出版屋の仕事

知識も経験もコネもないのに出版社になった。おまけに、すべての業務をたった一人でこなす私。汗と涙と苦笑いの細腕苦労記。

知識の吸収

2007年02月27日 | 制作業務
制作中の本のDTPの終わりが見えてきた。仮に落とし込んだものをもとに、著者とさらなる検討を重ねて、今その仕上げの最中。それにしても、今回はためになる知識が増えた。

うちの場合、私の興味の向くままに本を作っているので、「ちょっと知っていたことの知識を深める」という感じが多い。それでも、やはり著者の持っている情報量は膨大でなおかつ深く、作るたびにめちゃくちゃ勉強になっている。

もともといろんなことに興味は持つほうなんだが、特に「その世界の人しか知らないこと」なんかに野次馬的関心がある。なので1冊世に出すと、原稿に書かれている以上の知識が蓄えられて、すごく得した気分になる。

1冊読むのと1冊作るのとでは、吸収する知識の量が全然違う。このままどんどん刊行数が増えて、全部忘れないで覚えていたら、私はとてつもない物知りになるんではなかろうか。

昔勉強のために読んだ出版業界本には、「編集者はどんどん人に会って新しい世界を知るように」と書いてあった。どちらかというと、「いろんな人の話を聞け」という感じで、文字にできる知識というより人脈とか様々な人間の個性を重要視しているようだった。

けれども実際本を作ってみて、この「文字にできる知識」の吸収のすごさは、人脈云々よりありがたい気がする。仕事をして給料をもらって、月謝を払わずにこれだけ学べるってのは、すごい。

先日知り合った出版社の社長は、経済ジャンルの実用書を出している。が、自分は資金繰りなどで忙しくて編集その他は社員に任せているらしく、自社の本に対して「売れる・売れない」以上の興味がないらしい。「売れる・売れない」がわかりづらい業界でどうするかってな経済の本も出してるんだろうに、あまり読んだことはないという。もったいないなぁと思う。

私は元土建屋で施主もいろんな業界だったので、ひとつの工事から学んだことはすごく多かった。けれども建設だと、とりあえずビルを必要とする業界しか関係ない。本という媒体を通して知りえる世界の広さは、ビルの建設よりすごく広い気がする。

となると、「いろいろ…」と考えてしまうんだが、そこには営業的縛りもあって難しい。

編集とDTPの同時進行

2007年01月17日 | 制作業務
ただいまDTP中。ここんとこ読み物が続いたので楽だったが、ビジュアル系はまったくもって面倒くさい。私の言うビジュアル系とは、見出しの段階が多くて囲みとか表とかいろいろある版面のこと。なんというか「マニュアル型」とでも呼ぶんだろうか。

11月中旬に出した新刊が調子よくて、昨年は何もできなかったので、気は焦る。が、1月の発刊を逃しちゃったので「もういつでもいい」という本で、著者のお言葉に甘えて「のんびり」、いや、じっくり取り組んでいる。

著者から「大意を損なわない限り、添削、編集お任せ」と言われている。打ち合わせの段階で、見開きの収まりについての理解を確認したので、原稿をもらったときそう言ってくれた。

そのときに一通り目を通して大きな注文はなかったので、またまたお言葉に甘えて「添削、編集」しながらDTPをしている。今回は「私自身も絶対1冊ほしい(原稿読むだけじゃ満足しない)!」という本なので、細部にも熱が入る。

内容でなく文章でいうと、私は学校で習う国語の文章みたいなのが好きだ。個性とか語りかけとか丁寧とか勢いとかいうことではなくて、そういうものを持ちながら、文法的には絶対正しいという文章。

で、原稿をいじりたいのは山々でも、著者によってはよしとするときもある。が、著者(ライター)に注文するより、文章をちょっといじらせてもらうほうが楽だ。

なのに、なかなか進まない。もちろん作業的に面倒なのもあるし添削しながらだからなんだが、プロだったらもう少し早いのではなかろうか。

実際、読みやすさや美しさを考えて外注しようかとも思った。全部じゃコスト的に大変なので、見開きのフォーマットデザインだけ、センスのいい人に頼めないか。けど、そんな発注の仕方ってあるのか知らないし、仮にイレギュラーだとしてそういうことを頼めるデザイナーは忙しそうだったので諦めた。

