武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

雪の思い出 菅谷四区 松本茂子 1991年

2010-08-01 18:55:04 | 『しらうめ』12号(1991)

 最近は雪の降る日が少なくなった。私の子供の頃にはよく雪が降った。朝起きると辺り一面真白になっていてまぶしく、美しかった。氏神様の松の緑や南天の赤い実が雪の中から顔をのぞかせてなんてきれいだったことか。私達の小学校が火災に遇って、あちらこちらに分散して勉強をした四年生の時のこと、重忠館跡に障子張りの会館があり、そこが私達の教室となり、家から四十分以上かかって雪の中を歩いて行った。仲良しのみよ子ちゃんと下駄に積る雪を落し乍ら松ぼっくりで雪つりをしたり、なんとのんびりしていたことか、稲荷塚の辺りは山道がつづき、夕方遅くなると、うす暗い道をこわくて目をつむって夢中で走って帰ってきた。
 山間の田圃に狐火がともるとか、神社の沼にかっぱが出て女の子をひきこむとか、昔の人の話を本気で聞いてこわかったこともあった。何か雪が降ると幼い日を思い出す。今年はまだ雪らしい雪は降らない。
 これからの子供達のためにも、いつまでも平和でのんびりした幼い日の思い出のつづくことを願いつつペンをおきます。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


婦人会に入会して 菅谷二区 田口祐子 1991年

2010-07-31 14:01:11 | 『しらうめ』12号(1991)

 地域社会に少しでも貢献ができ、自分の考えを豊かにする、そんな場所はないかと思っていた矢先、婦人会へのお誘いを受け入会したのが二年ほど前でした。
 多くの方達との出会いから始まり、行事もたくさんあり、新しい世界が開けた感じです。昨年も集まりがたくさんあり、私が参加したのは四回ですが、非常に有意義なものでしたので、感じたままを書いてみます。
 はじめに、料理講習会、これは婦人会館の調理室で、行なわれました。皆さんの手際のよいこと、次から次へと進めていく。私も感心してばかりいられないので、一生懸命頑張りました。みんなで作る料理はとてもおいしいものでした。
 二回目は、お茶会でした。場所は料理講習と同じ婦人会館で、お茶室は静かで、とても感じの良い部屋で、先生の入れて下さったお茶のおいしかったこと。ごちそうさまでした。
 三回目は、柏崎の原子力発電所の見学でした。係員の説明を聞いている時は
なるほどたいしたものだ」安全性も抜群だし、電気は原子力に限ると思ったものですが、納得したのは、知識がないせいかも知れません。
 四回目は議会の傍聴で、一般質問でした。初めての体験なので、少し緊張しましたが、質疑応答を見聞して、行政のしくみが少しばかり、理解できたような気がしました。又二人の女性議員さんの存在も印象的でした。
 一年を通して、貴重な経験を与えて下さった役員の皆さん、本当に有難うございました。今後も、できるだけ多くの行事に参加したいと思いますので、よろしくお願いします。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


雑感 平沢・小久保泰枝 1991年

2010-07-30 23:53:07 | 『しらうめ』12号(1991)

 「人生は、自分自身が造りあげる物語」
 毎週発行される、ある機関紙に、この大きな見出しが目に止まりました。何人かの人が、自宅で文庫活動を行っている記事が載っておりました。子供達に少しでも良い本を読んでもらおうと努力されている一人が「本を読むということは、生きる力をつけることだと思うの。人生は、自分自身が造りあげる物語。自殺は自分の物語を終わらせてしまうこと。昔話等、沢山聞いて育った子は、やさしさと人生を自分自身で切り開くという。生きる力を身につける」と言われておりました。
 読書って、こんなにも心豊かに生きることのすばらしさを与えてくれるものだと、改めて教えられました。そのとなりの記事に、“元気です”という見出しに八十六才のおばあさんの紹介が載せてありました。その方は、友人の義母にあたる方なので、特に興味深く読みました。今も現役の主婦で頑張っております。毎日家中の洗濯をやり、又和裁、料理等何でもこなします。又読書も大好きで、一日二時間位読むそうです。特に歴史ものが好きで十四巻もある『竜馬がいく』を五巻も読み終えたとか。宮尾登美子さんの本、立原正秋『徳川の婦人達』等々。又『百人一首』も全部頭に入っているそうです。いつも時間を有効に使っておられ、昼間横になっているのを見たことがないという。素晴らしい知識欲に、本当に感心させられてしまいました。四十五才でご主人を亡くされて苦労しながら六人の子供を育てあげました。それが又自慢の子供達で、常に誇りに思いながら、心の支えに生きておられるとのことです。この様に誇れる母に育てられた息子さんと一緒になった彼女も又、幸せだなと羨ましく思いました。
 この記事を読んで、おばあさんのような素晴しい生き方はとても出来ないけれど、自分の人生は自分で造りあげなければいけないとつくづく思いました。
 いろいろ学ばせてもらった記事でした。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


ふり返れば 菅谷婦人会前会長・中村きみ 1991年

2010-07-29 09:55:03 | 『しらうめ』12号(1991)

