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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

知る(ペトロⅡ1;2)

2007-08-23 09:35:24 | ペトロⅠ、Ⅱ
昨夜の聖書研究は
ペテロの手紙Ⅱの最初の部分だった。
冒頭の挨拶文の中のある言葉から話が広がった。


 神と私たちの主イエスを知ることによって、
 恵みと平安が、
 あなたがたの上にますます豊かにされますように。
              (ペテロⅡ1;2新改訳)


「主イエスについて知る事と、
 主イエスを知る事とは全く違う」


という言葉を何時何処で聞いたかもう忘れた。
これは私達信じる者にとってごく当然の、
いわばわかりきった常識。
でもわかりきっている筈の事を
自分達は日常で信仰者として相応しく吟味し
表現してきただろうか。


信じる事の原点に改めて立ち返る為に、
「主イエスを知る」について牧師先生と話し合った。
主イエスについて知る事と
主イエスを知る事とはどう違うか。


主イエスについて知る事は、
主イエスという対象についての情報や知識を得る事だ。


 主イエスは
 今から約2000年昔にイスラエルで生まれた、
 イスラエル人だった、
 母親はマリアでその夫はヨセフだった、
 ヨセフの死後大工をして生計を立てていた、
 30歳頃に宣教の働きを始めた、
 弟子は12人いて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、・・・
 当時のイスラエルの宗教的指導者達を批判し、
 その為に十字架刑に処せられた、
 死んで3日後に甦って弟子達の前に姿を現した・・・


私達はこれを知識として知っている。
しかしこの知識を知識として知っている事と
私達が主イエスを知っている事とは違う。
聖書を勉強し、
主イエスについての知識をどれだけ積み上げても
主イエスを知る事にはならない。
主イエスを知らなくても知識を得る事は出来る。
しかし主イエスについての知識(情報)を持っていても
主イエスを知る事は出来ない。


例えば、
井上という人間が何時何処で生まれ
何処のどんな環境で育ち、
何処の学校を卒業して
何をして働いており、
何時どんな経緯でキリスト者になって、
何を趣味としていて
何が好きで何が嫌いか
血型は何か
生まれ年や星座は何か
どんな顔でどんな背格好か
どんな交友関係を持っているか
これらの井上に関する個人情報を持っているのと
井上と会ったり関わって
言葉を話したり会話のやり取りをして
井上を知っているのとは全く違う。


主イエスについて知っている事は
主イエスに関する知識はあるが
主イエスと関わってはいない。
主イエスを対象物として一方的に知識を持ってはいるが
主イエスからの応答を聞いてこちらから返すような
やりとりをする事はない。


主イエスを知る事は
主イエスと関わり
主イエスに話しかけ
主イエスから応答を受け、
主イエスと日々を共にしている事だ。
私達が祈るその祈りとは
まさに日々主イエスに話しかけ
主イエスから応答を受け、
主イエスと日々を共にする事だ。
主イエスと私達信じる者との間には
一方通行ではないやり取りがある。


知識としても、
主イエスを学術の対象として得る知識と
主イエスと関わるうちに
もっと主イエスを知りたいと願って得られた知識とは
自分の中での優先順位も価値も全く違う。
知識があっても主イエスを知る事は出来ない。
しかし主イエスを知れば
知識は後から与えられ、恵みとしてついて来る。
しかしその逆はない。


 だからね、井上さん。
 勉強する事と信じる事とは違う。
 聖書を勉強する事と
 主イエス・キリストを知る事とは違うんだ。
 僕達信仰者は誰もがそれを知っている筈だ。


ペテロがこの手紙の冒頭で言っている、
 「神と私たちの主イエスを知ることによって、
  恵みと平安が、
  あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
の中の"知る"は、
ヨハネの手紙の冒頭に表現されている、
あれではないだろうか。


 「初めからあったもの、
  私たちが聞いたもの、
  目で見たもの、
  じっと見、
  また手でさわったもの、・・・」
             (ヨハネの手紙Ⅰ1;1)


主イエスと出合って、関わって、
話しかけ、応答し、日々共に歩む。
信じる者にとって"主イエスを知る"とはそういう事。

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