それに、他人に頼んで「なんとなく」気に入らなかったら、それはそれで悩む。自分のブリーフィングが下手なせいとして諦める(または追加コストを払う)か、「なんとなく」を無視することにして進めちゃうか。

自分でしたら、そういう悩みはない。「ま、このへんでいいんじゃないの」=「不満要素はない」ことになる。どのみち、自分でしたほうが小回りが利く(著者とのやり取りで細かい変更があってもOKだ)。

というわけで、毎日毎日マックと格闘している。

実は、「年末間際に来た日販帳合の書店からの注文を、日販(王子)に持ってくのがかったるくって直納したら喜んでもらえた」ということを学んで、今度から「搬入ルートにある書店さんに直納がてら挨拶」なんてことも考えていた。が、それもままならない。今は、さっさと帰ってDTPをするべき(そういう時期)だから、しょうがない。

刷り部数

2006年11月17日 | 制作業務
新刊ができあがって、委託の納品を済ませ、その残りが届けられた。うちの使っている倉庫はただの「置いとく」倉庫なので、とりあえず本はうちに届く。

で、印刷会社の子会社(?)の運送屋さんが、ビックリすることを言っていた。私は人が物を運んでるときに、「手伝わないで自分の仕事をして、終わったらハンコだけ押す」というのができないので、運送屋のおじさんを手伝う。おじさんは出版社ばっかり回っている人なので、そのときにする雑談が、結構ためになったりする。

運びながらおじさんが、「こんなに多いのってすごいですね」と言ったのだ。

最初、意味がわからかった。というのは、うちの刷り部数は少ない!と思い込んでいるからである。

今回は配本数を少なめにしたので(したって言うと思い通りになったみたいだが、もし多めに取次に言ってもダメだっただろうと思う)、その分、事務所に届けられた本が多い。なので、おじさんにそう言うと、

「いやいや、残りじゃなくて、全体の刷り部数も他んとこはもっと少ないですよ」

そんなことはないだろうといろいろ質問しても、おじさんはもっと少ないと言い張る。曰く、少ないところは250部、多いのは500部くらい。

本当か! 本当なら、最近はそんな部数でも採算が合うようになって来たに違いない。1年以上前に増刷の見積りを取ったときには、そんなんでは割に合わなくてやめてしまった。が、500部でも単価を抑えられるなら話が変わってくる。印刷製本会社が進化したんだろうか。進化なら嬉しいことだけど、「需要が多くて無理を強いられている」という、ありがちなケースかもしれない。

そのへんは、機会があったらきちっと見積りを取ればわかることなので、よーく覚えておくことにする。印刷会社の営業マンとしては聴かれたくなかった話かも。

ただ、最近、「3千部売れたら御の字」とか「意外とどこも初版は少ない」とよく聞く。意外と少ないったって、うちよりは多いだろうと思ってたんだが、本当にみんな少ないのかもしれない。おじさんの話を半分に聞くとしても、千部くらいの出版社も結構いるのかも。だからうちがどうってことはないんだが…。

とにかくビックリして知り合いに話したら、「自費出版の分ではなかろうか」と言う。自費出版を手がける版元も多くて、刊行数もすごく多いらしい。で、どうせ自費出版なので、千部刷ったと客には言って、実は500部・・・なんてことをしているのではないかという推理。

そんなことみんなで一斉にやめて、普通に作った本をたくさん刷るほうがいいと思う。それぞれの事情だからしょうがないんだろうけど。。。

製本所見学

2006年11月07日 | 制作業務
厳密には「制作業務」じゃないんだが、制作途中の出来事なのでこのカテゴリー。

昨日、製本所の見学に行った。ずいぶん前に印刷所の見学には行ってたんだが、製本所はなかなかチャンスがなかった。もちろん、最終目的は「どこをどう突っ込んだら安くなるか」を知るため。とはいえ、流れと機械の大きさに圧倒されて、それどころではなかった。

