武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

父の思い出 菅谷八区 青木裕子 1991年

2010-08-08 20:54:00 | 『しらうめ』12号(1991)

「リリリーン、リリリーン」
「はい、あおきです。」
「あっわたしだけど。あのね、おとうさんが入院することになったんだけど。今、石川先生から電話があってね。」と母の声。(ああ、いよいよきたか)覚悟はしていました。このところ左のひざの関節の痛みがひどく、毎日近くの整骨院に通っていたのですが、足のむくみがひどく心配していたところでした。
「ああそう。じゃあこれから行くから、とりあえずパジャマと洗面用具を用意しといてね。」石川医院へ迎えに行くと、父は力なさそうにしょんぼりと(私にはそう見えた)いすに座っていました。七十才、よくここまで生きて……と思うと涙が出ました。
 今から二十九年前、忘れもしない私が高校一年の九月、まだ台風の余波が残っている日、
「ひろ子さん、お父さんが倒れたそうよ。」
 父の会社の学生寮に下宿していた私はこうして呼ばれ、会社の車で家まで送られました。バスが一日一回しか来ないへき地の山村で医療施設も貧しく、適切なリハビリも受けられない等の悪条件が重なって、右半身不随、言語障害を生涯背負い、社会復帰もかないませんでした。四十二才の時でした。
 家の近くのテニスコートで友人とテニスを楽しみ、山神様の弓場で弓を練習し、年に一度の秋の運動会では大活躍、野球の試合ではホームランを打つスポーツマンでした。字が上手で子ぼんのうで自慢の父でした。あれ程健康で元気だった父がこんな姿になるなんて信じられませんでした。直接の原因は過労とのことでした。
 父も私達家族も、現状を認めて受け入れるまで時間がかかりましたが、双方に共通していたのは、“生きていかねばならない”ということでした。それもより良く希望を持って。一番つらいのは父のはずです。四十二才はあまりに若すぎました。しかし日が経つにつれ落ち着きを取り戻し、自分のことは自分でし、だんだん自分に合った生活のペースを見つけていきました。
 月に一度は必ず床屋に行き(最近は毛が薄くなり、二ヶ月に一回でいいのではと言っているのですが)病院へは週一回、雨の日も風の日も欠かさず通い、犬の散歩は○時△分といった具合です。又医者に塩分・糖分は控えるように注意されると、好物の羊かんやカステラも食べません。一日二十四時間のスケジュールをきちんとたて、一年三百六十五日ほとんど狂いなく生活します。ですから気分転換に旅行に誘っても行きたがりません。たまに私の家へ来ても時間が気になって落ち着きません。(それは薬を飲む時間であったり、犬の散歩の時間であったり、猫にごはんをやる時間であったりしますが)でもこの几帳面さ、生活の規則正しさゆえに、ここまで生きてこられたのだと思います。
 四十二才で倒れて今年七十一才、物心ついて人間らしくなってから思えば、その人生の半分が人並みで、半分が障害をもった人生になります。父を見ていると“生きる”ということは何と大変なことなのだろうと思います。
 私にとって父の存在は、四十二才までの父とその後の父とが、その双方が同じ重みをもっているのです。生きることのきびしさ、すばらしさを教えてくれるのです。
 東松山に八十六才になる義母がいますが、八十六年も生きてきた、それだけで大仕事だと感心してしまうのです。そしてどんなわがままでも聞いてやりたいと思ってしまうのです。(一緒に暮らしていないからこんな事言えるのかもしれませんが)父や義母を見ていると、一度しかないやり直しのできない人生を一生懸命にベストを尽して生きねばならないと思うのです。そして障害をもって(最近は右目が見えないらしい)毎日を懸命に生きている父の真摯な姿に、一日も長く生きて私の前を歩いて欲しいと願ってやみません。
     ―嵐山病院にて父を看病しながら― 平成三年二月末記
・追記
 三月十五日、容態が急に悪くなり、十九日ついに帰らぬ人となってしまいました。葬儀には多勢の方に御列席をいただき、本当にありがとうございました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


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