「蓬莱山円通寺」と改められた。

というものである。
大菅山・佐賀野の夫婦はその後、根白石山中の「銅谷」(泉パークタウン紫山近く)に移り住んだという。


本堂へは200メートル位の距離であったが、途中、左側に中程に洞穴のある断崖があった。
この洞穴は「座禅屈」といって梅国祥三禅師が篭って座禅を組んだところだと云われる。



その先に寺の建物が連なっている。
最初の建物は住職の住まい「庫裡」と思われる。玄関に「庫院」と表示されていた。



その奥が「会館」という建物で、渡り廊下で山の上の大きな建物と連なっていた。
(入口に「梵鐘」が据えられているのが見えた)



そこから「不老橋」という赤い欄干の橋を渡った所に「洞雲寺」の本堂があるはずであるが、全面改築中でコンクリートの土台ができている段階にあった。



その前に大きな鐘楼があった。
梵鐘は平成元年製のものだった。

※この寺には、宮城県指定文化財(工芸品)の銅鐘がある。
「銅鐘」は永正15年(西暦1518年)製の銘文を有す梵鐘で県内最古のものといわれている。
 高さ91.25センチ、最大径56.2センチ龍頭高は19.4センチ
(会館の玄関に据えられているもの)



このあたりに「古碑」といわれる石碑があると聞いてきたが、見当たらなかった。
随所で説明されている、この寺に纏わる縁起・来歴をより詳細に刻した大きな石碑といわれるが、本殿改築中のために近寄ることが出来ず残念であった。


参道沿いにはいくつかの石碑などがある。

その一つが「大塚頼充の墓」で、本殿に向う参道の右脇にひっそりと立っている。



大塚頼充は、享保17年(1732)に生まれ、享和元年(1801)に70才で没した仙台藩の天文学者といわれる。
宝暦5年に施行した幕府の暦は宝暦13年に日食があったにも拘わらずその予即に失敗してしまったが、大塚頼充は幕府の「暦」に反してこの問題の日食の予測をした一人であるといわれる。

もう一つの碑は、菅原道真の歌碑で、大塚頼充の墓の向い側にある。



古池布賀波 丹保飛於古勢世 梅濃花 主那之登亭 春那王須連楚
 「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」

複写版の万葉仮名歌碑である。 (平成5年の民間人の寄贈によるもの)


洞雲寺(岩谷観音洞)は、坂上苅田麻呂と阿久玉姫の恋物語や、その子供千熊丸(田村麻呂)の生い立ちにも関わる所としても語られており、緑深い古刹の中を散策しながら物語の世界に浸ったあと、国道4号線に戻った。



館蔭の杜に鴎まで飛来

2015年06月15日 | 日記
館蔭の杜周辺では、最近、動物の異常行動と思えるような現象が目立っている。

一つはクマの出没である。

昨年までは、秋に何回か出没情報があったが、今年は、冬眠明け直後の春先から何回か続いている。

6月5日は、泉パークタウン紫山から続く雑木林の際で小熊の情報があり、中学校が近いことから集団登校となった。
8日には町の脇を縦断して流れる七北田川の、しかも通学路にある橋に近い川原で目撃されたということで集団登下校となった。
10日にも、やはり七北田川原の少し上流の福岡地区で目撃されたということである。

いずれも、朝7時頃ということで、どうも餌不足が原因なのではないかと思ったりしている。

今はタケノコの時期でもあるのでそれを探して山から降りてくるのではないだろうか。

これだけは、写真に収めることが出来ないが、それで良しとしなければならない。

二つ目は鴎の集団飛来である。

熊情報のある頃から、ミャー、ミャーと岸壁にでもいる錯覚に陥るような鴎の飛来が続いている。

40~50羽根をくだらないほどの数である。



周りを旋回しては田んぼの中や畦道に降り立ち



何かを啄ばんでいるようだ。



稲が少し伸びてきて、夜には蛙の鳴き声がうるさいくらいだから、蛙を餌にしているのだろうか。



それにしても、海から10キロ以上も離れたこの山里に、鴎が集団で飛来するのは何故だろう。

海で魚が不足しているのだろうか。

これまで余りないことなので、自然の異変の予知でなければよいがなどと疑ったりしている。



蝶の宿る木

2015年06月14日 | 日記
小学3年の孫娘が蝶の幼虫に興味を持ち始め、飼育箱に餌になる木の葉を取ってきては成長を観察しながら楽しんでいる。

最近は、飼育箱を学校にもって行き友達に見せて自慢しているようだ。
大きな飼育箱を往き帰り運ぶのは大変だろうが、興味のあることだから何も気にならない様子だ。

蝶は宿る植物が決まっているようだ。

庭にある山椒の木にはナミアゲハが卵を産みつけて蛹になるまでそれを餌に成長する。
山椒の若芽が出始めると、何処からともなく親の蝶が飛んできて卵を産みつける。



最初は黒ゴマのようなものだが、木の成長に合わせて新芽を食い尽くし日増しに成長する。
次第に緑に縞模様がでるようになり触ると黄色い臭い角を出して牽制する。

成長した幼虫は何となく親の姿を想像させる。


 
幼虫は成長すると、いつの間にか近くの物蔭に移動して蛹になり、季節になると羽化して近くを飛び回る。

遅いものは翌年の春まで蛹のままでいるのかも知れない。



ナミアゲハの飛ぶのを見かけると「あの山椒で育ったアゲハだな」と連想して親近感を覚える。


何時もお世話になっている歯医者さんは「蝶々先生」といわれるほどの蝶のマニアで、休診日には遠くまで出かけて蝶を採取したり研究に余念がないようだ。

孫の蝶の話をきっかけに「ジャコウアゲハ」についていろいろ教えてもらったようだ。

庭の「馬の鈴草」という植物に「ジャコウアゲハ」の幼虫が沢山いるというので、孫とともに家族で見せていただいた。
黒っぽいパンダ風の幼虫が数えきれないほど着いていた。



