マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

イエスとは誰なのか?

2007-05-21 10:32:37 | 教会の風景
昨日のYouth For Jesusの様子。
十数人の参加者で楽しいときを過ごした。

ショートメッセージはヨハネの福音書の続き。
「イエスとは誰なのか?」
イエス様を巡る評価は当時でも多様だった。
7章の中だけでも、それがよく分かる。

「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(5節)
「良い人だ。」(12節)
「群集を惑わしている。」(12節)
「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」(15節)
「悪霊につかれています。」(20節)

それぞれ自分の立場や視点から評価を下していた。
その様子は時代を経た今も変わらない。

しかし、周囲の評価がどうであろうと、イエス様の証言は一貫していた。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(16節)

父なる神様が遣わされた御子、救い主イエス様。
神様のみこころを知るただ一つの道。
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、
その人には、この教えが神から出たものか、
わたしが自分から語っているのかがわかります。」(17節)



さて、昨日も集会後はそれぞれの時間を楽しんでいた。
音楽をする人もいれば、外でスポーツを楽しむ人もいた。
こののんびりした時間の流れがいい。
並行して夕食の準備。
そして、夕食。


昨日のメニューは麻婆丼と揚げ餃子、味噌汁、サラダ。
おいしかった。
ちなみに夕食はいつも¥300のお値打ち価格。


昨日もH君の引越しの話に始まり、みんなのトークが楽しかった。
随分楽しませてもらった~。


主よ、あなたにある交わりを祝福してくださって感謝します!

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「悲しむ者は幸いです・・・」

2007-05-21 09:57:21 | 教会の風景
■ 礼拝説教のダイジェスト

聖書箇所:創世記23章
「サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。
アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」(23:2)


神に選ばれ、祝福を約束されたアブラハム。
この記録のすぐ前(22章)で、改めて神様の祝福の約束を受けた。


しかし、続く23章には、妻の死を迎えた彼の姿がある。
一つの現実を突きつけられる。
死。大切な人を亡くす喪失感。


アブラハムは理屈ではなく、身をもってそれを痛感しただろう。
聖書は、「アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」と伝える。


使徒パウロは、自らの罪と死の力を意識して、このように告白した。
「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の、からだから、
私を救い出してくれるのでしょうか。」(新約聖書ローマ7:24)
彼は、自らの罪と死の問題に真正面から向き合った。


イエス様も友人の死に直面した時、涙を流された。(新約聖書ヨハネ11:35)
人間を支配している罪と死の力を目の当たりにして、悲しまれた。
イエス様をさして「悲しみの人」とも言われている。(旧約聖書イザヤ53:3)
山上の説教の中ではこのように語られた。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(新約聖書マタイ5:4)


アブラハムは妻の死に向かい合い、「嘆き、泣いた」。
それは自然な姿。
罪と死の現実を見つめること。
自分は罪と死に対してまったく無力であることに気付くこと。


そこから、想像もしなかった神様からの慰めを経験することになる。
聖書の示す救いは、自らの罪と死の現実に気付いてこそ、味わえるもの。
自らに徹底して失望したときにこそ、神様から来る慰めを経験する。


神様は、悲しみの最中にあるアブラハムを立ち上がらせて、墓地の手配へと行動する力を与えた。

彼の行動の根底には、
「わたしが示す地へ行きなさい。」
     ↓
「あなたとあなたの子孫にこの地を与えよう。」
という神様の約束に対する信頼があった。

そして、「永遠の都」という揺るぎない希望が与えられていた。(新約聖書ヘブル11:13-16)


「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」

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