「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

永安禅寺(福岡字寺下)

2015年04月30日 | 日記
根白石バイパス(国道457号線)を「雷神社」のところで左折して「寿連原渓谷」を左に見ながら定義への道を進むと右側に「永安寺」の案内版があった。



車1台がようやく通れる山道(舗装はしてある)を2キロぐらい登った先に「永安寺」がある。



階段の脇に市の史跡説明書きがあった。



仙台藩2代目藩主伊達忠宗がこの地で狩りをした際、眺望絶佳のこの場所を見つけ、松島瑞巌寺中興の祖、雲居(うんご)禅師を招いたところ、山を好んだ雲居禅師は喜び、承応3年(1654年)ごろにこの寺を建立したという。

本堂には「永安禅寺」の額とともに伊達家の御紋が掲げられている。



寺の裏手に禅師が毎日座禅を組んだ座禅堂跡があると言うので登ってみた。
木枠の階段がところどころに設置してあるが、落ち葉がいっぱいで、湿った日には登るのが難しいと思われる急勾配の曲がりくねった道だった。



足の少し不自由な私は20回ぐらいは休みながら何とか登り切った。

頂上はチョットした広場になっていて杉の大木の脇に高い修験場跡の碑が立っていた。



帰りは、フクロウの鳴き声を聞きながらゆっくり慎重に修験道を下りてきた。

この寺は、伊達家代々の非常時の忍び所で、一族の旅の支度が備えられていたと伝えられているが、嘉永5年(1852年)に寺は火災で仏殿、庫裡など12棟全て消失したという。

現在の建物は、大正6年に大矢敬宗(けいじゅう)住職が復興に着手し、次代の元康(げんこう)住職の2代にわたる住職の努力により昭和31年に完成したといわれている。






平成27年の昭和の日

2015年04月29日 | 日記
今日は「昭和の日」。昭和生まれの自分にとっては「天皇誕生日」の方が馴染み深いが、平成元年から「みどりの日」になり、平成19年から「昭和の日」とすることになった。
「大型連休のスタート」と世間では騒いでいるが年金生活者の自分にとっては特別の時ではない。

孫たちは昼前に勇んでどこかへ出かけてしまった。

私は、庭の「畑起こし」をすることにした。


昨日、ようやく手に入れたミニ耕運機を使っての初作業にワクワクした気持ちで取り掛かった。


慣れないこともあり、期待どおりにスムーズにはいかなかった。

20度を超える暑さも手伝って手作業のときと同じくらい体力を消耗してしまった気がするが、何とか地ならしはできた。


はっきりとした作付の構想はまだもっていないが、一応畝立てをして今日の作業は終わりにした。


ひとり、冷たい麦茶を飲みながらテレビでスポーツ観戦をすることにした。

「東北新幹線が停電により全面ストップ」とのニュースが飛び込んできた。


サッカーもプロ野球も贔屓のチームが負けてしまった。

夜、孫たちの一日の話を聞きながら、何時もよりビールがすすんだ。
私にとっては特別ではない大型連休の初日が終わった。・・・・・・



小原向のみちしるべ(朴沢字小原向)

2015年04月28日 | 日記
根白石から国道457号線を大衡方面に向かうと左側に石材店が点在している。
「興禅寺」を過ぎてから3つ目の石材店の脇にある松の木の下に雑草に隠れるように頭の円い石碑がある。



「馬頭観世音」碑である。
側に竹に挟んだお札が立てられており、今も節々のお参りをされているようだ。



刻字は風化が進んで見えにくくなっているが
「馬頭観世音」の右側に慶応二□□歳(注1866年)、その外側に「右ハどう所」と見ることが出来る



左側は、さらに薄いが「九月□□日」と微かに「左ハミやと古」と読むことができる。



碑の周りはイノシシ避けの金網が張られているが、奥の方へ古い道らしき窪みが続いているように見える。




左の窪みの道は現在のトンネルを避けて宮床方面に続いていたのではないか、また、右の道(457号線)はトンネルの手前を右に進むと「銅所」に繋がっていることから、根白石方面からの道路が、ここで左右に分岐していたのではないかと勝手な想像を巡らせた。



