マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

「悲しむ者は幸いです・・・」

2007-05-21 09:57:21 | 教会の風景
■ 礼拝説教のダイジェスト

聖書箇所:創世記23章
「サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。
アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」(23:2)


神に選ばれ、祝福を約束されたアブラハム。
この記録のすぐ前(22章)で、改めて神様の祝福の約束を受けた。


しかし、続く23章には、妻の死を迎えた彼の姿がある。
一つの現実を突きつけられる。
死。大切な人を亡くす喪失感。


アブラハムは理屈ではなく、身をもってそれを痛感しただろう。
聖書は、「アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」と伝える。


使徒パウロは、自らの罪と死の力を意識して、このように告白した。
「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の、からだから、
私を救い出してくれるのでしょうか。」(新約聖書ローマ7:24)
彼は、自らの罪と死の問題に真正面から向き合った。


イエス様も友人の死に直面した時、涙を流された。(新約聖書ヨハネ11:35)
人間を支配している罪と死の力を目の当たりにして、悲しまれた。
イエス様をさして「悲しみの人」とも言われている。(旧約聖書イザヤ53:3)
山上の説教の中ではこのように語られた。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(新約聖書マタイ5:4)


アブラハムは妻の死に向かい合い、「嘆き、泣いた」。
それは自然な姿。
罪と死の現実を見つめること。
自分は罪と死に対してまったく無力であることに気付くこと。


そこから、想像もしなかった神様からの慰めを経験することになる。
聖書の示す救いは、自らの罪と死の現実に気付いてこそ、味わえるもの。
自らに徹底して失望したときにこそ、神様から来る慰めを経験する。


神様は、悲しみの最中にあるアブラハムを立ち上がらせて、墓地の手配へと行動する力を与えた。

彼の行動の根底には、
「わたしが示す地へ行きなさい。」
     ↓
「あなたとあなたの子孫にこの地を与えよう。」
という神様の約束に対する信頼があった。

そして、「永遠の都」という揺るぎない希望が与えられていた。(新約聖書ヘブル11:13-16)


「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
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