私たちの中でだれひとりとして、
自分のために生きている者はなく、
また死ぬものもありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、
生きるにしても、死ぬにしても、
私達は主のものです。(ローマ14;7~8)
映画『カルメル会修道女の対話』。
フランス語のまま字幕スーパー無し。
フランス語がわからないのに無謀と言えば無謀だが、
ま、チャレンジのつもりで。
見るだけの価値あると私は思ったので。
自分で何度も再生して繰り返し見た上に
歌劇『カルメル会修道女の対話』の解説や
フランス革命に関するサイトを漁り、
史実としての16人の修道女処刑事件に触れた本を
取り寄せて読み漁り、
その上で何度かこの映画をしつこく見直して、
日本語の字幕が無い分の情報を補おうとした。
挙句にじじ宅で
横で解説しながらじじに見せた。
どんな国にもあった迫害の暗黒時代。
弾圧の下で忠実に信仰を守る事の厳しさ。
日本で言えばキリシタン迫害や
第二次世界大戦中のホーリネス弾圧と同じような
迫害の時代が革命下のフランスにもあったんだなぁ。
その迫害の中で
生命と引き換えに信仰を守った人々が確かにいた。
死の恐怖を前にして
信仰の自由のために生命を差し出す人にも
死の恐怖を克服出来ず逃げ出す人にも葛藤がある。
じじに、
どうよ、と聞いてみたら
大体の大筋は掴めたらしいが
やはり細かいやり取りでわからない部分もあり、
深くは受け止められないらしい。
「これなぁ、
字幕があったらいいのになぁ。」
しきりに残念がっていた。
じじ、その残念さは
『沈黙』(遠藤周作の)を味わうための原動力になるよ。
字幕であっさり理解して自己完結するよりもこの方が
残念で納得し切れない分だけ
もっと深く考えたり祈ったりするかも知れない。
この映画の中には
自ら進んで殉教へと突き進む修練長があり
仲間に率先して殉教を誓いながら
結果的には死にそびれてしまう。
仲間の修道女達が次々と断頭台に登って行くのを見て
そこに加わろうとする修練長を引き止める者が現れた。
見物人達に紛れ市民に変装した司祭だった。
以下、フランス語がわからないなりに
映画の中の司祭と修練長の対話を推測してみると
大体こんな会話らしい。
何処へ行くつもりだ?
私も行きます、私も皆と一緒に死ななければ。
あなたの望む事は重要だろうか。
お決めになるのは神様であるのに。
私は殉教の誓約をしたのです。
確かにあなたはそれを神に誓った。
あなたが約束を守るべきは神に対してであって、
仲間に対してではない。
神があなたに生きる事をお望みなら、
神はご自分の前言を取り消すだけの事だ。
そんな不名誉な事!
仲間に顔向けができません。
皆を失望させるなんて出来ません。
神の事だけを考えなさい。
あなたは神だけを見るべきだ。
祈りなさい。
天におられる私達の父よ・・・
司祭は主の祈りを唱え始める。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
修練長も司祭の後に続いて主の祈りを唱えるが、
御心が行われますように、の続きを唱える事が出来ない。
その時、
また断頭台の刃が仲間の一人の上に落ちるのが見える。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
主人公は断頭台の死の恐怖から逃れようと
仲間を裏切って逃亡し、
訪ねて来た修練長を拒絶していたが
最後の土壇場で
あれほど逃れようとした断頭台に
引き寄せられるようにして殉教する。
死ぬ人も生き残る人も
たとえ本人が何を選んでも何を誓っても
最終的に人の生き死にを決定するのは神。
そこんとこが一番重要。
自分のために生きている者はなく、
また死ぬものもありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、
生きるにしても、死ぬにしても、
私達は主のものです。(ローマ14;7~8)
映画『カルメル会修道女の対話』。
フランス語のまま字幕スーパー無し。
フランス語がわからないのに無謀と言えば無謀だが、
ま、チャレンジのつもりで。
見るだけの価値あると私は思ったので。
自分で何度も再生して繰り返し見た上に
歌劇『カルメル会修道女の対話』の解説や
フランス革命に関するサイトを漁り、
史実としての16人の修道女処刑事件に触れた本を
取り寄せて読み漁り、
その上で何度かこの映画をしつこく見直して、
日本語の字幕が無い分の情報を補おうとした。
挙句にじじ宅で
横で解説しながらじじに見せた。
どんな国にもあった迫害の暗黒時代。
弾圧の下で忠実に信仰を守る事の厳しさ。
日本で言えばキリシタン迫害や
第二次世界大戦中のホーリネス弾圧と同じような
迫害の時代が革命下のフランスにもあったんだなぁ。
その迫害の中で
生命と引き換えに信仰を守った人々が確かにいた。
死の恐怖を前にして
信仰の自由のために生命を差し出す人にも
死の恐怖を克服出来ず逃げ出す人にも葛藤がある。
じじに、
どうよ、と聞いてみたら
大体の大筋は掴めたらしいが
やはり細かいやり取りでわからない部分もあり、
深くは受け止められないらしい。
「これなぁ、
字幕があったらいいのになぁ。」
しきりに残念がっていた。
じじ、その残念さは
『沈黙』(遠藤周作の)を味わうための原動力になるよ。
字幕であっさり理解して自己完結するよりもこの方が
残念で納得し切れない分だけ
もっと深く考えたり祈ったりするかも知れない。
この映画の中には
自ら進んで殉教へと突き進む修練長があり
仲間に率先して殉教を誓いながら
結果的には死にそびれてしまう。
仲間の修道女達が次々と断頭台に登って行くのを見て
そこに加わろうとする修練長を引き止める者が現れた。
見物人達に紛れ市民に変装した司祭だった。
以下、フランス語がわからないなりに
映画の中の司祭と修練長の対話を推測してみると
大体こんな会話らしい。
何処へ行くつもりだ?
私も行きます、私も皆と一緒に死ななければ。
あなたの望む事は重要だろうか。
お決めになるのは神様であるのに。
私は殉教の誓約をしたのです。
確かにあなたはそれを神に誓った。
あなたが約束を守るべきは神に対してであって、
仲間に対してではない。
神があなたに生きる事をお望みなら、
神はご自分の前言を取り消すだけの事だ。
そんな不名誉な事!
仲間に顔向けができません。
皆を失望させるなんて出来ません。
神の事だけを考えなさい。
あなたは神だけを見るべきだ。
祈りなさい。
天におられる私達の父よ・・・
司祭は主の祈りを唱え始める。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
修練長も司祭の後に続いて主の祈りを唱えるが、
御心が行われますように、の続きを唱える事が出来ない。
その時、
また断頭台の刃が仲間の一人の上に落ちるのが見える。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
主人公は断頭台の死の恐怖から逃れようと
仲間を裏切って逃亡し、
訪ねて来た修練長を拒絶していたが
最後の土壇場で
あれほど逃れようとした断頭台に
引き寄せられるようにして殉教する。
死ぬ人も生き残る人も
たとえ本人が何を選んでも何を誓っても
最終的に人の生き死にを決定するのは神。
そこんとこが一番重要。