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武本比登志ポルトガルスケッチ&油彩

ポルトガル在住絵描きのポルトガル淡彩スケッチ日記と油彩

1590.モイタの町角

2018-10-11 14:48:01 | ポルトガル淡彩スケッチ

2018年10月11日(木曜日)曇りのち快晴。25℃~14℃。降水確率100%のち96%。湿度97%(4:45)56%(14:33)。南西の微風。紫外線量5のち4。起床時には上がっていたが、夜中に雨が降ったらしく水溜りが出来ている。そして朝食後に本格的な雨。すぐに上がり快晴。午後から風が強くなったものの陽射しは強く快晴。

『きょうのニュース』国際肥満の日。ポルトガル人35歳から70歳までの30%が肥満。65歳以上の85%が肥満。子供に髄膜炎の予防注射。ソユーズ打ち上げ失敗、乗組員2人は緊急脱出。イタリアのサルダ―ニャ島、悪天候被害。フロリダのハリケーン・マイケルでも被害。ブラジル大統領選挙、刺されたボルソナーロの傷は塞がるが選挙の行方には警戒。ベネズエラに移民のポルトガル人への援助。イスタンブール危機。アベイロのモリセイロ、2021年までにエンジンから電化へ。ロナウドは謹慎のポルトガル代表は今夜19:45からポーランドでポーランド代表と。

いつの間に入港したのか、大型帆船『サグレス』が漁港に接岸されている。又、帆船祭りがあるのだろうか?18:30 ヴィラ・デ・コンデからのカラベラ船も入港、接岸。

『昨夜の映画』は

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance)2014年。アメリカ映画。119分。監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。第87回アカデミー賞作品賞をはじめとする数々の映画賞を受賞。 冒頭には、レイモンド・カーヴァーの散文「おしまいの断片(Late Flagment)」の一説が引用されている。その後、砂浜に打ち上げられた無数のクラゲや煙炎を吐きながら墜落する何かの映像から一転、リーガン・トムソン(マイケル・キートン)が自らの楽屋にて、舞台の稽古の出番を待つ本編へ突入する。 リーガンは落ち目のハリウッド俳優である。かつては『バードマン』という3本のブロックバスター映画でスーパーヒーロー、バードマンを演じたスター俳優だったが、それ以降ヒットに恵まれぬまま20年以上が経過し60代となり、世間からは「かつてバードマンを演じた俳優」の烙印を押され、家庭でも失敗して惨めな生活を送っていた。彼は時折、零落した自分を嘲る心の声=バードマンに悩まされた。彼が1人になるとバードマンが現れ、ハリウッドへ戻れと囁くのだ。リーガンはアーティストとしての自分に存在意義を見いだそうと、ブロードウェイ進出という無謀な決断をする。俳優を志すきっかけでもあるカーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』を舞台向けに脚色、自ら演出と主演を務めることにしたのだ。プロダクションは親友の弁護士のジェイク(ザック・ガリフィアナキス)が担当し、共演者にはリーガンの恋人であるローラ(アンドレア・ライズボロー)、初めてブロードウェイの劇に出演するレスリー(ナオミ・ワッツ)が選ばれた。また、自分の娘で、薬物依存症から回復したばかりのサム(エマ・ストーン)をアシスタントとして加え、本公演前のプレビュー公演は目前にせまっていた。リハーサルの最中に負傷した俳優の代役として、ブロードウェイで活躍するマイク(エドワード・ノートン)が選ばれる。俳優として卓越した才能を見せながらも、身勝手極まりないマイクの言動はスタッフを振り回し、3度のプレビュー公演の内、2つは台無しになってしまう。翌日のニューヨークタイムズは、虚言ばかりのマイクのインタビューが一面を飾り、リーガンの記事は後方へと追いやられていた。リーガンはたまらずマイクと衝突する。復活のを目論むリーガンにとって、マイクはまさに目の上のたんこぶだった。その夜の最後のプレビュー公演中、リーガンは喫煙のため外へ出るが、偶然ドアが閉ざされ、衣装姿のまま外へ閉め出されてしまう。リーガンはドアに挟まってしまったローブを脱ぎ捨て、ブリーフ姿でニューヨークの大通りを歩いて劇場の入口を目指す。何とかラストシーンを潜り抜けるも、リーガンがブリーフ姿で歩く様は一般人によって撮影され、その映像はYouTubeで100万回以上も再生された。リーガンにとっては不本意だったが、彼の姿は話題を呼んだ。本公演の前夜、リーガンは舞台近くのバーにて、批評家のタビサ(リンゼイ・ダンカン)から舞台の酷評を宣言される。タビサの記事の発言力は、舞台公演の今後、ロングランか打ち切りかを左右するものだった。リーガンは呆然とした様で街を歩き、道端で夜を明かした。翌朝、リーガンはバードマンの声で目覚めた。バードマンはとうとう実態を持ってリーガンの背後に現れた。バードマンは、リーガンを再び大作映画の世界へ向かわせるべく、彼を虚構の世界へ誘う。リーガンが指を鳴らすと、街は戦闘部隊と怪物の戦いによって火の海となった。リーガンは屋上から飛び立ち、バードマンの如くニューヨークの空を飛び回った。その夜、本公演が始まった。リーガン扮するエディの拳銃自殺で幕切れとなるラストシーン。リーガンのおかしな様子に演者は顔を見合わせる。リーガンは観客の前へ立ち、拳銃を頭へ突きつけ、発砲と同時に倒れた。本物の血が舞台へ飛び散った。観客は一瞬ざわめき、やがてスタンディングオベーションを送った。その渦中、前列にいたタビサは、興奮する観客を無視して劇場から立ち去った。リーガンは病院の個室で目を覚ました。リーガンの放った弾丸は頭ではなく鼻を捉えて、辛くも一命を取り留めていた。ジェイクが持ちこんだ新聞の1面には、観客に銃口を向けたリーガンがプリントされていた。タビサによる記事では、リーガンの自殺未遂は、彼が舞台公演において小道具と本物の拳銃とを取り違えて使用したためだと報じられ、それによって生まれた今回の事件を「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と銘打たれていた。この事件は世間を席巻し、リーガンの復活をファンが心待ちにしていた。1人になったリーガンは立ち上がり、鏡の前で、顔を覆うガーゼを外した。吹き飛んだ鼻は整形され、さながらバードマンのような鋭い鼻に変貌していた。リーガンは、部屋の隅にいたバードマンに別れを告げ、窓の外側へ這い出た。直後に病室へ入ったサムは、忽然と消えたリーガンを探して開け放たれた窓から下を見るが、リーガンの姿はどこにもなかった。上へ、空へ目を向けるとサムは目を見開いて、笑みを浮かべた。(Wikipediaより)