うちはある印刷ブローカーを使っていて、それはやっぱり安いからなんだけど、この「製本所見学」にブローカー氏と印刷会社の担当者もくっついてきた。見学が終わる頃、製本所の人が「今日100冊見本上がりますから」と言ったとき、私には明日だと言っているブローカー氏と印刷会社氏がビビッたのが可笑しかった。そんなこと、こちらはわかって発注している。

で、製本所見学からは、即役立ちそうな情報は得られなかった。どこをどう調整するか(機械の)はバッチリ聞いてきたので、「遊ぼうと思えばコストをかけずに遊べる点」はわかった。けど、もともと遊びがない発注で、どうすればもっと切り詰められるかってのは、わからない。

笑っちゃったのは、三面断裁(だったかな?)の機械で、一体になった折丁の束をバサッと切る(小口とかを揃える)ところ。

こっちは「四六判ってのは188x128だったっけ…」と、調べたり前の本のデータを出したりしてDTPしてるのに、製本所で「適当に」切っちゃってることが判明。

確かに、同じ四六判でも微妙に大きさが違ったりすることがある。背表紙の具合かなんかが原因だと思ってたんだが、実は製本所の人の美的感覚らしい。「表紙を見て、このへんだと収まりがいい」と思ったところで切るとのこと。

うーん、こいつは知らなかった。私は非常に大雑把な性格で、細かいところは無視したいんだが、こんなところで製本所を頼れるとは知らなかった。逆に言えば、大雑把と言いながら、ノンブルの位置とか本文のテキストボックスの大きさにこだわって0.何ミリ単位で調整していたのは、まったくの無駄(ま、無駄じゃないときもあるだろうが)だったということだ。

多分、細かいところ(デザイナーの指定)にこだわって作る版元のときは、気を遣うんではなかろうか。うちの場合、マックでいじってるときにはいじるくせに、上がってきた本だと、「ああ、いいじゃない、いいじゃない」と喜んで済ましちゃうような感じだから、製本所の「このへん」で適当でもよしとなる。

で、それをブローカー氏も印刷会社氏もよーくご存知というわけか。まあ、それでやすいのなら構わない。

複数の企画

2006年10月20日 | 制作業務
本題の前に、先週「来ないでほしい」とお願いしたトーハンの返本おじさんが今日来た。9月の頭に出した新刊の第1弾返品がまだだったので、山のように返ってきた。箱入りになってからは溜めて持ってくるようで、この返本おじさんに会うのは実に2ヶ月ぶりだ。

で、例によってハンコ本(献本)のチェックである。こちらは前科がないので、おじさんに説明してちょっと待ってもらった。ところが、正直なおじさんは、「そういうこともあるから、ちゃんと見たほうがいい」と言うのである。「そうですか、トーハンさんもありますか」なんて話しながら全部見たけど、結局1冊もなかった。仕入部の担当者次第なのか。

で、本題だが、昨日お会いした編集者の方は、若い頃には20冊以上の本を進行させていたそうだ。以前、どなただったかも、企画中のものも含めると10冊以上だと教えてくれた。

私の場合、出版を始めた頃は1冊ずつで精一杯だった。配本してPRして(この順序が逆なのも今となっては恥ずかしい)、ようやく次の企画について考え始めていた。とにかく、先のことなんか考えられなかったんだが、それはそれで、集中できてなかなかいいものだった。

ちょっと慣れてくると、取次の担当の人から「次はいつだ? どんな本だ?」ときかれたときにある程度答えられるように準備するようになった。準備と言っても、ただ「考えておく」だけだったので、その頃答えた企画はほとんど実現していない。

もっと慣れてくると、考えて作って見本納品して売って…という流れがルーティン的に身についてきて、少しは次の本のことも考えられるようになった。手をつけるわけじゃない。1冊出したらすぐ次に取り掛かれるように、とりあえず企画だけは決めておく程度。

