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マイペースで行こう

東京都東久留米市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、20年目に入りました。

Footprints 12

2017-09-04 10:17:14 | Footprints
「椰子の実」という島崎藤村の詩があります。
伊良湖岬(愛知県)に流れ着いた椰子の実をモチーフにしているそうです。

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月 …
(『落梅集』島崎藤村 著 春陽堂 1901)


私が愛知県出身ということもありますが、自分のこれまでの歩みにも重なるようで親しみを感じます。
私は生まれも育ちも愛知で、30歳になるまでずっと豊橋で過ごしました。
その間、キリスト教信仰に導かれまして、新たに教会を開拓する伝道者の志を抱いていました。
その頃の私は、自分の生まれ育った愛知県内のどこかの町で教会を始めることになるんだろうな、と漠然と思っていました。

ところが、東京都東村山市にある教会の後任の牧師として働く道が開かれました。
それと同時に、神学校で学ぶという条件もつけられていました。
何もかもが自分には思いも寄らない展開でした。
ほとんどツテのない新たな土地での生活と仕事と学びに踏み出すことになりました。

それから、10年以上経ちました。
教会や神学校、地域で多くの方々との出会いがありました。
かつて豊橋にいるときには、全く想像もしていなかった道のりです。
神のみこころの不思議を思わされます。

聖書は、古えの信仰者たちが「地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」(ヘブル11:13)とし、それは「天の故郷にあこがれていた」(同11:16)のでもあると教えています。



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Footprints 11

2017-08-04 14:05:40 | Footprints
久しぶりのFootprintsの更新です。
あとで振り返るときのため、記しておこうと思います。

キリスト教信仰に導かれて27年目。
牧会と神学校での聖書の学びに導かれて12年目。
再出発の教会開拓に導かれて一年半余り。

相変わらず、目の前の務めに奔走中。
もっとスマートにテキパキとこなせるといいのになぁ...と思いつつ。
それでも、日常の小さな喜びや発見、ひとの親切や配慮に支えられているところです。
もちろん、それらすべてを備えている、神の恵みがあることは言うまでもありません。

ただ、20代、30代の時といくらか違うところもあるように思います。
これまでも目の前のことで精一杯でしたが、最近はこれから先の10年、20年、30年?という視点で、牧会者・伝道者としての使命をどのように果たしていくのかを考えることも多くなりました。

これは、自分に与えられている時間、そのリミットを意識するようになったということでしょうか。
これまでの自分の歩みや経験をどう受け止めるかということも含めて、神さまの計画があることを心に留めて、導きを祈り求めていきたいと思います。





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Footprints 10

2016-05-04 21:36:53 | Footprints
随分久しぶりの更新になりました。
半年ぶりの更新ですが、その間、大きな一つの節目を迎えていました。

牧会10年目を迎えていた昨年、私たち夫婦にとっても、教会にとっても、大きな試練を通りました。
その結果、夫婦共々深い心痛を伴いながらの再出発。
これまで25年間所属した教団、約10年間牧会の奉仕に与らせて頂いた教会から退きました。

そして、単立教会としてゼロからの教会開拓をスタートしました。
ただしゼロと言っても、日頃から交わりのある方々の祈りとサポートにより、また協力者の出現により、東村山市内での宣教を継続しています。
何の保証もない状況の中、ただ主のみことばの促しを頂いて一歩踏み出した途端、本当に思いがけず各方面から助けが与えられてきました。

新たな一歩を踏み出して、すでに4ヶ月。
その間に、これまでもそうだったのですが、改めて多くの方々に支えられていることを実感しています。
何より、主はご自身の教会を愛しておられ、その中の小さい者のひとりさえも忘れてはおられないことを体験しています。
不条理は世の常かもしれませんが、それでも信頼してお任せできる神がいらっしゃいます。

最初に東村山に遣わされる際に頂いた、みことばの一つを再び思い起こしています。
(ヨシュア記1:9)「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
奇しくも今回の出来事は、旧約聖書からの講解説教でヨシュア記にさしかかった時期と重なったこともあり、私の印象に残っています。 

これからも、聖書に基づく健全な牧会と人間理解という問題意識を深めながら、地域の方々へイエス・キリストの福音をお届けして参ります。



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Footprints9

2013-05-09 15:20:02 | Footprints
久しぶりの更新となりました。

先週、4月30日の朝、91歳の祖母が亡くなりました。
それで、豊橋での葬儀と東村山に戻っての通常の奉仕。
日曜日の夜は、終えた途端の脱力感と疲労感。




祖母とは、私が高校を卒業するまでいっしょに住んでいましたので、幼い頃から可愛がってもらった思い出があります。
4月14日の午後に私が入院中の祖母を訪ねた時も、「生きてる間に会えて良かったわぁ」と何度も口にして喜んでいました。
また、祖母は私が聖書を読んで祈ることにも快く応じ耳を傾けて、退室する私を笑顔で見送ってくれました。
憐れみ深い主が備えてくださった時間でした。


また葬儀では、親戚、昔お世話になった方々や実家のご近所さんとも久しぶりに会うことにもなりました。
喪失、懐古、緊張…などが入り混じった時間を過ごしていました。
自分で思っていたより、随分ボリュームがあったようです。


今は徐々にペースを取り戻しているところです。

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Footprints8

2011-09-20 14:44:19 | Footprints
先日のYouth for Jesusでは、使徒の働き21章の前半を学び、御霊の示し、御霊の導きについて考えました。
使徒の働き19章から21章のパウロのエルサレム行きの記述には、一見矛盾があるようにも見えます。
Luke has too high a doctrine of the Holy Spirit to portray him as changing his mind.
(The Bible Speaks Today - The Message of Acts / John R.W.Stott)
教会を導き、建て上げる御霊がなさることは、人の思いを越えて深遠です。

ここでは、御霊が示す内容とそれを受けとめる人々の解釈にギャップが生じたようです。
御霊はパウロの近い将来を予告し、それを聞いた人々は、「だからエルサレムに行くべきではない」と解釈したのでしょう。
御霊が何を示し、どのように導こうとしておられるのか・・・みことばとの注意深い照合と見極めとが必要でしょう。


ところで、ここからは私自身の経験です。
今から7年程前のことです。
当時、生計のため週4日のアルバイトをしながら、3日は教会での奉仕という生活をしていました。
そのような中、ある友人から、「学費をサポートするので神学校で学んで欲しい」との申し出。
しかも、「何度祈っても、そのような結論に導かれる」ということでした。

当時の私は、彼の申し出に恐縮しながら、辞退することを丁重に伝えました。
その費用で注解書を購入して、教会の図書へ献本してもらうことで本人には了解をもらいました。
正直なところ、その時の私は、神学校で学ぶことが主の導きだと確信できませんでした。

その頃、また別の機会にこんなことがありました。
アメリカの教会で牧師をしているI先生が、私の通う教会に訪ねてきました。
別の用件で訪ねて来られたようでしたが、交わりのテーブルで同席した折に、しきりに神学校で学ぶことを勧められました。
しかし、その時も心には留めたものの、すぐに行動開始とはいきませんでした。

そして、3回目に神学校で学ぶ話が出たのが、今の東村山教会への招聘の条件としてでした。
この時の決断には、みことばからの明確な確信を受けて進むことができました。
そのような経緯の中に、神様の忍耐深い導きや丁寧な備えを覚えて驚くばかりです。
一つ一つの出来事が、その当時の私の新たな一歩につながりました。
私はいまだに神のみこころに従うことに鈍いと思いますが、主の導きは常に真実です。


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