マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

ダイジェスト版

2008-09-25 18:09:09 | 教会の風景
今日は久々に聖書の一文をしました。
Y君とM君が参加してくれました。

今回は前々からリクエストのあった聖書全体のダイジェストをしました。
ですから、厳密に言うといつもの「聖書の一文」ではありませんが
妻と私を含めた4人で、約1時間旧新約聖書の流れを確認しました。

以前W先生の使ったプリントを見ながら。
6、7年前はW先生の講義を聞く側でしたが、今回は私が説明する番です。
W先生のように説明はうまくいきませんが、
なんとなくでもイメージをつかんでもらえていれば、うれしいですね

学びの後は、いっしょに昼食。
いろいろ話ながらの楽しい時間でした


さて、テサロニケの手紙のショートメッセージの続きもUPしておきます。

テサロニケⅠ 5:1-11
「主の日に備えて」

主の日は、予期しない時に来るという特徴がある(2)。
そして、その日から逃れられる者はひとりもいない(3)。
主を信じない人々が平和と安全を感じている、その時に突然滅びが訪れるとも言われている。
そのような特徴を備えた主の日、すなわち主の再臨の時を、教会はどのような態度で待てば良いのか?

ここでは、主を信じる人々を「光の子ども」(5)、「昼の子ども」(5)、「昼の者」(8)としている。
それとは対照的に、主を信じない人々を「夜や暗やみの者」(5)と呼んでいる。
そして、睡眠と飲酒を「夜や暗やみ」のイメージと結びつけて、避けるように呼びかけている(6,7)。
その場合、睡眠と飲酒は、道徳的な無関心と節度のない生活を比喩的に表現していると考えられる。
つまり、道徳的な無関心に陥る危険と自分の欲望を追求する生き方から遠ざかるようにとのことである。

さらに信者には、神から頂いた信仰と愛と希望をしっかりと身につけて、節制のとれた生活を志すことを期待されている(8)。
なぜなら、神は、主イエスにおいて救いを得るようにと定められたからである(9)。
その救いとは、御怒りを免れるという消極的な面ばかりではない。
主が死んでくださったのは、いつでも主とともに生きるためでもある(10)。
そのように定められ、備えられた教会は、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合う」(11)ことにますます心を用いて、主の日を待ち望んでいくのである。

世は、一段と眠りと酔いに耽っているように見える。
「殺すのは誰でも良かった」という動機で殺人が起こる時代である。
その一方で、平和や安全のために地球規模で活動している時代でもある。
もちろん、これらの事象を挙げて、主の日の時期を断定することはできない。
主の日がいつなのかは誰にも分からない。
しかし、私たちは、常に主とともに生き、互いに励まし合い、互いの成長のために尽くして、主の日を待ち望んでいこう。

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