花輪・福岡字屋敷の回文碑

2015年04月27日 | 日記
根白石地区の花輪・柏坊方面から定義に向かい、福岡字屋敷という地区の進行方向右手に馬頭観世音、馬攊神など石碑群がある。



その中で一番左手にひときわ大きい「水神社」という碑がある。



この碑に次のような回文(上から読んでも下から読んでも同音)が彫られている。



東北新聞第千四百十六号
明治廿九年九月四日紙上
 回文俳歌名人 後代庵
      七十三 翁

「水神祀供養の功徳水尽津 通水住徳農よく信字囲守」

(すいじんしくようのくとくみつつきつつみくとくのうよくしんじいす)

「水加美の祈禱尊き 農身下通水」

(みつかみのきとうとうときのみかつみ)


向って左側面には、

奉祝 天皇御代和歌回文八句
献上 朴沢區山路保徳旧臣
    翁七十才而上京



「読置歌我思意書し 此世千代 残し祀可石川可句越見よ」

(よみおくかかわしいかきしこのよちよのこしきかいしかわかくおみよ)

明治廿九年十月廿六日    願主 後代庵
                   石川久左衛門

この回文の作者後代庵(石川久左衛門)は泉嶽村福岡(泉区福岡)の人で仙代庵(細谷勘左衛門)の弟子と言われる。


<参 考>

回文の名手 仙代庵

幕末のころ、仙台城下の荒町に、麹屋勘左衛門といふ酒と学問を好んだ風流人があり、仙代庵と号し、和歌・俳諧の回文の名手でもあった。明治2年没(74才)

 ○今朝見たし徳利ぐっとしたみ酒   仙代庵
 ○頼むぞのいかにも二階のぞむのだ  仙代庵
 ○ほかの酒のんで貴殿の今朝の顔   仙代庵
 ○嵯峨の名は宿りたりとや花の笠   仙代庵
 ○わが身かも長閑かな門の最上川   仙代庵
 ○飯前めしまいの酒、今朝の戒め   仙代庵(酒に酔って堀に落ちたとき)

 ○はかなの世しばしよしばし世の中は、
 長し短(ミジ)かししかし短(ミジ)かな(江戸の居候先の主人が死んだとき)
 ○題目よどんどこどんとよく燃いた   仙代庵(お寺の火事のとき)


 仙台と作並さくなみをむすぶ関山街道の道しるべ石に刻まれた歌

 ○みな草の名は百はくと知れ、薬なり、すぐれし徳は花の作並さくなみ  仙代庵





森子田のみちしるべ(実沢字森子田)

2015年04月26日 | 日記
泉中央行きのバス停「八沢川」から田んぼの中の直線道路を300メートルくらい進み、四つ角を左折して150メートルくらいの左側畑の脇に2つの小さな馬頭観世音碑が並んでいる。
これまで、近隣の人に聞いても「知らない」と言われながら、何度も通ったが見過ごしたほど目立たないところにあった。



その左側の比較的大きい方の馬頭観世音碑に「みちしるべ」が刻まれている。

文化八年(注1811年) 三月十九日 の日付で約200年前のものである。



案内文は、右下に 「右ハ七北とうり」



左下に 「左ハ よしおか・・」 で、下の部分はよく見えなかった。




右は泉中央の方向で「七北田」の案内は自然であるが、左方向は中山方面であることから、この道は左方向に進んだ後、寺岡、紫山のへの道と合流し七北方面へと連なっていたのだろうと思った。



住吉神社前~福岡寿連原の石碑

2015年04月25日 | 日記
住吉神社から福岡寿連原にかけての石碑(みちしるべの刻されていない)は次のとおり

1.西田中消防屯所前の道路脇

 ◆ 馬頭観音


2.柿屋敷板碑の隣

 ◆ 馬頭観世音,庚申塔


3.柏坊橋脇周辺

 ◆ 馬頭観世音ほか(柏坊橋脇)