私は非常にスケジュールコンシャスで、「何か起こるときのために、自分サイドのことはなるべく前倒し」する。「明日すればいいことを今日するな」とか、「今日できることは明日に持ち越すな」とか、人によって言うことは違う。私は片付けてしまいたいタイプってわけでもないけど、後から「あなたが遅かったから遅れた」と言われるのだけは避けたい。

で、著者の人も余裕があったほうがいいだろうと思って、確実に出すと決まった本に関しては早めに話をつけるようにした。気分的には、「著者の確保(だけ)しておいて進行中の本に集中し、それが出てから、お願いしておいた著者との仕事を始める」という感じだ。

ちなみに、来月出る本(Aとする)の原稿がほぼ見えてきた7月頃、次の本(Bとする)の著者にコンタクトをした。他に抱えている仕事との兼ね合いもあるから、前もってスケジュールに入れといてもらうために早めにお願いしたのだ。

これが、たまたま著作も多い「書き慣れた」著者だったからか、いろんなことがどんどん進んでしまう。

Aの本の原稿についてギャイギャイやってた8月頃、Bの本の著者から「こういう売り方もあるがどうか、打ち合わせをしたい」と言われた。とてもいい案で、その方向で…とお願いしておいた。Aの本がまとまってDTPに励んでいた先月、Bの著者から「とりあえず書いてみた」と連絡があって、原稿を受け取りに行った。そうなると当然なんだけど、Bもどんどん詰めたくなって、細かいことまで熱くなってしまう。

Aの本は来月頭に見本が上がってくる予定で、今までの私だとPRに精を出す予定なんだが、きっとその頃、Bの著者から「打ち合わせたとおりに書き直した」と、連絡が来る。

なんか「あちこち、あれこれ」という気分になる。決して「取り組みの熱意を分散させる」わけじゃないんだけど、なんかそうなりそうな不安を抱えながら仕事をしている雰囲気。2冊だけなのに、この体たらく。

他のことにだんだん慣れてきたように、同時進行にもこれから慣れていくんだろうか。それが「仕事ができるようになる」ということなのかもしれないけど、今の時点では、「慣れてしまいたくない」気もする。よくわからない。

原稿待ち

2006年09月26日 | 制作業務
編集作業に関して他社の進め方を学ぶ絶好の機会に恵まれている。もう少し先の段階に行くといろいろわかりそうで、今は宿題を片付けている状態。

その編集作業だが、最近読んだ本。確かタイトルは、「原稿を依頼する人・される人」みたいな感じだった。少々古くて、ファクシミリの機械が普及し始める頃の、様々なジャンルの著者や編集者の短いエッセイがたくさん載っていた。

で、その中で、「依頼だけすれば、締切までに原稿が届くと思っている編集者がいる」というようなことを書いている人がいた。

もう本が手元にないのでうろ覚えなんだが、「依頼だけ」というのはつまり、「どうですか?」とか「資料は足りてますか?」とか尋ねてほしいというニュアンスだった。これって普通なんだろうか。

その前に、編集者がいう締切とは、デッドラインのことなんだろうか。

私の想像では、例えば週刊誌みたいな忙しそうな媒体だと、そもそも「どれくらいの原稿を上げてくるか承知している」書き手に頼む気がする。で、締切=デッドライン。

私が本を作るときは、最初にある程度のスケジュールを確認してもらう。で、それぞれの段階で「この作業(作業という言葉は失礼かもしれないけど、ようするに一段階)は締切はいついつ」といちいち言う。

元土建屋なのが少し関係していると思うんだが、工程管理はとても気になるのである。

内容に関して検討して変更してもらいたいとき(もともと余裕は見てるんだが、大きな変更があるとき)は、工程表自体をいじる。で、また細かく「これは締切はいついつ」・・・と進める。目的は、著者に無茶を言わせないこと。言わせないなんていうと喧嘩腰みたいだがそうじゃなくて、著者都合の発刊日があるようなケースで、「努力はしますが、あなたがサボった分どれくらい取り戻せるか、保証はしない」と納得してもらうため。

