MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』 70点

2010-11-10 23:58:11 | goo映画レビュー

ケンタとジュンとカヨちゃんの国

2009年/日本

ネタバレ

平成の‘アメリカン・ニューシネマ’

総合★★★☆☆ 70

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 孤児院で育ち、低賃金と過酷な労働環境に甘んじたまま現状を打破できないでいる主人公のケンタとジュンが、ついに意を決して会社の事務所を破壊し、会社のトラックを無断で乗り逃げし、途中でオートバイに乗り換えて兄が収監されている網走刑務所まで向い、孤児院で知り合った友人の洋輔と再会し、彼が働いている施設にいる知的障碍者たちと出会う。設定は『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー監督 1969年)や『カッコーの巣の上で』(ミロシュ・フォアマン監督 1975年)などのアメリカン・ニューシネマに通じる。
 ケンタがジュンに網走に行くと告げた時に、ジュンは網走がどこにあるのか知らないし、一緒に付いてきてしまったカヨは人の名前と勘違いする。しかしケンタも網走に関しては兄がいる場所であるから知っているだけであって、彼らは網走が‘番外地’であるということを知らないまま希望を持って向かうのである。
 『イージー・ライダー』のようにケンタは、先に車で待ちかまえていた職場の先輩の祐也の持っていた拳銃による銃殺は免れるが、まるで『太陽にほえろ!』のジーパン刑事(=松田優作)のようにジュンに腹部を撃たれてしまう。
 そしてラストもアメリカン・ニューシネマの代表作『真夜中のカーボーイ』(ジョン・シュレシンジャー監督 1969年)の主人公であるジョーとラッツォをなぞるようにケンタとジュンはさまようことになる。
 本作品とアメリカン・ニューシネマとの違いはカヨという女性の存在である。彼女はケンタとジュンにブスとかバカとか腋臭と罵られ、お金を持ち逃げされても彼らを追いかけてくる。このハートの強さこそがアメリカン・ニューシネマに欠けていたものなのではあるが、一体この女性が孕む強さがどこから来るものなのか、この作品を見てもよく分らない故に、大森立嗣監督の手堅い演出は高く評価されるべきではあるが、アメリカン・ニューシネマが提示した問題は今もって解けないままなのである。


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政治家としての素質がない人々

2010-11-10 00:02:28 | Weblog

北方領土交渉「根本的に見直す」前原外相(読売新聞) - goo ニュース
日ロは「戦争状態」=仙谷長官が誤認(時事通信) - goo ニュース

 日ロ関係について「平和条約を結べていないから、戦争状態を終わらせるには

どうしたらいいのかということだ」と述べた仙谷由人官房長官と、日本が交渉のテコと

してきた経済支援の効力が薄れたために「北方領土の『ロシア化』が強まっている

ことを踏まえ、交渉そのものを根本的に見直す事が大事だ」と述べた前原誠司外相

が同じ日にそれぞれの意見を述べた事に全く外交戦略のようなものが感じられず、

いつのも“認識不足”外交と“交渉不足”外交という“頓珍漢”たちによる目眩く失態

故にロシアが、もはや日本には話が分かる政治家が存在しないのだということを

悟ったということを残念ながら認めざるを得ない次第である。


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