マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

釈然としない

2015-02-11 23:28:17 | 教会の風景
このところ、一つ一つの仕事や課題を何とかかろうじてこなしていますが、自分としてはどうも不完全燃焼気味。
何というか、釈然としないとでもいいましょうか。

自分の満足のためにしているわけではないのですが、内容があまりにも貧しく拙いもので申し訳ない残念な気持ち。
それと期限との間で板挟みになり葛藤を感じています。

今は集中力の持続が課題であり、祈り求めているところです。
こうしたことを通して、自分の内面の貧しさに直面させられるとともに、なお恵み豊かな主ご自身に望みを置く訓練ということなのでしょう。
日々のチャペルの説教や学び、交わりの中で教えられ、励まされ、支えられています。


さて、2月も半ばですが、月報に掲載した先月の礼拝説教のあらすじをアップしておきます。

旧約聖書の講解説教、申命記22-23章より。

 約束の地に入る世代への具体的な教えが続く。同族の者がなくした家畜や着物を見つけた場合、『知らぬふりをしない』で持ち主の手に戻すよう努める(22:1,3,4)。知らぬふりという訳語の原意は身を隠すことだ。(詩篇55:1)では、ダビデが「神よ。…身を隠さないでください。」と祈っている。神は苦しみの中で呼ばわる者に身を隠さない。神の民にも、共同体意識で隣人を保護する態度が期待された。律法には「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)とあり、主イエスの良きサマリヤ人のたとえ話(ルカ10:30-37)にも通じる。

 約束の地では、異邦の民に囲まれながら、イスラエルは主のみこころに歩むことが求められる。申命記の『主の集会』という語は、シナイ山での契約更新の回想で用いられ、主とイスラエルの契約関係を想起させる。一方、アモン人やモアブ人は主の集会には加われないとされた(23:3)。しかし、実際にはその後のイスラエルの歴史でこの命令は守られず、捕囚からの帰還で不信の罪を犯したと悔い改めたことが伝えられている(エズラ9:1-4)。私たちは、キリストによる新しい契約に基づいて、神の民の一員とされている恵みと重みとを覚える。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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