だから、デッドラインを締切と呼ぶのは怖いんだが、普通はどうなのか。後の編集者とのやりとり(書き直し)も含めての、最終締切なんだろうか。

それで、「依頼だけすれば・・・」に戻るんだが、おそらくこの人は、工程管理の話をしてるんじゃないと思う。昔は原稿依頼ってのは家まで編集者が来て会って…だったそうで、ファックス1枚での依頼を「味気ない」とか「失礼」のように感じている著者が多いようだった。この人も、放っておかれるのが失礼と思っているようで、お伺いされたいようだった。放っておかれるというのは、静かに(催促せずに)待ってくれているとは思わないらしい。

著者が書いたものがそのまま活字になることは、しょっちゅうあるんだろうか。以前、「よりいい本にするために編集者がいる」と教わった。でも、編集者が思い描いていたとおりの原稿が上がってきたら、とりあえず「原稿後の編集作業」ってのはあまりないような気がする。最初のブリーフィングが適切なら、あり得ない話でもなかろう。この場合、編集者の力量は、企画段階とか著者選びで発揮されたと言えるのではなかろうか。

で、またまた「依頼だけ…」の彼に戻るんだが、この人は「編集者が期待している原稿を締切までに渡す」ということは、著者サイドの最低限の仕事とは思ってないということだ。どんな著者もそれを目指して、それでもやっぱり編集者との二人三脚が始まって…ということだと思ってたんだが、書くこと自体に編集者の助けを必要とする人がいるとは知らなかった。

いや、場合によってはあるんだろうけど、うちの場合、書くこと自体に私や第三者のインプットを必要とするときは、印税率に反映させてもらう。フル印税率(うちの場合10%)のときは、資料なんか自分で探してほしいと思う。だって、その著者に依頼する理由に、持っている知識、あるいは調べる力なんかも含まれてると思うから。

うーん、なんだかエラそうな記事になってしまっているが、つまり、一般的に編集者は著者にどのくらいのことを期待するのか、それが知りたい。

土建屋だったら、プロマネは、設計事務所にきちんと設計してもらうことを期待するし、それぞれのトレードにそれぞれの工事をきちんとしてもらうことを期待する。期待通りに流れていくようにマネジメントはするけど、それはあくまでも確認であって、自分の「管理」をスムーズにするためだ。

工程が乱れないように予期せぬことをなるべく早く把握するのと、この「依頼だけ…」の著者にお伺いするのは、微妙に違うように思う。例えば、著者の近所で地震があったってなときはお伺いするだろうけど、環境が整っている著者に依頼以外の声掛けをすることが、当然のように編集者に求められているんだろうか。

著者選び

2005年11月29日 | 制作業務
私は突然出版社になったので、著述業の人に知り合いがいない。始めの頃は当然のように、著述業を生業にしている人が著者になると思ってたので、途方にくれた。有名人にホンの少しコネがあったが、「書いてほしいな」と思わなかったのでやめた。

調べていくと、日本何々作家協会ってのがいろいろあって、会員の連絡先もきちっと書いてある。けれども特殊な「頼み方」があるような気がして、二の足を踏んだ。

実をいうと当時、有名な人に頼むときは「原稿料と印税」を払うのだとばかり思っていた。執筆依頼して受けてもらうといくらか払って、売れたら印税を払うという具合。いったい総額でいくらくらいになるんだろうと思ってた。

そうじゃなくて「印税だけど部数で保証」とかいうことがわかってきたのは結構最近だ。

今までに出した本の著者は、ほとんどが無名だ。ひとり、その業界では有名って人がいたけど、書店に並ぶような著作物はなく、論文がほとんどだった。他は無名。どちらにしろ、本の内容をアピールして売るしかなかった。

さて、今作っているのは、「著者名で買う人」もいそうな著者の本である。著述家ではないが、「知ってる人は知ってる」人。ファンも多い。10年ほど前に一度本を出していて、ご自分でも「結構あちこちで売った」らしい。

