マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

あの弟子たちが・・・

2006-06-27 15:31:21 | 教会の風景
日曜日には、W先生が礼拝、午後の聖書の学び、訪問をしてくださった。
私自身、いろいろ教えられるところが多く、良かった。

礼拝の説教は、使徒の働き3:1-6から語られた。
タイトルは、「私にあるもの」。

イエス様の逮捕の時点で、弟子たちはみな逃げてしまった。
かろうじて、こっそりついて行った愛弟子ペテロでさえ、「あなたもあの人の弟子でしょう?」と問われると「私は知らない。」と否定してしまった。

そんな弟子たちが変わった。
その理由は、復活したイエス様に会ったこと。
そして、約束の助け主である聖霊様が来た。
説教箇所は、そんな弟子たちの変わりようを示す。

説教全部を紹介はできないが、今回、自分の心に留まったことをお伝えしたい。
今回W先生が、メインではないけれど一つの要点として語られたのは、祈りだった。
1節に「ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。」とある。
「いつでも、どんなところでも祈れます。それもすばらしいことです。でも一方で、キチンと時間を定めて祈る習慣を持つことも良いことです。」という内容のことを話された。
今まで祈ってはいたけれど、時間を決めていなかった。
その結果、日によって祈りのために確保できる時間が短いこともあった。
心のゆとりや自由を失い、ただスケジュールに追われるような心の状態に陥ってしまうこともあった。また時間はあっても、ついダラダラと時間を無駄にしてしまうようなこともあった。

一日の始めを祈りをもって、神様の前に静まる必要を感じた。
しかも、今まで朝は家で祈ることが多かったが、教会で祈ろうと決めた。
朝7時には教会で祈りの時間を持つことにした。
自分も多くの必要を感じているが、まわりでもいろいろな必要を抱えている人がいる。
それらの人々、教会のためにも祈るようにとの促しを感じている。
こうした気持ちになり、行動を起こすようにとごく自然になったのは自分でも不思議だ。
W先生の語り口調は、いつもどおり穏やかだったが、何か心に訴えかけるものがあった。
これが聖書の言葉を通して働かれる聖霊の業だろう。

さて、もう一点。メインの要点。
「金銀は私にはない。私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって・・・」とペテロは言った。
物乞いをしていた男にとって、お金も何日かの暮らしのために多少役立ったかもしれない。
しかし、もっと彼に必要なものがあった。
それは、救い主イエス様を知ること。
彼は、自分の足が直るという奇蹟を通して、イエスが救い主だとはっきりと知ったことだろう。
「身をもって知る」という表現があるが、まさにそれである。
私もこのイエスという方をすでに知っている。
このイエス様を知り、信じることができたことは他の何ものにも変えがたい。

財産や名誉やいろんな楽しみと呼べるものも、そればかりでなく単に宗教的な規則を守ることや儀式を行なうことでは、私の心の奥底にある渇きを満たすことはできない。
ただこのイエスという方を知り、父なる神の子どもとされ、内に聖霊を宿すという神様との交わり(親しい関係)だけが、根本的な満たされるための道だと知った。
私が頂いたこの神様との交わり。
何にも変えられない。
W先生の説教を聴きながら、そう思った。


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