ジャコウアゲハは「馬の鈴草」という木にだけ卵を産み、育つというお話だった。

この植物は、関東以南に自生する植物で、漢方薬の材料でもあるようだが、独特の毒性も合わせ持つ植物だという。
葉と花の姿がその名の由来らしいが「ナミアゲハの山椒」と「ジャコウアゲハの馬の鈴草」ともに癖(毒性)のある植物だが、これが蝶の幼虫にとって外敵から身を守る知恵らしい。



孫は、既に蛹になりかけているものを含めて幼虫と馬の鈴草の葉を貰って、大事そうに飼育箱に入れて世話をしている。



成虫はクロアゲハより透き通っていて美しいという。


 ※ Wikipedia より

春に歯医者さんの周りを飛んでいるのを見たような気がするが、一般のクロアゲハと思って見過ごしてしまったかも知れない。

今年中に見ることが出来るのか、来年まで待たなくてはならないのか。
それまで孫の根気が続くのか楽しみなところがある。


追 記(6月23日)

「馬の鈴草」の葉に付いたジャコウアゲハの蛹を部屋の壁にピンで留めておいたら今朝8時頃に羽化し始めた。
蛹になってから約2週間ほど経つ。

羽根に斑点があるので図鑑と照らし合わせて「メス」ではないかと思った。



しばらくジッとしていて、羽根が伸び切ったあと部屋中を飛び始めた。



羽根の表側に余り斑点が目立たないので「オス」かも知れない。


もう少ししたら外に放してやろうと思っているが、それからどうなるのだろうか。


追 記(7月1日)

今朝、羽化したのがメスのようだ。
全体的に黄色がかっていて、点々模様が大きくいっぱいある。








吉岡八幡神社(大和町・吉岡)

2015年06月08日 | 日記
天皇寺後の直線道路を北に500メートルほど進んだ右側の吉岡小学校と同じ一角に「吉岡八幡神社」がある。

石畳の道路の交差点角に大きな石造りの鳥居が建ち、その先に赤い山門が見える。



右脇に「黒川総鎮守八幡神社」と題する由緒等の説明書きがある。
祭神は「応神天皇」。家内安全、商売繁盛、交通安全、縁結びなどにご利益があるといわれる

この神社は、信夫地方(福島県福島市)を治めていた飯坂氏の氏神であったという。

伊達政宗の三男宗清が飯坂氏を継ぎ、鶴巣下草(しもくさ)を経て吉岡城に移った後、元和4年(1618)に現在地に遷宮し、黒川郡の総鎮守としたといわれる。



境内に入ると真っ赤な山門が目に鮮やかだ。

この山門は「随身門」といい明和元年(1764)に造営されたものだといわれる。



山門を通りぬけると近年造営されたと思われる比較的新しい社殿がある。



社殿は、もともと拝殿と本殿を繋いで一つの建物にした「石の間造」で、県の重要文化財に指定されていたが、昭和63年(1987)落雷により焼失してしまい、現在の社殿は平成元年に再建されたものだという。



社殿の正面には「黒川鎮守八幡宮」と書いた扁額が掲げられている。



本殿左脇に赤い小さな社が建っているが、当神社の末社「春日大社」で武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭っているという。




参道の中間あたりの右側に「芭蕉の句碑」がある。
高さ2メートル弱で、横からは達磨風(だるま)に、正面からは徳利風に見える自然石である。。



碑面は不鮮明であるが



芭蕉墳「藤の實は 俳諧にせん 花の阿と」
という句が刻まれ、寛政十一年(1799)三月建碑とある。

脇にこの碑の刻字を解説する札が立っていた。



※ 出典は「藤の実」(素牛編)
句意は「藤の花の風流は、すでに逢坂の関(三重県)で宗祇が連歌に読んでいる。花の後の素朴な実については私が俳諧の素材といたそう。」というものだそうだ。

もう一碑、拝殿横の「神楽殿」の脇に並ぶ碑の中に、芭蕉の句を記したと思われる碑があった。



「・・・友春(す)ゝめ」風羅翁と刻まれている。



上部が欠けているが「花にあそぶ虻なくらいそ友雀」の句と一部と思われる。

※ 出店は「続の原」
句意は「無心に花にわたる虻は境涯を楽しんでいる。雀たちよ、どうか虻を啄ばまないでおくれ」 


この神社は特に縁結びにご利益があるといわれ、毎年12月14日に催される島田飴まつりは良縁を求める人の参拝が絶えないといわれる。