ひとりごつ

ラヴ・ピース・フリーダム

CBARS(MQ-25 Stingray)

2016-05-14 21:36:17 | メモ
5年以上前の旅日記の途中ですが、気になったことをメモしていこうと思います。


その気になったことなんですが、米海軍が開発している艦載無人機についてです。

もともとUCLASS(Unmanned Carrier-Launched Surveillance and Strike)と呼ばれる、偵察&攻撃機として計画されていたんですが。

今年に入ってからそれに代わってISR能力を備えた空中給油機の開発計画が発表されました。

3月22日に米海軍司令部の航空戦部長Manazir少将は「米海軍としては無人攻撃機の計画をあきらめたわけではない」と話しています。


UCLASSはその要求性能を巡って2014年夏から米海軍と米国防省と米議会とで議論が紛糾していた構想です。

ステルス性の高い攻撃機になるのか、それとも偵察能力に力点を置くのかで意見が分かれていたところでしたが。

それが今年に給油機になると発表されて多くのアナリストを驚かせました。


UCLASSに代わるものとして新しく計画されているのがCBARS(Carrier Based Aerial Refueling System)、日本語にすると艦載航空給油システムとでも言うのでしょうか。

この新型無人機、「CBARSって名前、イマイチだよね」ってことで米海軍はMQ-25 Stingrayと名付けました。

Mは多目的(Multipurpose)を意味し、Qは米軍が無人機に使っている符号です。

ISR能力を備えた給油機として開発されます。


UCLASS→CBARSと計画を変更させた米海軍ですが、3月20日のJane's Defence Weeklyの記事によれば、Manazir少将は無人機の空母での発着艦に不安がある中で、給油とISRに絞ったCBARSの開発こそが、迅速かつ安価に無人機の空母での運用を実現する方法だと述べています。

CBARSを空母で運用して得られる知見をもとに、将来的には ステルス性と攻撃能力を兼ね備えた無人艦載機を開発するとのことです。

現在F/A-18を空中給油機としても運用していますが、これらを本来任務に戻すことも重視されたようです。

イスラエル

2016-05-03 22:32:53 | 中東旅行
仕事にだいぶゆとりが出てきまいて。また2年近い月日を経て更新したいと思います。

といっても写真でさくっと振り返るぐらいにしておこうかと。

あまり文章出てくるほど覚えてないのが残念なこって。

時間空き過ぎて残念。


日本人でタクシーに乗り合い国境を越え、イスラエルへ。

ここの入国審査官が意地の悪いヤツで、「行けない国が出てきちゃうのでスタンプ押すの勘弁してつかぁさい」と懇願したにも関わらずスタンプ押してやがったという。

まぁそんなこんなしてる数時間でイスラエルの首都とされているエルサレムに到着、雨も降ってましたがさっそく街をプラプラしてみました。

かの有名な嘆きの壁。


街行く人々は正統派とでも言うんでしょうか、あの帽子かぶってヒゲ伸ばしたユダヤ人もちょこちょこ見かけましたが、ほとんどはアラブ系の人たちだったように見受けられました。

それからネットで調べて知ったシルワン地区というところにも足を伸ばしてみました。

ここはイスラエルによりパレスチナ人の家屋が破壊され立ち退かされているという場所。

ちょろっと工事中のような場所の写真を撮れました。


パレスチナ人の小規模なデモのようなものもあり、あまり治安はよくなさげ。

宿へ戻ろうと歩いているとパレスチナ人に握手を求められましたが、シリアやヨルダンの人々と違いなんだかやり場のない怒りを抱いてるようでちょっとビビりました。

あとここら辺はアラブ人の男性二人組が仲よさげに歩いているのをよく見かけました。

アラブ人の男性がカップルかと見まごうほど仲良くするのはそんなに珍しいことではないそうですね。


さて翌日、この日は東日本大震災が起きた日でした。

ネットで知ったのですが、とりあえず地元が無事なのを確認して旅を続けることにしました。

この時に「楽しそうに海外遊び歩いてるのは不謹慎なのか?」と自問することもありましたが、結局どうすることもできないよなという結論に達し、普通に旅をしました。ツイートはさすがに控えたんですが。

