蒼生

風のふくまま気の向くまま自然にまかせて生きたいねえ

過保護

2006-05-13 00:50:12 | Weblog
 野菜も子供も土壌さえちゃんとしていれば、後はほったらかしでも力強く生きていくと昨日、書いた。今日はその続き。近所に肢体不自由児の子がいる。多分、低学年の時はお母さんが車いすを押して学校へいっていた。当然、近所の子供たちが集まってきて、傍目にはいい関係に見えていた。ところが、最近はその子の車いすは電動に変わり、すいすい動いているにも関わらず、どうも車で送り迎えしているようだ。もうひとつ。多分、知的障害のある子供だと思うのだが、ずっとお母さんが送り迎えしている。ところが、その距離が歩いてもほんの数分の距離なのに、毎日、車なのだ。車でびゅーんと1分ほど走り、その後、池に架かった橋を歩いて学校まで行く。なんで家から歩いて行かないんだろう。その子の障害も、傍目で見るにはそんなに重いわけではない。親がついていかなければならないようには思えない程度なのだ。そして、障害があるからこそ、地域の子供や大人と交流を深めなければならないと思うのは、勝手な理想論だろうか。その反面、障害があるのかないのかは知らないが、いつも登校時間がとっくに過ぎた時間に一人でぶらぶら学校に向かう男の子がいる。よほど学校に行くのがいやなのか、その足取りはあっちへふらふら、こっちへふらふら。毎日遅刻しているが、親はそれにかまう様子はない。
 以前、大阪に住んでいたときに、子供を幼稚園まで歩いて送っていっていた。徒歩10分少々。その幼稚園にはたくさんの子供が通っていたので、まるでありの行列のように幼稚園まで行列が続いていた。途中からめんどくさくなって、本当は親が送っていくことが規則になっていたのだが、途中からその行列にまぎれて一人で行くように子供に言い渡した。子供は素直に一人で歩いていっていた。ところが、その通園路の途中から出てくる親子が、毎日車で行っていた。それこそ歩いても数分の距離である。親がめんどくさいからなのか、子供が歩かないからなのか。ちょっと、先行きが心配だった。その後、どうなったかは知らない。
 過保護と放任は表裏一体。どちらも子供のことより大人が、自分自身が大事なのでは、と思ってしまう。どちらも、子供のためになるとは思えない。子供は私のアクセサリーではないし、私の私物でもない。また、ペットでもない。
 以前、何回か車いすに乗った女性と電車で一緒になった。20代のきりっとした人だった。その人が、電車を降りるとき、どうするのだろうと思っていたら、車いすをからからとんっと回し、前輪をすっとあげ(車いすウイリー?)さっさと電車を降りていった。誰の助けを借りることもなく。その姿はどんな人よりかっこいいと思った。

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