今日のブログは歴史に思いを馳せるのが大好きなお米大使です。
思いっきり歴史に思いを馳せるので、ブログも超大作
(長いだけで中身が充実しているかはちょっと自信がないですが)
どうぞ最後までおつきあいいただければと思います
歴史好きな大使父が
「ここの家はきっと明治時代くらいに山形から来た家系だ」
と耳にタコができるくらいいつも聞かされていて、大使も刷り込まれてなんとなくそう思っていました。
(理由は大使の実家の苗字が山形県に多い苗字だからというただそれだけの理由。)
母が戸籍謄本で家系をさかのぼって調べてみたら…(母のまわりでそういうのが流行ってるみたい…)
なんと江戸時代から五所川原在住ということが判明。
1番最初に戸籍謄本に出てくる人が天保時代に五所川原に生まれたそうです。
…とはいえ歴史に名をのこしたとかそういうのは全然なくて、きっと一般庶民です。
もしかして、その大使のご先祖さまも出会っていたかもしれない
今日はこの方の特集。
蓑虫山人
江戸時代天保7年~明治33年まで活躍した放浪の画人。
嘉永2年(1849年)14歳の時に故郷美濃国(岐阜県)を出て以来、48年間にわたって諸国を放浪し、九州地方を手始めに中国・近畿・東海を経て、明治10年(1877年)北奥羽地方(北東北)へ。
明治10年に東北地方へ旅にでる。本格的に青森県に滞在したのは明治12年から。
それから明治20年まで青森県に滞在している間、下北・津軽・南部と渡り歩いています。
そして青森県の後は秋田・岩手と滞在し、最後は愛知県名古屋市で生涯を閉じました。
蓑虫山人は考古学に深い関心を抱き、多くの遺物を集めながら
明治20年には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査も手掛けていたそうです。
本当にびっくりですよね~。
その蓑虫山人さんですが、貴重な五所川原でのねぷた祭りの様子の絵を残してくれていました。
館内の掲示物には明治13~17年に書かれたとの表記がありましたが
明治15年9月に五所川原の石井家に滞在し、その時に「布嘉邸」でおなじみの佐々木嘉太郎と会ったそうで
おそらくその時に描いたものではないでしょうか。(あくまでも大使の推定です。)
今とくらべると「宝船」や「鯛」「七福神」などの題材が見られ、縁起物の題材が多く使われていたようですね。
正直、今まで図書館の本などをいろいろ調べてはみたのですが
ねぷた・ねぶたについて出てくるのはほとんどが弘前・青森のもので
古い資料で五所川原のねぷたに関しての記録があったのは「平山日記」に少しだけ。
※「平山日記」は津軽藩の役人を勤めた平山家が代々五所川原の様子を記録した貴重な資料です。
尚、その平山家の住居が「旧平山家住宅」として市の重要文化財に指定されています。
「旧平山家住居」についてはこちらへ
立佞武多展示室の中にもねぷたの起源についてなどの資料のパネル展示はあるのですが
それはほとんど弘前で行われていたねぷたの記述のみでした。
初めて「ねぷた」について書かれた文献。正徳3年(1713年)に書かれた「津軽秘鑑」
津軽に住む人について詳しく書かれた書物です。
写真は何枚か残っていて目にすることはありましたが、五所川原で行われていたねぷたについての
写真以外の文献や資料はなかなか目にすることがなかったので、
蓑虫山人の絵が展示されたときはとてもうれしかった記憶があります。
北津軽郡五所川原総景
こちらの絵も大変興味深い当時の五所川原の町の様子です。
この絵に描いている「玄光寺」とあるところが、今の立佞武多の館専用駐車場です。
なぜこうもはっきり断言できるかというと、専用駐車場脇にひっそりこんな碑があります。
玄光寺は正徳6年(1716年)に建立されたお寺です。
この碑には昭和29年に現在の場所に移転とあります。移転される前はここの場所にあったんですね。
現在は館から1キロほど離れた場所にあります。
この玄光寺、大使は毎年必ず訪れる場所でもあるんです。