余談だが、「手持ちがなくなった頃に、なぜか版元から在庫を買ってくれという連絡が来る。増刷したって話は聞かないけど、次から次へと在庫が出てくる」と苦笑いしていた。

そういうわけで、うちとしても今までとは違う桁の部数を売りたい。また、ある程度それが期待できる状態。

こんなことは初めてなので、「やっぱり無理してでも著名な人に書いてもらったほうがいいのか」と思い始めていた。

やたら図書館にあるような本を年に何冊も出してる著者についての噂を聞いたのも、その頃(半年前くらい)だ。有名な作家なのに「○○の人と××の人の、ナントカ」みたいなありがちなタイトルで変だなと思ってたら、出版社で企画してライターに書かせたものを送って、「この本、先生の名前で出させてください」と依頼するとのこと。名義貸しだけなので、印税2%くらいらしい。

ふ~ん、そんな方法もあるんだ、と思ったが、あまりやりたいとは思わない。

ただ、「桁が上がる」魅力は大きい。出版社側の希望というか理想というか、「大きめの数が読める」ような著者で出したい気持ちが、すごくわかるようになった。そんなの当たり前だろと言われそうだが、今まで無名の著者でもやってこれたので、絶対有名じゃないと!という気はなかったのだ。それがなんとなく実感として解るというか…。

以前、ある編集者さんがブログで、「ライターが持ってきた企画を会議に諮ったら、違う著者で出せみたいなことになりかけて…」と書かれていた。その後どうなったのか知らない。

さすがに人様の企画を他の著者でとは思わない。が、うちの場合、企画は私が立てるので、他の著者で全然問題はない。あ、これが世の中の有名な編集者が言ってた「こういう内容をこの人に書いてもらおうと考えることが、編集の醍醐味」ってことか。ああ、いろいろ寄り道して、原点に戻っただけか。

が、例の自費出版みたいな本が、ちょろちょろと出て行く。プロ向けの本を素人が喜んで買ってる感じか。こんなに売れるんだったら、別の作り方もあったかと思うくらい。

ところがこの本は何の宣伝もしていない。パブ向けに配ってもいないし、ネット書店に「出版社のコメント」も送ってない。巷で使われているデータは、見本納品で取次が打ち込んだ情報だけだ。配本数もめちゃくちゃ少ないのに、補充してくれる書店があって、そこでまたなぜか売れていく。

まあ、当たり前なんだろうけど、「内容と著者」ってことだろうか。今後の課題である。


著者とスケジュール

2005年11月01日 | 制作業務
今手がけている本の著者から連絡があった。先月上旬に構成し直したものを届けてあって、「読んだよ、いいじゃない」とのこと。さっそく赤の入った原稿をいただきに行くアポをとった。

今回の著者との進行は、すごくスムーズだと感じる。

以前書いてもらった人は、原稿催促だとわかると携帯に出ないときも多くて、すごくムカついた。だいたい著者になるような人は「忙しい人」で、捕まえるだけでめちゃくちゃ大変だった。

私はそんなに忙しくないので、どこへでもすっ飛んでいくつもりなんだが、すっ飛んで来られたくないらしかった。それでもしつこく、「成田まで送ってくから搭乗前に打ち合わせさせてくれ」と言って会ってもらったりして、結局半年遅れで本が出た。

成田に押しかけるなんて、同じく忙しい編集者にとって別に珍しいことでもないんだろうと思う。けど、こっちは本当に「お忙しいあなたに合わせますから」ってな感じなのに、忙しくてできなかったとばかり言われて延び延びになると、だんだん頭にくる。

最後には、「こいつは要領が悪いから、こんなに忙しいんだな」と思うようになった。

実際、「やっておく」と言った校正が上がってこなかったり、「書いておく」と言ったあとがきを結局私が書いたり、イライラすることが多かった。

「そのくらいどうってことないよ~」と言われそうだが、私は嘘つきは嫌いだ。相手を尊重するので、忙しいなら構わない。もちろん突発的なことも起きるし、そういうときはしょうがないと納得する。

