蒼生

風のふくまま気の向くまま自然にまかせて生きたいねえ

Def Tech

2006-05-31 21:50:07 | Weblog
 行ってきました、コンサート。帰ってきたところです。今、聞きながら、書いてます。残念ながら、会場では座席が天井に限りなく近かったためか、音が割れていて、歌詞が聞き取れない。バックが入らなければ聞こえるのですが。DefTeckの歌はメッセージ性が強いので歌詞が聞こえないとなんのこっちゃら。でも、とても楽しいコンサートでしたよ。じっくり聴くコンサートではないんですが、それでも優しい二人なので、雰囲気が楽しくて、過激じゃなくて。ほんとうは、少しでいいからじっくり聴く曲がほしかったんですけどね。
 でも、何ですねえ、最近のコンサートは椅子なんかいらんじゃないと思うくらい、最初っから最後まで立ってるし、(私は抵抗してずっと座ってましたが。幸い、2列めで前の人が一度も立たなかったモンで)みんな同じ振り付けでないとあかんみたいやし、(上から見てるとみんなが同じ動きをするので気持ち悪い)、なんだか、しらん人と手をつないだりしなあかんし(ものすごーーーーーい久しぶりに娘と手をつないでしまった。ちっちゃい手!)。それと、歌のメッセージに関係なく、ずっと手拍子。う・・ん、かなりシビアな内容のものもあるんだけど、どの曲も同じようにのるの?内容はなんでもいいんか?のりさえしたらそれでいいんか?
 それにしても、マイナーな地域でのコンサート。なら100年会館。初めて入りましたよ。通路がライティングされていたりして夜はきれいでした。コンサートにちゃりで行くというのもどうかと思ったのですが、一番便利なもので。けっこう、チャリも思っていたより多く、ままちゃりで帰っていった人もいたから、まあ、いっか。
 来週は陽水のコンサート行きます。

そしればなんとやら

2006-05-30 11:03:39 | Weblog
 日頃何気なく使っている言葉だけれど、ちゃんと意味を調べるとへえっと言う言葉がたくさんある。昨日、ベンチ型のチェストという言い回しが出てきて、おかしいやろと言うことになり調べてみた。チェストというのは引き出しをイメージしていたから。実際、家具などのカタログでもチェストは引き出し型の収納家具のことを指していることが多い。ところが、チェストとは単に(ふたのある)大箱; 金庫のことで、引き出しは drawer というらしい。
chest of drawers がたんす。どうもドロワーズという言葉が定着しなくて、前のチェストだけが一人歩きしているらしい。そのチェストも聞いてみると人によってかなり思い描いているイメージが違い、ある人は小引き出しのことだと言い、ある人はいわゆるタンスのことだという。これって、通販業界の罪?

 さて、そしれば来る、なんて言い方をする。最近はあまり使わなくなっている言葉だけれど、これもちゃんと調べてみると
そし・る 2 【▼謗る/▼譏る/▼誹る】 (動ラ五[四])
(1)人を悪くいう。非難する。
「陰で?・る」「けすさまじ、など?・る/枕草子 49」
(2)不平を言う。文句を言う。[日葡]
「まんきなるものの心はいかりと?・る事おほし/こんてむつすむん地」
[可能] そしれる
 これは、まあ、だいたい思っていた通りか。言葉には言霊があるというが、「そしれば来る」は本当によく起こる。「噂をすれば影」とどう違うのかよくわからないが、とりあえず、人の悪口や噂をするとその本人が現れる、ことが多い。
 最近はPCとそのお友達(?)も「そしれば動く」らしい。最近、ネットにつながらなかったりプリントできなかったりしたので、周辺機器を買い換えようかと言い出すと、慌てたように調子がよくなる。これは本当。だもんで、ついつい買い換えずにそのまま使っている。
 この話をしたら、ほかにも賛同する人が何人かいた。たたいたら直るという経験も(どこをたたくかはちょっと問題)。絶対こいつら、人の話、聞いてるで。人の顔色、見てるで。その証拠に、新しいPC買った当初はちゃんと立ち上がらなかったりするのが、何もしないのにそのうちに調子がよくなってくるという。私のPCを息子が立ち上げると必ずフリーズしていた。絶対、あんた馬鹿にされてるで、とよく言っていたが、最近は馬鹿にされることもなく、従順に言うことを聞いているらしい。これは、使い手にPCが慣れてきたということか?PCは人見知りするのか?そして、本当に必要なときに限って(しかも夜中とかに)調子が悪くなるというのは、駄々をこねているとしか思えないんだけれど。ところで、PCは字は読めるのか?これを読んで、どんな反応をするんだろう?