実は大使の実家の菩提寺です。館に勤め始めた時にこの碑をみてびっくりしました。
そしてず~っとブログの記事にしたいなあ~って思っていたので念願かなってうれしいです。
さらに大使のご先祖様がここに眠っていたのかな~って思うととても感慨深い…。
おっと話がずれました、失礼
そして中学校は今の市役所の場所にあったそうなので
きっとこの絵は旧平山家住宅の方向から見た絵になるのかな~と想像してみたりして。
ということはこの絵のこの辺がきっと今の立佞武多の館
ほほ~ふむふむ…
このブログでも歴史好き~って言っているけれど、大使はそんなに歴史に詳しいわけでもなく
事実として残っている点の部分が、ちょっと調べていくと線になってつながっていく・・・
そして一見なんの関係もないと思っていた事実が実はちょっと辿ってみると
自分とつながっていたりするのが楽しいんですよね~。
古いことを調べて昔に思いをはせたりして、新しい発見を楽しんでいます。
今回の昔の五所川原についてですが、方向音痴の大使が一生懸命考えた推測なのでもしかして
間違えているかもしれません…。もし間違えていたらすみません。そのときは教えてくれたらうれしいです。
本日のおまけ
駐車場の写真を撮りに行こうと思ったら、手前の「ふくら」さんの入り口ディスプレイにそそられて
ついつい1枚…
田酒、菊駒、豊盃、亀吉、八仙、男山…おいしいお酒ばっかり
(ちなみに大使は豊盃、亀吉、男山が好きです。)
はあ~…寒い夜は熱燗で一杯やりたいなあ…。と仕事中なのに
「ふくら」さんのマスターは日本酒に詳しい方で料理に合った日本酒をセレクトしてくれるそうです。
ここのお店はてんぷらが絶品とよく聞きます。さくさくのてんぷらとおいしい日本酒。
行こうと思うと満席で入れないということが多い人気店です。
年内には行ってみたいなあ~…。
なんだか大使の自己満足ブログのようになってしまいましたが
ダラダラ長いブログに最後までおつきあいいただきありがとうございました。
へばね~
思いっきり歴史に思いを馳せるので、ブログも超大作
(長いだけで中身が充実しているかはちょっと自信がないですが)
どうぞ最後までおつきあいいただければと思います
歴史好きな大使父が
「ここの家はきっと明治時代くらいに山形から来た家系だ」
と耳にタコができるくらいいつも聞かされていて、大使も刷り込まれてなんとなくそう思っていました。
(理由は大使の実家の苗字が山形県に多い苗字だからというただそれだけの理由。)
母が戸籍謄本で家系をさかのぼって調べてみたら…(母のまわりでそういうのが流行ってるみたい…)
なんと江戸時代から五所川原在住ということが判明。
1番最初に戸籍謄本に出てくる人が天保時代に五所川原に生まれたそうです。
…とはいえ歴史に名をのこしたとかそういうのは全然なくて、きっと一般庶民です。
もしかして、その大使のご先祖さまも出会っていたかもしれない
今日はこの方の特集。
蓑虫山人
江戸時代天保7年~明治33年まで活躍した放浪の画人。
嘉永2年(1849年)14歳の時に故郷美濃国(岐阜県)を出て以来、48年間にわたって諸国を放浪し、九州地方を手始めに中国・近畿・東海を経て、明治10年(1877年)北奥羽地方(北東北)へ。
明治10年に東北地方へ旅にでる。本格的に青森県に滞在したのは明治12年から。
それから明治20年まで青森県に滞在している間、下北・津軽・南部と渡り歩いています。
そして青森県の後は秋田・岩手と滞在し、最後は愛知県名古屋市で生涯を閉じました。
蓑虫山人は考古学に深い関心を抱き、多くの遺物を集めながら
明治20年には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査も手掛けていたそうです。
本当にびっくりですよね~。
その蓑虫山人さんですが、貴重な五所川原でのねぷた祭りの様子の絵を残してくれていました。
館内の掲示物には明治13~17年に書かれたとの表記がありましたが