この日はイエスが生まれたとされるベツレヘムへ。

途中でパレスチナ自治政府の管轄下へ行くんですが、ここが国境のようになっていて。

パレスチナ人とユダヤ人で通り抜けの大変さが全然違いますね。

途中の道でユダヤ人の入植地を見かけました。



そうしてるうちにベツレヘムに到着。アラブ人がいっぱいで、ちょうど礼拝時に遭遇。


ここら辺を歩いていると外国人観光客から「日本は大丈夫か?」と心配されたものです。

さて、イエスが生まれたとされる場所にある降誕教会に行ってみました。


中はこんな。




んでここがイエスが生まれたというスポットです。


おれが訪れた翌年の2012年に世界遺産(危機遺産)に登録されたそうです。


その後はパレスチナ自治区と外界を隔てる外壁を近くで見てみました。


「現代のアパルトヘイトだ!」ということで、日本語を含むいろんな言語でこの壁に反対する落書きが描かれていました。

当時流行ってたYes We Canとも描かれてましたね。


さて、ベツレヘムの観光を終えてエルサレムに戻り、再び旧市街を歩いてみました。

イスラームの聖地岩のドームとユダヤ教の聖地嘆きの壁ってすぐ側というか、一体というか、なんですね。


この写真では少しわかりにくいんですが、嘆きの壁前の広場でユダヤ人の青少年がフォークダンスを踊っていました。

ユダヤ人とフォークダンスといえば、あのマイムマイムもユダヤ人の楽曲です。

ウィキペディア見てみると面白いことがいろいろ書いてありますね。


夜は一緒にイスラエルに来た日本人とオリーブ山へ。

オリーブ山も聖書読んでるとちょこちょこ出てきますよね。

ここから夜の旧市街を見下ろしました。


手前に写ってるのは勝手に桜かもと勘違いしてた植物で、恐らくアーモンドです。



そんな短い2泊3日のイスラエル観光を終えてアンマンへ帰ります。

着た時と同じ日本人メンバーで国境を越え、ヨルダンへ。

途中のタクシーからはスペイン人のおばさんが乗ってきたんですが、英語ペラペラでご機嫌な人でとても仲良くなりました。

国際機関で働いているそうで。

他にも国境でアラビア語ペラペラの白人男性がいてちょっと感銘を受けたり。

おれもアラビア語を話せるようになりたいなと強く思ったときでした。



次はまたヨルダンです。

ヨルダン1

2014-07-30 20:03:03 | 中東旅行
またご無沙汰しました。

ブログから遠ざかった最近思ってるのは、誰かに見られる前提でブログを書くのは思考のトレーニングだと。

また、ノートとっても字が汚くて自分で読み返せないおれにとっては貴重なメモになるんだとゆうこと。

そうゆうわけでまたブログを書いてくためにも、この旅日記を終わらせたいと思います。


んでダマスカス飛ばしてヨルダンにもう入ってしまいます。

とゆうのも、ダマスカスにいたのは2011年の3月8日(火)なんですけども、行こうと思ってた博物館やらが全部休んでまして。

市場だとかダマスカス城なんかも基本的にアレッポだとかとあんま変わらず、特筆すべきこともなく。

しかもビザの時間切れが迫っていたのでろくに滞在せず、スパスパ水タバコだけエンジョイしてシリアを出ちゃったんですね。

まぁこの頃に感じてたことを話すと、パン系のメシが数日続くとパン系のものが食えなくなること。
こんな。


米国留学時代とかはほぼ毎日米食ってたし、だから米に本格的に餓えたのがこれが初めてで。

語学学校の時にパレスチナ人たちがもてなしてくれたアラブメシで味ついたライスにチキン、ヨーグルトってのがあったんですけど。

しばらくぶりにこの米料理を見た時は腹グーグーなってめっさ食えました。



さて、ダマスカスを8日に出てその日のうちに余裕でヨルダンの首都アンマンに着きます。

アンマンに着いたらとりあえず近くにあったホテルにチェックインして明日の死海ツアーを予約。

その後アンマンをプラプラしてたら噂に聞いてた日本人宿、コーダホテルを発見しました。


香田さんっておれが高校くらいの時かな、イラクで人質にとられて首切られ、動画が出回ってましたね。

ホテルの開業者が香田さんが泊まってた宿の従業員だったとき、イラクに向かう香田さんを止めることができなかったと。

