ジュリー&ジュリア
2009年/アメリカ
‘チャイルド’の不在
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
この作品を観て違和感を感じない既婚の女性は私がここに書くレビューなど読む必要もないくらいに幸せな人生を送っているのだと思う。何故ジュリア・チャイルドが男性の中に混じってまで料理を研究しようとしたのか? 何故ジュリー・パウエルが出世する友人たちに負けないようにと悪戦苦闘しながら料理を作り続けたのか? それは勿論両夫妻ともに子供がいないからである。子供がいないから不幸せとは言えないし、子供がいるから幸せとも言えない。しかしジュリー&ジュリアの料理に対する異常な情熱は‘チャイルド’の不在において成り立つことは間違いない。言わばジュリアにとって彼女のフランス料理のレシピ本は子供のようなものであったはずである。だから新聞記者が電話で伝えた通りにジュリアのレシピ本を‘完全コピー’したジュリーにジュリアが不快の念を抱いていたとするならば子供を奪われてしまったような気持ちになったのだと思う。あるいはジュリーに彼女自身の‘子供’を生み出すことを促す意図があったのかもしれない。
とは言ってもトーキング・ヘッズ(Talking Heads)の「サイコ・キラー(Psycho Killer)」の件など結局私も十分に楽しんだのだけれども。
北朝鮮、韓国に「報復の聖戦」と異例の声明(読売新聞) - goo ニュース
私には全く理解できないのであるが、韓国統一省によると北朝鮮赤十字委員会は
15日、韓国が昨年10月に提案したトウモロコシ1万トンの支援を受け入れる方針
を韓国側に伝えたはずであり、韓国の支援に応じたということは北朝鮮は南北対話
進展に向けた環境を整える意図があるとみられていたのだが、まさか同じ日に今度
は北朝鮮の国防委員会が、韓国が北朝鮮有事を想定した対応策を策定したとして、
韓国に対して「報復の聖戦」を始めると宣言する声明を出し、謝罪がない限り対話や
交渉の場から韓国を除外することにするとは凄い国である。食料の援助をしてくれる
相手とどのようにして報復の聖戦を始めるのか注目したい。
(500)日のサマー
2009年/アメリカ
ギャグの宝庫
総合 90点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
この作品のテーマはいたってシンプルなものだと思う。この‘ボーイ・ミーツ・ガール’の物語において主導権はいつもトムではなくてサマーにある。つまり男性は全ての出会いを運命的なものだと思い込むのであるが、ある男女の出会いが運命的なものなのか、そうでないのか決めるのはいつも女性の方なのだ。だからラストのオータムもしばらく逡巡してからトムとの出会いの方を運命的なものにしたのである。
それにしてもネタが満載の作品である。トムは最初グリーティングカードを制作する仕事についていたが、やがてカードに書かれていることの虚しさを思い知り建築家を志すことになる。つまり書かれている内容よりも、その内容を決める構造の方を問題にする仕事に変えるということは脚本家に‘モダンからポストモダン’という問題意識があることは間違いない。
トムがカラオケでザ・クラッシュ(The Clash)の「トレイン・イン・ヴェイン(Train in Vain =虚しい列車)」を歌った後に実際にトムが列車に乗るシーンを繋げたのも、その後のトムの行く末を暗示させているはずである。
結局、サマーはザ・スミス(The Smiths)の曲をきっかけに付き合うようになったトムではなくて、小説『ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)』をきっかけに付き合うようになった男性と結婚する。つまりザ・スミスのヴォーカリストで性癖の曖昧なモリッシー(Morrissey)よりも、『ドリアン・グレイの肖像』の作者でバイセクシャルであるオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)を選んだというのも計算されたギャグだと思う。もっとサブカルチャーに詳しければもっと楽しめたと思えて残念でならない。他に私が把握できたギャグはトムとサマーが一緒にいる時に、トムがジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)のアルバムジャケット『Unknown Pleasures(測り知れない快楽)』のTシャツを着ていたことくらいで、見逃してしまったギャグがたくさんあったように思う。
「40人学級」見直し 少人数教育へ上限下げ 30年ぶり(産経新聞) - goo ニュース
鈴木寛文部科学副大臣は「教育現場は複雑な問題を抱えており、きめ細やかな
少人数指導が必要だ。有識者や現場の意見を聞き、今年夏までに一定の結論を
得たい」と語ったそうであるが、絶対に嘘だと思う。昔から教育現場は複雑な問題を
抱えていたはずだし、昔からきめ細やかな少人数指導が必要だったはずである。
つまり「40人学級」を見直す理由はただ単に生徒が減少し、教師が余るために
余った教師のための“仕事場”の確保でしかない。結局教育制度というものは生徒
のためではなく教師のためのものであるということは今後も変わらないのであろう。
メッセ黒田涙の謝罪 吉本は無期限謹慎に(日刊スポーツ) - goo ニュース
思えば去年の4月にSMAPの草なぎ剛がお酒の飲みすぎで公然わいせつの疑い
で逮捕されたことがあった。当然普段から酒癖の悪さを指摘されていた黒田有は
それを自分のことのように気を引き締めておくべきだったはずなのだが、結局この
ような醜態をさらしてしまうということがお酒を飲まない私には理解できない。怪しい
酒場に行くのだからベテラン芸人である以上多少ぼったくられることは覚悟して行く
べきであり、その上当初は「けんかの仲裁に入っただけで殴っていない」と嘘を
ついていたことも情けない。それとも“武勇伝”のネタ作りに暴行したのだとする
ならばかなり質の悪い男である。