 

 

 

 

 

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武本比登志の画歴

2018-10-11 09:33:49 | 武本比登志画歴

武本比登志 画歴

元サロン・ドートンヌ(パリ)会員

ル・サロン(フランス美術協会)会員

NACK会員・日本美術家連盟会員

美術年鑑・洋画家無所属欄記載

1946

大阪市東住吉区に父・憲太郎(1911,12,18 新居浜市生れ―2012,05,27)、母・千登瀬(旧姓・山下)(1924,03,23 久留米市生れ―2001,07,28)の次男として生まれる。2歳上の兄・亜基良(1944,06,30-)と3歳下の妹・世津子(新姓・西村)(1949,07,29-)がいる。元、行動美術協会会友、創造美術協会委員、日本民芸協団理事の父武本憲太郎が主宰する自宅での土曜日児童画教室で絵に親しむ。「行動美術児童画展」及び「創造美術児童画展」でたびたび金賞を受賞。育和幼稚園、桑津小学校、東住吉中学校卒業。

1962

私立・浪速高校(当時は男子校・現在は共学)に入学。浪速高校で美術部に入部。デッサンを学び油彩を描き始める。一年先輩に六車隆一(1945-2015,9,25 画家)同期に上久保良文、波多野友久(イラストレーター)柴村夢二(Gデザイナー)加藤正雄(1947-2017)、辻清行(画家)小笠原玖(1946-2017 1級建築士)一年後輩にはるき悦巳(漫画家・じゃりん子チエ))二年後輩に故・松岡豊(1948-1999 画家)などがいる。恩師・藤井満先生(1935-2020,3,9)に師事。藤井満先生よりデッサンや油彩の他に課外授業で「印象派以降の西洋美術史」を教わり、感銘を受ける。大阪府私学高校美術展で大阪府教育長賞など3年連続受賞。3年の時に田中繁、森栄、末信良一らとビートルズバンドを結成。西岡たかし氏の知遇を得、採譜と歌唱指導を受ける。高校文化祭でビートルズを演奏。以前から友人であった、藤原秀子(1946-2013)さん(当時中川イサト氏らとPPMスタイルのバンドをやっていた)を西岡たかし氏に紹介。その後「五つの赤い風船」が結成される。

1965

ナンバ一番」のコンテストに出場。グループの森栄、末信良一、武本のそれぞれがリード・ヴォーカルをとり、後の2人がコーラスにまわるというかたちで3曲を歌う。武本が「ツイスト・アンド・シャウト」末信良一が確か「アンド・アイ・ラブ・ハー」を唄ったが落選。森栄が「プリーズ・ミスター・ポストマンPlease,Mr.Postman」を歌って50組中2組の最終審査に残るが、自らプロへの道を断念。
普通自動車免許/自動二輪免許取得(大阪・鳳自動車学校)
浪速高校卒業。大阪市立天王寺美術館研究所で石膏デッサンを学ぶ。