それを悔いて自分でこのマンスールホテルを開業したときにコーダの名前を入れたんだそうです。

今働いてるのはルアイさんって人で、まぁ日本人宿の人らしく友好的でいい人です。

ただ女性は気を付けたほうがいいかも。

イスラム圏の男性は異教徒には何してもいいって思ってる節があるらしく、結構女性がしつこく言い寄られたりってのがあるみたいです。

聞いたとこによると、どこか別の国ではホテルの従業員に襲われるようなこともあるそうです…。

あと近所に安い食堂みたいのがあって、そこはコーダホテル宿泊客がよく行くのか、日本語でメニューの説明がありました。

でかい愛想のいいおっさんが店主なんですけど、微妙に少しづつ値段を上げてぼろうとしてくるのでそこは注意です。

当時はリビアでカダフィが反政府軍と戦ってた頃で、アルジャジーラを見ながら「カダフィ、クレイジー」って連呼してました。


翌3月9日の朝、宿泊先をコーダホテルに変えてから昨日予約した死海ツアーへ参加します。

他のツアーメンバーはあんま覚えてないんですがフランス人のおじいさんによくしてもらいました。

まずはモーセが死んだと言われてる場所です。

ここには石碑がありました。


あとはそばにあった教会の床がモザイク画になってるってことで、かなり貴重らしかったです。

これは地中海の地図かなんかですね。



そこを出て移動中にベドウィンのテントを発見。


こうゆうのよく見かけました。


そして次にヨルダン川へ。

車を置いてしばらく歩いていきました。


ヨルダン川はイスラエルとヨルダンの国境になってますし水位も浅いので、余裕でイスラエル側にも歩いていけそうです。

向こうとこっちの観光客が川を隔てて手を振り合いました。


ここら辺はイエスが洗礼を受けたとされてるスポットとかもあります。


モーセが死んだとかイエスが洗礼をとかどんぐらい信憑性があるかはわからんすけどね。


そいで次が待ちに待った死海です。

おれらが行ったとこはリゾートみたいになってましたわ。


泥エステみたいのもビーチでやってました。

んでうまく撮れなかったんですが、撮りたかった写真を撮りました。


ご存知と思いますが死海は塩分濃度がめっちゃ高いんですね、だからどんなしてても浮きます。

どう表現したらいいのか難しいですが、ウェットスーツ着てるような感じですかね。

おれが撮りたかったのはプカプカ浮きながらキンドルで電子書籍を読むとゆう図。

フランス人のおじいさんが辛抱強くいいショットを撮ろうと頑張ってくれてました。

ただ、ビーチら辺はミネラルが固まって岩みたいになってるのがゴロゴロしてますんで。

適当に浅瀬に流されて塊にぶつかり、背中から流血しました。サンダルは必須ですね。


そんなこんなの一日死海ツアーでした。

ツアー後はフランス人のおじいさんの宿に行き、ギリシャで飲んだウゾみたいな蒸留酒をいっぱいもらってコーダホテルへ帰りました。

コーダホテルへ帰ってからはイスラエルへと渡ろうとしている日本人を捕まえ、タクシー代を割って安く行こうって話をつけてさっさと寝ました。

ヨルダンパート1はこんな感じです。

相変わらず下調べもろくにしてないので、薄い経験談しかないですね。

次は2011年3月10日、イスラエルへ向かうところからです。

アレッポ

2013-10-20 09:20:17 | 中東旅行
前回の記事に「桜が咲いてた」と書いたんですが、どうもこれアーモンドの花だったみたいです。

2年越しの勘違い笑


それでトルコとシリアの国境にバスが着きます。

着く直前くらいのバスの運転手から「みんなビザはあるね?」みたいな確認。

おれだけなくって運転手が「現地で取れなかったら帰ってもらうぜ」と。

ネットとかで調べると確かに現地で取れるって人と同じくらい「リスクがあるので前もってとっておきましょう」って人もいるんすね。

ちょっと不安になりながら到着、そしてビザなし外国人として入国審査みたいのを受けます。

多分30分くらいかな、時間はかかったけどなんとかなりました笑

アルメニアのビザとか、「なんだこれは!?」とかいろいろ言われながら、3日間のトランシットビザをゲットです。

普通一週間とかもらえるらしいですが、もらえただけラッキーです。