 ◆ 馬頭観世音(柏坊橋から200メートル位の左土手


4.寿連原の土手の上

 ◆ 馬頭観世音(2)、月山?(大型の碑半分折れて落下・刻字不明)







花海棠が咲きました

2015年04月24日 | 日記
ここのところの暖かさで、我が家のシンボルツリー「花海棠」がほぼ満開になりました。



その下で、ちょっと時間が経ちましたが黄色のカタクリの花がまだ頑張っています。



花海棠は、花びらが密集して豪華な枝振りを見せてくれます。



隣では、椿も負けじと大きな花びらを開いています。



正面から朝日を受けた花海棠は館蔭の杜をバックに優雅な姿も見せてくれます。



また、今年も実をつけてくれるか楽しみの プラム







ゆすら梅



ブルーベリー



そして、姫リンゴ




そのほか、庭の周囲には



春先から続くチューリップやクリスマスローズ、水仙



ドウダンつつじ



ライラック



二度目のご馳走を期待している タラの芽

     


など、春の花たちが互いに今を競って咲いています。











実沢~古内近隣の石碑

2015年04月23日 | 日記
1.「実沢・森子田」田の中の十字路に石碑三基
  左 … 母子観音(?)
       極めて風化が激しく判別不可、台座から向きがずれていた
  中 … 庚申塔
  右 … 南無阿弥陀仏



2.実沢・森子田」田の中(寺岡松田病院付近の田んぼの畔道)
  馬頭観音(天保13年 1842)



3.実沢・八木沢神社付近(道路変更による旧道脇)
  左 … 上欠損(不明)
  中 … 馬頭観世音2(右側は文政6年1823)
  右 … 南無阿弥陀仏



4.野村・松林(泉パーク入口付近)
  お堂(名称不明)と石碑11基
  左から
  山神・馬頭観音像・馬頭観音(6基)・子安観音像
  廻六十六部供養・出羽三山







十王堂(実沢字蒜屋敷) 

2015年04月22日 | 日記
山野内城跡から泉パークタウン寺岡に向う200メートルほどの左手に「十王堂」がある。
熊野神社と隣り合わせの位置にある。



周囲には墓石があり墓地の一角に建てられた「小さなお堂」といった建物である



人が亡くなると残された者たちによって初七日、四十九日、百か日、一周忌、三周忌等の法要が行われるが、死後の冥界を10人の王が支配していて、死者は忌日ごとにそれぞれの王の前で生前の行いを裁断されるという。
生きている者たちは法事を行って死者の成仏を側面から支援する。
この冥界を支配する10人の王を祀った堂が十王堂である。

十王とは、冥府(あの世)にあるという「秦広王」「初江王」「宋帝王」「伍官王」「閻魔王」「変成王」「太山王」「平等王」「都市王」「五道転輪王」の十人の王の総称で閻魔大王をはじめとする冥土で死者の裁きをする十人の王の総称である。

この堂は創建された時代は不明、中には11体王が祭られている。






この前の道を左に進むと熊野神社の表山門に至る。









道祖神(実沢字道祖神)

2015年04月21日 | 日記
中山街道の早坂橋の袂に「道祖神」と書かれた案内板がある。



少し階段を下りると鳥居と市の史跡案内書きがある。



それによると、道祖神は、賽の神、幸の神、道陸神ともいわれている。
もともとは悪疫、悪霊が外から入らぬように村の入り口で塞ぐ神様とされていたが、後に幸の神とか、行路安全の神、さては安産の神へと変化したと言われる。



萱場川の断崖に沿って階段を上ると



小さなお堂が建っていた。



中に、男根を模した石や木製の大小、新古の沢山のご神体が鎮座していた。





この道祖神は、もとは川向の「二の関」にあって、地区の氏神だったが現在は個人の家でお守りしていると言う。


泉区内では、ここのほか朴沢八幡神社の崖下・古内道祖神・鷲倉神社参道脇の石祠・賀茂神社にも祀られている。