でも「合意した工程どおり進めない」のは、出版云々の前に「人間同士の約束」の問題だ。忙しいなら余裕を持ったスケジュールを組めばいいだけ。言ったことには責任持ってもらいたい。「○○出版だって待たせてるんだからさ~」とかふざけたことをぬかさんでもらいたい。

同じ著者が、契約のときビジネスライクに進める私に、「さすが他の業界から来た人はしっかりしてるねぇ、いいねぇ」なんてエラそうに言うんだ、これが。

バタバタ頑張るのも充実感はあるが、「ああ、やっと原稿もらったよ!」なんて、本来喜んでちゃいけないことだ。それを充実感と取り違えちゃいけないと思う。

で、今回の著者。忙しさは上を行くと見ていた。最初からスケジュールにすごく余裕を見ていた。おまけに自宅の電話だけで、メールとか携帯はない。

「いついつくらいまでに何々できると思います。その頃にお電話ください」なんて言われて、普段の私からするとすごくちんたらなんだが、覚悟してたのでストレスはない。「できたらメールで送ります」なんて言っておいて実はすっとぼける嘘つきより、断然いい。

原稿のやり取り以外にも、結構郵便(お手紙)を使った。この私が「近いうちにお電話いたします」と書いたりする。普段の私の仕事のペースとすごく違うが、昔の出版っぽくって楽しい。楽しいが、字がへたくそなのでちょっと恥ずかしい。

こういう制作進行だと、本当にじっくり余裕を持って進めているという実感がわく。著者次第で、すごく気分が違う。

カバーイラスト、募集!

2005年09月27日 | 制作業務
先日、カバーイラストを自分で描いてみようと思ってワクワクしたと書いた。半分その気になってたんだが、昨日例の売れっ子イラストレーターの友人と飲んでいて、もっと楽しもうよということになった。

彼は書籍専門というわけではないが、とてもビッグなメディアの表紙をずっと描いていて、出版については非常に詳しい。

それで、どうデビューしたのかとか、ずっと前に受けた指名コンペ(というのかな?)について根掘り葉掘りきいていた。昔、講談社から「イラストレーター・オブ・ザ・イヤー」みたいな本が毎年出てて、それに取り上げられるとチャンスが急に増えてきたとか。

けど、やっともらった仕事と思って張り切っても、暇つぶしに書いた絵のほうがよかったりすることがあるらしい。彼曰く、「要はイラストって楽しまないとダメなんだよ」。この理由でカバーイラストを断られたんだが、本当にそうだということが何となく分かってきた。

つまり、私は自分とこの本だから誰にも迷惑かけないと思って気軽にやるから、逆に何とか見られる絵になっているらしい。

で、「露出機会もほしいだろうし、描きたいって人いたら描かせてあげよう」、「マニュアル本じゃないから、分かりやすさとかは関係ない」、「誰か、描きたい人いる?ってきいてみよう」ということで盛り上がってしまった。

以前ある本の本文イラストを依頼したときは、ネットでフリーのイラストレーターを調べまくって、気に入った人にコンタクトした。その人のタッチを確認した後だったし、親切に相場をHPに書いてくれていたので、すぐ仕事を発注した。こちらは納品されたイラストにすごく満足だったけど、その人にとっては「特に楽しくない」仕事だったんじゃなかろうか。

そんなことを考えながら飲んでたら、例の友人が盛り上がってきた。

「だから、よかったら採用しようくらいの感覚で、あえて高い賞金とかつけないほうがいいんだよ。なんだったら○○さんも参加すればいいじゃん、名前伏せてさ。好きで描いてる人のイラストが1番だよ」

「じゃあ、××ちゃん、選評書いてくれる?」

「いいよ。でも俺、けなすの嫌だから、ここがいいとかしか言わないよ」・・・こういうところが、この人のいいところ。

というわけで、近いうちに応募要項みたいのを決める。もし興味ある人いたら、メッセージください。

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この記事は、2005年に書かれたもので、現在は特に募集はしておりません。売り込みなどは常に歓迎しておりますが、基本的に「できるだけ自分でやっちゃいたい」タイプなので、あまり外注することはありません。

