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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

受容

2010-07-10 17:28:41 | マタイ
「なぜ、あなたたちの先生は
 徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。
 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
 とはどういう意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
 罪人を招くためである。」
                       (マタイ9;10~13)


福音書記者マタイは
自分がイエスと出会った感動や喜びの感情を言葉で書き残していない。
マタイは自分の目で見たイエスがどんな人となりであったか、
自分がイエスと接してどう感じたかを、
ヨハネのように直接的な表現では描写していない。
マタイはイエスの語った事柄を読者が整理して受け止めやすいように
的確に整理し、まとめ、編集している。


マタイの福音書のイエスの教えを通して見えてくるのは、
当時のユダヤ社会における宗教的指導者達の傲慢さ、驕りと堕落である。
ここには社会の底辺で辛うじて生き延びる人々を
神への信仰という名を借りて心理的に縛り、抑圧し、搾取する
傲慢な宗教的指導者達の姿と、
抑圧されて救いを見失い、迷走、脱線してしまった人々が大勢登場する。
神の本当の御心は罪を犯す人間を裁いて抑圧する事ではなく、
赦し、憐れみ、悔い改めに導いて癒し、救う事にあるのに、
宗教的指導者達はそれを歪めてしまった。
歪められてしまった神への信仰に焦点を当て、本来のあり方に
軌道修正させようとするイエスの憤りと奮闘の姿が
マタイの福音書では克明に描かれている。


マタイ自身が抑圧され、蔑みを受ける立場にあった。
直接的には書かれていないが
マタイが生き延びるための生活の支えとして営んでいた徴税の仕事が
当時のユダヤ社会で同じユダヤ人の同胞から「ローマの手先」として
いかに敵対され忌み嫌われていたかが伺える。


職業によって、或いはその生活の営み方によって軽蔑される、
そんな立場に立たされた者にしか理解出来ないには違いないが、
今現在の社会に当てはめてマタイと同様の立場に自分を置き、
文字に書き残されていないマタイの味わった屈辱と痛みを黙想し、
共感する事を試みる事は可能だと思う。
例えば今の社会でいうなら
マスコミを通じて非難されバッシングに遭う立場、
犯罪加害者の家族、住所不定無職のホームレス、精神疾患を抱える人、
周囲から疎んじられ家庭にも職場や学校にも居場所を見出せない大人や子供。
自分が彼らの立場に立たされた事を黙想してみる。
肩身の狭い立場で生きなければならない苦しみを自分に当てはめて想像すると、
マタイがイエスに遭うまでどれほどの悩みと葛藤の中で生きていたか、
微かに読み取れる気がする。


マタイの福音書の中のイエスは終始憤っている。
神への信仰はこれではダメだ、今のままではダメだと告発する、
まるで不機嫌な宗教改革者の姿のように描かれている。
そんなイエスを見つめるマタイの視点に
期待と喜びが込められている。


喜び。
マタイの福音書には喜びがある。
蔑みと葛藤の中で混沌に落ちて神を見失った者が光を見出した喜び。


福音書に登場する食事の光景はとても重要だ。


イエスが誰かと一緒に食事をする。
福音書の中で、食事は相手を仲間として認め、分かち合う行為である。
世の中で蔑みを受け忌み嫌われていた自分を呼び、
人として認め、同じ食卓に招いて一緒に食事してくれた。
虐げられた者の目に、イエスがどんなお方であったか、
マタイの目を通したイエスがここにはっきり描かれている。
イエスに受容された喜びの体験、それがマタイの信仰の原点に違いない。


では、私自身はどうだろう。
私の信仰の原点は。

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