この時印象に残ったのが欧米人の国連職員とかがバンバン入国してったのと、ずっと相手にされないパレスチナ人。

パレスチナ人は、本人たちがそう言ってただけで違うのかも知んないですが、故郷に帰りたいのに入れてもらえないと。

理由はよくわからんのですが、やっぱパスポートがイスラエルで発行されてるとかなのかなぁ。

それともこのまま入国されて不法移民的に定住されたら困るとかって話なのか。


無事に入国して砂漠とゆうか荒野を行きます。

学生時代を過ごしたユタを思い出しますね。


途中メシ休憩とかトイレ休憩とかあったんですが、アラブもインドと同じでクソした後のケツは水洗いです。

おれはどうしても勇気が出ず、外国人が泊まるようなホテルとかでクソしてました。


そんな感じで夕方にアレッポに着きました。

アレッポはダマスカスに次ぐシリア第二の都市で、古い歴史があるみたいです。

こないだテレビで内戦によって破壊された街の写真を見ましたが、この頃はまだ平和でした。

宿にチェックインしてスタッフさんからいろいろ情報収集。

翌日はそこでたまたまいた日本人のおねえさんと行動をともにすることになりました。

まずはスーク。商店街です。


次はアレッポ城。


アレッポ城は丘(人工の盛り土?)の上にあって、そこから市街を見渡してみます。

ちょっと空気が汚くて遠くまでは見通せません。


前にいるのは小学生の遠足かなんかでしょうか。


この子たちはおれら外国人を見るやギャーと大騒ぎ。手を振ってくれます。スターになった気分です。

子供たちだけじゃなく、若いにーちゃんとかも「写真撮らせてくれ」と言っておれらの写真を撮っていきます。

シリアではアジア系が珍しいんでしょうか。


アレッポ城の次はここら辺で大きめのモスクです。


モスクは男女別なんでそれぞれ別れて見学しました。

モスクの後は隊商宿をペルシャ語でキャラバンサライと呼ぶらしんですが、そのエリアとか。


24時間テレビで流れるサライってのもこのサライから来たらしいですね。


スークの外を歩いててもあちこち商店だったり路上の物売りとかがいます。

この人は蜂蜜売ってました。


こんな蜂の巣ごと売ってるの今まで見たことがなかったんで、身振り手振りで一口食いたいと伝えたら、タダで一切れ試食させてくれました。

なんて優しい。そして甘くてうます。

あとは木の実みたいの売ってたり。



そんなこんなであっとゆう間に一日が過ぎました。

おれには時間がないのでこのままダマスカスへ向かいます。

日本人のおねえさんはレバノンに行くとゆうことで、また途中まで同じ長距離バスに乗ることに。

ところが、長距離バスターミナルへの行き方がようわかりません。

ローカルなバスとか乗り方難易度高いし。

まぁそこら辺の人に聞けばわかるだろうとか思って宿を出発して、とりあえずローカルなバス停をうろちょろして、優しそうなおじさんに声をかけてみました。

したら着いて来いとの身振りなんで、彼にくっついてローカルバスに乗って移動。

十数分くらいで長距離バスのターミナルへ着いたんですが、このおじさんがさりげなく二人分のバス料金を払って、そして「君のバスはあれ、君はあっち、じゃあ気を付けて」と言って去っていきます。

なんと見ず知らずの旅行者のために身銭と時間を使ってわざわざ道案内をしてくれてたようです。

おれらはもうシュクランと言うしかなかったですわ。

この人に限らず、アレッポで絡みがあったシリア人はいい人多過ぎです。

イスラームの教えで旅人を大事にしろってのがあるらしんですが、それにしてもですよ。

この時の思い出があるからシリア大好きだし、今の状態がホントに悲しいです。

アテネで同じ部屋だった韓国人のおねえさんが言ったとおりでした。


そんな暖かい気持ちでアレッポを離れダマスカスへ向かいます。

石油産業は大きくはないらしいシリアですが、こんな光景を目にしました。


フレアスタックってゆうらしんですが、油田の煙突から炎が出て余剰ガスを処理してるんですね。

トビリシ2

2013-10-12 09:48:00 | カフカス旅行
2011年3月2日の夜にトビリシに着いたわけですが、途中の山道の写真があったので。


山が段々畑みたいになってますな、雪崩防止?

