ウォーリー
2008年/アメリカ
感性の情況
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
ディズニー製作の子供向けのファンタジーアニメに対してレビューなど必要ないとも思うが、人物の造形の仕方が押井守監督の『スカイ・クロラ』に似ていることが気になってしまった。
それが一番良く分かるシーンは歴代の宇宙船の艦長の肖像写真が初代艦長の本物の人間像からだんだんと太って‘アニメ’と化すところである。そしてそれと対照的にリアルに描かれているのが『スカイ・クロラ』と同様に‘現実’である。
しかしその‘現実’代表である主人公のウォーリーは本当に‘現実’を生きているのだろうか?ウォーリーは間違いなく‘オタク’である。過去の残骸を掘り出して楽しんでいるだけの‘オタク’が‘現実’を生きているとは誰も言わないだろう。イヴと出会ったことで‘現実’に目覚めたと言えるのかもしれない。
ところで私たちはどのようにしてウォーリーに感情移入しているのだろうか? その手がかりに出来るのはウォーリーの仕草と声とイヴの目だけだと思う。しかしそれだけの‘情報’で感情移入することは果たして正しいことなのだろうか? 勿論このような疑問を抱いたとしても感情を理屈でコントロール出来ないのだからどうしようもないことではあるが、例えば今の私たちはミュージカル映画『ハロー・ドーリー!』をウォーリーのように夢中になって観ることができるだろうか? 生身の人間が歌って踊る『ハロー・ドーリー!』の方がアニメの『ウォーリー』よりも多くの‘情報’が含まれているはずなのだが、今の私たちの感性は『ウォーリー』の方により敏感に反応するのである。これを感性の進化というのか退化というのか私には分からない。
ディズニー映画であるのだから当然ラストはハッピーエンドに見えるが、それは失われていた緑が復活したという意味だけであって、宇宙船にいた人間の感性も‘回復’するかどうかまでは描かれていない。それどころか今の私たちの感性がどうなっているのかさえ私たちには理解できてはいない。
この作品はディズニーアニメが初めて現実を暴いた‘悪夢’だと思う。分かりやすく譬えるならばウォーリーとは悪夢の中の‘ドラえもん’である。
ちなみにウォーリーの‘WALL’は「目を大げさにくるくるさせる」という意味があるから‘E’は「目(=Eye)」のことだと思う。
公明幹部、自民内部の「対麻生発言」を批判(読売新聞) - goo ニュース
公明党の高木陽介選挙対策委員長が自民党の石原幹事長代理の麻生批判を
批判しているが、公明党こそ麻生の昨今の言動をどのように考えているのか訊いて
みたいものだ。あのバカをどのように支えろというのか良い案があるのならば同じ
与党であるのだから教えてあげればいいのだ。あるいは問題があると思っている
のならばはっきりと言えばいい。公明党は麻生の忠犬にでもなってしまったのか?
もともとは衆議院解散前提で麻生が党首になることを了解したはずなのだから
公明党こそ麻生を批判するべきであろう。高木は理解していないようだが、与党の
足を引っ張っているのは麻生本人である。