ホームステイをひきうけちゃった

2006-05-28 21:20:05 | Weblog
 息子の学校は英語圏以外の5カ国の高校と交流を持っていて、各校回り持ちで交流会を開くことになっている。今年は息子の学校の当番で、70人近い学生が日本に来る。その子たちを各家庭で引き受けなければならないのだが、引き受け手が少ない。我が家はそのクラスには何のゆかりもなかった(英語の成績が悪かったモンで)し、今年は受験ということで本来なら関係がなかったはずだった。しかし、引き受けてくれる家庭が少なく、しかも学年主任が英語の先生ということもあって、連日授業のたびに「どなたか・・・」と言われ続け、息子は根負けしたらしい。手を挙げてしまった。それが2月。その後、今まで何の連絡もなかったので、あの話は消えたのかと思っていたら、突然、予定表とプロフィールを持って帰ってきた。
 ドイツの男の子で19歳。住所は聞いたこともないような地名。趣味がスイミングと犬の散歩?食べられないものはないという申告だが、これは一番困る。「食べたことのないものは嫌いかどうかもわからない」と同じ意味なんだもの。これが嫌いですと言われる方がまだましかも。でも、息子はイスラム教の子に来てほしかったとか。なんだか、最近イスラムに興味を持っている様子。でも、それは困る。食べたらあかんもんがいっぱいあるんやろ?それでなくてもいろいろ手抜きの食事しかしてないんだから。それよりはよかったと思うことにしよう。以前に、ホームステイを引き受けた友人が、いろいろ料理をしてみたが、高校生くらいの男の子は何も食べず、結局ファーストフードばっかり食べてたと言っていた。最悪、それですますか。回転寿司に牛丼に、マクドもあるし。(笑)
 何より、私はドイツ語はおろか、英語もできない(きっぱり!)。娘はドイツ語を1年間したはずだが、「ぐーてんたーく」以外はしらんと言う。まあ、お願いしてかつかつ、やっとこ単位を取ったような状態だから、なんのあてにもならない。英語も、何とか聞き取れるが、しゃべれないという。仕方ない、手を挙げた責任で、すべて息子に任せよう!なんとなく、自分の英語力を試したかったみたいだし。(それであかんかったらどうするんや?)
 7月の10日間は、我が家にとってかなりハードな10日間になりそう。旅する方なら珍道中というのだろうが、受け入れる方はどういうのだろう?ま、とにかく、外国へは当分行けそうにないので、来てもらうことでちょっとだけ、異国の風をうけてみよっと。

子育てはたいへん

2006-05-27 14:27:06 | Weblog
 仕事帰りに駅前のスーパーに寄る。駅前にはあちこちにツバメの巣があって、そのスーパーにも巣がある。夜の8時半。雛たちがかまびすしい。親たちはこんな遅い時間にもまだえさを求めて飛び回っている。私がじっと見ているためか、警戒して親が雛に近づかないため、よけいに雛たちが鳴き立てるのだけれど。こんな時間に雀やほかの小鳥が飛んでいるのはみない気がする。ほかの鳥たちもこの時期は子育てしているだろうに?
 別の日。夜の11時過ぎ。さすがに雛たちは眠っているようで静か。でも、親たちは巣の縁に止まって辺りをうかがっているようだ。眠っているのかもしれないが、時折ぱたぱたと動く。その様子は、雛たちを外敵から守っているみたい。昼も夜も子育てに没頭しているのかと思うと、この小さな鳥がすごく偉大に思えてくる。
 雛の口が赤いのは、親がえさを入れずにおれないため、みたいなことを読んだ気がする。動物の子供がみんなかわいいのも、親が庇護しなくてはならないという気にさせるため、という。それにしても、こんな遅い時間まで飛び回らねばならない親も大変。ツバメは1シーズンに1回きりではなく、何回か雛を育てるらしい。ということは、何ヶ月かえさ取りを続けるわけか。すごい。
 ま、わたしもうちのでかくなった雛どもにせっせとえさだけをやり続けているわけだけれど、うちの雛たちはいつになったら独り立ちするのか。もうかわいい時期もとっくに過ぎたし、無心に口を開けてえさを待っているのでもないし、その口からは憎まれ口も飛び出すし、そんな雛どもに相も変わらずえさをやり続ける私ってえらいかも。