だんだん上手くなる

2005年09月22日 | 制作業務
今、著者の手伝いをしている。・・・と書くと聞こえがいいが、ゴーストライティングだ。

出版業を始める前は、政治家とか芸能人の本以外は、みんな自分で書いてるんだと思っていた。いろんな人に会って話を聞くうちに、すごい裏事情がだんだん分かってきた。

以前、「どこの牛肉か気にするのに、本なら気にならないのか。名前だけの著者というのは本来は詐欺に近い」と知り合いに言われて、うーん確かにと思ったことはある。

私の場合、まず最初の本は自分で書いた。資格本で公式テキストの焼き直しだったので、何の問題もなし。ある団体が著者ということになってたが、ゴーストをしているという自覚はなかった。

2冊目は著者の要望もあって結構書き直しをしたが、編集作業をしているような気でいた。当時はリライトという言葉も知らなかった。

あと、思い入れ企画をそのまま作ってペンネームをつけたこともあるし、聞き書きもある。

こうして見てみると、原稿を完成させてくれた著者がひとりもいない。そういう著者にお願いしてないからだと言えばそれまでだが、やってて楽しいってこともある。

一応、文章の書き方みたいなことは、きちっと勉強した。詩や小説なんかだと才能がモノをいいそうだが、文芸以外の「伝える力」は、結構トレーニングで上達する。客観的判断は、社員や知人に協力をしてもらっている。書店のお客さんに失礼でないレベルには、一応達してると思っている。

それでも、「編集者はかくあるべき」なんて人からすると、とんでもないことかもしれない。

が、コストがかからない、ということもある。

これが大きい。ほとんど癖になってしまっている。以前、編集者の集まりで「ゴーストに200万払う」という話を聞いて、ビックリ仰天したことがある。うちなら200万あれば、3冊は確実に出せる。

ところで私は、ある程度原稿に目処が立ってくると、すぐカバーのことを考えたくなってしまう。基本的に、文章書くよりイラストとか装丁の仕事のほうが好きだ。で、今回の本だが、やっぱりカバーのことがちらちら頭によぎるようになってきた。

実は売れっ子イラストレーターの友人がいて、仕事と全然関係ないところでこの友人の絵を見たり使ったりしていたのだが、今回の本にイメージがピッタリだと前から思っていた。

で、連絡してみたら「仕事絡めるとつまんないじゃん。遊び仲間なんだからさ~」と言う。

じゃあ、ただでやってくれるのかと一瞬思ったが、私もそういうのは好きじゃない。プロなんだから払いたい。それに、遊びだと双方で決めてすることを、後から仕事で使うってことにも抵抗がある。当然と言えば当然。

ただ、企画段階からこの友人の絵のイメージがあったので、今さら他のイラストレーターというのもピンと来ない。「どうしよう、描いてみようかな~」と、ふとつぶやいたら、友人が楽しそうに「そうしなよ! そうしなよ!」と言った。ちなみに、この友人が私の絵を見たことはない。

簡単なカットを描いたこともあるが、たまたまその本には「簡単さ」が合うと思って描いてみたら、周りがいいと言うので使っただけだ。

今回のカバーイラストのイメージは、ちょっと違う。

が、それでもきっと「最終的には自分で描いてしまうんだろうな」と想像がつく。一応、まだ原稿に取り掛かってる段階だし、いろんなイラストレーターの絵を見てみようとは思っている。

けれども、「自分で描く」誘惑はめちゃくちゃ強い。コスト云々を抜きにしても、強い。

結論。文章だってトレーニングしたら上手になった。きっと絵も何度も描けば、タッチとか落ち着いてくるだろう(イメージはあるんだから)。というわけで、とにかく原稿をあげて、著者にいじってもらう間に絵の修行をすることにする。

こいつは楽しみだ♪