1966

東京高円寺のフォルム洋画研究所で石膏デッサン、裸婦デッサンを学ぶ。

1967

東京芸術大学受験不合格

1968

大阪芸術大学美術部洋画科に入学。現代彫刻グループに入部。初渡欧。大学企画の3週間欧州10カ国美術研修。 (オランダ・ベルギー・ルクセンブルグ・ドイツ・スイス・リヒテンシュタイン・フランス・イギリス・スペイン・イタリア)
在学中に西岡たかし氏の紹介で「高石事務所のち音楽舎と改名・別名/アート音楽出版/URCレコード」にアートディレクターとして入社。月刊誌「フォークリポート」のレイアウト、イラスト、表紙。コンサートポスター、レコードジャケット等を手がける。関西フォークのコンサートポスター以外にも藤圭子やザ・ベンチャーズなどのポスターも制作。編集長村元武氏の知遇を得る。
小笠原玖(vo,b)、武本比登志(vo,g)、岡本睦子(vo)でフォークバンド「GTM」を結成。

1971

睦子と結婚。大阪芸術大学中退後、二人でヨーロッパ放浪の旅に出る。新潟港から大荒れの日本海を渡り、ナホトカ、ハバロフスク、モスクワを経由してストックホルムへ。「ヨーロッパを3ヶ月程で見て歩いて、目指すはインドで1年程暮らしてみる。」と言うのが当初の目的であったのだが?ヨーロッパを3ヶ月で!とは短すぎて僕たちには無理な話であった。結果ストックホルムで4年半を過ごすことになる。

1972

1月から5月まで在パリ。アリアンス・フランセーズで語学研修の傍らパリの美術館を観賞。
大学の先輩で当時パリ在住のあまのしげ氏(現代美術家/当時は菅井汲氏の助手)や豊住和廣氏(現陶芸家/日本工芸会正会員)、あーたん(シャンソン歌手、美術家、本名、薮内明子)らと親交。

1971~75

ストックホルム大学の夏休み等を利用してヨーロッパ24カ国[ロシア・フィンランド・スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・ドイツ・オランダ・ルクセンブルグ・ベルギー・フランス・スペイン・モロッコ・イタリア・リヒテンシュタイン・スイス・オーストリア・ポーランド・チェコスロバキア・ブルガリア・旧ユーゴスラビア(スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ユーゴスラヴィア)・ギリシャ・トルコ]5万キロをおんぼろVWマイクロバスでキャンピング踏破。

1975~76

在ニューヨーク。ヨーロッパ滞在中に当時難しいと言われていた、アメリカのヴィザが取れてしまったので、ニューヨークへ。ニューヨークではハーレムに程近いマクロビオティック(自然食)のレストランでコックのアルバイトをしながら、美術館、画廊、ジャズ、ミュージカル、ニューヨークフィル等を堪能。
[42,West 75th.St.NewYork NewYork USA]

1976~77

中南米12カ国(ブラジル・パラグアイ・アルゼンチン・チリ・ボリビア・ペルー・エクアドル・コロンビア・ホンデュラス・グアテマラ・メキシコ・ベリーズ)を10ヶ月かけて踏破。

1977~90

在宮崎。睦子の両親とも教員であったが、ドライブインも経営。そのドライブインを引き継ぎ、ジャズとカレーが話題の喫茶店を経営。絵画や陶器の展覧会を催す。講師を招いて「ジャズマニア集中講座」や音楽ライブ(加川良(1947-2017)/村上律)(高田渡(1949-2005)(大石隆文)等も開催。月刊ミニコミ誌「山あいVOICE」を発行、他の2誌と共に朝日新聞で紹介される。
大型自動車免許取得(都城自動車学校)牽引免許取得・大型特殊免許取得(宮崎自動車試験場)
5万株のエビネカンアオイを栽培。宮崎カンアオイ愛好会をたちあげ、自ら事務長に就任。宮崎市の百貨店で「宮崎カンアオイ展」を開催。
かたわら油彩「霧島百景」に挑む。 インドネシア、マレーシア取材。ポルトガルを1ヶ月ずつ数回取材

1987

ポルトガルをテーマに制作開始。在パリ30年の長尾淘太先生に出会い、薫陶を受ける。

1990

ポルトガルに移住。2024年9月24日までの34年間、ポルトガル・セトゥーバル市に在住。不定期ミニコミ誌「ポルトガルのえんとつ」を発行。その後はブログに移行。
ポルトガルに住み始めてから、ポルトガル国内をくまなくスケッチし、旅を続けているが、
ポルトガル以外にも時々旅を楽しんでいる。

Setubal

宮崎でのキース・ジャレットコンサートのポスター、チケットデザイン制作。ポスターはパリのグラフィックショーに出品される。

1996

月刊『日経アート』にカラー4ページで紹介される。写真と文・奥村勝之

1997

オフィシーナ美術画廊(セトゥーバル)と契約

1998

アンティックス美術画廊(リスボン)と契約
ポルトガルの自動車免許取得

2002

ホームページ「武本比登志ポルトガルの仕ゴト場」開設。その後、ブログに移転。

2004

ル・サロン会員推挙
浪速高校美術部OBホームページ「NACK」開設。その後閉鎖。
ホームページ「武本比登志ポルトガルの画帖」開設。その後ブログに移転。

2009

サロン・ドートンヌ会員推挙

2010

画像ブログ「武本比登志ポルトガルスケッチ」開設

エッセイのブログ「武本比登志端布キャンバス」開設

2024

帰国、宮崎に拠点を移す。

 

   

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