未来の日本をデザインしよう 009|「こども店長」に感じる違和感ドイツのおやじはなぜカッコイイのか (日経ビジネスオンライン) - goo ニュース
日本の今のクルマのモデルサイクルはだいたい3~4年に1回。それに対してドイツ
のクルマは7~8年かけるらしいのだが、それはクルマに限らない。一番典型的な
ものは携帯電話であろう。だから日本の技術は急速に進化発展しているのでは
あるが、外国人には理解してもらえないような“内輪ウケ”の不必要とも思える最新
機能やその技術開発のための労働時間の延長が必ずしも日本に幸せをもたらして
いる訳でもなさそうである。だから子供が遊びもしないで店長をやらされている有様
を外国人が見る時、それは日本人の勤勉さの象徴ではなくてむしろ児童虐待と
見做されても仕方がないのであろう。
書店革命 ブランド品・おもちゃ付き… CDの新譜が初めて登場(産経新聞) - goo ニュース
本当に最近は本やCDを購入しなくなった。その私の理由は既に自分の部屋に
物を置くスペースがなくなっていることにある。だから読みたい本があればまず
近所にある図書館に読みたい本が置いてあるかどうか調べるようになってしまった。
CDもなるべくレンタルで済ますようにしている。ようするに“情報”を入手できれば
いいわけだから“ハード”の部分が邪魔になってしまうのである。だから今後書店が
生き残るためには、部屋のスペースを空けたくなるくらいに買いたいと思わせる
商品を作ることしかないと思う。このハードルはかなり高いように感じる。つまり
それは“情報”だけではなく“ハード”の部分も魅力的でなければならず、さらに安価
でなければならない。そんな魅力的な商品がありえるのか私には想像がつかない。
豪でまたインド人襲撃 「人種差別だ」感情的対立に(産経新聞) - goo ニュース
オーストラリアという国はアメリカの反捕鯨団体シー・シェパードに出撃拠点を提供
しており資金の主要供給源でもある。メルボルンを管轄するビクトリア州内での
インド人襲撃事件は昨年7月までの約1年間で1447件あり、その後も毎月数十件
発生しているそうである。つまりオーストラリア人たちはアジア人が嫌いなのである。
より正確を期するならば白人であるオーストラリア人たちはアジア圏内にいる自分
たちがアジア人と同一視されないように少しでも自分たちの優越性を世界に示す
ためにかつてアボリジニを痛めつけたように今はアジア人を虐めているのである。
自分たちの正義を信じて疑っていないところを見ると意外と北朝鮮並みに質が悪い
国なのかもしれない。
特集:消えゆく曽根中生?
-年/-
『壁の中の秘事』について
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
資料によると若松孝二監督の『壁の中の秘事』が1965年のベルリン国際映画祭に選出されたことに関して日本映画業界から国辱映画呼ばわりされたそうであるが、この作品を選んだのはベルリン国際映画祭サイドなのであるから、国辱映画とされるのは『壁の中の秘事』ではなくて日本映画連盟が予選で出して落とされた増村保造監督の『兵隊やくざ』の方だと思うのだが、そもそも‘ピンク映画’と‘やくざ映画’の争い自体が‘国辱’ものだとも思う。
ところで『兵隊やくざ』がただの‘やくざ映画’ではないように、『壁の中の秘事』はただの‘ピンク映画’ではない。ただの‘ピンク映画’ではないというよりも、そもそも‘ピンク映画’ではないと思う。この作品は一言で言うならば‘反米映画’である。原爆の後遺症で背中にケロイドを持つ男と、原爆の後遺症を心配して子供を産むことを諦める人妻との浮気の場面から始まる。その2人のいる部屋の背景の壁にはスターリンのポスターが貼られている。時はベトナム戦争の真っ只中でアメリカに対する憎悪はますます激しくなるはずなのであるが、男は戦争による株の高騰で儲けることになり、それが人妻には許せなかった。他方、向かい側に住んでいる予備校生は予備校にも行かないまま団地の自室で勉強もはかどらず向かい側に住んでいるその人妻の情事を覗き見していた。性的不能の予備校生は日本の象徴として描かれており、ベトナム戦争特需で憎きアメリカの恩恵に与っている男たちに抱かれた自分の姉や向かいに住んでいる人妻を予備校生は殺すことになる。
この作品が制作された1965年当時はこのように解釈されていたはずであるが、2010年の今から観ると解釈が変わるように思う。今から思えば1965年当時の日本の団地という‘制度’は一億総中流意識を持ちえたことと合わせるならば、まさに理想の‘共産主義制度’だったはずである。それならば団地の閉塞感で生じる狂気というものはアメリカの資本主義によるものではなくて、ソビエトの共産主義によって生じたのではないのかと気がつくことになる。結局若松孝二監督はこの‘閉塞感で生じる狂気’というテーマを再び『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で取り上げて、それが奇しくも2008年のベルリン国際映画祭で上映されることになった。
アンドロイドはグーグル携帯を使うのか? 信義の問題と原作者遺族が憤慨(gooニュース・ひまだね英語) - goo ニュース
私は映画『ブレードランナー』は見ているが、そのフィリップ・K・ディックの原作小説
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?)』は
未読で、この記事を読んで初めて“Nexus-6”という造語を知った。しかしそんなに
“Nexus-6”という造語は誰もが知っているくらいメジャーな言葉なのだろうか?私は
今回の件は“Apple”の商標を巡って元ビートルズとコンピューター会社が争って
“話題作り”をしたように、裏でグーグルとフィリップ・K・ディックの遺産管理者たち
がタッグを組んで仕掛けている“宣伝”だと思う。私は“プリンシプル”というものは
口に出した瞬間に意味が歪められてしまう質のように思う。そこに現代における
プリンシプルの存在の難しさがある。