MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

焦りの露呈

2010-08-07 00:09:23 | Weblog

若いアフガン女性の無惨な顔を表紙にしたタイム誌 英断か戦争ポルノか(gooニュース・ニュースな英語) - goo ニュース

 7月末にタイム誌の表紙になった、夫に耳と鼻を切り取られたアイシャという名前の

女性の顔の横に「What Happens If We Leave Afghanistan(私たちがアフガニスタン

を去れば、こうなる)」と断定する見出しに致命的な欠陥があるとするならば、アメリカ

はまだアフガニスタンを去っていないにもかかわらずこのような悲惨な虐待が発生

してしまっているという実態である。個人的な問題を無理やり政治の問題にしてしまう

からこのような頓珍漢な言動を招くのである。このような場合はたとえば女性の顔の

隣にマイケル・ジャクソンの整形後の写真を並べて、「私たちがアフガニスタンに

いればこうなれる」という“技術面”の高さをアピールするべきなのである。


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『特集:ジガ・ヴェルトフとロシア・アヴァンギャルド映画』 100点

2010-08-07 00:06:54 | goo映画レビュー

特集:ジガ・ヴェルトフとロシア・アヴァンギャルド映画

-年/ロシア

ネタバレ

ジガ・ヴェルトフについて

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ソ連共産党が発行していた「プラウダ」という新聞の映画版として制作されたニュース映画シリーズ『キノプラウダ』は3年間の間に25本制作されたようであるが、今回はその内の1から9までの作品を観ることができた。
 最初の方こそ普通のドキュメンタリー作品であるが、やがてタイトルバックに新聞の一面を利用するようになり、映画フィルムが入った箱の表紙を利用するようになると同時に、時計の針を指で動かして時間が経過していることを示したり、ついには新聞を配っている子どもに車に乗っている男たちが声をかけて新聞を買い、じっくりと読むという演技をさせるようになる。9番目の『キノプラウダ』は野外映画の上映を頼まれた男たちの活動が映されていて、最後は上映されている作品が映し出される。つまり『キノプラウダ』を監督していた3年間でジガ・ヴェルトフは現実を映し出すことから出演者に演技をさせることを経て、映像作品そのものを撮るという‘前衛’にまでたどり着いてしまったことになる。
 そしてジガ・ヴェルトフはその集大成として1929年に『カメラを持った男』を撮ることになる。ジガ・ヴェルトフはこの作品で当時可能だった映像表現の全てを駆使している。2歳年下のセルゲイ・エイゼンシュタイン監督も自身の‘モンタージュ論’をフィクションの作品に駆使することで観客の情に訴えることに成功した。しかし豊富な映像テクニックを持っていたジガ・ヴェルトフ監督はエイゼンシュタインのような共産党に受ける作品を撮らなかった。『カメラを持った男』で劇場に入ってきた観客たちの前で上映された作品は類似した人間の行動と機械の動きを交互に映し出して組み合わせようと試みるものである。そしてラストで人間の目とカメラのレンズをダブらせることで感情などに左右されない、つまり事実しか見ることができない‘シネマ・アイ’を作り出し‘映画言語’の作成を試みた。
 残念ながら1934年に監督した『レーニンの三つの歌』(上映されたのは1970年に編集された‘日本語版’)においてジガ・ヴェルトフは自身の‘映画言語’を使うことはなかった(許されなかったのかもしれない)。イスラムの女性たちが被っている黒いヴェールから女性たちを解放したレーニンの身近な思想はやがて大きくなり世界を解放するだろうというメッセージが込められたこの作品は回転する字幕以外は平凡極まりない。この後に撮った作品を観てみたい。
 ジャン=リュック・ゴダール監督を中心に‘ジガ・ヴェルトフ集団’という映画作家集団が1968年に結成された。彼らの活動の是非はともかく、彼らがジガ・ヴェルトフ監督の意図を踏襲しているとは思えない。


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