お米の花が咲く

2006-05-23 22:06:28 | Weblog
 今年はいつまでも寒く、いつになったら田植えが始まるのやら。水は十分すぎるくらいあるんだけれど、気温と日照時間が足りるんだろうか。早い年ならゴールデンウィークには田植えが始まるが、今年はまだどこもしていない。先日近くの田んぼにやっと水が入ったので、そろそろ始まるだろうか。ともかく、今年は本当にお米がとれるのかどうか、かなり主婦としてはやきもきしている。特にこのところ、お米の消費が激しく、仕事にかまけて買い物にもいけていないので、「お米のない状態」がままある。携帯に娘から電話があったらぎくっとする。「お母さん、お米どこにもないで」・・・かなしい・・・「米もみそもない」というのは、昔話ですごく貧しい家の状態を言い表す言葉なんだから・・・
 さて。今日、「お米の花が咲く」という言い回しを聞いて目が点、いや、目から鱗。これは料理の用語で、おかゆの状態をいうらしい。
『広東式で作る粥の特徴は、米にサラダ油やゴマ油などの油を絡ませること。油を絡めることで、米が割れやすくなり(米の花が咲く)さらりと仕上がるんだとか。』お米の豆知識
 日本のおかゆはこのお米の花が咲いた状態は失敗と見なすように聞いた(お米がつぶれてはだめなんだろう)が、どうも、中華がゆはその状態がいいらしい。同じおかゆでも国によって違うんだなあ。そういえば、即席中華がゆをたまにつくるが、それは、ミキサーに中華スープの素と水とひやごはんをいれて、じゃんじゃんじゃんと数回回すだけ、という超簡単なもの。いい具合にお米がつぶれてほんとうに中華がゆ風にできる。後はそれを温めるだけ。あの状態が「お米の花が咲く」なのね。いやあ、言葉って深いわ。

思いこみ

2006-05-21 19:56:28 | Weblog
 昨日、やっとエンドウ豆が収穫できたので豆ご飯にした。美味。今年は天候不順のせいか、なかなか豆が大きくならない。おいしいおいしいと、喜んで食べた。しかし。そのときになぜ気がつかなかったのか。今日、念のため、もう一度見に行ったら、豆がぐんと大きくなっている。実家の父が大好きなので、明日届けてやろうと思いつつ収穫しているうちに気がついた。数本あるうちの2本、スナップエンドウやん!!!さやの形が違う、色が違う、手触りが違う。なんで昨日気がつかなかったのか。エンドウ豆ほどふくらんでしまうと実は育ち過ぎ。気がついてからあわてて取り出したら、レジ袋にいっぱいとれた・・・
 そういえば、昨日豆をむいているときに、いくつかむきにくい豆があった。そして、ふくらみの割に豆が小さいなあと思っていた。しかも。いくつか、さやがやけに肉厚やなあとおもっていた。それでも気がつかないとは!
 頭から、全部エンドウ豆だと思いこんでいたからなのだが、それにしても。もったいないことをした。食べられるさやを捨ててしもたやん。今日は、取ってきてすぐに塩ゆで。緑がなお鮮やかになる。先日のワラビも着色したような緑になって驚いたが、この豆もゆでるとなお緑が濃くなる。不思議。そして、濃厚な味で、甘い。美味。一つ、二つと食べているうちに止まらなくなって、結局今日の昼ご飯はこのスナップエンドウに。写真の豆が半分以上なくなってしまった(げふっ)

