マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

いのちの重み

2011-04-26 15:28:23 | 教会の風景
昨年、ときどき記事にしていたパンダスミレです。
虫に食べられてほとんど葉のない状態から再生。

その後、冬場の中盤まで、それまでのように葉をつけていましたが・・・
一時、葉がほとんど枯れてしまいました。
そこから暖かくなるにつれて再び芽吹いてきて、最近花がつき始めました。
かなりタフです。




さて、月報5月号に掲載した、4月の礼拝説教のあらすじです。
旧約聖書の講解は、レビ記を続けています。

 レビ記6:8以降の規定の中には、祭壇でささげものとなるものの一部を『祭司の分け前、最も聖なるもの』と言及している(6:17,18,25,26;7:6-10,31-36)。神は、祭司の幕屋での奉仕と同時に報酬もお定めになった。ただし、結果的にその部分が祭司職への報酬になるとはいえ、そもそも民から神へのささげものであり、神から祭司たちに賜るものである。それで、幕屋の奉仕において軽率に扱うことを避け、律法の規定どおりに扱うことが祭司には期待されている。新約聖書では、律法と主イエスの教えから、福音のために奉仕する者が働きから報酬を受けることを教えている(コリント9:13,14)。神の教会が真理に留まり、福音宣教に励むために、すべての信者がこの原則を理解しておく必要があるだろう。
 
 レビ記7:22-27には、イスラエル全体に対しての禁止事項が定められている。それは動物の脂肪と血を食べることの禁止である。脂肪は、犠牲の動物の部位で最上のものと考えられた。それゆえ、最上のものは神に、ということである。また、犠牲の血は、レビ記17:11によると罪を贖うものとされている。本来、神の御前に人の罪は重大であり、それが贖われるためにはいのちが要求されるのである。それゆえ、いのちを贖う動物の血を口にしないのである。しかし、律法の規定に込められた神の意図とは裏腹に、その後のイスラエルの歴史では、たびたび本来の意味が見失われ、形骸化してしまった(サムエル5:22/イザヤ1:10-17)。私たちの『大切にするもの』は、神に聴き従うという礼拝と献身であり、私たちを罪から全く贖うキリストの十字架の御業である。神の御前で、律法の犠牲にはるかに優る、キリストの贖いに拠り頼む者でありたい(ヘブル9:13,14)。

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今年のイースター

2011-04-26 13:51:42 | 教会の風景
先日のイースター礼拝の様子をご紹介します。

今回もヴァイオリンとピアノの奏楽奉仕をお二人にお願いしました。


東村山教会の聖歌隊も賛美をささげました。

「みかみの愛をば・・・」に始まるメドレーでした。

説教は、「新しい歩み」と題して語りました。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

今回も教会員のご家族やお友達の参加がありました。
キリストによる救いをお受けになるようにと奨励しました。
信者の方々には、ますますキリストの救いの力を知り、新しい歩みに深まりと実りがありますようにと勧めました。



そして、礼拝の後に残った20名くらいの方々といっしょに昼食。


この日のメニューは、色合いも良くておいしい黒豆桜寿司。

テーブルを囲んでのにぎやかな昼食になりました。

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