 のどかな田んぼ道の枯芝の中に薄緑色のよもぎの芽がふと目にとまり思わず足を止めて摘んで見ました。さわやかな香りに春を感じます。六年間の会長を辞めて振り返る間もなく早くも一年になろうとしております。恥をかき失敗を重ね乍らも何とか会長の任を務めさせて頂きました。これも一重に役員の方々を始め会員の皆様方の御協力の賜と心より厚く御礼を申し上げる次第でございます。長い様で短かったこの六年間に数多い貴重な体験と経験をさせて頂きました事、誠に有難く心より感謝を申し上げます。
 今年は羊年ですね。羊と云えば毛糸、毛糸と云えばセーターと連想を致しますが、フワフワとして可愛らしく何時も群れていっしょにいる姿は、和の集団であり和合の象徴のように思えます。婦人会も一つの集団ですが、こうした団体、組織、グループ等の運営の難しさも痛切に感じて参りました。その反面楽しさ面白さも味わって参りました。皆様にその度毎、無理なお願いを致しました。特に御協力頂きましたのが、他団体との交流会、海外日本語研修生のホームビジットと、ワンナイトステイ、嵐山まつり参加、バザー、三ちゃん母親学級の保育、文化部、体育部、レク部等数限りなくございます。その時々、精いっぱい努力してもゆき届かぬ点など多々あり、反省し乍ら又次の事業への対応にとこれ又忙しい日々でしたが、今「振り返れば」全てが楽しい思い出となります。
 どなたも御存知の事ですが、どんなに小さな事に取り組む時でも「三つのわ」を欠く事はできません。最初の「わ」は「話」で良く話し合う事(お互い意見を出しあい陰での文句よりその場で発言して良く検討する)二つ目は「和」で和やかに楽しく仕事をする事(少々気にいらない事があってもお互い我慢しあい許しあい助けあい励ましあう)三つ目は「輪」で全員が輪となり一つの方向に向って進む事(一人でも横をむいたりぐちる人が居ると大変やりづらくなる)
この三つの輪が完全に結ばれた時は不可能な事も可能となるのですからこれ程素晴しい事はございません。
 激動する社会にあって婦人会を取り巻く環境も大変きびしくなって参りました。就労婦人の増加、多様な生き方、公的や私的な学習の場も多く、それに加え、生涯学習時代と盛んにいわれ、人生を豊かに過すための場が多くなりました。婦人会に入会しなくとも困らない社会環境と協調精神がうすれ、自己中心的となり会員の減少が目立つ現状の中で役員選出に困難を極める場合もあります。又役員が廻ってくるからと退会する方も居る様ですが、どうか奉仕精神とチャレンジ精神を持って一歩前に踏み出して見て下さい。そこには、又違った世界が広がり貴方の眠っている潜在意識を呼び起し貴女を大きく変身させてくれる筈です。
 先日、婦人ばかりの和やかな集いに参加致しました。役員のAさんのご挨拶とスムーズな会の運びの見事さに感心致しました。役員をなさって三年程の間の大きな成長ぶりに感激し、心から拍手をおくりました。他のために、地域社会のために役立つ奉仕活動等、自分のためにもプラスになります。積極的に役員を引きうけ伝統ある菅谷婦人会を守るためにも是非皆さん頑張って下さい。
 思えばこの六年間に数多い出逢いがありました。嵐山町内を始め、郡内に、県内にそして海外に……人と人との出逢い「縁」の不思議さを(縁尋機妙)思う時、金銭には変られぬ心の財産として暖かく育んで参りたいと思って居ります。
 長い間大勢の皆様にお世話になりまして有難う御座いました。心よりお礼を申し上げ、より輝かしい活動の展開と御発展の程御祈念申し上げ、期待致して居ります。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月


大津雑感 嵐山町教育委員会教育長・飯島留一 1991年

2010-07-28 15:37:01 | 『しらうめ』12号(1991)

 一月十九日、二十日の二日間、大津市で開催された義仲復権の会に出席する機会を得た。
 京都から湖西線で二つめの駅、西大津で下車した。
 現職の教員の頃、修学旅行の生徒の引率で琵琶湖を訪ね、それから比叡山に登った経験はあるが、ゆったりした気分で大津を訪れたことはないので興味をもっての参加だった。
 志賀荘は琵琶湖の畔にあった。暮色に消えゆく琵琶湖を眺め、「淡海の海 夕浪千鳥汝が鳴けば 情もしのに古思ほゆ」と柿本人麿呂が詠んだ歌を思い出し、しばらくは感傷的な気分にひたった。遷都後わずか五年、「壬申の乱」により廃都と化した近江大津京というのは、どのあたりであったのであろうかと思ったりもした。
 琵琶湖の月を見て、「今宵は十五夜なりけり」と源氏物語の「須磨明石の巻」の一節を書き始めたという有名な伝承のある寺、さらに「寺は石山、浜は打出」と「枕草子」にもでてくる石山寺とは“訪ねてみたい”そんな気持ちの高ぶりを覚えた。
 総会は、大津市の文化会館で開催された。高台から見る琵琶湖もまたひとしおであった。
  「木曽殿と背中合わせの寒さかな」
 大津市馬場町にひっそりと建つ「義仲寺」そこには、遺言としてその弟子が葬ったという芭蕉の墓もある。そんな義仲が眠る地での旗あげであった。
 その日は、義仲ゆかりの木曾福島町、日義村、丸子町、長野市などの長野県、そのほか富山、福井、滋賀、京都、岐阜、新潟、東京、石川、埼玉の十都道府県、約二十市町村の代表と団体、個人、寺社など百二十人前後の多彩な顔触れの人が集まり、「八百八年めの命日のこの日、純真で常に新しい時代を築こうとした義仲に、少なからず心を寄せるわれわれは、大同団結し……真の義仲像を全国に知ってもらうため努力することを誓う」と嵐山町、関根町長の宣言文の朗読でしめくくった。
 義仲は三十一才の若さで、近江の粟津ヶ原でその一生を終えた。現在の粟津である。
 八百八年も昔の郷土の英雄の復権を、その最期の地であるここ大津で開会されたということはまことにロマンのある話しである。
 生誕の地に住む一人として、意義ある会に参加できた冥加をしみじみと味わったものである。

   菅谷婦人会『しらうめ』第12号 1991年4月