借りぐらしのアリエッティ
2010年/日本
宮崎駿の影
総合 90点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
2008年の宮崎駿監督・脚本の『崖の上のポニョ』においては主人公のポニョが宗介を見初めて、宗介のように人間になろうとするポニョの強い意志が作品に活気をもたらしたのであるが、『借りぐらしのアリエッティ』の主人公であるアリエッティは『アリス・イン・ワンダーランド』のアリス・キングスレーのように大きくなるわけでもなく、翔のように人間になろうとする意志もないために、作品は大人しいものになっているし、翔自身が心臓を病んでしまって元気がない。
この作品の‘借り’というテーマは地味ではある。確かに子どもにはよく分からないかもしれないが、大人には身に沁みるはずである。‘借りぐらし’をしているのはアリエッティのような小人だけではない。翔もまた大叔母の牧貞子の屋敷に借りぐらしをしており、心臓の手術を控えて生死の狭間にいる翔は自身の体に‘借りぐらし’している状態である。そもそもアニメーションという表現方法が現実の‘仮’なのではないのだろうか? ‘かり’という人生の儚さを子どもが理解しようとすることに無理があると思う。
美しい映像で、そつが無い演出だと思うが、ついうっかり想像してしまう。仮に宮崎駿が監督をしていたらどのような演出をしただろうかと。
なぜ広島でアメリカは謝罪しなかったのか(gooニュース・JAPANなニュース) - goo ニュース
広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ機長(故人)
の息子であるジーン・ティベッツの「日本は真珠湾を攻撃した。我々は日本人を虐殺
したのではなく、戦争を止めたのだ」というコメントに矛盾があるとするならば、もしも
本気で戦争を止めるつもりであったのならば、アメリカは日本国家の中枢部である
東京に原爆を投下するはずだからである。わざわざ東京から遠く離れた広島に
原爆を落とし、そのわずか3日後に長崎に原爆を投下する意図を推察するならば
ウラニウム型とプルトニウム型の原爆の人体実験以外には考えられない。長崎の
原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にアメリカの代表が出席しなかった理由は明らかに
長崎に原爆を投下した根拠が希薄な上に、長崎では同胞であるはずのクリスチャン
が多数犠牲になっているという事実を正視できないからであろう。彼らはキリシタン
として自国民から迫害されても隠れながらキリストの教えを守ったのであるが、その
結果がキリスト教国からの原爆投下という“恩寵”という事実を私たちはどのように
受け止めればいいのだろうか? だから日本人は改めてアメリカに問うべきである。
「何故わざわざ長崎にも原爆を投下したのか」と。