背筋を伸ばす

2006-05-20 18:30:27 | Weblog
 電車の中でかっこいい女性をみた。顔も美形なんだけれど、なにより背筋がしゃんとしていて立ち姿が美しい!まじまじ見るわけにはいかないので、ちらちらと・・最近では珍しいくらいの姿勢の良さ。
 逆に最近目立つのは猫背の若い子たち。何でも、背筋力がないので背筋が伸びないのだそうだが、最近見かける子たちはそれどころではない。S字型、といってわかってもらえるだろうか。頭が前、胸がひっこんで、おなかが前、そして、器用なことに足がまっすぐに立たず、後ろへ行くことでどうやら全体のバランスをとっているようだ。横から見ると、まさしくS字型。決まって、筋肉も何もないほそっこい体つき。薄いうすい身体。男の子に多いように思う。彼らの中身はどこにあるのだろうか。そして、これは偏見かもしれないが、顔つきもだらしなく、なんの意志力もないように感じるのだ。こんなのが息子やったら、折り曲げてるわ!こんな姿勢だと、前も見えず、地面ばかりみてるんじゃないんだろうか。だから意識が後ろ向きになるとか・・??
 今日見かけた小学生。どうやらバレエのレッスンにいくようだが、この子も猫背。猫背でバレエなんてできるんだろうか?
 ま、私も中学生の時はすごい猫背で、親によくしかられていた。今はどうかというと、ま、すぐにぐにゃっと砕ける、意志が弱いから。で、最近、ヒールのある靴を履くことにした。今まで、足のトラブルが多かったのでついぺったんこの靴ばかり履いていたが、5,6センチのヒールの靴。しんどいかなと思ったが、わりとすぐに慣れた。ヒールの靴で歩くと、何となく、背筋が伸びる気がする。そして、気がついたこと。たった5センチなんだけれど、いつもと風景がちょっと変わる。今まで見えなかった風景が見えてくる(おっちゃんの禿頭が見えていやなときもある)。空が見える。背筋が伸びることで顔が上を向くからなんだろうけれど、たったそれだけのことで、なんだか前向きな気持ちになれることが新鮮。姿勢って、思っている以上に大切かもしれないねえ。

明日の記憶

2006-05-18 23:05:23 | Weblog
今話題の若年性アルツハイマー。今までに、痴呆をあつかった「折り梅」や古いところでは「恍惚の人」など、映画を見てきました。若年性アルツハイマーは韓国映画の「私の頭の中の消しゴム」。映画って、やっぱりお話やなあ、というのが感想といえば感想です。救いのない映画、重い映画と聞いていましたが、実は、これで重いというのなら、現実はもっと重いで、というのが実感。でも、映画ですから。それは充分わかっているし、結構泣きました。
いろいろ、思い出してしまうのです。若年性アルツハイマーで10年寝たきりになって亡くなった友人のお母さんのこと、問題行動を起こし、おかしいねえといっているうちに一人暮らしが出来なくなり、今は施設で何もわからなくなって暮らしている近所の人のこと。あっという間に進行してしまう病気であり、今のところ、治す薬はもちろん、進行を止める薬さえありません。はっきり言って、アルツハイマーだと診断されたらもう、死の宣告のようなもの。それも、だんだん自分が自分でなくなっていく過程がわかるという、残酷な病気。いらだち、恐れ、とまどい。自分に怒り、病気に怒り、身近な人に怒りをぶつけることしか出来なくなる。ああ、でも、怒る力があるのはまだいい方かも。
母は、アルツハイマーではなかったけれど、ひどい鬱で、ひととき人であることをやめたかのようでした。一日中、下を向いて、食べることも考えることも、何もかもやめてしまう。治らない病気ではないと思っていたので、悲壮にはなりませんでしたが、それでも、出口の見えないため息の出る毎日。何の感情もないかのようなぼんやりした母をひっぱるようにして病院に通った日々。「僕が僕でなくなったときに、君は平気でいられるか?』と問われ、「平気なわけないじゃない。私だって怖い。でも、私がついている」と答えた妻。まさしく、そんな感じでした。
そうそう、もう一つ怖かったのは、今日は旦那と見に行ったのですが、一番最初にする痴呆のテストで、三つの言葉を覚えるというのがあります。だんなが、「あれ、わからへん」・・・・・病院行くか?旦那がもしこうなったら私はどうするだろうと思いながら見ていたことでした。(自分がなるとは思ってないところがいいねえ)