明治15年9月に五所川原の石井家に滞在し、その時に「布嘉邸」でおなじみの佐々木嘉太郎と会ったそうで
おそらくその時に描いたものではないでしょうか。(あくまでも大使の推定です。)
今とくらべると「宝船」や「鯛」「七福神」などの題材が見られ、縁起物の題材が多く使われていたようですね。
正直、今まで図書館の本などをいろいろ調べてはみたのですが
ねぷた・ねぶたについて出てくるのはほとんどが弘前・青森のもので
古い資料で五所川原のねぷたに関しての記録があったのは「平山日記」に少しだけ。
※「平山日記」は津軽藩の役人を勤めた平山家が代々五所川原の様子を記録した貴重な資料です。
尚、その平山家の住居が「旧平山家住宅」として市の重要文化財に指定されています。
「旧平山家住居」についてはこちらへ
立佞武多展示室の中にもねぷたの起源についてなどの資料のパネル展示はあるのですが
それはほとんど弘前で行われていたねぷたの記述のみでした。
初めて「ねぷた」について書かれた文献。正徳3年(1713年)に書かれた「津軽秘鑑」
津軽に住む人について詳しく書かれた書物です。
写真は何枚か残っていて目にすることはありましたが、五所川原で行われていたねぷたについての
写真以外の文献や資料はなかなか目にすることがなかったので、
蓑虫山人の絵が展示されたときはとてもうれしかった記憶があります。
北津軽郡五所川原総景
こちらの絵も大変興味深い当時の五所川原の町の様子です。
この絵に描いている「玄光寺」とあるところが、今の立佞武多の館専用駐車場です。
なぜこうもはっきり断言できるかというと、専用駐車場脇にひっそりこんな碑があります。
玄光寺は正徳6年(1716年)に建立されたお寺です。
この碑には昭和29年に現在の場所に移転とあります。移転される前はここの場所にあったんですね。
現在は館から1キロほど離れた場所にあります。
この玄光寺、大使は毎年必ず訪れる場所でもあるんです。
実は大使の実家の菩提寺です。館に勤め始めた時にこの碑をみてびっくりしました。
そしてず~っとブログの記事にしたいなあ~って思っていたので念願かなってうれしいです。
さらに大使のご先祖様がここに眠っていたのかな~って思うととても感慨深い…。
おっと話がずれました、失礼
そして中学校は今の市役所の場所にあったそうなので
きっとこの絵は旧平山家住宅の方向から見た絵になるのかな~と想像してみたりして。
ということはこの絵のこの辺がきっと今の立佞武多の館
ほほ~ふむふむ…
このブログでも歴史好き~って言っているけれど、大使はそんなに歴史に詳しいわけでもなく
事実として残っている点の部分が、ちょっと調べていくと線になってつながっていく・・・
そして一見なんの関係もないと思っていた事実が実はちょっと辿ってみると
自分とつながっていたりするのが楽しいんですよね~。
古いことを調べて昔に思いをはせたりして、新しい発見を楽しんでいます。
今回の昔の五所川原についてですが、方向音痴の大使が一生懸命考えた推測なのでもしかして
間違えているかもしれません…。もし間違えていたらすみません。そのときは教えてくれたらうれしいです。
本日のおまけ
駐車場の写真を撮りに行こうと思ったら、手前の「ふくら」さんの入り口ディスプレイにそそられて
ついつい1枚…
田酒、菊駒、豊盃、亀吉、八仙、男山…おいしいお酒ばっかり
(ちなみに大使は豊盃、亀吉、男山が好きです。)
はあ~…寒い夜は熱燗で一杯やりたいなあ…。と仕事中なのに
「ふくら」さんのマスターは日本酒に詳しい方で料理に合った日本酒をセレクトしてくれるそうです。
ここのお店はてんぷらが絶品とよく聞きます。さくさくのてんぷらとおいしい日本酒。
行こうと思うと満席で入れないということが多い人気店です。
年内には行ってみたいなあ~…。
なんだか大使の自己満足ブログのようになってしまいましたが
ダラダラ長いブログに最後までおつきあいいただきありがとうございました。
へばね~