右のほうには城塞が見えます。


んでトビリシに着いた翌日、午前中はのんびりし、午後からまた街を徘徊。

今日はトビリシのマックで出会った日本人から聞いていたネリダリの家と呼ばれる家に行ってきました。

ネリダリさんって人が安く家に泊めてくれてるんすね。

マケドニアで泊まったのはそんなシステムのとこだったな。

んでグルジアをバックバック旅行する日本人の間でめちゃくちゃ有名らしく、いわゆる「日本人宿」です。

日本人宿の雰囲気ってのを久々に味わいました。

うまく言えないんすけどね~、長期滞在者による小さいムラが出来上がってて、まぁ苦手な人は苦手だと思います。

マックで会った人もいなくなってたので早々に退散しました。


夜も出歩きまして、ハマム(ソープじゃないリアルなトルコ風呂)の側を通ったけど入らなかったり。

宿に戻ってからは新しいイスラエル人やらヨーロッパ人やらの旅行者が来てて、また遅くまで飲みました。

ちなみにその宴席で「ショータ」って名前の宿のオーナーが言ってたんですが。

日本でありふれてる「しょうた」って男の名前はグルジア人が由来だと笑

なんでもグルジアでも「ショータ」って名前はありふれてるそうですが、あるグルジア人柔道家かなんかがショータって名前で。

その人が日本で大会があった時に大活躍、以来その人にあやかって日本人は男の子に「しょうた」って名前をつけるようになったそうです。

どうなんそれ!?ガセビアか?

「トリビアの泉」がまだやってたら投稿してガセかどうか確かめてもらうとこなんですがね、おれにゃわかりません。


さて翌日の3月4日。

この日はアゼルバイジャンビザを受け取りに行く日です。

親身に面倒見てくれてたコカって宿のスタッフがアゼルバイジャン大使館に電話。

夕方の5時に取りに来いってことで、それまで時間があるんでコカ達と街歩きすることになりました。

昼はグルジアを代表する料理らしいハチャプリ。


見てのとおりチーズのパンって感じです。形がいいですよね。


それからグルジアといえばグルジアワインってことで、ワイン屋さんにも連れてってもらいました。


赤いのから白いのから辛いのから甘いのまで凄い種類のワインで、しかもおいしい。

何種類か試飲させてもらいました。

んでコカは想いを寄せていた、かつてのお客さんのフランス人に送るワインを選んでました。

その恋は実らずつい最近アメリカ人女性と婚約したんですけどね。


そいでアゼルバイジャン大使館に指定された時間に行ったらなんと、既に閉まってました。

電話のやりとりで勘違いがあったらしく、まぁ残念ですが時間もないのでアゼルバイジャンは今回は行かないことに。

もともと旅を始めた時点でカフカス自体に行く計画もなかったですしね。


気を取り直して夕飯はヒンカリと呼ばれる水ギョウザ、これもグルジアを代表する料理です。


ギョウザはウクライナでも食いましたし、チャイニーズと思いきや世界区の料理です。

ヒンカリの正しい食べ方は、皮を閉じてるフタみたいになってるとこをかじって、そこからちゅーちゅー汁を吸って食うんだそうです。

みんな真顔でやってたんで多分ホント。

それとただチーズを煮込んだだけの食べ物。


米国で学生をやってたとき、たまにおやつにチーズをフライパンで溶かしたのを食ってたんで、なんかそれが懐かしかったなぁ。


夕飯を食ってから世話になったコカにバスターミナルまで送ってもらい、夜行バスにてトルコへ向かいます。

まずはトラブゾンと呼ばれる街へ。

しばらく米を食えなかったんですが、道中で米とチキンと野菜のセットが食えました。


こうゆう感じのメシをアラブ世界入ってからも、かつて旅行した南米でもよく見かけます。

米とチキン、おれの感覚だとかなりユニバーサルです。

そいで一日中バス旅を続け、トラブゾンからはまた一日越しのバスでシリアとトルコの国境アンタキアへ。

このバスの窓越しに見た風景になんだか感動しました。梅やら桜やらが花を咲かせてたんですね。

真冬の東欧を抜けてからの春の息吹、そして日本をこんなに離れて梅や桜を見れたのが相当嬉しかったですね。

アンタキアへ着いたのが3月6日。丸二日近いバス移動です。

ここからシリア行きの国際バスに乗り換え、まずは国境へ向かいます。

まだビザ取ってないんで入れるかどうかちょっと不安な移動です。