躑躅

2006-05-14 20:09:29 | Weblog
 エンドウ豆がもう出来ているだろうとわくわくして畑へ。ところが、数はたくさんあるが、先週からたいして大きくなっていない。まだまだきぬさや。なんで?やっぱり寒いからかなあ。せっかく来たんだからとちょっと大きくなっているものを摘んで帰りましたが、やっぱりまだ小さすぎました。あああ、もうちょっと待ったらおいしくなったはずの実を、あたら若いうちに摘み取ってしまった・・・これだからせっかちはいかんねえ。
 畑のそばに山躑躅。今が一番見頃かな。庭木の躑躅と違い、色ははかなげなピンク。なんだかいつもより花が大きいような気がします。庭木の躑躅はさんさんと日が当たるところで濃い赤色や白色で咲くことが多いけれど、山躑躅は大きな木の陰で、ひっそりと咲きます。そして、なぜか、額やはっぱはネバネバ。きれいなので摘んで帰ろうと思うと、抵抗するかのように、手がすごいことになります。これも、自然の防護手段なのか、それとも、虫を捕まえるためなのか?いや、躑躅が虫を捕まえてどうするのかは知りませんが。
 ところで、この「躑躅」の漢字。あ、ツツジです、念のため。前から不思議でした。だいたい、よまれへんし。一つ一つの漢字も、他で見たことないし。薔薇もややこしいけど、躑躅もややこしいでしょ?なによりこの重々しい漢字が花の名前だとは思えない。今日、やっと解明しました。どちらの字も“あしへん”。花とは何の関係もなく、どちらの文字もよろよろするとか、ふらふらするという意味の擬音だそうです。なんでも、黄色い躑躅には毒があり、その花や根を食べた羊がふらふらとしながら死ぬことからついたとか。いやあ、怖い花なんや。赤や白の花には毒はないみたいだけれど、ま、ついでということで。(何が?)それにしても、なんで羊がツツジを食べるのかわからんけど。

過保護

2006-05-13 00:50:12 | Weblog
 野菜も子供も土壌さえちゃんとしていれば、後はほったらかしでも力強く生きていくと昨日、書いた。今日はその続き。近所に肢体不自由児の子がいる。多分、低学年の時はお母さんが車いすを押して学校へいっていた。当然、近所の子供たちが集まってきて、傍目にはいい関係に見えていた。ところが、最近はその子の車いすは電動に変わり、すいすい動いているにも関わらず、どうも車で送り迎えしているようだ。もうひとつ。多分、知的障害のある子供だと思うのだが、ずっとお母さんが送り迎えしている。ところが、その距離が歩いてもほんの数分の距離なのに、毎日、車なのだ。車でびゅーんと1分ほど走り、その後、池に架かった橋を歩いて学校まで行く。なんで家から歩いて行かないんだろう。その子の障害も、傍目で見るにはそんなに重いわけではない。親がついていかなければならないようには思えない程度なのだ。そして、障害があるからこそ、地域の子供や大人と交流を深めなければならないと思うのは、勝手な理想論だろうか。その反面、障害があるのかないのかは知らないが、いつも登校時間がとっくに過ぎた時間に一人でぶらぶら学校に向かう男の子がいる。よほど学校に行くのがいやなのか、その足取りはあっちへふらふら、こっちへふらふら。毎日遅刻しているが、親はそれにかまう様子はない。
 以前、大阪に住んでいたときに、子供を幼稚園まで歩いて送っていっていた。徒歩10分少々。その幼稚園にはたくさんの子供が通っていたので、まるでありの行列のように幼稚園まで行列が続いていた。途中からめんどくさくなって、本当は親が送っていくことが規則になっていたのだが、途中からその行列にまぎれて一人で行くように子供に言い渡した。子供は素直に一人で歩いていっていた。ところが、その通園路の途中から出てくる親子が、毎日車で行っていた。それこそ歩いても数分の距離である。親がめんどくさいからなのか、子供が歩かないからなのか。ちょっと、先行きが心配だった。その後、どうなったかは知らない。
 過保護と放任は表裏一体。どちらも子供のことより大人が、自分自身が大事なのでは、と思ってしまう。どちらも、子供のためになるとは思えない。子供は私のアクセサリーではないし、私の私物でもない。また、ペットでもない。
 以前、何回か車いすに乗った女性と電車で一緒になった。20代のきりっとした人だった。その人が、電車を降りるとき、どうするのだろうと思っていたら、車いすをからからとんっと回し、前輪をすっとあげ(車いすウイリー?)さっさと電車を降りていった。誰の助けを借りることもなく。その姿はどんな人よりかっこいいと思った。